1 水鏡都市ネレウス
穏やかなある日の早朝、天から降り立つ白い輝きが島を両手で包み込むと、渡り鳥の高らかな歌声が讃美歌と共に神殿内へと響いていく。千里先まで見渡す限りの水に囲まれた島国【スーペリア】の南、水の神「ローテ」と芸術を称える水鏡都市【ネレウス】にある、この静寂なる神殿ではゴールデン神父による祈りと、神殿周辺に住む子供たちによる讃美歌が行われていた。現在は朝の祈りを、つまりは日々我らが生きるうえで絶対神ローテの加護を受けている事への感謝と忠誠を神に伝えている時間だった。
ゴールデン神父の目前だろうか、存在感のあるローテ神の石像が中央奥に立つ祭壇の前に建てられていた。この像はスーペリアの統治前からいると言われている島の先住民「カードン族」によって造られたと古き歴史書物にて書かれているが、これが事実かどうかは未だ定かではない。
そして、スーペリアの国民が信仰する水の神ローテは女性体であると言われている為か、この神殿の石像も水の中の岩に腰かけているスタイルの良い女性だった。
神殿内、ゴールデン神父が祈りを捧げている横で、讃美歌を歌う子供たちの中にひときわ目立っている子供がいた。皆からシオンと呼ばれている十一歳の男の子だ。一人、歌う事を忘れ、視線をローテ像に奪われてしまっている彼は幼い頃から芸術的なセンスが鋭いところがあった。彼が今、一心にローテ像の腰から足先までの曲線を見つめているのもそのせいだろう。
(……腰布から足の先までに彫られている細い一本の線は女性特有のラインを強調する為だとすると、余計な線を入れすぎない事が大事なのかも……線に意味を持たせる事で……)
シオンは讃美歌そっちのけでずっと物思いにふけっていた。そんな彼の存在は周りにいる子供たちからしても、ゴールデン神父からしても目立つようで、みな彼の顔をチラチラと見て、呆れた表情をしていた。シオンのこの状態は讃美歌を歌い終わるまで続いた。
長い讃美歌をやっと歌い終わった子供たちは神父と共に神殿の正面扉を開け、迎えに来ていたそれぞれの親元へと帰っていった。
しかし、シオンは帰らない。シオンは正面扉から下へと降りる階段に座り、他の子供たちが嬉しそうに親と帰っていくまでの後ろ姿をじっと眺めていた。
それについてシオンはまったく寂しくも悲しくもなかった。神殿ではゴールデン神父を父とし、赤ん坊の頃から家族のように皆で過ごしてきたからだ。シオンも彼らと同じようにこの神殿で生きている一人だった。
「シオン、今日はかなり魂が抜けていたみたいだけど、何を考えていたんだい?」
神殿の扉から出てきた青年はシオンの隣に座って、朝日を受けて眩しそうに目を細めている。
「いつもと変わらないよ。心ここにあらずって感じなのは僕だけじゃないし……ユートなんて、いつも讃美歌の時間は寝てるじゃん!」
ふくれっ面でそっぽを向いたシオンを見て、軽く腹を抱えたユートは息を整えてから「揶揄っただけだよ~」と叫んだ。
ユートはシオンと同じように神殿に拾われ、十九歳になった現在ではゴールデン神父の手伝いに加えて、ネレウスの第二位商会「ディオニュソス」の構成員の一人として働いている。
「……そんな事より、今日は仕事ないの? いつもは朝から出かけてるじゃん……」
「あぁ、今日はないよ。だからこうして久しぶりに可愛い弟と過ごしているんじゃないかぁ~!!」
「うわ、ひっつくな、暑苦しい!!」
「本当は嬉しいくせに~シオンはほんとツンデレだなぁ~!! そうだ、今日は一緒に絵を描けるね! 今日はどんな構図にするんだい?」
「……今日は右手を上げながら水浴びをしているローテ神にしようと思ってる」
「何故右手を上げているんだい?」
「……少しでも近くに感じる為に……」
言葉を継がなくなったシオンの顔をユートは何も言わずに見つめ続けていた。シオンは常にこんなふうに押し黙ってしまうことがある。これは言葉を選んでいるのではなく、考え込んでいるからだ。彼の思考回路は常に頭に浮かび上がってくる次の疑問へとシフトチェンジしていく為に、例えば思考中にユートが発した言葉などの外界からの刺激があったとしても、それに反応を示すことはないわけである。つまり、考え込んでいるシオンとの会話は不可能なのだ。
