ヤリモク合コンの出会いなんて、信用ならないにもほどがある!
本作品は、香月よう子様の自主企画【バレンタインの恋物語企画】(取りまとめ:楠結衣様)への参加作品になります。
【1.待ち伏せ】
私と先輩の由梨さんは一緒にエレベーターに乗った。会社終わり。
私たちはわりとよく話すので、由梨さんが口を開いた。
「杏、こないだ合コン行ってたよね、どうだった?」
「あー、最悪でした。ヤリモクだったんで」
私は首を竦めて答えた。
「そうなの? 相手、広告代理店勤務だっけ?」
「ええ」
私は肯いてから続ける。
「イケメンのしゅっとしたオシャレ男子でした。だいぶ遊び慣れた感じで。友達がぽーっとなっちゃって、絶対落とす!って。いやどう考えても向こうは遊び相手探してるだけだったのに……」
最後の方は愚痴だ。
「じゃ、お友達、途中で誰かと消えちゃったの?」
「いや、それが……皆で幹事男性の家に行くことになっちゃって……」
「え!? 行ったの? それ行っちゃダメなヤツでしょ」
「ですよね。でも、ぽーっとなってる友達と、あと友達の先輩って人も乗り気で、なんか絶妙に……逃げられず……」
私はそう言いながらため息をついた。
由梨さんは小声になる。
「行ったんだ。ってことは……」
「由梨さん! 下世話な想像やめてくださいね」
「だって皆さん大人でしょ? しかも友達はやる気満々だったわけで……」
「由梨さん、ぶつぶつうるさい」
私は苦笑してら由梨さんを牽制した。
そして二人でエレベーターを降りて会社を出ると、急に横から「杏さん」と声をかけられた。
「え?」
振り返ると、それは例の先々週の合コンの男性だった。
私はぎょっとした。
私を待っていたような、偶然とは思えないタイミング。
待ち伏せ? いったいなぜ?
合コンで会っただけの人が待ち伏せとかキモイかも……。
私が戸惑っていたので、由梨さんは「誰?」とこっそり聞いてきた。
「例の合コンの人……」
私が答えると、由梨さんは「ストーカー予備軍?」と警戒した目を男性に向けた。
私はその男性、レンさんに冷たい声で聞いた。
「何の用ですか。ってゆか、なんでここ知って……」
「合コンで美々香ちゃんがばらしてたから。杏さんはオシャレな会社お勤めですって」
「うわ……」
だからって直接来る?
私はドン引きだった。
しかし、私のそんな様子に気を留めず、レンさんはイケメンな笑顔でにっこりした。
「だって杏さん、連絡先教えてくれなかったからさ」
「もう会わないと思ったんで」
「俺はそんなつもりはなかったよ。仮にもそういう関係になったんだし」
それを聞いていた由梨さんは「あ、やっぱり」といった顔をした。ヤッたんだ。
私は恥ずかしくなり、これ以上を由梨さんに探られたくなくて、
「ちょっと話してきます。また明日」
と由梨さんに言うと、今度はレンさんの方を向いて、
「すみません、用があるなら二人で話しましょう」
と言った。
由梨さんは心配そうな顔をしたが、自分が口を出すことじゃないと思ったのか、腑に落ちない顔のまま「じゃあ……」とその場を離れた。
【2.ふしだらな合コン】
二人きりになると私は、
「用件は何ですか」
とぶっきらぼうにレンさんに聞いた。
しかしレンさんは私がそんな様子でも気にしなかった。
「どこか店入りますか?」
「いいえ。手短にここで話してもらえます?」
「手短にか。じゃあ。お付き合い前提に会えないかなと思って」
レンさんの言葉に私はぽかんとした。
「は? 私たちは合コンで会っただけ。しかもヤリ……遊び慣れてる感じがしました。付き合うとかないです」
「俺たちヤったよね」
「それはなんとなく成り行きで。拒否れる感じじゃなかったじゃないですか」
「そっちから袖引っ張っといて?」
レンさんが笑ながら言うので、私は赤くなった。
あの日の合コン。
幹事男性に誘われるまま行くことになったマンションは、単身の割にはだいぶ広くてインテリアにも凝っていた。
「うちに来なよ、すごい銘柄のワインがあるよ」が誘い文句で、そうやって女を連れ込んだパーティは何度もやってるんだろうなと思えた。
正直私は来たくなかった。ヤリたいだけというのがよく分かっていたから。
そりゃ私だって彼氏は欲しい。だから合コンのお誘いはありがたかった。
だけど、こんな見るからにヤリモクな男性は違う!
