幸せの条件
日ごとに日は短くなり、例年になく冬が早く、まさかの大寒波に襲われた。どれほど急いでも、一日に進める距離は知れていた。雨が少なかったせいか乾燥がひどく、今迄に経験したことのない高熱の出るたちの悪い風邪が、巡礼団に蔓延した。
リチャードとコンスタンス姫は例によって対策を練った。天文に明るい姫は、
「なぜこうなったのか理由は分からないけど、この寒波は続くし、もう心地良い秋の日に戻ることはない。冬に突入してしまったと思う。」
と判断した。暦と違う現象は時として起きるのだ。寒い屋外で過ごす事など慣れていなかった彼女は厚手のコートを着ていてもブルッと震えた。
「では、暦の上ではまだまだ楽しい実りの秋が続くはずだが、我々は事実上冬のさなかに旅を続けるといことか?」
「残念ながら」
リチャードは地図を眺め、
「大きな街がここを通過するとしばらくない。万一に備え、毛布とハーブを買いたそう。できれば保存食も」
乳母が金切り声を上げて反対するだろうが、姫が思い切って英断を下した。
「いいえ、厳冬よ。そんなものでは足りない。ここで私の持参金の銀器を売って、百人分の毛布とハーブ、保存食を買いたしましょう。あまり考えたくないことだけど、病人運搬用の馬車がもっと必要なこととなるかもしれない」
リチャードも地図を穴のあくほど見つめた。見なくてもよくわかっていた。買うチャンスは一度しかない。ここから先は小さな村しかなく、自分達の冬越しで手いっぱい、他人に売るほどの備蓄はないだろう。この大きな街であればこそ、銀器の価値の分かる豊な商人も多く、交渉も可能なのだ。全員で生きて英国に帰るには今の巡礼団の冬の装備ではこのけた外れの大寒波は越えられない。万一に備え少しでも多くの毛布、ハーブや食糧それに何より病人運搬用の馬やロバと馬車が必要だった。馬やロバはやたら値が張るのだ。
暗殺団に馬を射られて失いもしたが、連中を撃退して連中の馬を奪ってやったから、今必要な分はあるのだが、この高熱の出る病気にかかると、相当屈強な男でも動けなくなってしまうのだ。しかも感染力も強い。寝たきりとなり馬車での移動を余儀なくされる者も増えるだろう。だが、姫の持参金を使うのは気が引けた。
「その通りだが、あなたの持参金を使うなんて」
「大勢の命がかかっているわ。今、使わなくていつ使う?」
リチャードはためらったが、百人分をまかなう資金はそれ以外にない。
「すまない。街と店の名、売値を記帳して、買い戻せる日が来たら必ず買い戻す」
彼女は兵士達が銀器を積みこんだ荷馬車に、日頃愛用していた水を入れる銀の壺に銀食器、銀の櫛や鏡などの日用品も何のためらいもなく加えた。姫の手元から銀器がすべて消えた。
「これも今使うときだわ」
花婿になるはずだった葡萄酒売り老人からもらった巨大なルビーのついた黄金の指輪も取り出した。
大聖堂で皇帝の姪の指にはめてやるのを夢見てバカ高い値段だったが、つい買ってしまったよと言って検問で別れた時笑ってくれた。王族が権威の象徴として身に着けるのにふさわしい逸品だ。皇帝もこれほどのものは身に着けていなかったと記憶する。
「王族の実の証になるようなものではありませんか」
リチャードがあわてて止めたが、彼女は断った。それどころかいつも耳に着けていた大ぶりのエメラルドのイヤリングも外して渡した。母親の形見でお守りだった。
「それはいけない」
「目印などなくても母はいつでも青空から見守っています。この先の小さな村ではこれを出しても何も買えない。さあ、早く!」
「行ってくる」
リチャードが女王陛下にするように礼をとってから、ひらりと馬に乗った。目に光るものがちらりと見えた。
「出発する! 少しでも高く売り、本式の冬越し用の百人分の毛布、ハーブ、保存食、病人搬送用の馬、ロバ、荷馬車を買い込む。これだけ買うんだ、少しくらい脅しても構わない!」
ダニューブ河で水浴した頃から使っていたあの銀の櫛! ダンスの夜もしていた黒髪に映える大ぶりなエメラルドの耳飾り。美しい顔を映していた素晴らしい細工の銀の鏡、迷いながら泉の水を汲んだ銀の壺・・・姫に相応しいものばかりだったのに何と言うことを!情けなくて歯をくいしばっていないと、泣き叫んでしまいそうだった。
「あのエメラルドの耳飾りはお母様の形見でしたよね。しかも姫様もお気に入りの」
「わかっています。でもこれからもリチャードのためならなんだってします」
姫は苦言を呈しようとする乳母に先手を打って、女主人として宣言した。
「つける薬が無い」
離宮とはいえ、かつてこれ以上美しい宮殿はないと言われた宮殿に住んでいたこともある二人の女は銀器を積んだ兵士達の馬車を見送った。