「……あ、えっと、なんだっけ?」
「……さて、まとまったかい? 俺が聞いたのは右手を上げている理由だよ」
「……えっと、水と天はまさにここから見えるネレウスの景色のようだから、ローテ神をスーペリアに見立てて、上下の繋がりを示しているんだ。分かる?」
シオンからの問いかけにユートは困り顔を浮かべた。シオンの見ている世界はユートには理解しにくいようで、神殿のある高台から見えるこの朝日に照らされる美しい水面の輝きも、目下に広がる閑静で鮮やかな街並みすら彼の目には映っていないのだ。
「……俺にはよくわからないが、シオンが天才なのはよくわかっているよ」
薄い微笑みを隠さずに、シオンの頭を撫でるユートに戸惑いを隠せないのは、やはり愛情表現を受ける事にまだ慣れていないからだろうとシオンは思った。幼い頃から兄のような存在でいてくれているユートへの感謝はあるものの、気恥ずかしい為に素直になれないでいる。しかし、家族のような愛情を受けているこの瞬間だけは無抵抗になる。正確にはユートの満足そうな顔を見ていると、兄という彼にとって重要な人生の役割を奪ってはいけないような気がしてくるのだ。
少し撫でて満足したのか、手を下ろすとユートはその場で立ち上がった。
「さ、そろそろ中に入ろう。絵を描かないといけないし」
ユートが神殿の方を向きながら、手を差し出しているのを見て、シオンはその手を掴んで立ち上がった。神殿内に二人で入ると、中には誰一人いなかった。
二人は真ん中の通路を歩き、左奥にある扉を開けた。この先は自分たちの居住スペースになっていて、階段で二階へと上がる必要があった。
二階には談話室がある。入ると暖炉の前にカティとカレンがおしゃべりしていた。カティはユートと同じ時期に拾われた子で、ここでは姉のような存在だった。カレンはシオンの一つ下のおしゃれ好きな女の子だった。二人はユートとシオンが来た事に気が付いて振り向いた。
「あら、おかえりなさい。二人してどこ行ってたの?」
カティはおそらくユートに向けて首を傾げた。
「ちょっと外に出てたんだ。もう時間だったかな?」
「そうだったのね。大丈夫。でも、準備しましょう」
時計を見ながらユートは頷き、奥の自室のある通路へと向かった。
それに続いてカティも自室へと戻っていったのだが、シオンは何故か談話室の窓の側にある椅子へと腰かけた。
それを見て、立ち上がったばかりのカレンは不思議そうに声をかけた。
「あれ、シオンは準備しないの?」
「僕はもう準備終わってるから」
「え、早くない!?」
「……早く準備しに行きなよ」
そうだったと、慌てて自室へと戻っていくカレンの足音が聞こえなくなると、シオンは椅子から離れて背後にあった窓を開けた。
何故か昼前までは冷たい風が吹くというネレウスに住む人々は窓を開ける習慣がない。窓を開ける事はタブーなわけではないのだが、窓は開けないものだと刷り込まれているのかもしれない。
窓を開けないせいか、ネレウスではデザイン性に長けた窓が誕生した。それはステンドグラスのように色鮮やかで個性がある。デザインはその家によって様々だ。
今まさにシオンが開けた窓もそうだ。神殿の特色が全面に出ているのが一目でわかる設計になっているのだ。
シオンは窓を開けるという行為を何とも思わずにいた。彼が絵を描くのに必要だった景色は昔からここにあったからだ。これはすでに日課となっていて、一人の時に必ずこの窓からの景色を見るようにしていた。こうすると格段に絵が描きやすくなるのだ。
日課を終えたシオンはすぐに窓を静かに閉めた。そして、椅子の後ろに隠しておいた画材を手に取り、下の階へと降りて行った。
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