かといって「自分だけ帰ります」は言えない雰囲気だった。
美々香もだが、美々香の職場の先輩という沙那さんも萌衣さんもだいぶ乗り気だったのだ。自分の身を守るためなら、空気を白けさせたって帰るべきなのだが、他の人たちは盛り上がっていて、何となく、本当に帰りづらい空気だった。
断り切れない優柔不断さを嘆く。
一方、美々香の方は、マンションの高層階のおしゃれな部屋を見て、もっと男性にぽーっとなったようだった。
幹事のセイトさんにぴったりと寄り添い、ワインを出したりおつまみを用意したり準備を積極的に手伝っていた。
沙那さんも萌衣さんも男性陣にしなだれかかっている。
お酒も入りまったりとしてきた頃、セイトさんが「夜景見えるよ」と言って照明を少し暗くしたとき、私はもう逃げられないなと思った。
そして気付いたら美々香がセイトさんと別室に消えていた。
沙那さんも萌衣さんもとろんとしているし、男性陣を見たらいかにもチャラいタクミさんは目をギラギラさせているし、明るくて冗談の多いジュンヤさんは軽い下ネタを口にし始めていた。
ヤらない選択肢はなさそう……。
私は覚悟を決めた。
私だって別に高い女じゃない。高い女どころか……自分でも呆れ返る過去だってある。
いくらイケメンとはいえチャラいタクミさんと口数の多いジュンヤさんはちょっと違うなと思った私は、仕方なく男性陣4人の中では一番優しそうだと思ったレンさんにしようと思った。
どうせやるとしても、自分にとってまだマシな方がいい……。
だからうまいことレンさんの隣に行くと、他の人には気付かれないようにテーブルの下でレンさんの袖をちょいちょいと引っ張ったのだった。
照明は薄暗くしてあったし、その場の雰囲気からその行為の意味は明らかだった。
私が手洗いに立つふりをしてリビングルームを出ると、レンさんも出てきた。
レンさんは、友人宅なのによく間取りを分かっていて、デスクスペースの別室に私を押し込んだ。
パソコンや書棚のある部屋だったがソファも置いてあり、レンさんは私に体を寄せるとすぐに肩を抱き、ソファに倒れこむようにキスをした――。
朝になると、あちらこちらの部屋から、皆めいめいに乱れた服などを直しつつリビングルームに戻ってきて、何事もなかったように軽く談笑し、そして私たちはセイトさんのマンションを後にすることにした。
美々香はこのイケメンたちを相当気に入ったらしく、全員と連絡先を交換していた。
私はといえば、遊び人は望んでいなかった。
この人たちは誰とでも寝るんだろうなと思うとこれ以上の関係はもういいかなと思い、レンさんやセイトさんに連絡先を聞かれたが、誤魔化して教えなかった。
その後、美々香から私の連絡先をレンさんに教えていいかと聞かれたが、私は「面倒だから教えないで」と言っておいた。
美々香はイケメンが好きすぎるのは玉に瑕だけど、いい子だ。
だから私のお願いの通りレンさんは教えなかったようで、私のところには見知らぬ連絡先からは何も来なかった。
だから私はあの合コンのことをきっぱり忘れて、次の出会いを期待していた。
まさか今日レンさんが押し掛けてくるとも思わず。
私はもごもごとレンさんに答える。
「袖は引っ張りましたが、あれは仕方なく」
「仕方なくでも俺を選んでくれた。ちなみに俺も最初から杏さんがよかったよ」
「よく言いますね。私なんて合コンで初めて会った男ともヤる軽い女ですよ。でもあなただって誰でもいいんじゃないですか。それだけかっこよければモテるでしょうし」
レンさんはそれには答えず不愉快そうに一瞬黙ったが、
「やっぱ店入ろう。立ち話じゃなんだからさ」
と言った。
【3.気に入った理由】
私はレンさんの提案を拒否しようとしたが、レンさんが
「あのカフェでいいから。少し話聞いて」
とひと区画先の看板を指差した。
直球で言われると断りづらく、私はレンさんの提案に渋々従った。
レンさんは率先して歩き出したが、私が乗り気でなく歩みが遅れがちなのに気づいて振り向いた。目が合って私は気まずかったが、レンさんはそうでもなかったようで、にこっとするとさっと私の手を取って引っ張った。
手、握ってる!?
