第一章 死に損ないの浪人
――神の記憶が、剣となる。
この物語は、幕末の江戸を舞台にした歴史×剣戟×神話SFです。
主人公は仇討ちに敗れた浪人。
彼は「カイロス装置」と呼ばれる、異国の“神話の記憶”を宿した禁断の道具と出会います。
土方歳三、坂本龍馬、桂小五郎といった歴史上の人物も登場し、それぞれが異なる“神の記憶”を背負いながら、時代を越えた戦いに身を投じていきます。
ライトノベル風の文体で進めていきますので、お気軽にお楽しみください。
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嘉永七年の春も深まった頃、江戸の町には不穏な空気が漂っていた。
前年の夏、ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に現れて以来、この国は開国か攘夷かの二つに裂かれていた。将軍家定は病弱で政を執ることもままならず、老中阿部正弘が諸大名に意見を求める異例の事態。それは二百年余り続いた徳川の威光に、初めて翳りが見えた瞬間でもあった。
江戸の町々では、攘夷を叫ぶ志士たちが密談を重ね、一方で開国派の武士たちは西洋の知識を求めて奔走していた。表向きは平穏を装っていても、誰もが感じていた――時代が、大きく動こうとしていることを。
そんな混沌とした世にあって、深川の夜は今日もまた、静寂と喧騒の間を揺れていた。
*
早朝の深川。
隅田川の水面には朝靄がうっすらとかかり、川べりの杭に繋がれた小舟の影が揺れていた。川を渡って吹く風は潮の匂いを含み、低い町家の屋根をなでるように抜けてゆく。
木場の材木は夜露に濡れ、まだ誰も踏んでいない土の匂いと、削りたての檜の香りが鼻をついた。荷揚げを待つ荷車の車輪の下に、前夜の雨が小さな水たまりを残している。火の見櫓のてっぺんにとまった烏が、しわがれた声で一声鳴いた。
裏長屋の軒先では、女房が洗い張りの手ぬぐいを物干し竿にかけている。板塀越しに味噌汁の湯気と、煮干しの匂いが立ち上る。鍋の音、薪を割る音、子の泣き声、職人の咳払い。どれもが静けさを破らぬまま、この町の朝を形づくっている。
深川芸者の小道を抜けると、まだ灯の残る格子戸の奥から、三味線のかすかな調べが聞こえた。昨夜の客の余韻か、女の哀しみか。それとも、何かを待つ音色か。粋なようでいて、どこか寂しい。これが、深川の色である。
富岡八幡の大鳥居をくぐれば、参道の石畳に露が光り、祈りに訪れる人々がぽつぽつと姿を見せ始める。塩を撒く老爺、無言で手を合わせる女、神職の掃く箒の音――。どれもが、江戸の一日を静かに起こしていく。
深川という町は、喧騒の裏にしんとした情を宿している。
泥にまみれて生きる者の暮らしにも、たしかに光が差す。その光は、華やかではないが、どこか温かい。湿った土と、木と、汗と涙の匂いの中で、生きるということの実直さを忘れぬ町だった。
*
しかし、この朝の深川に、その温かな光も届かぬ場所があった。
路地裏の奥、人目につかぬ土塀の陰に、ひとりの男が倒れていた。
榊烈馬。二十五歳。
元は旗本の次男坊であったが、今は身分も屋敷も失った浪人である。
その身に纏うは、墨染めの羽織に鼠色の紬――どちらもよく馴染んだもので、陽の光を浴びることの少ない男の陰翳を映している。裾の乱れを嫌うかのように、袴は黒無地の木綿。膝元に皺ひとつなく、彼の性格の几帳面さを物語っていた。
襟元から覗く白麻の肌着は、どこか洋の趣がある縫い筋が走っており、よく見ると、ボタンと呼ばれる異国の留め具が使われている。それが何気ない装いの中に、得体の知れぬ"何か"と関わる男の只ならぬ匂いを残していた。
腰には、一本の打刀――鞘は黒漆に煤けた銀の金具が打たれ、柄糸は手入れが行き届いた紺。しかし今、その刀は抜かれることもなく、無念の血に濡れていた。