姫の満足そうな幸せのため息が聞こえた。彼女は出発の際にリチャードが彼女の耳飾りにそっと接吻し、十字を切ったのを見たのだった。誓い言をしたようだった。凍えそうな寒さで青白かった彼女の頬が急にバラ色に染まったのは、彼女が感謝の接吻を直接自分の耳に受けたことを想像したからに他ならなかった。まったくもってつける薬が無い。
我が姫君は論理明快で大胆で実行力もあるあたり、なんと父親似だろう。男子だったら皇位継承に相応しい人物だったと常々思っていたが、人も羨む王冠を蹴りとばして、自分の好みの男をとるのは地中海のバラとも真珠とも謳われた母君ユージニー様の血か。
乳母は姫の母親ユージニーのことを思い出した。彼女は母、娘二代にわたって乳母兼教育係として仕えたのだ。
ユージニーの実家は名門とはいえ北イタリアの一領主にすぎなかった。生まれた姫が幼少のみきりからその美しさが際立っていたので、両親が皇帝妃にと考えたのも無理はなかった。よその姫君に先を越されぬうちにと、彼女がまだ七才になったばかりだというのに当時二六才だった皇帝に紹介したのだった。乳母はこれからの時代に女性でも必要なこととして教師として、ユージニーに高い教養を身につけさせ、自分の意見をはっきり言うようにしつけていた。それがこのような場で裏目に出たことはいうまでもない。なんといっても七才なのだ。皇帝の家族として紹介された彼と十才違いの腹違いの弟の方に向かって、
「私、この人と結婚する!」
とやってしまったのだ。十六才とはいえ優秀の誉れの高い後に夫となる彼は、状況をわきまえており、両親の期待を一身に背負い宝石で身を固めた小さな姫君に優しく言った。
「君、皇帝はあっちだよ。皇帝妃に君臨するためには、皇帝を選ばないと。僕は一生控えの選手で、そこらへんの一貴族にすぎないんだよ」
「ううん。私はこの人と結婚するの。いいでしょ? お父様、お母様?」
周りの者が全員硬直したのはいうまでもない。
皇帝が自分の名誉を少しでも傷つけられたと感じた時の仕打ちのひどさは知れ渡っていた。同席していた執務官がなにもこんな幼子を殺さなくても、と言ってとびだそうとした時、
「弟よ! 結婚相手が決まって良かったな。私には子育ての苦労を背負う気はない」
皇帝からその場で弟君との結婚の許可がおりてしまった。よくその場で皇帝侮辱罪で処刑されなかったと思うが、彼が皇帝妃の地位、権力を秤にかけられぬ七才の幼女を処刑するのを思いとどまったのは、あまりにも人聞きが悪いからというのもあるが、弟に莫大な富、権力をもたらす野心満々の大貴族の嫁が来る危険を防ぐという意味があったのだ。莫大な富を持つ嫁は自分がもらえばよい。弟には名門だが小領主、野心なし、うってつけだ。さっそく二人を結婚させて、権力の座から遠く離れたイタリアにある夏の離宮に住まわせた。先帝の死後、母親が隠居して住んでいた小さな宮殿で、母親が亡くなったのでちょうど空いていたのだった。
何をやっても臣下からさすがですねといわれる優秀な弟を自分の王宮、権力の座から遠ざける意味もあった。前皇帝であった晩年の父の心をたぶらかした美しい女は実は教育熱心で、自分の息子に一流の学者を家庭教師として付けて、きちんと教育していたのだ。おかげで面倒な仕事はすべてこの弟にやらせることができた。おまけにこの賢い母親に言い含められているのか、皇帝の座への野心を見せたことはなかった。
だが優秀で勤勉な弟を離宮に追いやるとすぐに困り、彼を仕事のために呼び戻し、いつものように手柄だけとって、えばるのは自分という都合のよい分業に徹した。
先代の皇帝たちの戦争による領土拡張政策のつけで、借金がかさみ、軍を維持する費用もばかにならなかった。通商貿易で稼ごうにもしたたかな商人達は御し難く、外国との交渉も進めようとすると、弟君はあまりの忙しさに執務室の隣の控室に寝泊まりしていた。
離宮に取り残されたユージニーはといえば、この弟君の心遣いで乳母のほかに音楽やダンス、乗馬や外国語を教える専門の家庭教師達と共に楽しく暮らしていた。何の不自由もなかった。離宮は小さいながらも今は亡き先帝妃のこだわりで、家具、調度、建物の細部まで繊細な美を讃えており、姫君の教育の場として相応しく、オレンジがたわわに実り、孔雀の遊ぶ庭園や噴水は、この世で一番美しい宮殿、地上の楽園のようと讃えられていた。
「私の小さな姫君は何の欲得も関係なく私を選んでくれた。」
ナンバーツーの地位でもいいからという縁談の申し込みは彼の側にも沢山着ていたのだ。
たまに弟君が、帰ると、一緒に乗馬をしたり、楽器演奏を楽しんだり、そのかわいらしい歌声を楽しんだりした。
最初は仲の良い兄と妹と言った感じだったが、彼女が一二才になる頃には、その美貌は息をのむほどだった。彼は乳母に少し照れながら言った。
「本当に結婚してよいのはいつからなんだろう?」
美貌の妻にそっくりなコンスタンス姫が誕生した時の彼の喜びようと言ったら!
