ダンスはお好き?
北上するにつれ、姫は変わった。覚悟を決めたらしく、顔をしかめながらも一口づつ巡礼団スープを飲むようになったのだ。
乳母は驚きながらも安堵した。
「私も、皆と同じものにします。野宿もします」
「姫様の安全のためにも野宿はどうしてもと言う時だけで十分でございますよ」
あたりを巡礼団の元気のいい子供達が走り抜けた。
「あのような子供たちですら、隊長はじめ、兵士達の護衛の力を信じ、野原でねむるのですよ。私だけ隊長のお金を使い、城壁の中の宿屋に泊るなど、してはならぬことです」
「姫様・・・」
王家に嫁ぎ、皇子を生み、国の母といわれ、臣民から慕われる立派な人物になれたのに。それが当然の人生だったのに。こんな辺境の地でまずいスープを飲み、野宿を決意されるとは。
「あ、姫様がスープ飲んでる!」
「よかったね、隊長!」
「ごほっ!」
子供でも彼の気持ちに気付いていた。遠目にでも姫を見かけるとそれまで気難しい顔をしていた彼の顔がパッと明るくなるのだから。
リチャードが見張り当番に立たない夜など、姫は彼に英語を習った。彼の穏やかな声は夜のしじまに心地よく響き、理路整然とした文法講義など、子供達も集まってきて、ちょっとした学校状態だった。老兵は授業中に爆睡し、もともと勉強好きの彼女はあっというまに覚えてしまった。
彼女も修道院で教育を受けており、薬学の知識は化学や数学の発達したアラブの知識を取り入れた最新のもので、天文学にも明るかった。風邪が蔓延した折など、リチャードを手伝い、率先してハーブを調合し、手当に回った。二人はいつも話し合い、知識を共有し、最善のものを調合した。大抵の病気も怪我もすぐに治せた。
夕食後の非番の時に焚火の前で共に語らう習慣は、授業が無くなっても残った。二人は互いのことを少しづつ話すようになっていた。
「あなたの知識はとても専門的だ。どこで学ばれたのです?」
「女子修道院で。七才で親と死別してからずっと。修道院長もしっかり者のいい人で、そこではなんでも学べて私に合っていた。私は結婚が決まるまでの間の預かりものの身分だったから、一定の範囲内とはいえ結構自由が許されていたの。専門知識を学びたいというと、修道院の大ホールに大学の教授を呼んで、講演してもらえて。いい学び舎だった」
当時女性の地位は男性より下とされており、女はすべからく父親や夫に従うべしとされていたが、女子修道院では戒律とともに、教育と責任ある生き方が推奨されていたのだ。
時折、伯父に呼ばれて王宮に戻ると、ハーレムの女たちから好奇の目でみられた。だが、彼女が年頃の娘となり、美しく成長すると、女達はライバル心を持ち、早く彼女を有力貴族と結婚させようと、皇帝をせっついた。だが、保身に命をかける彼は、皇帝の姪である彼女を一人の有力貴族に与えたとなれば、与えられなかった他の全ての貴族が敵に回るのではないかと思い、決めきれなかった。
そうこうしているうちに、ハーレム内で、姪を嫁に出さないのは自分のものにしようとしているからではないかという憶測が飛び交い、ライバルを消すべく彼女はハーレムの女達から何度も毒殺されそうになったのだ。伯父に、結婚するその日の当日までは修道院で静かな祈りの日々を過ごさせてくださいと言い、あわてて修道院に戻り、一人でも生きていけるだけの専門知識の取得に励んだのだった。その時の知識の何と役に立つことか。天気予報で彼女にかなうものはいないくらいだ。リチャードの地図と照らし合わせながら、大物洗いはここでなど、かつてこれほど役に立つ情報を本国にいたころですら得たことはない、と女達に絶賛された。
このようなハーレムの裏話、毒殺などまがまがしい恐ろしい話を他人にしたことはなかった。修道院時代の仲良しだったマリアンヌにさえも。でも、リチャードはなんでも受け入れてくれる。噂話で他人に漏らすこともない誠実な男だ。
父も母も毎晩どこかで催されるパーティーで忙しかった。自分達の城で宴会を催す時はとびきり念入りに準備された。両親が真剣に議論していたので何を話しているのかこっそり聞き耳を立てていると、料理に白鳥と孔雀のどちらを出すかで、あきれたこともあった。芸人達が呼ばれ、花火があげられた。客をもてなしたり、もてなされたりの社交に忙しく、一日に一度も顔を合わせない日も多かった。
母は今にして思うと、自分達が暗殺されるということも、その日時も方法も知っていたのではないかと思われる節があった。母の部屋に呼ばれ、彼女の婚礼衣装と翡翠の香炉のいわれを聞いた。その二つを鍵のかかる箱にいれ、渡された。
「この話はお前と乳母にしかしていないから。何かあったら、これだけは持ち出すように。鍵はおまえがいつも持っているように。わかったら、この箱を持って、いとこの家に遊びに行っておいで。」
母との最後の会話だった。火災はその日の深夜だった。
姫はため息をついた。楽しい日々もあったはずだが、すぐには思い出せなかった。
