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幸せの場所はどこに?  作者: 柳花 錦
7/11

暗殺者たち 人生には生も死もあるのだ

皇帝執務室である。

皇帝は豪華な二枚の美しい絵を並べて見比べた。王室御用達権を望む商人からの献上品だ。どちらの絵も今世紀最高の女流画家と言われる者の作品で、その精密な描写力は天才の呼び声にふさわしいもので、すばらしかった。

並べてじっくりと眺める。片方の絵には「天女の舞」と題が入っていた。絶世の美女と言っていい美しい女が薄絹のドレスで舞っていた。この女は城ごと焼き殺した弟の嫁ユージニーと本人かと思うほど似ている。

もう一枚の絵には「神のお使い」の題名がついていた。賢そうな面構えの大きめの白馬から降り立った端正な男がすばらしい細工を施した銀の水注を持って、泉のほとりで立っている絵だ。こちらも細部まで精密に描かれており、水注の細工は古代中国の伝説の生き物である鳳凰で、彼の水注の竜と対になるものだった。騎士の腰に下げた剣の紋章がはっきりとみえた。年号と画家のサインからこれがユージニーの死後に描かれたものと分かる。 姪のコンスタンスに間違いない。生きていたのだ。ユージニーとますます似ており元気そうだし金に困っているようにはとても見えない。何度も奪ってやろうとした持参金はお前が持って逃げていたのか。

蛇のように執念深い皇帝は再び持参金を奪うために暗殺団の隊長を呼んだ。


暗殺団の隊長は絵の背景の特徴的な星座入りの時計塔ですぐに街を特定して部屋を飛び出していった。婚礼の行列の待ち伏せで失敗し、検問でも見つけられず、皇帝には姫の持参金と引き換えと言われ、金を払ってもらえなかった。

絵は正確で、時計塔で街を特定できたし、天女は間違いなくコンスタンス姫だ。とするとあの銀の水注を持つ男は姫の従者に違いない。あの大きな白馬の従者は姫の馬車の近くにいるはずだから、その馬車を襲えばいい。その馬車だけに的を絞ればなんとかなるに違いない。強者の兵士が多かったから、殲滅までやりあうのは得策ではない。持参金さえ取れれば、姫の命は無くてもいいという言質もとった。


右側の森からいきなり姫の荷馬車を狙って雨のように弓が降り、同時に馬に乗った盗賊どもが襲ってきた。

「みんな気をつけろ! こいつらただの盗賊じゃない!」

二振りも剣を合わせればその腕前が分かる。注意を呼びかけるリチャードの声が響いた。

巡礼者の一行は護衛の兵士たちに守られているとはいえ、盗賊たちのいいターゲットだった。略奪を厳しく禁ずるリチャードも、盗賊相手の時には、それを許していた。遠い異国から巡礼に出てくるような信心深い者から金品を盗ろうなどというふらちなやからは、略奪を好む荒くれ兵士の餌食にして思い知らせるまでだった。

だが、今日の連中はいつもの盗賊どもとは訳が違った。夜盗のような姿をしていても、高度に訓練されたこの剣さばきは、暗殺者集団に他ならなかった。

第一、なんで行列の中央あたりを走る古びた荷馬車が姫の荷馬車だとわかったのだろう? 他の巡礼者の馬車と違いはないのだが? コンスタンス姫に皇帝の追跡の手が伸びぬよう、ローマ金貨は使っていなかった。持参金の財宝の一部を換金して路銀にするようなことも、脚がつくといけないので無論していなかった。宿に泊まる時も姫は常に老婆の姿で人目をひかないようにしていた。


まさか、英国王の幼子の一人がまぎれていることに気づかれたのか? そっちと間違えているとか? 王族を人質にとれば莫大な身代金を要求できる。でもそちらも銀細工職人の子供として巡礼者に混ぜており、八才の子供が使用人を使うと身分があることがばれるので、わざと水汲みでもなんでも当番でさせていた。自立して暮らしていけるような子にしておきたい、というのが英国王妃の希望でもあったのだ。内乱でどういうことになるか分からない。なんでも自分でできるようにしておきたいという親心である。