私がぎょっとして手を引っ込めようとすると、レンさんは余計にぎゅっと握った。
「え!?」
私は慌てて両手でレンさんの手を押し退けた。
「何するんですか!」
「俺は付き合うと決めたら一途だよ」
「そう言ってキープしてる女子何人いるんですか? ヤリたいだけだったら他を当たって下さい!」
レンさんは少し傷ついた目をしたが、何も言い返さなかった。
そのカフェは地味な看板一つ出しているだけの、隠れ屋的な店だった。こんなに会社の近所なのに私も初めてだ。
何にも媚びていないシンプルなデザインの店内ながら、ゆったりと深く座れる落ち着いた雰囲気で、常連っぽい人たちで意外と混んでいる。
レンさんはコーヒーを二つ頼むと、私の顔をゆっくり眺めた。
「急に押しかけて悪かったとは思ってる。でも杏さんも連絡先教えてくれなかったし、美々香ちゃんに聞いても教えてくれなかったから。あの子律儀だね」
「中学からの友達です」
「そうなんだ。あの子、相当可愛いけど、男好きする感じでちょっと危なっかしく見えたから、意外だった」
「まあ、そう見えますよね。彼氏欲しがってるけど、セイトさんはどうかな……」
「セイトだって彼女欲しがってるよ。うまくいきゃいいんじゃね」
「いかないでしょう、あんな関係になった後は」
「そう? 二人次第じゃない? 俺だって、こうして杏さんをはるばる訪ねて」
「いや、だからそれが……」
――変だとばかりに私は首を横に振った。
すると、レンさんは少し真面目そうな顔になって言った。
「美々香ちゃんにさ、俺にしとけって、合コン中ずっと言ってたんだろ? セイトじゃヤリ捨てられるだけだから、俺のがまだマシそうだって」
私は驚いた。
「……言いました。何でそれを?」
「それっぽいのがちょっと聞こえたんだ。だから隣に座ったときに美々香ちゃんに確認した」
「確認します? それ」
「気になるじゃん、どんな話って。杏さん、俺が救急車沙汰になってもジュンヤとの約束守ろうとした話がよかったって」
そんな内容まで聞いていたとは!
私は気恥ずかしくなった。
「いいっていうか……。いくらジュンヤさんが仕事で出れないからって、歩くのもままならない人、普通、保健所に他人の猫迎えに行ったりしません。でもジュンヤさん合コンでも猫の写真見せまくってたし猫好きっぽかったから……それを知ってのことなら、思いやりって言えなくもないかなって」
私はなんだか必死で言い訳をしている気分になっていた。
レンさんも「あれは失敗だった」とばかりに頭を掻く。
「あのときは、フットサル終わりでジュンヤから連絡来て頼まれて。確かに練習中接触はあったけどまさか骨折してるとは思わなかったんだよ。結局保健所で立てないくらい痛み出して救急車呼ぶ羽目になっちゃったけどね。あのときのことは反省してる。でも、ジュンヤも猫好きなら逃がすなよな」
最後は少し恨み節だ。
「まあでも、そういうちょっと人情味あるところがマシに思えたんで。美々香恋人探してるし、もしかしたらワンチャン恋に発展したり――って。でも美々香はセイトさんがよかったみたいだから、ただのお節介」
「あー。俺が、杏さんがいいって美々香ちゃんに言ったんだよ」
「は?」
「友達思いなところいいなと思ってたから」
レンさんが悪びれずにっこりするので、私はポカンとした。
「せっかく美々香に勧めたのに。あなたが拒否ったんですね」
「俺にも選ばせてよ」
「ヤれるなら誰でもよかったんでしょう? 別に美々香でも……」
「じゃあ美々香ちゃんをヤリ捨てて良かったわけ?」
「……!」
私は激しい怒りに襲われた。
なんて言い草!
私がレンさんを睨みつけると、レンさんは首を竦めた。
「良くないだろ?」
「ほんと、クズ……!」
私は猛烈に腹が立って言葉が上手く出てこなかった。
レンさんは少し目を伏せてぽつんと言った。
「ある意味誠実だよ、あの中じゃ杏さんがよかったから。それを正直に言った」
「もういいです。この話、不毛なんで。私はあなたと付き合うとかないし、美々香だってあなた方と続いてほしくない。もう関わらないでください」
私ははっきりと言ってやった。
するとレンさんはふうっとため息をついて、目を上げた。
「なんで杏さんは俺じゃダメなの?」
「誰とでも寝るでしょ」
「寝ないよ」
「私と寝た」
「君と寝た。で告白してる」
レンさんがさも誠実かのように胸に手を当てて言うので、私はイラっとした。
「じゃあ合コンで出会った子皆に告白してるってこと?」
「なんでそうなるの。そもそも俺セイトの合コン1年ぶりだよ」
「嘘」
「本当。3カ月前まで彼女いたから」
その言葉には私は「えっ」と驚いた。
「彼女……そーゆーの作る人だったんだ」
「普通に作るよ。前の子はちょっと依存のすごい子でしんどくなって別れちゃったけど……」
「依存……」
私は苦いことを思い出して口を噤んだ。
依存……。誇れない過去が首をもたげる。
そうだ、依存していた。どうしようもなく。彼との関係が不安定だったからなおのこと依存していた。
私が急に黙ったのでレンさんは心配そうな顔をした。
「どうした?」
「あ! いえ、別に」
私は青い顔のまま首を横に振る。
しかしレンさんは納得していない。
「別にじゃないよね?」
「本当に、……別に。明日も仕事なんで、私、帰ります」
私はそう言って立ち上がった。
レンさんは「あ」と言いかけたが、しぶしぶ立ち上がる。
会計して店を出たところでレンさんが言った。
「さっきの……どうしたの? 心配だし送るよ」
「いえ、普通に帰るので大丈夫です」
私がそう断って会社の最寄り駅の方に目をやったとき。
バサッと何かが私の視界を一瞬遮った。
「何?」と思って目をやると、それはカラスだった。白黒の横断歩道のど真ん中に下りたっている。
なんでこんな時間にカラス?と思ったときに、ドクンっと心臓が大きな音を立てて収縮して、そしてそのままぎゅーっと絞られるように胸が痛くなった。
血圧が下がるような感覚。
足はふらつき体は震え出していたのに、私は元凶のカラスからなぜか目を離せなかった。
カラス――。白黒の横断歩道の――……。
あの日、完全に彼――治川さんと決別することになった日。
あの日もカラスが横断歩道のど真ん中に下りたったのだ。なんとはなしに下りたのだろう。頭の悪いカラス!
