第二章 女密偵と、神の剣技
――神の記憶が、剣となる。
この物語は、幕末の江戸を舞台にした歴史×剣戟×神話SFです。
主人公は仇討ちに敗れた浪人。
彼は「カイロス装置」と呼ばれる、異国の“神話の記憶”を宿した禁断の道具と出会います。
土方歳三、坂本龍馬、桂小五郎といった歴史上の人物も登場し、それぞれが異なる“神の記憶”を背負いながら、時代を越えた戦いに身を投じていきます。
ライトノベル風の文体で進めていきますので、お気軽にお楽しみください。
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安政二年、夏の終わり――。
深川の夜には、今もなお黒船の影が落ちていた。
二年前、嘉永六年の夏、江戸湾の沖に異国の黒き軍艦が突如として姿を現したあの日から、この国の空気は変わってしまった。それはまるで、遠い彼方の海底から、世を変えるために浮かび上がってきたかのようだった。
開国か、攘夷か――
その問いは、町の隅々にまで染み込み、人々の心を二つに引き裂いていた。
老中・阿部正弘が諸大名の意見を求めるようになって以来、これまでの「幕府が全て決める政治」は大きく揺らぎ、各藩の思惑が錯綜している。武士たちの間では連日、酒席での議論が刀傷沙汰に発展することも珍しくなかった。
そんな世相の中、榊烈馬は己の剣で血を流していた。
* * *
――風を斬る音がした。
路地裏の暗がりに、鋭い刃音が響いた。
榊烈馬は、己の意思とは無関係に、敵の刀を一太刀で捌いていた。
「……なっ」
刺客の喉元に、烈馬の刀がかすり、鮮血が飛んだ。
それは明らかに"狙って斬った"速度と角度だった。
(今の……俺の動きか?)
思考が追いつかない。
身体が勝手に動いた。敵の息遣いを読み、わずかな脚の沈み込みを見て、先んじて斬る。そんな芸当、これまで一度だってできた試しがない。
だが今、烈馬の中に「経験してきた感覚」がある。
まるで、何十戦、何百戦と修羅場を潜った剣士のような……
『気にするな。これは、お前の剣でもある』
再び頭の奥で、あの声が響いた。
『我は斬った者の数を覚えていない。だが、忘れたこともない』
「アキレウス……!」
敵が後ずさった。
烈馬は、無意識のうちに構えを取る。左足を半歩引き、上段に構えたその型は――剣術道場でも見たことのないものだった。
(これが、異国の……剣技?)
次の瞬間、敵が叫び声とともに飛び込んできた。
烈馬は迷いなく踏み込み、逆袈裟に振り下ろす。
刀が鳴り、男の体が地面に崩れ落ちた。
沈黙。
雨の匂いが、また強くなった。
湿った土の香りと、血の生臭さが混じり合う。
そして、誰かの拍手が聞こえた。
パチ、パチ、パチ……
「お見事」
女の声だった。
立っていたのは、路地の奥。
黒い羽織に身を包み、腰に小太刀と火縄銃を佩いた女剣士。
細面の顔に、鋭い目。黒髪を高く結い、男装にも似た威厳があった。
その装いは、表向きこそ深川の町娘を装っているが、よく見ると、その細部に並の者ではない気配が宿っている。
紺地に紅の飛び絞りがあしらわれた小紋着物は、見た目こそ控えめながら、上質な絹で仕立てられ、動きに合わせて艶やかな光を帯びていた。帯は墨色の博多織で、そこに銀糸で蝶の文様が施されている。
簪は控えめな一本挿しだが、根元に西洋式のネジが仕込まれており、何かの仕掛けが隠されているのかもしれぬ。髪の香は梅と椿の混ざったもの、ふわりと香るたびに、その場の空気までも変わるようだった。
「君が"例の浪人"だな。カイロス装置の転写者――そう呼ばせてもらおうか」
「……誰だ、あんたは」
烈馬は刀を血振りし、じっと女を見据えた。
この女――ただ者ではない。
立ち姿に隙がなく、呼吸も整っている。戦いの最中に現れながら、まったく動揺していない。
「名乗るほどの者でもないが、一応名はある。明神巴。幕府直轄の密偵組織"桜影"所属」
「密偵……?」
巴はゆっくりと歩み寄った。
足音が妙に軽い。草履ではなく、足袋に似た履物を履いているようだが、底が厚く、歩くたびにかすかに革の匂いがした。