英国内の内乱が広がりつつあるので、万一を考え、国王は子供の一人を国外に逃したのだ。子供は八才で、巡礼として参加した銀細工職人の親子として登録していた。この職人は英国王室御用達職人で、全てを心得ており、目立つような行動をとらないし、させてもいない。今までは全てうまくいっていたのだ。


コンスタンス姫の荷馬車を引く馬の尻に矢が刺さった。御者が馬の暴走を必死になって止めようとしたが馬はもうどうにもならぬほどパニックを起こしており、猛スピードで暴走していた。

「あの木立に射手がいる。先にやつをしとめる」

馬車を守る様に横を並走していたリチャードが剣で弓矢を払いながら木立に向かったのが見えた。戦場経験豊富なゲオルクが

「無茶は止めろ! 援護が必要だ!」

とわめき散らすのも聞かずに飛び出して行ってしまった。

姫は持参金箱を開けると銀の優美な装飾を施したアーチェリーを取り出した。子供のころ、父親にせがみ、習わせてもらった時のものだが、予定通り婚家に嫁げば、豪華な部屋の飾りものの一つになっていただろう。

「姫様、まさか!」

「今これを使わないで、いつ使うんです! このままではリチャードが射殺されます!」

「無茶です! 幌のそばに行ったら危険です!」

「お下がり、リチャードが!」

「姫様! 姫様!」

幌から顔を出すと、暗殺者と目が合った。彼女の父親に取り入り、アーチェリーの射手として雇われ、彼女にアーチェリーを教えた男だった。彼女はためらったが、彼は一瞬もためらわず、彼女から視線を外さず、彼女に向かってひゅんひゅんと矢継ぎ早に射ると、間髪を入れずリチャードにアーチェリーを構えた。荷馬車から小ぶりの銀の矢がひゅんと飛んで、射手に刺さり、倒れた。


疾走する馬車の御者が放心して傍で立ちつくす姫を振り返った。屈強な胸に三本矢が刺さっていた。彼は御者台から転げ落ちる瞬間、最後の気力で手綱を姫に渡して、血を吹きながらうめいた。

「崖が!」

姫ははっと我に返り、手綱を引いたが、もう空しか見えず、馬も止まらず、恐怖で硬直した。


あの青空に吸い込まれるようにして天に昇るのね、と思った時だった。

後ろから猛然と走る蹄の音が聞こえてくると同時に大きな馬がぶつかってきて、リチャードが神の名を叫びながら、二頭の手綱を力いっぱい引き、馬たちは後ろ足で棒立ちになった。乳母と持参金の入った大きな箱が荷台の後部にすっとび、はずみで馬車の重心が後部に更に傾き、荷馬車の前輪まで上がり、崖下に広がる針葉樹林が見えた。リチャードはすかさず自分の馬に左へ回るように命じた。彼と一体となっている馬はすかさず意味を理解して後ろ足で爪先立ったまま、ワルツを踊るように左へ回り、彼に手綱を引っ張られている姫の荷馬車の馬もそれにつられて回った。ちょうど来た方向へ反転した時、荷馬車と馬たちは大きな音を立てて前足と前輪を地上に下ろし、崖からの転落を辛くも逃れた。

「ふー!」

安堵のため息をつくと、とげのある乳母の言葉が背後から彼に突き刺さった。

「いつまでそうしているおつもりですか?」

我に帰ると腕の中に気を失った姫がいた。落ちないようにとっさに抱え込んでいたのだ。

姫の美しい目がうっすらと開いた。まるで夜空の星のようだった。どきっとした瞬間に腕っ節の強い乳母に姫を奪還された。

姫を幼少の頃から大貴族に嫁がせるべく教育係として雇われていた筋金入りの乳母に、バラに寄り付く悪い虫とみなされたようだった。隊長とはいえ護衛の兵士など、姫の結婚相手としては論外中の論外だ。


