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関ケ原の麒麟

作者: 遠山枯野

 朝方から関ケ原を覆っていた濃霧は消えかけていた。敵軍に向かって左手、松尾山を轟音と共に駆け下りる軍勢をはっきりと目にすることができる。

 南光坊天海は、隣で凛として構える家康に話しかけた。

「殿、山が動きましたぞ。金吾中納言が大谷吉継への攻撃を開始したようです。勝敗が決しましたな。天下は殿のものにござる。ようやく日の元に麒麟の訪れる世がやってまいりますな。」

 徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した、天下分け目の合戦の戦局はそれまでは五分五分あった。

 三成が頼みにした家康囲網は完全に機能を失っていた。東軍後方の南宮山に陣を敷いた、吉川広家をはじめとした毛利勢はまったく動く気配がなく、そして、あの松尾山の小早川秀秋は動いたかと思えば、味方に攻め込んでくるではないか。この寝返りにより、西軍は完全に崩壊した。

「ようやった。そなたの見込み通りじゃのう。わ、は、は、は・・・ところで、その「麒麟」となんじゃ。」

「恐れながら、これは私の好きな故事にございます。麒麟とは、王が仁のある政治を行う時に、頭上に現れるとされる中国の伝説の霊獣でございます。形は鹿に似て、鹿よりも3、4倍の大きさ、顔は龍に似て、角は一本、牛の尾と馬の蹄をもち、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。麒麟を呼べるのは、亡き信長公でも、秀吉でも、ましてや三成でもなし。殿以外にはおりませぬ。さて、我もひと暴れしてまいりましょう。」

 天海は馬にまたがり、三成の本隊と戦闘を繰り広げる細川忠興と黒田長政の軍に加勢した。

 その時であった。前線に、一際目立つ騎馬が現れた。桔梗紋の旗印。あれはもしや。

 よく似ている。あの方も参戦なされていのか。

 目を凝らすと、すぐさま、軍勢に埋もれて見えなくなってしまった。天海は自身の命の恩人であり、この戦国の世において、太平の世に結びつく、2つの大きな分水嶺を引き起こした、あの方のことを思い出していた。



 天海は三浦氏の一族である蘆名氏の出自であり、陸奥国(現在の東北地方)に生まれた。龍興寺にて「随風」と称して出家した後、14歳で下野国(現在の栃木県)宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、近江国(現在の滋賀県)の比叡山延暦寺に赴き、学びを深めていた。その最中、織田信長による比叡山焼き討ちに遭遇する。

 天下布武を目指す、信長にとって、比叡山の勢力は脅威であった。御仏を盾にした信仰の力を利用し、姉川の戦いの際も浅井・朝倉連合軍を匿うなど、敵意をむき出しているのだから、悩ましい存在であったはずだ。幕府の権力に守られた故に腐敗した坊主どもはもはや、宗教勢力とはみなしていなかった。比叡山側は金品を送り和解を申し出たが、信長は拒絶した。戦もやむなしと悟った僧たちは比叡山に集結し、武装して立てこもった。

 比叡山焼き討ちを密に計画していた信長は、宇佐山城に光秀を入れた。光秀から比叡山焼き討ち準備完了の報告を受けた信長は、近江一向宗の金ヶ森城を攻略後に石山本願寺へ向かうと見せかけて比叡山を包囲。全軍に焼き討ちを命じた。

 信長の命令は、あらゆる建造物を焼き討ち、逆らう僧侶だけではなく女性や子供も関係なく首をはねよ、というもの。実行部隊の中心は明智光秀であった。光秀はこの戦の功労者として、 延暦寺の遺領である坂本を信長から与えられ、織田家臣の中で初めて居城の築城も許された。

 光秀は伝統的な権威を重んじる保守派である。延暦寺攻撃に関しては内心、否定的だったに違いない。しかも、女、子供関係なく、大虐殺をするなど、耐えがたいもの。神仏に弓引くなど、徳のある君主が行うことではない。織田家としても朝廷や諸大名の反発を招き、多くの敵を作りかねない。それでも、逆らうものには容赦しない、という恐怖を植え付けることが、信長のやり方でもある。光秀は、当時、将軍足利義昭にも従属しており、信長との間を取り持っていたが、これを機に、将軍と信長の関係も決裂したため、正式に信長の家臣となっていた。

