冥湖の白鳥
フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』に登場する『トゥオネラの白鳥』に着想を得ました。
シベリウスの交響詩や手塚治虫の漫画『0次元の丘』でも有名ですね。
──コロ……ロン……コ……ポポ………
ナニかが湧き出る様な音が、今日も耳の奥に木霊する。
「ぐぁあっ、蒸し暑くて毎日寝不足だぁ~!」
「その欠伸は年頃女子らしくないっつーの」
「色気の欠片もねーなw、お前ホントに女かぁ?」
「うっさいわ!」
中間考査が終わったばかりの構内を、私はサークル仲間の二人──桃香や賢木──と駄弁りながら歩いていた。
キャンパス上空は見事に曇天。気象庁が梅雨入り宣言をした頃から急激に湿度が増して、最近では蒸し暑さ処か息苦しさすら覚えている。
「なぁんか苦手なんだよね、湿気って」
生温い沼に沈んで逝く様な気がして。どんよりとした曇り空を眺めて私は溜め息をついた。
「わかるー。なんて言うか、温水プールとかサウナの中で生きてるみたいなー?」
ホンモノのサウナなら整うんだけどねぇ。桃香がそう言ってケラケラ笑った。
「エアコン無いと正直、生きて行ける気がしねぇよなぁ」
俺のアパートは目下エアコン修理中だと、賢木がげんなりした様子で頷いた。どうやら寿命が近いらしく、買い換え費用を稼ぐ為にバイトを掛け持ちしているらしい。
「なんか最近のエアコンって持ちが悪くない?」
「いやそれ、地球温暖化のせいだから」
「温暖化通り越して沸騰化だってな。まじでヤベーわ」
そんな取り留めもない話をしながら歩いている時だった。
──コロ……ロ…………ン
「あ、また聴こえた」
私が思わず口に出すと、桃香と賢木が真顔で立ち止まった。数秒、フリーズ。
「……俺らには何も聴こえねーけど?」
「幻聴じゃないの?寝不足のせいで」
「ですよね~」
私は曖昧にヘラりと笑った。
実は数日前から、私にだけ妙な音が聞こえ出した。最初は気の所為だと思っていたんだけど、日を追う毎にナニかが湧き出る様な不思議な幻聴が聴こえる様になったのだ。
「笑ってる場合じゃないでしょ。熱中症の兆候かも知れないし、とっととホケカン行く!」
桃香に背中を押され、私は学内のホケカン(保健管理センター)に連行されてしまった。
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生クリームの中に居る様な視界の中、足下すら見えない筈なのに何故か『其処だけは』はっきりと見えた。
何処までも深く透き通る、綺麗な水を湛えた大きな湖。少し冷たい風が水面に漣を立たせ、深い霧が音も無く渡って行く。
見た事も無い景色の筈なのに、何だかとても懐かしくて切なくて。まるで浮かび上がるみたいに身体も心も弾んで。
──コ……ロロ……ン……コポ……コポポポ……
漣に合わせるかの様に、囁く様に、また『あの音』が聴こえる。
──戻っておいで。還っておいで。
まるでそう謳っている様な湧水の音に惹かれ、私は覚束無い足取りで霧衣を纏う湖へと歩き出した。
ジリリリリリリリッ!!
予告無く響き渡る不快な音。
目の前の神秘的な景色は瞬時に暗転し、感覚が暑さと気怠さを取り戻す。枕元では桃香とお揃いで買った目覚まし時計が元気良く鳴り響いていた。
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「最近さぁ、ホント身体がダル重いんだよねー」
「何か顔色悪いし、大丈夫?夏バテとかならまだ良いんだけど」
「早めの更年期……いや悪かったよごめんて」
夏期休業の手前、エアコンの効いた学食で私達はダラダラとお喋りしていた。今日の話題は最近の私の体調不良。要らん事言った賢木にはガンを飛ばしておく。
ここ一週間ほど身体が矢鱈怠いし手足が冷える。オマケに例の幻聴も酷い。
あの、水が湧き出る様な幻聴が昼夜問わず頻繁に聴こえる様になって来たのだ。耳元でひっきりなしにコポコポ鳴られ、会話や講義を聞き取るのにも一苦労する程。
「──ついでに言えば、あの夢もこの頃毎晩見るわ」
「あ~、霧の摩周湖?の夢だっけ?」
摩周湖かどうかは知らんけど、霧の中の湖の夢を見る頻度も上がって来ている。最近はほぼ毎日だ。夢を見ている間は暑さを忘れるから快適と言えば快適なんだけど。
夢の中では霧が晴れ周囲の景色が見える様になっていた。黝い穹に聳える白い峰々は急峻で、周囲に咲く花々はやや冷たい風に揺られている。まるで磨かれた鏡の様な湖面に映るのは静謐なモノクロームの世界。
「──なぁ、それヤバく無いか?」
お調子者の賢木が珍しく真顔で言った。
「なんつうか、上手く言えないんだけど……、ほら良くあるだろ?」
幽世からのお迎えってヤツ。そう言った賢木の顔色が少しだけ悪かった。隣で桃香も首を縦にぶんぶこ降っている。
んなアホな話なんてある訳無いでしょ、オカルトじゃあるまいし。そう言って私は笑い飛ばした。ラノベの読み過ぎだって。そう言って立ち上がろうとした途端、私の視界が狭まり意識がシャットダウンした。
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──戻っておいで。還っておいで。お前の居場所は湖の底。
どうやってか知らんけど、私は何時の間にか『湖』に来ていた。何時も見る夢とは違い、身体の重さも足元で踏んでいる草の感覚もはっきり感じている。
SFあるあるの瞬間移動と言う奴だろうか?と言うか現代物理学で説明出来るんだろうか?量子論辺りならワンチャンかな?そんなある種の現実逃避をしていると、あのコポコポ水の湧く音に混じって別の音が聴こえた。
ケォオーとかプワワワァーとか、そんな感じに聴こえる鳥の鳴き声。見れば今まで見かけた事が無かった二羽の白鳥が此方に向かって泳いで来ている。
ほーん、こんな場所にも白鳥って飛来するんだァー。
私は呑気に突っ立ったまま、近付いて来る人懐こい白鳥を眺めていた。必死に首を振ったり翼をバタつかせたりして何か可愛い。ポケットにパン屑でもあれば投げてあげたのに。
プワワー!クゥワワワァー!