「姫様、あの御者の葬儀が始まるようです。それに尻に矢がつきささってしまった私達の馬も。毒矢だったそうでございます」

「出られるわけがない。私のせいでピートは・・・。あの矢は私に当たるはずだった」

「そうは言っても」

「射手の顔が見えた。私を見て私を狙って射ってきた。ピートは私をかばうように私の前へ」

御者のピートのあの大きな笑顔、ひどいなまりだったが、人懐こくて陽気だった。

「あっしは漁師でさあ。お貸しなせい。重りをつけるといいんでさあ」

彼女の編んだ魚網をみて大笑いした後、手直ししてくれた。

「こうするんでさあ」

網の投げ方、魚の捌き方、料理の仕方、全て教えてくれた。頼まれもしないのにボディーガードを買って出てくれて、リチャードがこれない時など、一緒に焚火を囲んで彼の故郷の話などしてくれて、彼の馬を含めてまるで家族のようだった。

「気のすむまで泣かせて」

彼女は声をあげて泣いた。


リチャードは気が気ではなかった。連絡の兵が、乳母から姫が葬儀に出席しないと報告を受けた時、天幕からひどい泣き声が聞こえたとも聞いたからだった。姫の荷馬車の御者に選んだ男は陽気な漁師で、漁が得意なのは無論だが、子供のころから荷馬車の扱いにもなれていたのだ。焚火を囲んでピートと笑う彼女をよく見かけた。彼女は家族のように感じていたことだろう。名前で呼んでいた。彼女は目の前で家族が殺されるのを見、そして、おそらく初めて人を殺したのだ。どちらも人生観を変えてしまう出来事だったと容易に想像がつく。少しでも気を楽にしてやるために何か話をしなくては。

リチャードが天幕に行ってみると、姫は泣きながら激しく自分を責めていた。

「ピートが死んだのは私のせいです。故郷に帰って皆にエルサレムの自慢話をするはずだったのに、私をかばって前に出て・・・。私さえいなければ・・・」


誰が何と言おうと、もう彼女は巡礼団の仲間だった。病気の者は彼女の手から薬湯を受け取り、傷の手当を受けた。私には修道院で鍛えた根性があると、彼女は今まで生死を共にしてきた乳母とけんかしてまで特別扱いを拒み、食事も一緒、野宿も一緒になっていた。ただ回りが気を使っているだけだ。本当は彼女にはこういう生活は合わないことは誰もがわかっていた。

「確かにピートはかわいそうでしたが、あの戦闘で命を落としたのは彼だけでした。あなたも戦ってくれましたよね。怖い思いをさせてすみませんでした。でも、あの一矢で、暗殺者達が一気に引き上げたんです。あの一矢で、あなたも多くの命を救ったのです」

暗殺団は、巡礼者たちには目もくれず、姫と護衛の兵士達だけを正確に狙ってきたのだ。

射手のアーチェリーが自分に向けられ、差違えを覚悟した時、荷馬車から小ぶりの銀の矢がひゅんと飛んで、射手に刺さり、暗殺者どもは体勢を立て直すために一気に引き上げたのだ。姫が持参金箱の中に武器を持っていたことも使えたのも驚きだったが、腕前にも驚いた。味方である自分に当たるかもしれないと言うのに、迷わず射た一撃だった。一流の射手と言ってよかった。

「子供のころ、まだ両親と住んでいたころに、父に取り入ってきたあの男から習ったのです。すぐにわかりました。私と目が合って、私と知って射ってきたのです! そして私は子供の頃、あの男に教わった通りに射返したのです!」


人を射たのは人生初めてだっただろう。ゲームの的に当てるのとはわけが違うのだ。

まして知り合いを射るなんて。こんな風に命の危険が迫りさえしなければ、この銀の優美な装飾を施したアーチェリーは豪華な部屋の飾りものかなにかになっていただろう。

「怖い思いをさせてすみません。不安定な世の中だと金のために裏切る者が沢山いるんです。あの一矢で、あなたも多くの命を救ったのです。そのことだけは忘れないで。どうか一緒に彼にお別れを。今生のお別れですから」