出入りの商人などを通じて、地中海一美しい、地中海のバラとも真珠とも喩えられるようになったのはこの頃からだった。出入りの商人達はこぞって宝石や豪華なドレスをユージニーに献上し、次の外国大使の接待や舞踏会などで彼女が誰の献上したドレス、宝石を身につけるかを競った。国一番の極上の美人に選ばれる商品を俺様は扱っているだ!
教会や慈善院への寄付も怠らない彼女は臣民の評判もよく、その美しさもあり、彼女を一目見ようと彼女の行く先々で人々が殺到した。
現皇帝は仕事もせずにハーレムに入り浸っているわりに、子供ができなかった。莫大な持参金をもたらした彼の妻は謎の死を遂げていた。商人達の間では公然と弟君夫妻が次期皇帝と皇帝妃という認識があった。
外国公使との条約交渉などは弟君が、その接待を彼の教養ある美貌の妻ユージニーが仕切っていた。
ユージニーには弟と別れ、皇帝妃にならないかという皇帝からの内々の申し出がきた。彼女は幼児の頃とは違い、立場をわきまえており丁重に断った。その晩だった。反逆罪で軍隊がさしむけられたのは。
離宮は大砲を備えた軍事要塞ではなかったため、護衛の兵士などがいるにはいたが、ひとたまりもなかった。皇妃としてくるなら命は助けるとの内々の打診もあったが、彼女はそれも拒んだ。子供を助けることを条件に、彼女は夫とともに死ぬことを選んだのだった。
地中海一の美女は同じ王冠を二度蹴りとばして、二度とも同じ男を選び、著名な詩人に世界中で一番美しいと詠われた宮殿ごと焼かれて果てたのだった。
愛に生き、愛に死んだ。皇帝のかかえるハーレムの女達のように、愛よりも地位、権力、富を愛し、それを持つ者に媚びへつらう生き方ができたなら生きながらえていたであろうが、母娘そろってそういう計算は出来ない。今にして思えば、そんな風に乳母である自分が躾けてしまったのだ。
コンスタンス姫は乳母はもちろん、この度の風邪は危険だからというリチャードの制止をも振り切り、彼を手伝った。彼の助けになるのなら、命すら惜しくはなかった。彼女の毛布は患者の体温を維持するだけでなく、愛され、大切にされているという気持ちの点でも絶大な威力を発揮していた。
「姫様、ありがとうございます。」
「私達のために櫛や耳飾りまで売り払ってくださったそうで。」
普段屈強な男ほど情けなさそうに涙ぐんで言った。片手で薪も割れちまわー、の自分に限って、腰が立たたず、馬車で搬送される日が来るなんて想像すらしたことが無かった。そんなすまなさそうな顔を見るたび、彼女はお茶目に言ってのけた。
「丁度、飽きたところだったから。それにもうここは毒殺の心配がないから、銀器で食事する必要もないしね」
もしまだ金があっても英国に皇帝献上品のレベルのものなど無いことは誰にもわかりきっていた。もしあったとしてもリチャードにはすぐには買えないだろうということも。ただ、彼がいつか必ずと、ずっと心に誓って頑張るだろうということは分かっていた。彼女がその気持ちだけでうれしいのだろうということも。
思わぬことも起きる。巡礼団の中の銀細工職人と家具職人が、
「道中で仕入れた金銀の商品は我々も馬代の足しにと寄付してしまい、手元には家具用の木材しかないのですがお役立て下されば幸いです。」
といって木製の細工の細やかな洗面用具一式と食器一式、そしてとびきりの櫛を献上してくれたのだ。その櫛たるや銀であれば本当に皇帝に献上できそうな華やかな逸品で、彼女の好きな薔薇の花が一面に彫られていた。一流の細工と言っていいだろう。心が慰められた。
リチャードと姫は移動を続けながら必死に看病して回ったが、どのハーブを使って見ても効き目がない。途中で大きな修道院があったので、そこで治療法をきいたが、そちらでも同じ風邪が流行しており、これといった効き目のあるものがなく、病室も病人であふれており、死者も出始めており、祈るしか手が無いと言われた。