それよりもこの男のことをききたい。思いやり深く、強く、まっすぐな瞳で自分の道を切り開いてゆく。私のことを好きなのでは? と思えることもあるのだが、なぜか私と視線が合うとそらせたり、わざと気づかぬふりをするこの男のことを。
「あなたの話を聞かせてほしい。あなたの子供のころはどうだったの?」
「私の両親は小さな荘園領主で騎士だった。小競り合いの戦や村の争いごとの調停に出かけてなければ、畑で鋤をふるう自給自足の生活でした。母は優しい人で、教育熱心だった。流行り病で両親と死別したのは五歳の時だったから思い出らしい思い出はないけど、妙にはっきり覚えていることもある」
「それはどんな?」
「まあ、笑い話なんだけど、近所に廃墟になった城があったんだ。私や近所の悪がき達はいつもそこで遊んでいた。ある日だれかがそこで女の人の泣き声が聞こえると言ったんだ。白いドレス姿で、この城で非業の最期をとげた貴婦人の幽霊だって話になった」
「それで?」
「そのころの私はもう四才くらいになっていて、自分も騎士になるって決めていて、怖いものなど何もないと思っていた。木でできた剣など振り回して遊んでいて、もちろん自分の部屋も与えられて、そこで一人で眠っていた。その夜は風が強く、まるで貴婦人の泣き声のように聞こえた。まあ、今ならば風が変形した廃墟にあたってこういう音になっているってわかるけど、当時の私は怖くなって両親のベットに、小さいころそうしていたように二人の真ん中に忍び込むと、父が目を覚まし、「騎士になるにはまず、一人で眠れなくてはねえ、リチャード・ウォーフォート君」と、にやついて言った」
姫は声を立てて笑った。
妊娠したハーレムの女が立て続けに二人死んだこともあった。暗殺の危険におびえ、どんな山海の珍味だと言われても、毒見のしていない物には手を付けず、必ず銀器を使い、毒性の反応を確かめ、すべてを疑い、息を殺して立ち聞きするのを習慣として暮らしていた私と違い、なんと健康的な生活を送ってきた男だろう!
「それで騎士に?」
「いいえ、すぐには。五才ではやり病で両親を失った私を親戚が両親のわずかばかりの土地を修道院に寄進して、修道院にいれたんです。自分は商人になり、外国を渡り歩く生活だから子供の面倒は見れないと言って。他に子供の教育機関もなかったし。そこには自分のように親に死にはぐれた子供たちが結構いて、楽しかった。みんなで一緒に学び、仕事を覚えていった。一三歳になるころには自分は修道士として会計の仕事か薬学がむいていると思うようになっていた。だが、ある日、全くの偶然で、悪がきの一人が言ったんだ。個人の所有物の保管庫を見てみようって。私は止めたのだがその子は鍵をちょろまかして持っていてもうこんな機会はないよって、ほら、おまえの剣だって投げてよこしたんだ。父のだってすぐに思い出した。この剣だ。一三才の子供には重かったが、抜いてみると正義と公平の文字が刻まれていて、その時はっきりと自分の行く道を決めたんだ。修道院長に相談して、大きな城塞都市の騎士見習いからスタートした」
「それで騎士に?」
「いや、私は街中にあったその大きな城での内勤からのスタートだった」
「内勤! すごい剣の使い手を? どうゆう見る目のない者がそのような人事を!」
と、あっけにとられた顔をしたので彼は笑った。
「最初から今のように剣を使えていたわけではなかったんです。修道院で剣は習えないし、修道院での一番の得意科目は会計と薬学でしたから。修道院長の推薦状もその方面で出たので、勤め先の城に着くやいなや、城の奥方様に呼ばれて過去十年分の帳簿合わせをさせられました。修道院が最新式のジェノバの複式簿記を採用していたことを推薦状で読み、そのやり方でチェックするようにと。不審な点をいくつか指摘すると大層喜ばれて、特別給金として金貨をくれました。初めての給金だった。あとは薬局部門が主な働き場所で、会計監査部門や薬局部門からお許しが出ると他の騎士見習いの少年たちに混じって剣の稽古をするようになったのですが、これがまあ、一番下手でした。馬上槍試合の練習なんてとんでもない。剣術はあんまり下手なんで練習相手もいなくて、立木が相手だったんです。自分でも戦場には向かないタイプかもしれないって思いました。おまけに私だけがダンスも知らなくて、騎士としての自分の行く末に不安を感じていた時だった。いきなり領主に呼ばれ、王命により十字軍に参加する。ついてはおまえを同行するって言われた時には無論、絶対に何かの間違いだ、僕は馬にも乗れませんって必死になって断った」
「馬にも乗れなかった?」
「ええ。まさかって思うでしょうけど、馬やロバに乗るのは修道院長の他は、緊急の用事で遠くまでゆく者に限られていましたから。見習修道士の子供たちなんて、徒歩だけでしたから」
「それでどうなったの?」
「子供だったから、領主にさらわれるように馬に乗せられてスクワイヤ、つまり騎士見習いの従者として十字軍の旅に無理やり出発させられた」
「なんであなたを選んだのかしら?」