腐敗もあって、衛生の問題から遺体を英国まで持ち帰ることができないことは彼女も承知していた。彼女は悲しみに耐え、葬儀に参列した。リチャードの、御者の美徳を讃え、安らかなるとこしえの眠りを願う祈りの言葉が低く響いた。兵士達により丁寧に土に埋められた。

ピートは漁師だった聖人ペテロにちなんだ愛称だが、魚をからめとるだけでなく、姫の心もからめとってしまったようだった。姫の目から涙がとめどなく流れた。


その夜、姫は食事にも、焚火の所にも現れなかった。

リチャードが心配そうに天幕をちらちら見る姿は、見ている方も、せつなかった。

姫の代わりに傭兵での隊長歴の長いゲオルクが焚火の所にやってきて、彼の崖から落ちはぐった、無謀な行動を非難した。組織の長を長く勤めた者の叱責は経験に裏打ちされた正論で、返す言葉もなかった。

「おまえさんが、ああせずにいられなかったのは、わかる。だがな、隊長としてはあの場合、間に合わないものとして、見捨てなければならなかったんだぜ? この百人からの民間人を無事に英国までつれて帰るのがお前さんの仕事なんだからな。おまえさんが死んじまって、この集団が無事に英国にたどり着けると思うなよ」

そんなこと言ったって、もはや彼女なしの人生なんて考えられなかった。腕は彼女の華奢な重みを思い出し、うっすらと美しい目を開けたその瞳には昼間だというのに夜空の星が輝いていた。彼女の姿が夜空や焚火の中、見るものすべてに映し出されていた。

「おい、聞いているのか、リチャード?」

「誰が賢い妻を見つけることができるのか。彼女は地の果てから出てきた宝石よりも貴重なものである。」

目は彼女の天幕の方を泳いでおり、旧約聖書の箴言の言葉を口走っていた。

「リチャード?」

「力と気品は女の装身具である。」

「だめだ、こりゃ。つける薬が無い。」

若い男が一度は通る道だが、恋で理性や平常心を失うという、病気の乳幼児の次位に死にやすい状況だ。

「はー、とにかくちゃんと前を見ろ。穴に落ちたりするなよ」

常のリチャードは訓練された自制心と、卓越した論理力と雄弁さで、自分を、そして隊を制御していてそれは見事なものだった。主に修道院で教育を受けたというが、彼を教育した人物の優秀さがしのばれた。無事に乗り越えてくれるといいんだが。


もし、自分の息子が生きていたら、どうだっただろう? 大きな所領の領主の一人息子である彼は、何不自由なく育っており、強気で自信家だった。どんな娘を選んでいたであろうか。絶世の美女とはいえ、コンスタンス姫のような自分の意見をはっきり言うタイプは選ばなかったような気がする。自分の意見にあまり反対されたことのない彼は、おそらく何でもはいはいと彼の言うことに素直に従ってくれる従順なタイプを選んだのではなかろうか。勝ち気な妻は息子の嫁選びにもあれこれ口を出し、息子ではなく、自分が気に入った娘を選ぼうとするだろうから、そこでまたはでな夫婦喧嘩をやらかし、また、愛し合って、はでに仲直りしたことだろう。結局二人は息子の幸せが大事ということで意見が一致し、現実的な解決方法として、何回か宴を催して候補の娘たちをかわるがわる招待し、息子に決めさせただろう。

いずれにしても命あってのことだ。リチャード、お前は生きて、幸せをつかむんだ!


悩み多き主人にひきかえ、見事に結婚を決めてきたのは彼の大型の馬だった。すっと立ち上がると森に消えていった。頭のいい馬なので何も心配することはなかったのだが、なんとなく気になって、リチャードも他の連中も遅くまで起きて帰りを待った。しばらくして森から出てきた時、なんと二頭になっていた。

「何?」

「どうなってんだ?」


二頭はまっすぐにリチャードの前に並んだ。

「どちら様?」

馬の扱いに相当慣れた彼ですらこういう馬はあまりお目にかかったことが無かった。彼の馬の連れは異様に光る眼差しの興奮状態の気の荒そうな栗毛で、痩せ型だが若く、鞍をつんでいない。よくみるとそもそも蹄鉄が無い。どうやら完全な野生馬のようだ。