 総攻撃が仕掛けられた時、延暦寺で修行中の身であった随風も戦いに参加することとなった。桔梗紋を掲げた明智軍が最前線から攻め込んでくる。

多勢に無勢と言う中、軍僧たちの中でも武術に秀でた随風は、単騎で明智軍中心近くまで攻め入った。声を張り上げているあの武将が、総大将、光秀か。

「敵対する僧侶は切り捨てよ。建物に火を放って、跡形もなく焼き払うのだ。よいか、女、子供には決して手を出すな。」

 随風は、光秀に槍先を向けて突進したが、交わされて、槍をへし折られ、刀を首筋に突きつけられた。覚悟を決めた髄風に光秀は話しかけた。

「そなた、ここまで近づくとはただ者ではないな。それ故にお主に頼んでも良いか。火の手が回る前に、女、子供を守り、下山させよ。」

 首をはねられると覚悟していた随風は、呆気にとられてその命に従った。この状況で信長の命に背き、不必要な殺生を避けようとする大将の姿に徳を感じた。随風が後で知ったことだが、戦後処理は、光秀にまかせられたため、いかようにも戦死者をごまかすことができたのだろう。最近の調査によると、何千人の大虐殺が行われたと言い伝わる比叡山焼き討ちであるが、その割に出土した人骨はわずかだったという。

 戦のあと、坂本の地を治めることとなった光秀は、延暦寺復興に尽力した。軍事拠点としての延暦寺は滅亡するものの、宗教としての延暦寺は再建され、現代まで残っている。

 焼き討ちの後、武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住した髄風は、武田氏滅亡後に、恩を返すために、再建された延暦寺へ戻り、光秀と親交を持った。光秀の人物像を知ったのはその時である。政治、軍略に優れるばかりでなく、徳の高さを感じた。理想の国家像と伝説の猛獣・麒麟の話もその時に聞かされて、感服した。僧侶ながらも国造りに関心を持っていた髄風は、築城と治水について、この時に光秀から学んだ。

 しかし、次第に部屋に籠るようになり、髄風と会う機会も減っていった。

 そして、本能寺に滞在中の信長を打ち取るという暴挙に出た後、中国から駆け付けた秀吉軍と合戦に及んで、敗れ去る。光秀は敗走中に藪の中で農民に刺され、その首が秀吉に献上されたと言われる。しかし、それは荒木山城守行信という影武者の首だ。

 髄風は、生き延びた光秀を京の妙心寺に匿った。そして、光秀は生まれ故郷の美濃に戻り、荒深小五郎と名を変えて生き延びた。

 髄風はその後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国(現在の群馬県)の長楽寺を経て、武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市)に移り、「天海」を名乗った。この頃には、家康にも才能を見い出されて、江戸建設に参画しており、仏教と建築の知恵を発揮している。



 美濃国(現在の岐阜県)の片田舎にある古い屋敷に荒深小五郎は一人で住んでいた。

「なあ、あそこに住んでる爺さんのこと知ってるか?昔は名のある武将だったんだとさ。俺が生まれた頃にこの村に戻ってきたってんだ。優しくて、いろいろ知ってて、村の人からも慕われてるんだよ。川の堤防を作った時も、頑丈に作る方法を教えてくれたんだ。剣術も凄腕なんだってよ。そっちはあんまり教えてくんないんだが。」

「たしかに、武将の風格を感じなくもないが、もう老いぼれだろう。なんでわざわざ帰ってきて、こんな質素な生活してんだ。そもそもどこの誰に仕えてたんだよ。」

「あの人は話したくないようなんだ。村の人たちも詮索しないようにしている。ときどき手紙と一緒に金や食い物や書物が送られてくるけど、その送り主が東のほうに住んでいるってことしかわからないんだ。ときどき、お侍や坊さんが訪ねてくるんだから、まだつながりはあるんだろうね。」

