3 水鏡都市ネレウス
他の子供たちと共に、昼ご飯を食べ終えたシオンは絵の提出をゴールデン神父に任せて外出することにした。
神殿は眺望の良い高台にあるため、ここから直線の先、ネレウスの端にある港まではずっと緩やかな下り坂になっている。シオンは下り坂の道を歩き、多くの道が繋がる大通りを越えて、少し先に見える広場にまで歩いて向かった。広場は港に隣接するように設計されており、港からやってきた多くの観光客がおり、賑わいをみせているようだった。
「……多いな」
広場の真ん中には噴水があり、この時間はその側で本を読んでいる人や、談笑している人々が多くなっていた。
シオンはその人たちを横目に見ながら、目的地を変えて港へと歩き続けた。波止場に多くの船が見えると、そこから奥にある人気のない浜辺へと向かったシオンは周りに人がいない事を確認してから、幼い頃に見つけた洞窟へと入っていった。洞窟内は初めのうちは暗いのだが、奥へと進むと徐々に明るくなっていく。
「……久しぶりに来たな、ここ……」
洞窟は光り輝く水があり、おそらく水の底は外へと繋がっているようだ。水は足元の岩肌との際で揺らいでいるように見えた。
「水を覗く事は許されない……」
シオンはじっとかがんで、その光り輝く水を覗き込んだ。
この水の底はどうなっているのかという幼いながらの強い好奇心が彼を突き動かしてしまったらしい。
水を覗くなどの禁忌三原則を犯せば、罰が下るのだと幼い頃に何度もゴールデン神父に言われたのだが、それはどうやってバレるのだろうかとシオンはいつも考えていた。
そうして、ふらっと歩き回っていたら、ある日、この場所を見つけてしまったのだ。見つけた時からすぐに水を覗き込んだシオンの身には何も起きなかった。今でもその事は誰にもバレていないのだ。
今日で水を覗き込むのは二回目になる。
今回は緊張したのか動悸が始まってしまい、呼吸が激しくなった。
すると、汗が頭から額を伝って水の中に落ちた。小さな水の跳ねる音が洞窟内に響いた事でシオンも自身の汗が水の中に落ちた事を悟ったらしい。
「……あ、汗が……水に……!!」
これで水を汚してしまったのではないかと焦りが出たのか、汗を急いで上着の袖で拭うと、顔を上げた瞬間に自分の耳のすぐ横で声が聞こえた。
「……子よ……あ……き……」
「なんだ!? 声が……うわぁ!!」
ドボンという大きな音が洞窟内に響く。
シオンは水の中へと足を滑らせてしまったらしい。
水の中はかなり深く、足もつかなかった為、ますます落ち着きをなくして、次第に息ができなくなっていった。
呼吸が止まり、意識をついになくしてしまったシオンは水の中を漂って底へと落ちていく。
「あら、落ち着きのない子ね……しょうがないわ!」
意識をなくしたシオンの身体は急に下からの水流によって押し上げられ、洞窟の岩肌へと戻された。そうして誰かに胸部を強く押されると、口から水を噴き出して呼吸を再開した。
「……ゴッ……ゴフッ……!!」
「軟弱ねぇ、人の子は」
「ハァ……な、なんか走馬灯が……!!」
「よかったわねぇ、生きているわよ?」
「あ、え?」
シオンと目が合ってニッコリと笑うこの女性は水の上に立っており、神殿にある像とまさに瓜二つの容姿をしていた。
「初めまして、人の子よ。私は水の神ローテ。貴方に呼ばれたから来てみたわ」
「ロ、ローテ神!?」
「うん、そうよ?」
「ま、待って!! いや、待ってください……あの、僕が呼んだっていうのは?」
その問いに頭を傾げたローテ神は不思議そうな顔をした。
「何を言っているの? 貴方がした行動は私を呼ぶ方法に決まっているでしょう?」
「……え?」
「まったくもう、今の人の子は知らないの? 私を呼ぶ方法は3つよ!