「ブヒヒ、ブヒヒ」

彼の馬は答え、姫の荷馬車の方に鼻頭を向けた。

「君のお嫁さん? あの荷馬車を引っ張ってくれるのかい?」

「ブヒヒヒ」

「ありがとう。とりあえず彼女に蹄鉄と鞍をプレゼントしてもいいかい?」

野生種だけあって、気が強そうな馬ではないか。巡礼団の中に鍛冶屋がいるので、蹄鉄はすぐに何とかなるだろうが、何かあるといけないから任せて安心な自分の馬に姫の荷馬車をまかせ、自分がこの気の強そうな野生馬を調教して乗ることにした。乗せてくれればではあるが。

凄みのある容赦のない野生の目でさっきから上から下までものすごくじろじろ見られ、値踏みされていた。

暗殺部隊の毒矢で御者も馬も助からず、葬式を済ませたばかりだった。このお野生様に頼るしかない。

「馬車はひかなくていい。私を乗せてくれ。お願いだ」

彼は頭をさげた。

「フン」

傲慢な感じの返事だった。

バカにされたのかもしれないが、彼の馬が「ブヒヒ」と言うと、黙った。

「おまえ、どうやってこんな気の強い女性にプロポーズしたんだい? しかも完全にコントロールしている!」


「それを馬に聞くとは情けない。」

「やはりプロポーズはライン河を越えてからに賭けるべきだった。」


驚くべき馬だった。

森林地帯に入ると再び腕の立つ暗殺団の射手に悩まされたが、リチャードを乗せた栗毛の馬は木の陰から自分に向かって矢を射る男を許しはしなかった。リチャードを乗せたまま射手に猛スピードで正面突撃し、相手の馬の鼻頭に噛みついたのだ! リチャードがすかさず驚く相手の男に剣を振りおろして、落馬させると、栗毛馬はリチャードを「フーン」と満足げにほめた。リチャードが噛まれてパニックに陥っている射手の馬を落ち着かせ、馬を失った仲間の所に代わりに使うようにその馬をつれて戻り、リチャードが下りたすきに、さっと離れ、彼女は自分を物陰から射ってきて地面に落ちた男を完膚なきまで蹴り飛ばし、気のすむまで踏みつけ、動かなくなるとその腰から財布をより分け、口にくわえて持ってきて、リチャードに渡した。

「しっかり者の、よくできたお嫁さん馬じゃないの!」

「おー! 金貨がずっしり! 次の村で宴会だ!」

胴元夫人とゲオルクがすかさず財布の中身を確認した。倒した男はおそらく暗殺部隊の金庫番だったのだ。


宴会は深夜まで続いた。楽しい夜だったが、リチャードだけは焚火のそばで落ち込んでいた。

「必要な備品も買えた。姫様用の新鮮な食料も買えた。なのになんで隊長は落ち込んでいるんだい?」

「だからさ。隊長はその辺がデリケートなんだよ。どことなく姫と印象のよく似た新しい馬に貧乏を見抜かれたのが辛いんだろ」

「悩む必要なんてないだろ。どっかのバカが俺たちを襲った。馬が拾った。取りに来ない。こりゃもう、俺たちのものに決まってんじゃねーか」

この続きに取りに来ても撃退すればこっちのものという念いりのもあるのだが、兵士達の論理にどっぷり浸かっておれば彼とて悩まなかっただろうが、彼はもう少し複雑だった。


「小川だ! 休憩にしよう!」

リチャードは姫の好みを把握するようになっていた。彼女は水浴びや、良い香りの花が好きなのだ。兵士達も心得るようになっており、彼女の入浴用の天幕張り作業も手早いものになっていた。彼女は湯を沸かすのも待てずに、冷たい水に飛び込んだりするので、手早さが要求されるのだ。