次の瞬間カラスは凄いスピードで走り去る車の下敷きになっていた。
転がった赤黒い塊。
丸見えになった生々しい鮮やかな肉。
不自然に折れ曲がる黒い翼。散らばった羽根。
目の前の一瞬の出来事に私は息が止まるかと思った。目の前のカラスに起こった惨劇に混乱して、生き詰った自分と潰されたカラスが交錯して見えた。
現実に押しつぶされる――……。
治川さんへの決して叶わない想い! 生々しく私を引き裂く想い!
眩暈がする。
立っていられなくなる。
あれ以来、白黒の横断歩道のカラスはダメなのだ。
「どうしたの! 大丈夫!?」
レンさんが大慌てで私に駆け寄ると、私の肩をぎゅっと抱いて支えてくれた。
「カ、カラス……」
私がうわごとのように言うと、レンさんは「カラス? 飛んでいったよ」と訝しみながらも安心させるように柔らかく答えた。
「飛んでいった……ありがとうございます」
私はへなへなと力が抜けるのを感じた。
よかった、カラスは潰れてない――……!
まだ心臓はドキドキ音が聞こえるくらいだったが、私はだいぶほっとした
「どういたしまして。でも大丈夫?」
レンさんはかなり心配してくれている。
心配させるのは申し訳ない。
私はシャキッとしなければと思った。
「あ、はい。すみませんでした、もう大丈夫です」
「大丈夫じゃないよね!?」
「大丈夫です。いや本当すみませんでした。帰りましょう。電車乗ります?」
私は気丈に言うと、駅を指差した。
【4.セフレ】
昨日はよく分かんないことになったなあと思いながら出勤すると、由梨さんが心配そうに近づいてきた。
「昨日は大丈夫だった?」
「あ、由梨さん。はい、ちょっと話してすぐ帰りました」
「あの人何て?」
「別に……」
「別にって。合コンで会った人が待ち伏せするって、何だったの?」
「ほんと何でもなかったんで」
何もなかったと言いつつ、私は昨日横断歩道のカラスでトラウマが蘇ったことを思い出す。
私はよほど複雑な顔をしていたのだろう、由梨さんは心配そうに私を見ていた。
しかし由梨さんはそれ以上は何も言わず、話題を変えた。
「あ、そうだ。若手エリートさん帰ってきてるよ」
「エリートさん?」
「隣の部署の、治川さん」
「え……」
私はその名を聞いてぎくっとした。カラスの黒い翼が視界の端を横切った気がした。
由梨さんは私の顔を見て、勘違いしながら頷いた。
「海外部署、もっと長いこと行ってるかと思ったよね~」
「そうですね……」
「女子社員は喜んでるけど……あれ杏は喜んでない」
「興味ないんで」
「あはは、ぽいねー」
由梨さんは少しだけ安心したように笑った。
すると、噂をすれば何とやらで、例の治川さんがこちらにやって来た。
近くの女子社員たちが一斉に黄色い声を上る。
「治川さん! 向こうどうでした?」
「どうって、そんな変わらないよ。はいこれ、お土産ってほどでもないけど」
「わーチョコレートだ、ありがとうございます!」
「あ、杏さんもどうぞ」
急に治川さんが私の方を向き、笑顔でチョコレートを差し出してきたので、私は困惑した。
「あ、どうも……」
「またよろしくね」
「……。はい」
私が下を向いて形式的に答えると、由梨さんが不審に思ったのか顔を覗き込んできた。
「何その間?」
「由梨さん! 別に」
「杏、さっきから『別に』ばっかり。どうしたの」
私はまた「別に」と言いかけて、指摘されたばっかりだと口を噤む。
そのとき、スマホにピロンとメッセージが入ったので、私は救われたようにスマホを見た。
しかし、ちっとも救いではなかった。
『今日、飯、どう?』
治川さんからだった。
チョコレートを持ってまだすぐ近くにいるのに、なんでこんなメッセージを、今わざわざ!?