ついに巡礼団の中でこの病による最初の死者がでた。高齢の裕福な商人夫婦で、夫が逝くと、妻も持ちこたえていた気力がガクッと落ちたようだった。彼女は看病にきたコンスタンスの手を握った。かつての高熱が信じられぬほど死者のように冷たく、脈が弱くなっていた。
「あなた、リチャードはいい人よ」
「ええ、そう思います」
「では、なぜ結婚しないの? 彼の気持はわかっているわね?」
「ええ。でも、その、あの、何と言うか・・・」
明晰な彼女が言い淀むのは珍しかった。
「リチャードがまだ結婚の申し込みをしてないのね?」
「ええ」
「彼のことだからあなたに持参金を使わせてしまったことを気にしているんだわ。自分に厳しい人だから、あなたに結婚を申し込む資格がないって思っているのかもしれない。でもこの度の寒波も病気の蔓延も、彼のせいでも、彼一人の力でどうこう出来ることでもないわ。あなたたちはお似合いよ。いつも助けあうかわいらしい小鳥のようだって思っていたの。女から結婚を申し込んだらいけないって法律はありませんよ。彼を支えてあげてね。彼はいい領主になりますよ。私にはわかるの・・・。せっかちなあの人が呼んでいるようだから、そろそろ行くわね。私、幸せないい人生だったわ。夫のジョージと一緒にエルサレムも見れたし。私の人生の唯一の心残りは幸せで輝くあなたの花嫁姿が見られなかったことかしら」
もう一度彼女の手を行くからね、頑張るのよ、と合図するかのように握るとすっと力が抜けた。数分前に逝った彼女の夫も逝く際に、彼女にウインクして言った。
「うちに娘はおらんがね。リチャードとの結婚なら許したね。何をやらしても優秀な男だ。自慢の婿と言って友人達に自慢し歩くね」
彼女は堪え切れず声をあげて泣いた。みんな、優しすぎる。神はなぜこのような試練を与えるのか。どうしてこんなことになってしまうのか。どうして何もできないのか。
翌朝、コンスタンス姫が気分が悪いと言って、起きられなかった。乳母がすかさず姫の額に手を当てると、ひどい高熱だった。
「隊長!」
乳母が彼を呼びにゆき、彼も飛んできた。額に手をあてた。最も恐れていたことが起きたのだ。この風邪の感染力は相当なもので、家族の誰かがかかると、隔離して食器も別々にしない限り、他の家族に感染した。彼女も隔離する必要があった。
「私たちを引き離さないでください。姫様の看病は私が責任を持って引き受けます。もとより、運命を共にするように、母君様から仰せつかっておるのでございます」
「わかった」
乳母が水を汲みに席を外した時、突然、天幕の隙間からすっと手が出て、すぐに引っ込んだ。あの繊細で長い指先に見覚えがあった。
「リチャード!」
急いで隙間から覗いたが、もう彼の姿は見えなかった。あとには小さな野の花の花束と紙切れが残されていた。紙は大変な貴重品で、彼が大切にしている国王提出用の会計報告書の最後のページあたりを引きちぎったものに違いなかった。
「君に会えなくて死にそうだ!」いつものスペースを無駄にしないように慎重にきっちりと真横に書かれた几帳面な文字ではなく、斜めに一気に、気持ちをぶつけるように書いてあった。
「本来姫君には気の利いた脚韻詩を献上すべきと分かってはいるが、そんな小賢しい表面的なことでこの気持ちは表しきれない!」
「ああ、リチャード! 私も早く会いたい!」
彼女は乳母に見つからないようにリチャードの手紙を小さく畳んで胸にしまった。小さくても香りのよい花束はバラして聖書のページにはさみ、押し花にし、自分の顔のすぐ隣、よく見える所に置いた。良い香りが漂ってきた。彼女は聖書の上にそっと手を置いた。
