第1話:私はまだ、終わっていない章の中にいる。
小説の主人公が、自分の存在を疑った瞬間から、その物語は既に“物語”ではなくなる。
たとえば、それが自分の人生の記述だと知ったとき。
たとえば、登場人物たちのセリフに、心当たりのあるフレーズが混じっていたとき。
たとえば、「最終話」がまだ公開されていないのに、登場人物が“終わる未来”を予言したとき。
――だから私は、まだ終わっていない。
私の名前は、鏡夜みつき。
この物語の“ヒロイン”であり、“被害者”であり、“書かれた存在”かもしれない。
私の日常は、誰かの掌の上にある。
そう気づいたのは、春の終わりの、ごくありふれた昼休みだった。
校舎の屋上は、いつだって私の特等席だ。錆びついた手すりに肘を置き、遠くに見える街並みを眺める。風に運ばれてくる草の匂い、遠くで響く部活の掛け声、そしてスマホの画面に映る、見慣れた文字の羅列。
「……今日も、更新されてる」
私は、小説投稿サイト《YoruNote》の、あるアカウントの作品をチェックしていた。
作者名は【灰色の渡り鳥】。
作品名は『グレイ=レイヴン』。
この物語は、ごく普通の女子高生が、ある日突然“自分が物語の登場人物である”と自覚し、現実世界に干渉する異能と戦う……という、ありきたりな異世界転生ものの皮を被った、いびつなメタフィクションだ。
読み始めたきっかけは、本当に偶然だった。
ある日、新作ランキングの隅っこに、やけに刺々しいタイトルの物語を見つけた。
《神様、私を「物語の主人公」にしないでください。》
このタイトルに、なぜか抗いようのないほど惹かれた。まるで、私の奥底にある何かが、「読め」と命じているかのように。
そして、読み始めたら最後。止められなくなった。
私はこの物語を読むことでしか、自分の存在を確認できない。朝起きて、息をして、ご飯を食べて、学校に行き、授業を受ける。そのすべてが、まるで誰かの脚本通りに進む舞台劇のように、私には虚構に感じられた。
小説を読む。すると、そこに書かれた主人公の感情や行動に、自分の中の「鏡夜みつき」という存在の輪郭がはっきりと浮かび上がる。
これは、一種の依存症だ。
今日の更新分は、第9話。
タイトルは「私は、私の『人生』を諦めたくない。」
物語は、主人公が友人たちと放課後に喫茶店に行くシーンから始まっていた。
【その日、ヒロインは友人の麻衣に「明日って、放課後暇?」と聞かれ、一瞬だけ考えた。明日は、特にこれといった予定はない。図書館で本でも読もうかと思っていたが、麻衣といる方が楽しいだろう。
「うん、空いてるよ。どうしたの?」
『うん、空いてるよ。どうしたの?』
画面に映るセリフと、私が数日前に麻衣と交わした会話が、完璧に一致した。
いや、こんなことはよくある。偶然だ。物語は、現実にありそうな描写をすることで、読者の共感を誘う。そう、これもよくあることだ。
でも、その後に続くセリフに、私は凍りついた。
【じゃあ、一緒に駅前の『喫茶シロクロ』に行かない?新しくできたパフェが美味しいらしいんだ。】
――喫茶シロクロ。
それは、つい昨日、私が麻衣と帰り道で「ああいう新しい店って入りづらいよね」と話していたばかりの店だ。
その会話の内容を、私は誰にも話していない。麻衣ともその場限りの立ち話だった。
まさか。
いや、まさか。
そのまさかが、この小説には詰まっていた。
私は慌てて、第1話から読み返す。
【俺の名前は葦原零士。ごく普通の男子高校生だ。
この物語は、俺の隣に座っている鏡夜みつきという少女の物語である。】
――私の隣に座っている。
それは、このクラスの席替えで、たまたま私の右隣になった、地味で影の薄い男子。
葦原零士。
彼の小説は、私の現実を書き写している。いや、違う。
彼の小説が、私の現実そのものを創り出しているのかもしれない。
心臓が警鐘を鳴らすように鼓動を速める。
「……まさか」
私はスマホを握りしめたまま、屋上のドアに視線を向けた。
そこに、影の薄い男子生徒が立っていた。
葦原零士。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の隣に立つ。彼の視線は私ではなく、遠くの街並みをぼんやりと見ていた。
「……小説、読んでる?」
私の心を見透かすような、静かで、感情の読めない声。
「あなたの……小説?」
「ああ。君を主人公にした、あの物語のことだよ」
彼は、まるでそれがごく当然のことであるかのように言った。
「なんで……どうして、私の人生を小説に書いているの?」
私の声は震えていた。
零士は、表情一つ変えずに答えた。
「だって、君が一番面白そうだと思ったから」
その言葉が、私の心臓に深々と突き刺さる。
「面白い……?」
「そう。君の人生は、何が起こるか分からない。まるで、最初から結末が決まっていない物語みたいでさ」
その瞬間、頭の中に、一つの疑問が生まれた。
『まさか、この物語には、結末がないの?』
そして、その疑問に答えるように、零士は続けた。
「でも、そろそろ結末を考えないといけないな。
――だって、君の人生は、物語なんだから」
彼の言葉は、まるでこの世界が、彼の指先一つで動くことを暗示しているかのようだった。
私は、ただただ、恐怖に震えることしかできない。
もし、彼の物語が「ハッピーエンド」でなければ?
もし、この物語のヒロインが、途中で退場する運命だとしたら?
私は、私の人生を、物語として終わらせたくない。
私は、私自身として、生きていたい。
その思いが、私の中で確かな決意へと変わる。
零士が去った屋上で、私はただ一人、強く唇を噛みしめた。
「私は、まだ……終わっていない。
だって、最終話は、まだ書かれていないんだから」
この物語の結末は、私が決める。
たとえ、それが、誰かの書いた物語を塗り替えることだとしても。
私は、まだ、終わっていない章の中にいる。