ズキンと胸が痛んだ。脳裏に死んだカラスの赤黒い塊が浮かんで消える。
どんな顔をしてこんなメッセージを送ってくるのだろう、彼は。でも振り返ったら負けだ。
『忙しいので無理です』とだけ返信しておいた。
しかし、その返信だけでは解決しなかったらしい。
その日の帰宅時、エレベーターを待っていると、ちょうど下から上がってきたエレベーターから治川さんが降りてきた。手には何か上品な紙袋を持っている。
エレベーターを待っていたのは私だけだったので、私は「まずい」と思った。
目を伏せて無言で治川さんをやり過ごし、エレベーターに乗ろうとした。
すると呆れたように治川さんが声をかけてきた。
「避けてるじゃん」
「避けてません、別に。終わった事ですし」
それだけ言って、私は通り過ぎようとした。
しかし治川さんは私の腕を強引に引っ張った。
「終わるとかあんの。俺らの関係」
「ありますよね、普通に。彼女さんいるんだから、私と会っちゃダメじゃないですか。ってゆか、こっち帰ってきたんだったら、まずは彼女さんに会ってあげなきゃ」
「会ったよ、昨晩。『もう待つのしんどい、結婚しろ』ってうるさいんだ」
「結婚したらいいじゃないですか。散々泣かせてるんだから責任取ってあげないと」
「うわ、責任とか、昭和」
「え、取らないの? 逆に引く」
私は治川さんの腕を振り払い、眉間に皺を寄せて睨みつけてやった。
しかし治川さんはにやにやこっちを見つめたままだ。
「ねえ。今夜、俺んち来ない?」
「は?」
「俺らの関係やめることないんじゃん。杏は物分かりいいしさ」
「物分かりよくありません! 私、すっごくうじうじ暗い女ですよ。腹の中じゃ彼女さん呪ってました。彼女さんが風邪とかひいたら私のせいだから」
「風邪で済むならいくらでも呪いなよ。でも本当は呪わないだろ?」
自信ありげに治川さんが微笑む。
私は呆れてしまった。
「……。」
「何だよ黙って」
「バカだなあって」
「え? 俺バカ?」
「ううん、私が。なんであなたなんかと。ほんとにバカだったわ……」
私はそれだけ言うと、治川さんを振り返らずエレベーターに乗り込んだ。
「ちょっと、杏!」という治川さんの声を無視して、私はエレベータの『閉』ボタンを押した。
【5.つらかった日々】
エレベーターが動き出すと、私はどっと疲れが出た。
『今夜、俺んち来ない?』
とんでもない、二度とセフレには戻らない! 私は死んだカラスを頭から振り払った。
まあ、セフレなのに私が治川さんを好きになってしまったことを彼は知らない。
彼をまだ好き?
分からない。まだ普通には接することができない。
彼の顔を見ると苦い思いだけは今でも蘇る。
セフレから始まったら本命にはなれないことを痛感した日々だった。
そりゃ、あんな都合のいい関係はない。
割り切っていれば何も問題なかったのに。
向こうはただの体の関係なのに、こっちが本気で好きになっちゃうなんて、痛恨の極み。
治川さんがたまに漏らす「彼女欲しいな~」というセリフは、すごく私の心を抉った。
治川さんの部屋を訪れている間は泣かなかったけど、帰るときは駅のトイレや公園で何度も泣いた。
「杏って物分かりがよくていいよね」
というセリフもとても残酷だった。
「すげー相性いいし。杏といると落ち着く」
と治川さんが言ったときは、「じゃあ私でいいじゃん」と何度も思った。
ある日急に治川さんが笑顔で言った。
「彼女できたんだ」
私は「へー」というのが精いっぱいだった。おめでとうは言えなかった。
でもそんな私の気持ちは知らずに、治川さんはどことなく饒舌に、いかに彼女との出会いが運命的だったかとか、彼女との時間が特別かをぺらぺらと喋った。
知るかよ、黙れ、が本音だった。
「じゃ、自分との関係は終わりか」と思った。すっぱりフラれて良かったじゃん、これきっかけにもう治川さんのことは忘れようと思ったが、しかしそうはならなかった。
治川さんは私との関係を清算する気はなかったから。
本当は、治川さんにその気がなくても私から離れればよかった。
今までは限りなくゼロに近い確率で彼女になれることを期待していたけど、彼女ができた今となってはもうゼロなんだから。
彼女がいる男と会ってるなんて、すごく道理に合わないことなのだし。
でも、できなかった。
分かってる。彼は私のこと好きじゃない。彼には彼女がいる。でも、治川さんは変わらず誘ってきた。誘われると胸が痛みつつもときめいた。
良くないと分かっていた。彼女さんにも悪い。自分の存在が後ろめたくて、どんなときも胸を張って歩けなかった。
だけど、治川さんと会えなくなるのはつらかった。
こんな関係でも会いたかった。彼が好きだったから。
今日だけにしよう、次は「会わない」って言うんだ。そうしよう、今日だけ。
しかし、それが何回も続いて、結局「会わない」と言える日は来なかった。
情けなさすぎて泣けてきた。
突然治川さんがしばらく海外部署に派遣されることになって、ようやく物理的に離れることになり、終わったのだ。
白黒の横断歩道でカラスが死んだ。
私の心も死んで沈んだ。
良かった別れられるという理性的な自分と、会えないつらいという感情的な自分が同時に胸を占拠して、押し合いへし合いした。
何度も泣いた。
最初の2週間は本当に記憶がない。赤黒いカラスと死のイメージが頭にこびりついて離れなかった。
徐々に自分の中の恋心に折り合いをつけ日常を送れるようになったのは、治川さんがいなくなってどれくらいたって経ってからだろう。
……自分でも呆れ返る過去。
二度とセフレなんかになるもんか。好きになっちゃったら地獄だもの!