ダンスの夜が思い出された。彼の深い葡萄酒色の瞳、繊細だが時に力強い彼の手。人ごみの中、宿屋に送ってくれた時、はぐれたりしないように手を繋いでくれた。彼の手が彼女の腰に回っていた時もあった。何人目かのしつこい男を決闘すると言って断った時のリチャードときたら、むきになって、犬みたいに喧嘩しそうになっていた。思い出すと自然に微笑んでしまう。無礼講の夜とはいえ、乳母がいるので何ができたわけではないが、彼の胸に抱かれて隣で眠るのはどんな感じなのだろうか。彼の手紙を再び取り出し、まだ彼女がこの旅に加わって間もない頃に彼が作ってくれ、首から金の鎖でつるしている日時計型の指輪を左手の薬指にはめた。指環は相変わらずゆるゆるだった。彼女は微笑んだ。あの頃の彼はまだ他人行儀でおずおずといった感じだったが、今は彼女を命がけで守ってくれる心から信頼できる、頼りになる男だった。今はっきりと感じる。彼を愛しているのだ。彼と結婚したいと心から思う。彼とそっくりのかわいい赤ん坊をこの手に抱くことができたらどんなにうれしく、誇りに思うことだろう。
同い年の修道女マリアンヌの話を思い出す。彼女は愛らしい娘で、髪をベールで覆っていても、くりっとした瞳とバラ色の頬のかわいい顔立ちをしており、どれほど夫に愛されていたか容易に想像がついた。
「独身時代の夫はね、女の子達にすごく人気があって、私一人のものではなく、みんなのものだった。私は内気で、彼を遠くから取り巻く女の子の一人にすぎなかった。でもそんなある日、彼は私の前に現れて、膝を折り、私に正式に結婚を申し込んでくれたの。夢じゃないかしらって思ったけど、私、震えながらも、お受けしますってちゃんと答えたの。すると彼は私の手に口づけして、彼の家に母から花嫁に代々伝わる指輪をはめてくれたの。大きくて立派なルビーだった。それを見て私が彼の赤ちゃんを産み、育ててゆく者として選ばれたんだって実感できた。ふと気がつくと私は彼の腕の中にいた。彼に口づけけされると膝ががくがくして、気を失ってしまったの。彼の腕の中で気がつくと、再び彼の口づけが。すごく優しくしてくれて、人生の中で一番甘美な思い出なの。」
財産目録だけで決められた私の結婚と違い、なんと愛情に満ちた結婚だろう。そういえばあの老人は持参金が盗られたと聞いて、すぐに私を要らないって宣言したのよね。リチャードならば、私が地位も財産もない一介の巡礼者の一人であったとしても、やはり命を賭けて守っただろうし、妻を一生大切にするに違いなかった。
リチャードが首に下げている小さな革袋に彼の母親の形見の指輪が入っていると聞いていた。宝石が小さすぎて価値はないと言っていたが、大切な家族の思い出で、彼が結婚を決めた時、相手に贈るつもりであるのに違いなかった。彼にとってとても大切なものだとわかっていたので、見せてもらったことはなかった。
いつの日か彼が愛の告白と共にその指輪をはめてくれる日を夢見ていた。
この風邪に倒れたのが、彼でなくて本当に良かった。彼が倒れてしまったらどんなに心細いだろう。英国までたどり着けないにちがいない。治る者もいるのだ。気を強く持とう。
集団感染の危険があるので出歩くわけにはいかないが、彼の焚き火の所で二人だけですごす時間が恋しかった。回復したら、乳母が何と言おうと、彼に結婚を申し込もう。
あのダンスの夜、宿屋まで送ってくれて部屋の前で、彼がドアを開けてくれようと少しかがんだので、彼女は彼の腕の中にすっぽり入る形になったのだ。あの時、どきっとして硬直してしまい、何もできなかった。ほんの少し顔を上げれば、彼の唇が触れたかもしれない、魔法の夜だったというのに! みんなが口にしていた無礼講を少しも実践できなかったとは、はねっかえりのじゃじゃ馬見習い修道女の名が泣くわ! 報告した時に腹を抱えて笑う院長の顔が目に浮かんだ。そういえばかつては何かあった時、必ず院長の名を叫んでいたのに、いつのまにかリチャードの名になっていた。
自分からリチャードに結婚を申し込むと言ったら、乳母は前代未聞だ、ありえぬ、とまた騒ぐだろうが、私の幸せを、私が決めて、思いっきり幸せになって何か悪いことでも起きるというのか?