「姫、きれいな小川です。天幕の準備もできました」

「しーっ!」

リチャードが姫の荷馬車に声をかけると乳母にたしなめられた。

「今、やっとお休みになったところだから。」

お休みといっても今は昼間である。姫はこの厳格な乳母のもと、この旅のさなかですら規則正しい生活を送っていたはずである。あの暗殺未遂事件の日以来、姿がみられなかった。小川ときいて飛び出してこないなんて、やはり御者の死が堪えて夜眠れていないに違いなかった。うつらうつらしていた彼女が目を開けた。

「凄腕の上に抜け目のない女性兵士が隊に加わったんですけど、姫のためにとってある最上流の浴室を荒らしているのかもしれない。あなたと同じように水浴びときれいな花が好きなんです。兵達に守らせてはありますが」

わざと陽気に言ってみると、

「そんなにすごい女性兵士が?」

「まさに一騎当千です。子供達にも大人気で。」

「子供達は無事だったの?」

「全員無事です。そのために我々兵士が守っているんですから」

「ああ、リチャード!」

彼女に飛びつかれ、至福の一瞬だったが、外から乳母のどなり声と馬の鳴き声、やんやとさわぐ兵達の声でそれは破られた。


「そこは姫様の場所です。どきなさい、この無礼者! この性悪!」

「いけ! ばば! そこだ! 普段の底意地の悪さを見せてやれ!」


二人があわてて天幕を飛び出すと、小川の中で、乳母と後ろ足で立ち上がった栗毛の精悍な馬がごっつりと組み合っていた。乳母は怒りと力みで顔を真っ赤にして踏ん張り、馬の前足を押し戻すかに見えたが、力尽きて弾き飛ばされ、小川の中に尻もちをついた。

「フーン」

馬が勝ち誇り、ゆっくりとその場で川に身を横たえ、体をくるくると回し、気がすむとさっと立ちあがって森の中へ入って行った。たぶん気に入りの花でも食べるのだろう。

「ばばあ、なんだよ、情けない。たっしゃなのは口だけか?」

「あー、負けた」

「また、つまらんことに金を使ってしまった」

「姫様すみません。負けました」

びしょぬれだった。この気位の高い乳母が無謀にもあんなにむきになって女性兵士という名の馬と素手で力技勝負で戦うなんて! 彼女は久々に笑った。


「あ、姫様だ! ちっともお食事しないから、隊長が心配で泣きそうだったんだから」

子供とはとても正直な生き物だ。ちなみに彼らは隊長がいくら馬の名を女性兵士と言い直させようとしても、その鋭い観察により、意志の強く美しいところが似ていると、姫様馬と呼んで尊敬している。


その晩、彼らは久々に焚火の前で語り合った。

いつもより彼女は彼の近くに、寄り添うように座った。また、リチャードって呼んでくれるといいんだけど。目が合うと、彼女は彼にそっとよりかかった。バラの香りだった。

「お母さんの話をきかせてほしい。どんな女性だったの?」

「優しいけど貧しい人や困っている人を忘れぬ強い人だった。私の生まれ故郷の村では、ゲオルクみたいな白っぽい金髪に空色の目の人が多いんだ。母もそうだった。黒髪はうちの一族だけで珍しがられた。しかも男だけがなぜかそうなる」

「ふーん」

「私は友達と遊ばない時はよく母の手伝いをしたんだ。母が大好きでよくついて回った。母の作ってくれたエプロンをかけて得意になってハーブの収穫やら、乾燥作業を手伝った。料理人が休みを取る時なんか、料理の手伝いもね。今にして思うと、母からは生活全般の知識を習った。ラテン語を教えようとしていた父からは「学問も大切なんだがね、ママ巾着君」と言われた」


彼女は再び笑った。彼といるとどうしてこんなに楽しいのだろう。心も落ち着く。

「これを飲んでみませんか? 母からの直伝。新鮮なミルクにカモマイルをいれたもので、少し蜂蜜を入れてある。女性兵士の力技でゲットした一級品でね。良く眠れます」

小ぶりのミルクパンをずっと焚火であたためてかき混ぜていたから、何を作っているのかと不思議に思っていたのだ。料理はいつも兵士達が大鍋で交代で煮るので、これは彼が特別に彼女のために用意してくれたものだった。彼は清潔な木のカップも用意してくれていた。カモマイル特有のリンゴのようなさわやかな香りに優しい蜂蜜の甘さが、彼女の心も体も温めた。彼女がもう少しもたれかかると、彼は少しためらったが、手を伸ばし、彼女の手をしっかりと握った。