こんなつらい思いは二度とご免だ!
そのとき私はふとレンさんのことを思い出した。
そう、だから、レンさんとだって何も始める気はない。
レンさんとも体の関係から始まってしまったのだから。
【6.修羅場】
私は、なんとも後味の悪い気持ちでエレベーターを下りた。
苦いものがもやもやと胸いっぱいに広がっている。
どうにも処理できる気がしなくて、私は駅までの道をのろのろと歩きながら、スマホを取り出した。
電話をかけた先は美々香だった。
「美々香、ちょっと会えないかな。……ううん、大丈夫じゃない。……実はね、治川さんが帰ってきて」
そのとき、私が通話中なのにお構いなしに、私の前に急ににゅっと人が立ちはだかった。
「――!」
私は驚き、美々香と話す言葉が途切れた。
「杏? どした、大丈夫?」
スマホの向こうでは美々香が心配そうに呼び掛けてくれている。
しかし、私は気が動転して美々香のことまで考えが回らなくなっていた。
私の前を塞いだのは、治川さんの彼女だったから。写真を見たことがある――。
「私、治川さんの彼女なんですけど!」
彼女さんは怒鳴りぎみに名乗った。
私はすっかり委縮してしまっている。
「なんでしょうか……」
「あなたね! あなた、治川さんの何なんですか!?」
「え、何って……急に……。何でもありません……」
私は必死に否定した。
しかし、彼女さんは三角の目を吊り上げて私を睨んでいる。
「さっき、治川さん『今夜家に来ないか』ってあなたを誘ってたわよね?」
「!」
私は怯んだ。
彼女さんは会社でのやり取りを聞いていたんだ。
そして、何か言ってやらなきゃ気が済まなくて、私を追いかけてきた――?
でもいったいどうやって聞いたのか――? 会社の中にまで入ってきていたの?
何も分からないままに、私は咄嗟に嘘をついた。
「そんな話してません! 聞き間違いです!」
「じゃあ、治川さんと何の話をしていたというのよ!? 私のこと呪ってるって言ったじゃないの!」
「!」
「呪ってるってそういうことじゃないの? 治川さんにはずっと女の影がちらついてた。私という彼女がいるのに! ずっと治川さんに付き纏ってた女って、あなたじゃないの!?」
「……」
私は図星で返答に窮した。
もともと私はたいして嘘は上手ではないのだ。
私が言い返せずにいるので、彼女さんは何か確信を得たようにずいっと身を乗り出した。
「黙ったってのはそういうこと!? 最低、最低、最低! ずっと苦しかったのよ! 私と付き合ってるはずなのに、別の女がいる。治川さんは全然私のものにならない! 結婚も遠回しにはぐらかされる。あなたのせいね! 最低!」
「……」
「なんで何にも言わないの? バカにしてんの?」
彼女さんは怒りで肩が震えていた。
私は申し訳なさでいっぱいで、今にも消え入りたい気分だった。
つらいのは私ばっかりだと思ってた、この人もつらかったんだ。
私が治川さんと別れなかったから。ずるずると関係を続けてしまったから。
この人も治川さんのことが凄く好きなんだ――。
そのとき彼女さんがバッグの中からショコラトリーの名刺を取り出し、私の方へこれ見よがしに突きつけた。
「治川さんにバレンタインチョコを持ってきたの――。盗聴器入れて正解だったわ!」
私はハッとした。そうだ、さっきエレベーターで上がってきた治川さんはこの店の紙袋を持っていた!
盗聴器が入れられていたのか!