「あ、だれか訪ねてきたぞ。」



 荒深小五郎のもとには二人の客が訪ねていた。

「山崎の戦での利三殿のこと、残念であった。晒し首とは無念であったろう。利三殿の娘、福はそなたに嫁いだのだったな。あの娘を子供の頃からよう知っておる。賢い女子だった。元気でやっておるか。」

稲葉正成は頷いて、言った。

「まさか、十兵衛殿が生きておいでとは。天海から聞いた時は、俄かには信じられませんでした。福の方はご存じと思いますが、山崎の合戦の後、母方の実家である、伯父の稲葉重通の養女となりました。母方の親戚に当たる京都の公卿三条西公国に養育されましたので、公家の素養である歌道・書道・香道等の教養を身につけております。私には勿体なき女子。

なぜ、今、私に素性を明かしたのでございますか。」

「わしも天海殿や古参の忍びを通して世の中の情勢は探っておる。もはや、豊臣家がこの世に泰平をもたらすことはできぬであろう。家康殿がこの国の主としてはふさわしい。そのための手助けをしたいのだ。

そなたは、秀吉亡き後、金吾中納言に使えているそうじゃの。秀吉の甥にあたり、小早川家に養子に行った、あの男だ。あの者は立場的に西軍に着くであろうが、朝鮮攻め際、三成に虚偽の報告をされて減封となった。恨みを持っておるはずだ。調略可能であろう。」

「その前にお聞かせ願いたい。そなたはなぜ信長公を打ったのだ。」

「信長公では、この国は滅ぶと思ったからだ。天下統一を間近にした信長は海を渡り、世界を征服する野望を抱いておった。そのような無謀な行為は国を疲弊させるだけであろう。戦のない太平の世など望めない。そして、もう一つ、彼は足利幕府を亡ぼすだけでなく、朝廷に取って代わろうとした。あってはならぬ、傲慢な行為だ。わしは暗に朝廷から命を受けていたのだ。世が噂するような怨恨や己の野望のためにあの方を撃ったのではない。」

「なんと・・・」

「わしは、家康殿のことを幼少期からよう知っておる。こんなことをしでかしておいて、わしが諸侯の大名の人望を得るなど難しいことはわかっておった。だから、家康殿に天下を取ってほしいと思っていた。伊賀越えの際は、見て見ぬふりをした。だが、結局、わしが秀吉に山崎で敗れてしまったことで、政権を奪い取られた。秀吉はわしが思った通りのことをした。国を疲弊させ、自分の運命も狂わせた。数年前、病で死んだようだが、晩年は不幸だったに違いなかろう。家康殿は江戸に転封されて幸運だった。大陸に出兵することもなく、秀吉から遠い地でしっかり地番を固めたのだろう。」

「たしかに、あの大陸出兵は悲惨でござった。」

「秀吉亡きあとの世の中を治められるのは家康殿だ。秀頼や淀君、それをかつぐ三成は、豊臣恩顧の大名たちを担いで戦を起こすであろう。三成は毛利をかつぐはずだ。毛利勢をいかに調略するかでこの戦は決まる。わしの頼みは、率直に言えば、そなたに調略の一端を担えということである。」

「私も主、金吾中納言の性分はわかっておる、正直、尊敬できる人物ではない。気が弱く、決断力がない。しかし、他の武将と同様に豊臣への恩もある。そう簡単にいくであろうか。」

 天海が口を挟んだ。

「豊臣に世を治める力はもはや残っておらぬ。そなたにもそれはわかるはずじゃ。先々の太平の世を思えば、豊臣勢力をここで一掃するのがよい。家康殿は近々、三成を焚きつけて、合戦を引き起こす計画じゃ。すでに吉川広家は調略に乗った。毛利輝元は己の領地拡大のことばかりで、本気で豊臣家を守ろうなどとは思っておらぬ。今、家康殿に着いた方がそなたとしても将来、恩恵を受けることであろう。」