「誓います。あなたの手に武器を握らせるようなことは二度とない。この手は薔薇の花を摘んだり、神に祈りをささげたり、子供をかわいがったりするためのものだ。」

真剣な瞳だった。彼女は体が火照るのを感じた。婚礼の日の危機にわれ先に彼女を見捨てて逃げた不実な老人の手がどのようなものか知りたくもないが、暗殺者の矢が雨のように降る中でも、暴走した馬車もろとも崖から落ちるかもしれないという時も、命がけで守ってくれたこの男の瞳は誠実で、手は指が長く繊細でほんのりハーブの香りがした。人を助ける仕事もたくさんしているからである。この男がどういう人間かというのは、地位だの財産ではなく、行動に現れるものなのだ。


これを幸せというのかもしれない。まだ修道院にいた頃、泣いてばかりいた若い修道女マリアンヌのことを思い出した。本来厳格な沈黙の掟があって互いの事情など踏み込んだ話などはしないのだが、皇帝の姪で結婚までの預かりものの身分の彼女は別だった。泣いてばかりいるので、気にもなり、何か力になれればと思い、思い切って話しかけたのだ。

「愛する夫が馬車に轢かれて死んでしまったの。そのショックで楽しみにしていた子供も流産してしまったの。涙も枯れるほど泣いたのに、まだ思い出すと泣かずにはおれないの」

雨の日が続いた後で薄日がさすように微笑むことがあった。理由を聞くと、

「夫との幸せな日々を思い出したの。子供ができたことを告げた時の夫のうれしそうな顔といったら!」

泣きながらこれは幸せの涙よ、と言って幸せの思い出を語った。

「愛し、愛された記憶はどれも宝石のように貴重だけれど、今にして思うと、日常のことも幸せに満ちていた。振り返って私の名を呼ぶ時とか、愛していると言ってくれたときの自信に満ちた輝く瞳、力強く抱きしめてくれた手とかすべてが懐かしいの。夜が早く来ればいいのにと願った新婚の床も」

彼女はやがて立ち直っていった。考え方を変えたのだ。

「よく考えてみれば、私が毎日泣いて嘆いてばかりいたら天国の夫や子供は「ああ、また泣いている」と言って、せっかく苦しみのない天国に来たというのに落ち着いて暮らせないものね。毎日を善意、善行で過ごしていれば、決められた時に天国で再会できるのだから、嘆いて過ごしていても仕方がないわよね。もっともっと善行に励まなくては!」


マリアンヌの話を聞いた当初は私は愛を恐れた。権力者ですら人はいずれは死ぬのだ。愛する人を失った時、このような身も世もないような嘆きが待っているのなら愛とは恐ろしいものだ。だが彼女と語らううちに、愛とはとても素晴らしいことと思えるようになり、結婚にあこがれを抱くようになった。

葡萄酒業界と地方議会で功なり名なりを遂げた老人は、人生最後の勲章として皇帝の姪を嫁にするというステータスを付け加えたかっただけだった。強盗団に襲われたとき、自分が助かるために私をかくまってくれなかった。

それに引き換えリチャードは、崖から落ちそうになった時、私を助けるために命がけで駆け付けてくれた。気絶してしまいよくは覚えていないが、あの時崖下に落ちないようにしっかり抱きしめてくれていたような気がする。彼もきっと情熱的に花嫁を愛するに違いない。子供も欲しがるだろう。巡礼団の子供達にもモテモテだ。しっかりと手を握り、あの情熱的な瞳で愛の言葉を語るだろう。幸せな花嫁はうっとりと彼の腕に抱かれて新婚の床を夢見るのであろうか。

私ったら何を想像しているんだろう? 結婚は懲りたんじゃなかったの?


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