彼女さんはヒステリックになっていた。
「帰国すぐのバレンタインだというのに、今日は用事があるとか言って。絶対女関係だと思ったもの。以前からの女と海外赴任中も切れてなかったのねって。だからどんな女とどんな関係なのか調べてやろうと思ったのよ。まさか盗聴器の声の主が目の前に現れるとは思わなかったけど!」
私はそういうことかと思った。
治川さんは最初からセフレをやり直す気でいたのだ。それに勘付いた彼女さんは盗聴器を仕掛け、全部聞いてしまった。
会社の近くで張っていた彼女さんは、美々香に電話する私の声が盗聴器の声と同じだとピンときて、それで声をかけてきたんだ……。
私が放心状態で何も答えないので、彼女さんはヒートアップした。
「今日はバレンタインよ、どうせあなたも治川さんにチョコをあげたんでしょう? どういうつもりであげたのか、教えてよ!」
私は我に返りぶんぶんと大きく首を横に振った。
「違います、あげてなんかいません! 本当にもう何もないんです!」
「もう、って何!? その言い方、やっぱりあなたなの――」
「何もないです、私は帰るところで……」
「職場にバレないように時間差で帰るんでしょ? 治川さんちに帰るつもり? それともどこかで待ち合わせ? バカにして!」
そう言って彼女さんが髪を振り乱し、私につかみかかろうとしてきたとき。
「この子は俺の彼女だから。違いますよ」
と横から割って入る声がした。
「レンさん!?」
私は驚いて目を見張った。
「昔はその治川さんって人と付き合ってたみたいだけど、今は俺の彼女だから。彼氏が結婚してくれないのを人のせいにするなよ」
レンさんは少し詰るように治川さんの彼女に言った。
そのとき、治川さんが走ってきた。その後ろにはスマホを握りしめた由梨さんが青い顔で立っている。
由梨さんは帰宅中にこの修羅場を見かけて、心配して治川さんに連絡してくれたようだった。
由梨さんは私に駆け寄った。
「杏、大丈夫だった? あ、あなたはこないだの、合コンの人! レンさんだっけ」
由梨さんはレンさんを見つけて怪訝そうな顔になった。
レンさんは由梨さんにぺこっとお辞儀した。
「先日はどうも。って、変ですね。俺たち、まだ挨拶もしてませんよね」
「あはは、そうですね。不審者だったし。でも、ちょっと見直したわ。今日は杏を助けてくれてありがとう、いいとこあるのね」
「見直すって……?」
「だって、ヤリモクの人ですよね?」
由梨さんが悪びれずに言うので、レンさんはさっと顔を曇らせた。
「ちょっと、それなんですけど、俺にも説明させてもらっていいですか?」
そのとき、背後でパアンッと派手な音がした。
ハッとして振り返ると、治川さんが彼女さんの頬を叩いている音だった。
治川さんは酷く怒っていた。
彼女さんが思わずショックで蹲る。
私はそんな治川さんを見たことがなく、激しく動揺して立ち竦んでしまった。
レンさんも驚き、「暴力は」と治川さんを止めに入ろうと思ったが、同時に、固まって治川さんを凝視している私に気づき、こちら優先とそっと肩に手を回して私を支えてくれた。
その代わりに、由梨さんがつかつかと治川さんに近づいて行って、ぴしゃりと怒鳴った。
「治川さん! 乱暴は良くないですよ!」
「こんなところまで押しかけてきて騒ぎを起こ女なんて、みっともない!」
「でも、それ、叩くことですか? ちゃんと話せばいいだけのことでは? あなたの方がみっともないですよ!」
「うるさい、由梨。おまえとの関係は終わってるんだ、偉そうに俺に上からモノを言うな!」
今、何て言った?
治川さんの言葉に、私は膝から崩れ落ちるかと思った。
『由梨。おまえとの関係は終わってる』?
治川さんは由梨さんともそういう関係だったの?
彼女さんも食い入るように由梨さんを見つめ呟いた。
「あなたなの……? ずっと女の影がちらついていたのは」
「ああそうですね。たぶん少しかぶってたと思います。私は彼女じゃないですけどね」
由梨さんは申し訳なさそうに言った。
私はふらっと倒れるかと思った。
レンさんの手に力がこもり、レンさんのおかげで私は立っていられた。
由梨さんともセフレやってたんだ、治川さんは……!
めちゃくちゃ。
もう、めちゃくちゃ。
何だったの、私のあの時間は!
死んだカラスは? 転がっていた赤黒い塊は何?