馬車の幌の隙間から青空が見えた。母親の形見のイヤリングを手放した今の方が母親を強く感じた。愛に生きる血ね。
診察に来たリチャードに乳母が、姫はもともと食が細いほうだったが、ここへきてまた食欲が落ち、ハーブをお湯で溶いたものしか口にしなくなったと言った。
「リチャード、オレンジがこんなにたくさんなっているわ! これを絞って飲むとおいしいの」
一度だけ熱でうかされた姫がうわごとで言ったのをきき、リチャードは乳母に
「それはどこにあるのか」
と聞いたが、
「あれは地中海あたりの南で採れるものだからこの辺りにはない」
と残念そうに首を振った。
毒殺を恐れたためとはいえ、銀の皿にもられた皮までむいてあるオレンジを銀のフォークで口にする日はもうあるまい。
「姫様はまさかこのままもう?」
馬車の外で乳母は涙ぐんだ。姫はもともとは病弱というわけではなかったが、この巡礼団の長旅は今までの彼女の暮らしとは違い過ぎた。
「そんなことさせるものか」
リチャードも泣きたい日々を歯をくいしばってこらえていた。
巡礼者の中から一人、また一人と命が消えた。
「私はもう十分に生きた。私の残りの命、全て姫君に差し上げると神に祈った」
巡礼者の中から一人、また一人と命が消えた。みな、姫の回復を願って逝った。
彼も泣きながら深夜といわず早朝と言わず、天に祈った。焚火のそばでいくら待っても彼女が現れない。あの天幕に彼女がいなくなるなど、考えただけで気が狂いそうだった。
「諦めない!落ち着いて考えるんだ。もう一度薬を変えてみよう。まだためしていない組み合わせはないのか?」
この病に二度罹る者はいない。治りさえすればまた罹るかもしれないという心配はない。枯れ枝のようにやせ細った老人でも、罹らない者がいる一方、体力のある壮年でも一気に悪化して亡くなる者もいた。ある者に良く効いても、別の者にも効くとは限らなかった。同じ薬を使い続けると効かなくなることを、経験的に知っていた。一定期間おいて病状が回復に向かわぬときは、薬を変えていた。
「ここで諦めたら彼女を失うだけだ。よく考えるんだ」
彼は巡礼団の治療ノートを焚火の前で深夜まで何度も何度も読み返した。この症状の時、これが効いた。重症化しなかった。でも同じ薬で重症化した者もいる。その場合何を飲ませればよかったのだろう? まてよこっちの薬の系統が効くグループと別の薬が効くグループがいるってことじゃないか? 二つをまぜてはいけないんだ。
急な衰弱が共通していた。馬がいなないた。はっとひらめくものがあった。
「女性兵士、君の好きな花を分けてくれ!」
若い栗毛の元野生馬は、どの馬よりも速く、激しく動き回るが、疲れを知らないようだった。休憩のときなど、いつもふいっと森に消えて、何やらもぐもぐ草を食べて帰ってくる。ひょっとすると、この辺りに自生している未発見の滋養強壮によくきくハーブかもしれない。
彼は馬についてゆき、その選び取ったハーブを、「すまないが、くれ!」といってもちかえり、よくすりつぶして、お湯を注ぎ薬湯として、彼女にスプーンで一口づつ飲ませた。大した変化はあらわれなかった。
先に覚悟を決めたのは乳母の方だった。
「これはあくまで万一の話だが」
「万一のことなど言うなっ!」
リチャードは星空を仰いだ。上を向いていても、涙を抑えられず、頬を流れおちた。
自分の無力さが、情けなかった。姫を救う手立ては、もう何もないのだろうか。深夜といわず、早朝と言わず、隊長の祈る姿を目撃している者も多かった。神よ、取り上げないでください。
「姫の気持はあなたとともにある。うわごとで何度もあなたの名を呼ばれた。たわいもない、楽しい夢をみているようでした。リチャード、バラの花があんなにたくさん咲いている、とか、オレンジの木があんなにたくさん実をつけている! とか二人で夢の庭園を散歩しているようでした。でも、もう、うわごとも言わなくなって三日たちます。熱も下がらない。姫様の今の体力では今夜が峠かも」
「そんなこと!」
「リチャード殿。落ち着いてよく聞いて下され。死者が出た時のやり方はわかっています。伝染病の蔓延を防ぐために遺体を長く連れ歩くことはできないことも。十字を立てて、手厚く葬ってくださることもわかっています。でも、姫様をこの辺の野原に埋めてゆくのはあまりにも寂しすぎる。一番近い教会のあるところまで連れて行ってほしい。そこで、私たちを下ろしてほしい。私達はそこに残ります。私は姫を弔いながらそこで生きてゆくつもりです。もう持参金と言えるような立派なものはありませんが、姫様が最後までお使いになっていたこの絨毯や布団、櫛など、あなたがお持ちになって下さい。心はあなたと共に、それが姫様の夢でしたから。姫はあなたのことを愛しておられた。子供を欲しがっていました。故郷の村に学校や病院を作ったら、持参金のすべてを寄付したことに免じて彼女の名前を冠して、見るたびに思い出してほしいと遺言されました。私は水を汲んできます」
乳母はリチャードと姫が二人だけになれるように、天幕を出た。