黒い道着の袖は破れ、腹には深く鋭い一太刀。
すでに血は止まり、代わりに体温が抜けていく感覚だけが残っていた。
「……やっぱり、俺は……だめか」
誰にともなく漏らしたその言葉に、答える者はいなかった。
夜の町は静かで、人ひとりが朽ちようとも、世界は何ひとつ動じはしない。
*
烈馬の脳裏に、三年前の光景が蘇った。
父・榊左馬之助。剣術指南役として名を馳せた武士であったが、ある夜、謎の刺客に斬られて果てた。下手人の名は「鬼塚鉄心」。かつて父の道場で破門になった男だった。
鉄心は父を斬った後、姿を消した。
烈馬は家督も捨て、三年間その男を追い続けた。
ようやく見つけた仇の胸に刃を突き立てたが、それは幻だった。
敵は影武者、すなわち"囮"。
そして烈馬は、その隙を突かれた。
本物の仇に、手も足も出ず――
「父上……すまねぇ。結局、俺は……あんたの仇も討てねぇ出来損ないでした……」
自嘲まじりの呻きとともに目を閉じかけた、そのときだった。
チチチ……と、耳の奥で金属がこすれ合うような異音がした。
*
「……?」
かすかに手が動いた。
右手の指先に、何かが触れている。
細く、冷たく、だが脈打つような妙な温度を持った――時計だった。
懐中時計のような形をしているが、そこに文字盤はない。
代わりに、銀色の蓋の中央に、不思議な模様が刻まれていた。
弓を構えた男の浮き彫り。
それはなぜか、烈馬にとって見覚えがある気がした。
(……誰だ、こいつ)
脳裏に、異様な数の映像が駆け抜けた。
戦場。
焼けた海岸。
甲冑の男たち。
そして――不死を呪う、若き戦士の顔。
青い海。白い砂浜。血まみれの槍。
風は潮の匂いを運び、空には鷲が舞っている。
男の名は――アキレウス。
『名を名乗れ』
唐突に、頭の奥に声が響いた。
「……は?」
『我が名はアキレウス。神をも斬る者だ』
(ア、キ……レウス?)
聞いたことのない名だ。
だが、妙なことに、その名を聞いた瞬間、烈馬の心に"剣"が浮かんだ。
まるで、それは最初から自分の技であったかのように。
『お前に問う。死ぬ気か、烈馬』
「……! なぜ、俺の名を……!」
『死に損ないの浪人よ。その剣、まだ使えるぞ』
「ふざけるな……これは夢だ……俺はもう……」
『ならば、目を見開け』
*
その瞬間、懐中時計――いや、カイロス装置が、青白く光った。
光は烈馬の手を包み、腕を昇り、やがて全身を覆った。まるで血管を逆流する稲妻のように、異国の記憶が烈馬の中に流れ込んでくる。
戦の記憶。
槍を振るう技。
敵を見抜く眼。
そして――死を恐れぬ心。
それらすべてが、一瞬にして烈馬の中に根付いた。
そして次の瞬間、烈馬の肉体は――動いた。
腹の傷は塞がってはいない。だが、痛みを感じぬまま、彼は立ち上がった。
足取りは確かで、手に握る刀の重みも、これまでとは全く違って感じられた。
「これは……何だ?」
『転写は完了した。お前は今、我と共にある』
アキレウスの声が、烈馬の中で静かに響いた。
『これより、お前の戦いが始まる』
朝の陽射しが、路地の奥まで差し込み始めた。
新しい力を得た浪人の影を、長く地面に落としながら。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第一章では、主人公・榊烈馬がカイロス装置「アキレウス型」と出会い、“神の記憶”に触れる場面を描きました。
この物語では、「記憶」や「歴史」がテーマになっています。
ギリシャ神話はあくまで裏設定として、時代劇の枠組みを軸に物語を展開していきます。
次回は、「女密偵・明神巴」との出会い、そして烈馬に訪れる“最初の覚醒”が描かれます。
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それでは、次章でまたお会いしましょう。