水を体液などで汚す、水を長く見つめる、水に手を入れる。
すべて貴方がやったことよ?」
「……水を汚すな、覗くな、触るな……じゃなくて?」
「何を言っているのかさっぱりだわ! まぁ、とにかく私を呼んだのだし、何か授けましょう」
そう言ってシオンに近づいたローテ神はシオンの髪を少し掴んで息を吹きかけた。
ローテ神が息をかけた部分は黒くなり、目の色も一瞬だけ変化した。シオンが瞬きをすると元の目の色に戻ってしまったが、それは確かに見間違いではないだろう。
「これでいいわね! 久しぶりだったから少し緊張したわ。
その力、うまく使いこなしなさいね、《オラシオン》」
「え……なんで僕の名前……!!」
微笑んで突如消えてしまったローテ神に対して、シオンは混乱したまま帰路へついた。
授けられた力についても何も分からないまま、その日は眠りについた。
次の日、起きてからのシオンの世界は全く違っていた。
どう違ってしまったのかというのは主に頭なのかもしれない。記憶を司る海馬の部分の入れ替えが行われたかのように、ベッドに入ったまま、シオンは自室を見回していた。
見知らぬ部屋、見知らぬ景色だったのだ。
「……へ? ここは?」
見知らぬ部屋にいる。几帳面に整えられた着替えがベッドの上に置かれているし、全身鏡までピカピカである。
「ん? これ……俺か!?」
シオンはその全身がうつる鏡をがっしりと掴みながら、自身の容姿に驚きを見せた。
「……わ、若返った、少しだけ……しかも、顔がよすぎる……うーん、これが異世界転生ってやつか……!?」
混乱しすぎたのか、逆にかなり冷静に分析をし始めたシオンは机に寄りかかって腕を組んだ。いつもなら机に寄りかかるなど「はしたない」とやらないシオンだったが、今日はナチュラルに腰を机に預けていた。
「俺は死んだんだろうな。恐らく。ここの記憶は……なさそうだな。
どこだ、ここは……とりあえず着替えて様子見でもするか……?」
ブツブツと呟くシオンの中身は死後にこの異世界に転生した大学生である。
名前は夏目湊。
死んだ原因は分からないが、こうしてシオンとして転生した男性である。
「おーい、シオン? まだ起きていないのかい?」
自室の外からノックと共に声が聞こえる。
ユートが起きてこないシオンを心配して、見に来たらしい。
シオンとなった湊はどう答えるべきかとても悩んで、ついに答えを出した。
「あ、今、起きました! 大丈夫!」
そう言った数秒後、バンという音を立てて、シオンの部屋の扉は無理やり開けられる事になる。
「シオン!? どうしたんだい!! 熱でも……」
扉をこじ開けた犯人はシオンの顔を見るなり、呆然と立ち尽くした。
「シオン、君、一瞬、目が……いや、見間違いか……待って、髪までおかしい…それはイメチェンかい?」
「え? 何処かおかしいですか?」
シオンの問いかけに益々顔を青ざめていくユートは我慢ならなくなり、部屋を飛び出して急いでゴールデン神父の元へと向かった。
この間、ユートが大声で騒ぎながら走り回ったせいで、事は大事になり、シオンの自室にはゴールデン神父や子供たちに加えて、ネレウス一の医者まで駆けつけるという事態にまで発展した。
しかし、自身がシオンという名前であることや、ここが神殿である事などの細かな異世界情報が、周りにいる彼らからの質問のおかげで判明したというのはとても運が良かったと言えるだろう。
「シオンくん、君は恐らく記憶喪失かもしれないな……」
「はぁ……そうなんですか……」
「え、記憶喪失ですか!? そんな……シオンの記憶は戻るんでしょうか?」
落ち着いているシオンの反応とは真逆の反応を示すユートに若干ビビりつつも、医師の返答を待った。
記憶喪失だなんて滅多になれないレアな病気だと興味があったのだ。
(転生という特殊ケースにおいてはレアじゃないんだけれども…)
「いやぁ……どうでしょう……私には断言できません。なので、戻らない可能性もあることを視野に入れておいてください」
「そ、そんな!! シオン、可愛そうに……大丈夫だ。俺がいるからな……」
「え……っと……」
顔が縦長になるほどきつく抱きしめられているシオンは先程から様子のおかしいユートに頭を抱えていた。一時間前に医者から記憶は戻らないかもしれないという話をされてからと言うものの、彼は落ち着きがない。
「ここがトムの部屋で、ここが俺の部屋で~!」
何も言わずともずっと側で説明し、あれがなんだとしゃべり続けている。
「あ、あの、ユートさん……」
「ここが……うん? どうしたんだい、シオン」
「色々とありがとうございます。でも、神殿内はもう分かったので……大丈夫です」
「え、あぁ……分かったよ……うーん、あとは何処が聞きたい?」
「えーと、今はいいです」
「……分かった! そうだ、お腹空いているよな? 食堂に行こうか!」
「あぁ、それは助かります、バタバタだったので……」
そう言うとニコニコしているユートに引っ張られて、そのまま食堂へと連行された。
食堂ではパンとかぼちゃのポタージュを腹に入れ、もう自室に戻れるかと思いきや、神殿の裏庭へと移動する事になった。
「ここで……絵を描くんですか?」
「そうよ、絵を描くのよ!」
カレンはシオンの定位置に椅子を持ってきて、座ってくれと目配せした。
(絵を描く……食堂ではどんな絵だって言っていたか……確か、この国で信仰されている水の神ローテについてだったかな?