 小五郎が言った。

「決めるのはそなただ。もし断るなら、わしを切り捨てるがよい。」

「ん、何物だ!」

「ひえー!」

「忍びか!」

「そいつは、この土地の農民だ。おい、佐助、話を聞いておったのか?」

「お許しくだされ、決して、他言いたしませぬゆえ。」

「わかった。黙っていれば、命は取らぬ。今日はこれぐらいでお開きにいたそう。」



 正成は小五郎の依頼を承諾した。

 天海は家康に小早川調略を提言し、家康は黒田長政に実行を命じた。一方、正成も主に西軍離反の説得を試みた。

 そして、関ケ原の合戦を迎えた。山中の霧が晴れた頃、東軍から打ち込まれる鉄砲が合図である。戦う前から勝敗は決していた。それは家康が信玄公から三方ヶ原で教わった教訓に通ずる。

 天海は合戦の数日前に手紙を送っていた。三成が家康の上杉征伐中に、諸大名の人質を取ったいきさつを綴っていた。あのよく似た武者を関が原で見たときに嫌な予感はしていたが、戦のあとあの村を訪ねてみると、小五郎は反乱した川でおぼれ死んだということであった。



 関ケ原の合戦の数日前のこと、天海からの手紙を読むと、小五郎は激昂した。

「三成め、暴挙にでおったか。細川藤孝の息子に嫁いだ三女の玉子は、三成に命を奪われた。

山崎の合戦でわしの誘いを拒否した藤孝殿を恨むつもりはない。おかげで娘も生き残ったのだから。逆に津田信澄に嫁いだ娘はもはや生きてはおるまいが。

 玉子は、反逆者の父を持ちながら、苦労したであろう。後にキリスト教の洗礼を受けたとも聞いた。三成の人質となり、足手まといになるぐらいなら、命を立とうと考えたのじゃろう。三成軍に囲まれた屋敷に火を放ち、壮絶な死に様だったようだ。

 そして、家康殿がついに天下に手をかけた。もうすぐ大きな戦が起こる。それで、この戦乱の世は終息に向かう。戦場はおそらくこの美濃であろう。

わしの子はもう誰も生きておらぬ。わしももう70歳を過ぎた。この戦をわしの死に場所にしたい。憎き、三成に一矢報いてやるわい。」

「お侍さん、本当にあの明智光秀殿なのですね。我らもお供いたしまする。」

「それはならぬ。わしはもう戻らぬから、川の氾濫でおぼれ死んだことにせよ。わしの素性を明かしても良いが、此度の陰謀を企てたことは伏せておくのじゃ。わしのほうな主殺しがかかわったとなると、徳川殿の印象に傷がつくからの。」



 稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者となった。

 福は家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれて、2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。将軍家の乳母へ上がるため、夫の正成と離婚する形をとった。家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・お江与の方の下で大奥の公務を取り仕切るようになる。大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど、大奥を構造的に整備した。春日局として、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。

 関が原以前から、家康の側近となっていた天海は、かつて聞かされていた光秀の願いを叶えるため、ゆかりの者たちを優遇した。山崎の戦いで明智側についた京極氏は、関ヶ原の戦いで東軍につき、大津城に籠城したものの、その後西軍に降伏していたが、関ヶ原の戦いの後、領地を加増された。一方、山崎の戦いで光秀に敵対した筒井氏は改易さている。さらに、光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されている。

 天海は江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策にも大きくかかわる。関ケ原の戦いに勝利した家康は幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。さらに、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わった。

 大阪の陣で豊臣を滅ぼした後、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を天海に託す。

「関ケ原の折の調略、明智殿が仕組んだことなのだろう。」

「知っておられたのですか?」

「そうよ。そなたは、明智殿ゆかりの者たちを優遇したがる。伊賀越えの際もひそかに見逃してくださったのだろう。会いたかったのう。わしの墓の誓くに、明智殿の痕跡を残しておくれ。」

空海は、家康の神号を「東照大権現」と決定し、日光東照宮(現在の栃木県日光市)に祭った。この近くに「明智平」という観光スポットがある。天海がこの地名を名付けたと伝わる。

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