「君が手にしたそれ。異国の記憶を宿す"時計"。正式には"カイロス装置"。いま、江戸ではそれが裏で高値で取引されている」
「……この時計が?」
烈馬は懐の装置に手を当てた。
銀の懐中時計に似た形をしているが、文字盤はなく、代わりに弓を構えた男の浮き彫りが刻まれている。
触れるたびに、微かな温度を感じる。まるで生きているかのように。
「君がさっき使った技。あれは剣術じゃない。"記憶の模倣"だ」
「記憶の……模倣?」
巴は頷いた。
その瞳に、一瞬だけ悲しみのような色が浮かんだ。
「異国の古い神話の記憶を、人に"転写"する。それがカイロス装置。君の中にいるアキレウスとやらは、恐らく……ギリシャ神話の戦士だろう」
「ギリシャ……神話……?」
言葉の意味が分からなかった。
だが、烈馬の中の声は、静かに肯定していた。
『そうだ。神に近づき、死を恐れぬ者……我は、そう呼ばれてきた』
「なら……なぜ、俺にこんな力が?」
「選ばれたからさ。あるいは、たまたま拾っただけかもしれない」
巴の口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「だが一つ言えるのは――君はもう、普通の人間ではない。運命を喰う剣士になったということだ」
運命を喰う剣士――。
その言葉が、烈馬の胸に重く響いた。
夜風が吹き、路地裏に血の匂いを運んでいく。
遠くから聞こえる深川の夜の音――材木を運ぶ荷車の軋み、酒場から漏れる笑い声、三味線の調べ。どれもが、いつもと変わらぬ夜の調べだった。
だが、烈馬にとって、この夜は全てが変わった夜だった。
神の記憶を宿した男として。
そして、運命と対峙する剣士として。
「……それで、俺にどうしろと言うんだ」
「とりあえず、ここを離れることから始めましょう」
巴が振り返ると、路地の向こうから提灯の明かりが近づいてくる。町奉行所の同心たちだった。
「血の匂いに気づいたようね。厄介なことになる前に――」
巴は烈馬の袖を引いた。
その手は、思いのほか暖かかった。
二人は夜の深川へと消えていった。
後に残されたのは、血に染まった土と、カイロス装置が残した謎だけだった。
* * *
「……で、結局あんたは何者なんだ」
深川の外れ、廃寺の境内で、烈馬は改めて巴に問うた。
月明かりが石灯籠を照らし、苔むした墓石の間を夜風が抜けていく。どこか物悲しい風景だった。
「言ったでしょう。幕府の密偵よ」
「それは聞いた。俺が聞きたいのは――なぜ、俺なんかに」
「君の中のアキレウス。あの記憶は、完全なものよ」
巴が懐から、もう一つの装置を取り出した。
彼女のものは、女神の像が刻まれている。アテナ――戦と知恵の女神。
「私も、最初は混乱した。でも、この記憶は……力じゃない。意思なんだと思ってる」
「意思……か」
烈馬は、自分の手を見つめた。
さっきの戦いで振るった剣。あれは確かに、自分の手が振るったものだった。だが、その技は紛れもなく、アキレウスのものだった。
「だから君も、自分の剣を探しなさい。アキレウスの記憶に頼るだけじゃない、君自身の戦い方を」
巴の言葉に、烈馬は小さく頷いた。
境内に、虫の声が響いている。
秋の気配が、夜風に混じっていた。
そして、二人の運命は、この夜から大きく動き始めることになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
第二章では、烈馬が"神の記憶"による初めての戦闘を経験し、密偵・明神巴と出会いました。
安政二年という時代背景の中で、黒船来航から二年が経ち、開国か攘夷かという国論の分裂が深刻化している時期を設定しています。そんな混乱の時代に、異国の"神の記憶"を宿した装置が流入してくる――という構図で、歴史のうねりと個人の運命を重ね合わせました。
巴の登場によって、烈馬がただの浪人から「時代の裏を知る者」へと変わっていくことになります。
次回はいよいよ、新選組副長・土方歳三が動き始めます。
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