不思議だな、神の絵を描くなんてさ……そんなん描いてどうするんだろうか?)
椅子に座ってから、数分ほど構図を考えているものの、いい案が浮かんでこないシオンはどうしたものかと頭を抱えた。
周りの子供たちは真剣に絵を描き始めているようである。
シオンはずっと鉛筆を握りながら考えていたので、一旦鉛筆を置いてキャンバスを眺めてみる事にした。
すると不思議な事に桶に入っていた水が線のように宙に浮かび出して、キャンバスの上に張り付くように広がっていた。そして、その水が勝手に色を現し、それが段々と形になっていくのだ。
「……えっ!?」
つい驚きで声を上げてしまったシオンは即座に手で口を覆った。周りには他の子供たちがいるのだから、声を上げては目立ってしまうだろう。
驚いている間もずっと水は勝手に絵を描き続け、数秒もかからずに完成してしまった。
(これは、俺の能力なのか!? 水を勝手に動かせるのかな……使いどころが分からない能力なんだが……)
シオンは完成してしまった絵を前に少し安堵している事もあった。
何故ならそれは……夏目湊は画力が0だからだ。恐ろしいほどに絵が下手すぎると友人たちに言われてきたという実績があるほど下手なのだ。
(ある意味、助かったのかもしれないな、俺……画力0だからな……。なんか悲しくなってきた)
シオンは周りを見ながら自身の絵(能力で描いた)と他の人の絵を比べてみると、なかなかこの絵は他の子の絵とレベルが違いすぎるのではないかと不安になった。
(……とにかくこの綺麗な手のままでは違和感を持たれるだろうな……どうしようか……あ、水……)
シオンは思いついた方法を試してみることにした。
桶にはたっぷりと水が入っている。そこへ筆を持ちながら、あくまで自然に手を突っ込んだ。水から手を上げてみると思った通りに色が付いた。
青に色づいた片手をじっと見つめていると背後から声をかけられた。
「おや、記憶喪失でも、やはり絵の描き方は忘れないのですねぇ……」
「……う、び、びっくりした……」
背後から現れたのはゴールデン神父だった。
(……この人はゴールデン神父だな……謎が多そうな人だなー)
「シオンはやはり絵が上手いですね。今日もよく描けています」
「ありがとうございます……」
「完成したなら手を洗ってきなさい、あの先に井戸がありますからね」
筆はいいからと言って、井戸へと促されたシエルはゴールデン神父にお辞儀をしながら、指をさされた方へと向かってみた。
井戸はこじんまりとした庭の一部にあるらしく、レンガの壁で作られたスペースに囲まれていた。壁にドアはなく、誰でも入れそうな空間だ。
「井戸、これか……」
井戸の底を覗き込むと、底にはパイプのようなものが見えた。
(パイプ?……湧き水じゃないのか? まぁいいや、汲もう)
重い桶を必死に汲み上げ、能力によって色づいた手を綺麗にしようとしてみるが、なかなか落ちない。石鹸も近くにはなさそうで、どうにもならない。
(困った!! どうするんだ、これ? 落ちないぞ……)
必死に手を動かしているものの、色は消えない。
「どうした、シオン、そんなに手を洗って……?」
「あ、いや、これは俺の……」
「俺?」
「あ、えっと、僕! 僕の手についた絵具が落ちなくて……」
「えのぐ?」
「うん……」
水の音に気が付いてやってきたユートは不思議そうな顔をしながら近づいてシオンの手を見つめた。
「ついてないよ、もう」
「え?」
「よく洗ったからじゃないかな? もう綺麗になってるよ」
ユートはシオンの手から目へと視線を移した。
「……シオン、目の色が……青に……あれ?」
ユートはシオンの目の色が緑から青に変化していたのを見たが、瞬きをした瞬間に戻ってしまったようだった。
気のせいかなと口をつぐんだユートは真顔から笑顔に戻った。
「……本当に落ちている……」
「さ、俺も絵を描き終えたし、午後からは暇だし! 一緒に出掛けようか!」
「出かける?」
「あぁ、広場へ行こう! そうすれば、少しは思い出すかもしれないし……」
寂しそうな顔をするユートの側で複雑な面持ちのまま、シオンは共に裏庭へと戻っていった。
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