私が湖に近寄ろうとすると、二羽の白鳥は増々必死になって騒ぎ立てた。其れに対抗するかの様に水の湧き出る様なコポコポ音も大きくなっている。
──コロロン、コロロ……コポコポコポポ──
心地好いASMRの様な湧水の音が私を招く。
クゥオオオオォ!ケォオオオッ!
耳障りで喧しい白鳥達の必死の鳴き声が私を押し留める。
二つの音に挟まれる様にして湖の溿まで辿り着いたその時だった。
『死ぬんじゃない!!目を覚ませッ!!』
『しっかりしなさいよッ!!救急車まだ?!』
白鳥達の鳴き声が賢木と桃香の悲痛な叫びに変わり、黒々としていた湖水が血の様な赫を帯びると、ねっとりとした津波の様に私に襲い掛かった!
『うっわ!きもっ!』
反復横跳びの要領で咄嗟に横に飛ぶと、私は湖に背を向け必死に走り出した!何処に逃げれば良いのかなんて判らないけど、兎に角湖から遠ざかろうと直感的に思った。
行く手を遮るみたいに湧く霧に邪魔され突然這い出した茨に足を取られながら、それでも白鳥の──いや、賢木や桃香達の声を背に私は必死で走った!人生最大の猛ダッシュをキメつつ意識が遠ざかるまで必死で脚を動かし続けた──。
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「ホント、一時はどうなる事かと思ったよ!」
鮮やかな色の花束を枕元に飾りながら、桃香が呆れた様に私を見下ろした。
「学食の汚ない床にひっくり返ったまんまピクリとも動かないし、何なら息も脈も止まってたし白目も剥いてたし」
「うへぇ、あの床に?」
「うん、気持ち良さそーに転がってた」
「ぇえー……」
あの日、『私』が件の湖の畔を爆走していた頃、桃香や賢木は意識不明になった私の身体に必死で救急救命処置を施していたそうだ。救命率は心停止から一分毎に7~10%下がると言う。もし二人が直ぐに動いてくれなかったとしたら。
「いやー、防災士資格の研修が咄嗟に役立つとは思わなかったよ」
賢木はそう言いながら、お見舞いに持って来ていた筈の水羊羹を勝手に開けて食べている。と言うか、防災士を目指していただなんて初めて聞いたんですけど?
「ちょ、それ私の」
「お前の生命の恩人サマなんだから、これくらいやっっすいもんだろ?」
「この野郎~~!」
──結局、私が倒れた原因ははっきり判らなかった。
生まれつき心臓に持病が有るワケでは無かったし、健康診断でも問題は無かった筈だった。致死性不整脈、寝不足と過労、キラーストレス。私達と同年代でも生命を落とす人が増えているそうで、経過を診る為に暫くの間は病院暮らしだ。
当初、点滴やらECMOやらに繋がれていた私を見て、駆け付けた母は泣き崩れてしまった。本当に親不孝をしてしまったと心底申し訳なく思っている。
窓の外は、ムッチリとした蒸し暑そうな陽炎にうんざりする様な蝉の声。退院したら実家でのんびり療養する事になっている。エアコンをガンガン効かせてゆっくり休もう。地元の友達にも逢いたいな。
久し振りに帰省する故郷に思いを馳せていた私の耳には、もうあの湧水の音は聴こえなかった。
参考サイト
・救急救命処置:日本医師会 救急蘇生法(https://www.med.or.jp/99/)
・20代の突然死:20代で突然死する人の共通点と2025年最新予防策!命を脅かす睡眠・ストレス・心疾患の危険度チェックも(https://kokoromil.com/column/20_totuzensi_kyotuten/)
・ECMO:【医療機器の種類】
ECMO(Extracoporeal Membrane Oxygenation:体外式膜型人工肺)(https://www.iryokiki-navi.com/what/cat03/p_3002/)