若いリチャードの前で気丈に振る舞っていたが、乳母も小さな小川まで来ると膝をついて声を上げて泣いた。熱の高い姫のため小さな桶に水を汲む。水浴に飛び出してこないなんて! 比較的元気だった頃の姫の姿が浮かんだ。
「私が死んだら私の十字架にはレディー・オブ・メリーグローブと刻んでね。実際に結婚したわけではないけど、リチャードと結婚して、彼の子供を産むのが私の夢だったから、神様だってそれくらいは許してくれるはずよ。それからこれは特に重要なことなんだけど、私のことをここでずっと弔うなんてことしないでちょうだい。私が死んだら私の髪を一房切って、葬儀が終わったら、リチャード達と一緒に英国に、メリー・グローブ村まで行ってほしいの。村の復興はリチャード一人では大変よ。優秀な教師として復興に手を貸してほしい。それからこれは、特に、特に、重要なお願いなんだけど」
成人してからの彼女は常に女主人として振る舞い、決定を告げるだけで、お願いなどしたことはなかった。口やかましい乳母も、批判がましい意見は言ってもそれに従っていた。明晰な女主人の判断を尊重していたし、内心自慢にも思っていた。その女主人が恥ずかしそうに言うのをためらうのは珍しかった。彼女は赤くなってもじもじしていたがついに意を決して言った。
「リチャードも当面は村の復興で忙しいでしょうけど、やがてもう一度恋をして、結婚すると思うのよね。その時のことなんだけど、実は・・・・。」
「実は?」
「婚礼の新床で、二人は愛し合って子供を作るって聞いたことがあるんだけど?」
「まあ、一般的にはね」
「それはすごく情熱的で、後々まで何度も思い出すほど感動的なことだとか?」
「まあ、そういう方もいますね」
姫の場合は花婿が年寄りすぎてそれは関係なかろうと思い、あまり期待させてもかえっていけないと思い、そのことは言ってなかった。だれがそんなこと姫に吹き込んだのか?
マリアンヌだ。この場にいたら、おしゃべりの罪で尻を叩いてやる。
「私も、私も、リチャードとそのような日を迎えたかった。だからその、これはいけないことかもしれないけど、ばれないようにこっそりとその新婚の床に私の髪の毛を一本入れてほしい」
「はああ?」
「いいでしょ? 私も花嫁になって愛されたかったんだから。それで、出来れば婚礼の翌日も、翌々日も、いえ毎日、私の髪をばれないように一本づつ入れてほしいの。別にうぬぼれているわけじゃないわ。誓って言いますけど、リチャードは私の髪を魅力的だと思ってくれているんだから」
ダンスの夜、部屋まで送ってくれた時、彼の唇が髪に触れたように感じたのだ。いや、絶対にそうだったと確信する。
「そりゃ誰が見たって美しいって思いますよ。バカなこと言ってないでさっさと元気になったらどうなんです?」
あの時は、元気になったらたとえリチャードが拒否しても、彼に襲いかかり略奪婚してみせるとか言って私を怒らせたくせに、老いた私をおいて、先立つおつもりですか!
リチャードは姫を見つめた。
天幕にしんと横たわる彼女は生きているのかさえ定かではなかった。そっと呼びかけた。
「コンスタンス」
優しく呼び返してくれるはずだった。「無礼講の夜なのですって! だから姫という敬称はつけないで、恋人達みたいにお互いを名前で呼ぶの」あの楽しかったダンスの夜に姫が強引に決めた。リチャードは大いにためらったが、姫は言い張った。「二人は恋人同士なの。いい?」本当にそう思ってしまうではないか。ためらいもあったが、見つめあって踊っているうちにためらいは消えた。宿に送る頃には、英国に帰り、国王への報告義務を終えたら、彼女に結婚を申し込み、必ず幸せにする。そう決めていた。
手を握ると体温は下がりすぎており、脈はさらに弱くなっていた。危険な兆候だった。彼は最後まで諦めず、女性兵士愛用の滋養強壮に効くハーブに、体を温かくするショウガとハチミツを加え、急激な冬でまだあまり大きくなっていないりんごのすりおろしたものを薬湯にしてスプーンで飲ませた。
「オレンジには劣るだろうけどなかなかだろ?」
大半は力なく唇の端から漏れるだけだった。彼は覚悟をきめ、薬湯を置いた。
祈りの言葉ではなく、愛の言葉だった。
「姫、あなたを愛しています。私がこの先あなた以外の女性を愛するようになるとはとても思えません。代々受け継いだこの指輪、花嫁に渡すように言われていたのですが、受け取ってください。あなたが天国に旅立ってもこれを私だと思って外さないでください」
彼は姫の左手をそっと持ち上げると、薬指に口づけし、そっと指輪をはめた。
「結婚してください」
返事はなかった。彼はそっと彼女の上体を起こすと、口づけし、抱きしめた。
「返事が聞けないのが残念だけど、最愛の人にこれを持っていてほしいんだ。本当はあなたが回復したら、みんなの前で公表したかった。あなたはあのすごいドレスで、香炉を持っていて・・・」
心音が途絶えた。
「神はおられぬのか!」
激しい慟哭と魂の叫びだった。巡礼の細民達を守るために、銀器も宝石も手放した姫の最期だった。
巡礼者達も、兵士達も泣き崩れた。太陽が落ちたような落胆が隊を覆った。
これは新婚の床! ついに神が私の願いをききいれたのだ!
