第2話 支度
翌朝、早めに家を出た俺は、街の中央区から裏通りへ抜ける。
向かうのは聞陰と呼ばれる情報屋――この辺りの裏事情に最も通じている男だ。
正直、こういった輩は庁からの印象がよくない。
情報漏洩の芽になるし、公式の情報よりも信頼されるのは複雑だろう。
とはいえ戦業士の稼業に危険は付き物だ。
安全につながるなら外聞なんて気にしていられない。
実際、俺たちは情報屋に何度も命を繋いでもらっている。
店に入ると、甘ったるい香りが鼻をつく。くぐもった空気の奥に人影が見えた。
「……おや、早い時間に珍しいじゃないか。【滅尽の巨狼】」
カウンター奥の椅子に座る細身の男が、いつもの薄笑いを浮かべて煙管をくゆらせている。
本名は誰も知らない。彼はただ聞陰と呼ばれている。
「ある依頼について、聞きたいことがある」
「忙しないねぇ。それで?」
「行政長官直々の依頼で、六環級三名。……心当たりは?」
しばし沈黙が落ち、聞陰は火皿を指先で軽く叩いてから細い煙を吐く。
薄笑いのまま目だけで俺の顔色を量った。
「……思い当たるものはあるねぇ。けれど、かなり厳しく情報統制されている。噂すらほとんど流れていない。ただ――」
言葉を切った聞陰は棚から地図を引き抜き、卓上に広げた。
シンビルから南東方面の一帯に指先で円を描く。
「つい最近、行政庁特務局がこの辺りを妙に気にしていたんだ。森の奥を調べていたらしい。気になって少し探ったけど、警戒が厳しくてね」
南東の森はセムシア連邦との国境に跨る。軽率に調査すると外交問題を招きかねないことから侵入が制限されている。
内部には魔物もいるが資源的価値は低く、森の外に出るような種も見つからなかったので、長らく放置されてきた。
「依頼と関係ありそうか?」
「それは断言できない。でも、特務局に死者が出たって話がある。死んだ隊員の身元が、森の調査に入った者と一致しているらしい」
「南東の森か。俺も入ったことはないが、そんなにヤバい魔物が棲んでそうか?」
「どうだろうねぇ……。あの森の奥は長らく人が入っていない。何かいてもおかしくはない」
「そうか。十分だ」
礼を言ってフェイを支払い、酒の瓶を渡した。
「おっ……これは上物じゃないか。【滅尽の巨狼】様は気が利くねぇ」
「飲み過ぎんなよ。じゃあな」
「……命は安く売るんじゃないよ」
俺は軽く笑い、店を後にした。
情報は乏しいが、やはりただの依頼では済まないだろう。
となれば、準備に抜かりは許されない。暗い裏路地を出て、街の中心部へ戻ることにした。
✣
この時間の商店通りは店が開き始めたばかりで、人通りはまだ少ない。
馴染みの店に入ると、カウンターの奥から少女の声が飛んだ。
「あっ、ルーク! いらっしゃい!」
「おう、ティナ。店番してんのか。偉いな」
「そうでしょ! もっと褒めてもいいよー!」
「カイウスはいるか?」
「いるよ! ねぇパパー!ルークが来たよー!」
奥から現れたのは、俺より少し小柄だががっしりした体格の男。カイウスだ。
「おう、ルーク。どうした?何の用だ?」
「十字弓の矢が欲しい。それと、薬の在庫も見せてくれ」
「へいへい。矢はこれだ。ティナ、薬見せてやれ。……それと、ちょうど面白い物がある。ちょっと待ってろ」
カイウスがカウンターに黒螺鋼製の矢を置くと、一度奥に引っ込む。
ティナが棚の覆い布を開き、薬を並べてくれた。
薬を見終えるころ、カイウスが何かを手に戻った。
カイウスが差し出したのは、濃紅色の片籠手だった。
「なんだこりゃ、遺創具だよな?」
遺創具――現代の制作物ではない魔導具だ。
片籠手は赫銘鉄と呼ばれる特殊な金属でできている。見た目は無骨だが、軽量で強靭。魔力親和性も高い。
遺創具はこの赫銘鉄が用いられたものが多いが、現代では新たに採取されることはないと言っていい。
この籠手にはかなりの量の赫銘鉄が使われているように見受けられる。
「ああ、そうだ。南のほうに行っててな。セビッツで仕入れた。鑑定紙もある」
カイウスが差し出した紙片に目を落とす。
遺創具専用の鑑視証環で調べたものだろう。
――歪乱進甲。
力は装者の意に応え、その道を歪める。
分散を収束させ、その加減速や方向を制御する。
ただし見誤れば、その力は装者に牙を剥くだろう。
「なるほどな……。力の向きを変えるのか。面白い能力だ。だが、片籠手でこれは、扱いづらすぎるだろ」