由梨さんが私の方を向き恥じるように言った。
「ごめんね。社内のことだからさすがに杏にも言えなくて。驚いたよね」
私は「あ、実は私も」と言いかけて、レンさんに止められた。
『言っても誰も得しない』レンさんは小声で私の耳元で言った。『罪悪感は胸に秘めとけ』
私が何か言おうとしたことには気づかずに、由梨さんはしおしおと言った。
「治川さんとは終わってるからさ、今はそんな関係とかじゃないよ。彼女さんいるって途中で知って、さっさと別れたんだ」
そして今度は治川さんの方へ厳しい目を向けた。
「――治川さん、私より彼女を選んだんでしょ、ちゃんとしてよ、私のためにも。それから、彼女さん。治川さんは、私なんかよりあなたを選んだんだから自信持って」
最後は、治川さんの彼女への言葉だった。
そこまで言うと、由梨さんはふーっと大きく長い溜息をついた。
「もうやめてよね、こんな修羅場。あと、杏。私と治川さんの関係、職場で黙っといてくれたら助かる。終わったことだけどね、同情とか好奇の目で見られても嫌だし」
「言いません……」
「よろしく。じゃあ、私は用事があるから行くね。じゃ、レンさん、杏をよろしくね」
由梨さんは片手を挙げて、駅の方へと去っていった。
由梨さんの背は、黒い翼を広げたカラスが飛び去る姿と重なり、私は何だかすっかり吹っ切れて憑き物が落ちた気分になっていた。
【7.レンさん】
私は治川さんと彼女さんをその場に残して、レンさんを自分の行きつけの店に誘った。
「レンさん、なんであの場に助けに」
「美々香ちゃんから連絡もらった。杏さんが絡まれてるっぽいって。俺ちょうどすぐ来れるところにいたんだ。美々香ちゃんには杏さんのこと相談してたから」
「美々香ったら。でも来てくれて助かりました、ありがとうございます」
「どういたしまして」
レンさんは微笑んだ。
私は少し信頼を込めた眼差しを向けた。
「レンさんって『どういたしまして』をちゃんと言うんですね」
「そうかな。そうかも」
レンさんは照れ臭そうに言ってから、急にきゅっと真面目な顔になった。
「ごめん、美々香ちゃんから聞いたけど、杏さんはあの男とセフレ関係だったんだって?」
「あ……」
「それでだいぶつらい思いしてたって。だから杏さんはセフレだけは嫌だって」
「はい……」
私は気まずそうに小声で答えた。
レンさんは深刻そうに聞いた。
「それでさ、俺ともセフレになるって心配してるのかな」
「ええまあ……。状況全部ひっくるめたらセフレの範囲内な気がして。それで私がレンさんのこと間違って好きになっちゃったら、またすごくつらくなるから」
私の言葉にレンさんは頭を抱えた。
「弁解させて。確かに俺は杏さんとヤったけど、あれは据え膳でラッキーってのもあったけど、ヤれば特別になれるかもってのもあったんだ。少なくともヤってない奴よりは記憶に残るかなって。まあ、その選択は間違いだったわけだけど」
私は肯いた。
「だいぶ軽い人だと思いました」
「だよね。やらなきゃよかった。じゃあさ、付き合ってもそういうことはしばらくしないってのはどう? そしたらセフレじゃないって思ってくれる?」
「え? それは、まあ……?」
私が首を傾げると、レンさんは畳みかけるように言った。
「じゃ決まりで」
「待ってください、決まりじゃないです! なんで私なんですか!? 合コンで一回会っただけですよ!」
「一回じゃないよ」
「え?」
私は驚いた。
何を言い出すのかとレンさんを見つめた。
「ユキヤが絵里奈さんにプロポ―ズしたとき、俺フラッシュモブの一人やってた」
「え? あーっ! あれ!? あれにいたの?」
私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
絵里奈は私の大学時代の親友だ。
レンさんは苦笑した。
「俺はユキヤと幼馴染でさ、ユキヤがフラッシュモブやりたいって言うから仲いい奴で話に乗ったんだ。あのとき、絵里奈さんの友達もいたら喜ぶかなって、ユキヤが杏さんに相談したよね。絵里奈さんの好み摺り寄せたり業者頼んだり、あれこれ手伝ってくれてたでしょ。杏さんは俺のこと覚えてないと思うけど。俺は杏さん友達思いでいいなって思ったよ」
私は申し訳なく思った。
「すみません、ユキヤさんの友達わりとたくさん呼ばれてたから、レンさんがいたとか全然覚えてませんでした。ってゆか、ユキヤさんの友達なら合コンでも先に言ってくださいよ!」
「そっか、言えばよかったかな。そしたらちょっとは俺のこと信用してくれた?」
私は「うっ」と言葉に詰まった。
「ちょっと、頭が整理ついてないです。ただのヤリモクの人だと思ってたんで」
「それはごめんて。もうユキヤと絵里奈さん経由でとりなしてもらおうかと思ってたとこ。でも少しは分かってくれた?」
「あー……」
私は返答に困って目を泳がせた。
その視線の先にテーブルに置かれたチョコレートが目に入った。
凝ったガラスの器に乗せられた個包装のアルファベットチョコ。
ここのマスターは常連にはちょっとしたサービスがあるが、私には毎回これを出してくれる。以前マスターにお酒のお勧め聞いたら、意外にもブランデーを出してきて、そして女子ならこれもって添えてくれた。お酒はともかく、チョコレートに「うまぁ」と思わず呟いたら、マスターは「そっち?」と笑いながら、それ以来私へのちょこっとサービスはチョコレートになったのだ。
私はそのチョコレートに手を伸ばした。
今日はバレンタインだっけ……。
「レンさん、これ」
私はチョコレートを器ごとレンさんの方に押しやった。
「ハッピーバレンタイン」
レンさんは目を細めた。
「いいの? ありがとう、期待するけど」
私は少しだけ、レンさんのこと考えてみようかという気になっていた。
お読みくださいましてどうもありがとうございます。
香月よう子様の作品の中でもオトナなコイバナが好きだった私です。
よう子様の冥福を心からお祈りいたします。