マリアンヌがとろけるような笑顔で語った、夫婦が朝日を浴びて一緒に目覚めるという新婚の朝!
彼女は深く息を吸い込むと、最愛の夫の方に寝返りを打った。呼吸はもう全然苦しくない。ああ、この胸だ。ずっとこの胸に抱かれたいと思っていたのだ。彼女は夫の方にぴったりと体を寄せると頼もしい胸に顔をうずめた。煎じたハーブの香りがした。彼女が病に倒れたので、病人の手当を一手に彼が引き受けているのがわかる。指先で彼の胸に触れると、左手の薬指に見覚えのない小さなラピスラズリのついた指輪がはまっていた。彼の剣の柄頭の家紋と同じ紋章が入っている。ああ、やはり、夢に見たとおり、私はリチャードと結婚したのだ。ああ、私の最愛の夫、髪をなでてくれればいいのに。それにこっそりあこがれていた口づけも。
乳母が馬車に戻ってきた。
ああ、これはまるで新婚の床のようではないか。姫様の夢がこんな形でかなうとは何たる皮肉か。二人は情熱的な恋人同士のように互いの方に手を伸ばし、抱き合うように眠っていた。
乳母は最期の時くらい、二人だけにしてやろうと、胴元夫人の所に泊らせてもらっており、朝になり、荷馬車に戻ってきたのだ。リチャードのことが気になった。若い彼は、最愛の恋人に死別し、ひどく混乱し、落ち込んでいるに違いなかった。具体的な葬儀の段取りなどは彼女が仕切る必要があるだろう。しかもあとどれほどの距離があるのか分からぬが、規則違反で次の教会まで送ってもらうという段取りもある。
リチャードはいい青年だ。自分の親戚の娘かなにかが彼と結婚するといったら、大喜びで祝福しただろう。だが、姫は違う。王族は王族同士か、大貴族でなければ。そう思って、大貴族との婚礼に相応しい持参金を失ってしまってからですら、二人の交際に反対し続けてきた。だがその結果はどうだろう?
愛を交わす楽しさも子供を持つ喜びも、何も知らずに死なせてしまった。二人の交際を認め、皆から人気のある隊長ゆえに百人からの巡礼団に祝福されて、途中の教会で式を挙げて、幸せな新婚生活を送り、子供が生まれ、親子三人、楽しく英国へ帰り着くという選択肢に何か問題があったというのか。
射手に雨のように矢を打ち込まれた時、リチャードの名を何度も叫び、自分が射られる危険も顧みず、アーチェリーであの男を射って、リチャードを助けた時から、彼女はもう、戦士の妻になることを選んでいたのだ。
この度の死の危険のある病の看病も、何のためらいもなく彼を手伝うことを選んでいた。冷静なようで、命も惜しくない程激しく彼を愛していた。
ダニューブ河で洗濯したあの豪華な婚礼のドレスを、彼女は具合のいい時には起きだして、持参金の箱に入れてある裁縫道具を持ちだして、丹念に縫い合わせていた。幸せそうだった。リチャードのプロポーズを予感し、待っているに違いなかった。
私はなんと愚かなことを・・・ユージニー様に彼女の幸せをあれほど念を押され、頼まれていたというのに・・・。二人をもうしばらくこのまま静かにしておいてやろう。恋人達の時間を楽しませてやらねば、彼女の魂は昇天できずにこの暗い森の中を永遠に彷徨うだろう。
乳母は悲鳴を上げそうになり、口を手で覆った。
姫がごく自然に寝返りをうって仰向けになったように見えた。リチャードが動いたからか? いや、胸が上下している、呼吸している!
「リチャード!」
声を殺して彼に呼びかけた。彼ははっと飛び起きた。
「静かに聞いて。呼吸していると思わない?」
彼は急いで隣で寝ている彼女を見た。脈も呼吸もすぐに確かめた。
「呼吸が楽になっている。脈も正常に近い。熱も平常だ。あの薬が効いたんだ! ああ、コンスタンス!」
彼は最愛の妻をしっかりと抱きしめた。彼女の手がそっと彼の背に回った。彼女は姫ではなく、ただの戦士の妻になったのだ。乳母は姫の左手の薬指に身分にそぐわぬやたら小さな青い石がはまっているのに気づいた。それが何だというのか。幸せの証だ。