「実際、試したやつが壁に突っ込んで大怪我したらしい」
「そんなもん、よく仕入れる気になったな」
「お前さん、こういうの好きだろうと思ってな」
図星を突かれて、つい口元が緩む。
身体操作にはかなりの自信がある。
こういった魔導具を前から探していたのは事実だ。カイウスにもそれを話したことがあっただろうか。
見透かされているのが少し癪だが、否定はできない。
癖の強さは試さずとも一目でわかるが、確かに興味をそそられる代物だ。
「……試してみてもいいか?」
「おう、構わねえぞ。ティナ、裏庭に通してやれ。俺も戸締まりしたらすぐに行く」
「はーい! ルーク、こっちだよ!」
ティナに先導されて裏庭へ出る。
広いとは言えないが、体を動かすには十分な広さだ。
歪乱進甲を左腕に装着する。
やや小さいかと思ったが、留め具がゆっくりと蠢き、俺の腕にぴたりと張り付いた。
「ティナ、離れてろよ。危ないぞ」
「うん!わかった!」
俺もそれなりに魔力を使いこなせるほうだと自負しているが、戦闘で魔導具はほとんど使用していない。
魔導具は想像以上に繊細な操作が必要だ。よほど自分に合わなければ感覚的に使いこなすのは難しい。
これまで修練だけは続けてきたが、自分に合ったものが見つかるまで取り入れるつもりはなかった。
庭の中央で、歪乱進甲に魔力を通す。
その瞬間、左腕の筋肉が強張り引き攣った。
身体の軸が歪み、平衡感覚が一気に狂う。
重力の向きすら変わったような感覚に襲われ、足裏に伝わる地面の感触も曖昧になる。
咄嗟に、前方へ踏み込むつもりで地面を蹴った。
気づけば、俺は空を見上げていた。
「っ……!」
思いも寄らない挙動に体勢が崩れるのを、なんとか踏みとどまる。
思わずよろめくと、ティナが息をのんだ。
「だ、大丈夫……?」
「……ああ」
もう一度踏み込み、今度は横へ飛び出すつもりで地面を蹴る。
しかし推力が斜め下へ向かい、地面に衝突すると鈍い衝撃が走った。
「くそ……癖が強いな」
感度は予想以上に鋭い。
片腕だけの装着ではバランスが取りづらく、籠手の向き一つで動きが乱れる。
ティナが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ルーク、ケガしないようにねー?」
「ああ、大丈夫だ。大体わかった」
失敗から分かったこともある。軸が歪んだわけじゃない。錯覚しているだけだ。
体軸に意識を絞り、再度踏み出す。
力強く踏み込んだ力を束ね、推力を斜め上に振る。一気に前方二メートルほどの高さまで跳ぶ。
即座に空中で急反転。物理法則を無視するような角度のまま後方へ飛ぶ。
そのまま着地するつもりだったが、勢い余って宙返りしてしまう。
なんとか姿勢を立て直して着地する。足もとがふらついたが、なんとか倒れずに済んだ。
「すっごーい!パパ、今の見た!?」
「よくそんなのすぐできるな。とんでもねえ野郎だ」
ティナが拍手し、ちょうど出てきたカイウスは呆れと感嘆が混じった目で俺を見る。
俺は歪乱進甲を撫で、思わずニヤける。
「慣れるまではかなり混乱しそうだ。こんなの、戦闘中に使いこなすなんて正気の沙汰じゃねえ」
だが、もし使いこなせたらどうなる?想像するだけで笑いが止まらない。
それだけの手応えを感じた。
歪乱進甲の性能に満足した俺は、カイウスに向き直った。
「……いくらだ?」
「二千四百万フェイだ」
「高けぇな……俺が買わなかったら、どうするつもりだ」
「遺創具なら、このくらいはするさ。欲しがる奴はいくらでもいるだろ。それに、どうせ買うんだろ?」
一瞬、昨日見た封幣環体の数字が頭によぎるが、決心はついていた。
「ああ。衛庁舎で金をおろしてくる」
「なら、飯ついでに一緒に行くか。その場で受け取っちまったほうが楽だろ」
話を聞いていたティナが、外で食べると聞いてぱっと顔を輝かせた。
「ノノール亭がいい!わたし、シチューが食べたい!地恵芋シチュー!」
この国じゃ、峰牛の乳と根菜を煮込んだ料理をまとめてシチューと呼んでいる。
ティナは地恵芋をつかったシチューが大好物だ。
跳ねるように駆け寄ってきた娘に、カイウスが苦笑交じりにうなずく。
「わかったわかった。先に衛庁舎へ寄るからな」
昼の陽気に気持ちまで緩む。
穏やかな時間に身をゆだねながら、俺たちは街へ向かって歩き出した。