「私が得意になって奥方に報告した経理の不具合は、彼の仕業だったんです。英国一の大酒飲みなんで、酒樽の数が帳簿と全然合わなくて。修道院でも時折酒におぼれる者がでるから、在庫の酒樽と帳簿を照合させたりすることがあったんです。そのことが国王の血縁でもある厳しい奥方にばれたんで、国外逃亡のために十字軍参加を決めたんです。きっとこれ以上暴かれてはまずいと思って、会計監査役の私を従者に選んで、問答無用で攫うように従者として連れて行ったんだと思います」
「なんたる不謹慎! そんな男の従者などして、よく無事に帰国できましたね」
「そう思いますよね? ところが実は彼はたいした男だったんです。酒で赤らんだ顔をしているし、太っていたから、運動系は絶対苦手だろうっ思ってましたが、初めて夜盗が出て、混戦状態になった時、尻もちついて絶体絶命の危機に瀕した私を、彼が助けてくれたんです。ものすごくいい剣さばきで。彼が先の戦争で、国王を助けたって言うのは本当だったんだってわかりました。彼は騎士の身分に昇格する叙勲の儀式を、国王に直接してもらうようなすごい人だったんです。私はその旅を通じて彼から実践的な剣と馬術を学んだんです」
「ふーん。人は見かけによらないって本当なのね」
「でも、大酒のみだったから、大変でした。ローマで悪い葡萄酒にあたって、死にはぐるほどひどいことになってしまって。同期がマルタ島で大病院を開いているから、本来のコースをはずれて治療のためにマルタ島に行ってくれって言うんですよ。見も知らない土地で迷子にでもなったら困るし、酔っ払いの言うことを信じていいものかどうか迷いましらが、どうしても行けって言うから、行ってみると、本当にすごい大病院があったんです。そこの医院長がすごいガミガミ親父で、彼の学問所の同期で、先の戦場でも一緒だった人だったんです。そこで国王の命を救って、私の主人は大貴族となり、この友人はここに大病院を開いたんです。「ここはイスラム教徒と戦って負傷した勇者を専門に治療する所であって、意地汚くも、変なにおいがするなと思いながら、腐った酒を大量に飲み、あたったなどというバカ者につける薬はない!」ってすごく怒られて、「私が働いて償いますからどうか治療してやってください。悪い人じゃないんです」って必死に頼み込んで診てもらった。雑用係としてあれこれいいつけられて目の回る忙しさだったけど、すごくいい経験になった。三日目には主人もすっかり良くなって、私は頑張った褒美に院長からこのマヨルカ焼きの薬湯壺をもらったんです。「この男の従者なんてやっていると、妊娠させられて、やつの靴下を洗うはめになる。今度は正式に修行においで」って。主人の学友だけあって、口は悪い人だったけど、筋金入りの優秀な人で、認めてくれた時には嬉しかった。以来、宝物で。アラブの最先端の知識を利用していて、そこで学んだことはすごく多くて、英国で活かそうって思っているんです。寄り道したせいで集合場所のコンスタンチノープルに遅れそうになった時なんて冷や汗ものでしたけどね」
彼女は再び大きく笑った。
乳母の咳払いが聞こえた。姫は星空を見上げた。あしたもよい天気になりそうだった。
「あしたまた、話の続きをきけますか? 当番でなければ?」
「ええ。食後のこの時間以外を当番にあてますから。送ります。」
リチャードは訓練された兵士らしくすっと立ち上がった。姫もそうしようと思えばできそうだと思ったが、そっと差し出された彼の手を取って立ち上がった。
姫の天幕には二人の交際を快く思っていない乳母が今や遅しと待っていた。隊長であることをかさに、見張り当番をしないですますなど、考えすらしない公平さは彼の美点だが、乳母は姫の結婚相手の必須の条件に貴族の地位と財産をあげた。
リチャードは人格的には勿論問題はない。だが彼のの小さな人口十人の村などは、権力とは程遠く、吹けば飛ぶような心細いものだ。国家、最低でも州の単位でなければ、姫の安全は確保できないではないか。
リチャードには深夜の見張りの交代当番が待っており、姫には口やかましい乳母による貧乏隊長ではなく、英国の有力貴族と結婚する優位性に関する長い説教が待ち受けていた。
「ふーん。若いのに変な苦労を積んできたんだ。」
「どうも色んなことに詳しいと思った。」
「でもプロポーズはなかったわ。皆様覚悟はよろしくて?」
リチャードが姫を天幕に送り届け、夜勤の任に就こうとすると、いつもなら寝静まっているはずなのに、焚火のあたりに昼間のようにうようよ人がおり、焚火の明かりを頼りに財布から金をチャリチャリ出し入れする音がした。彼がいつプロポーズするかが賭けの対象になっており、今日がその締め日らしかった。
「姫様、私はあなた様のお母様よりあなた様を一流の貴婦人に育て上げ、一流の貴族に嫁がせるように仰せつかり、あなた様を幼少のみきりよりそのように躾けてきたつもりですが、最近の姫様のやることと言ったら、荷馬車の中で毎日ベットマットのワラを引っ張り出して真剣に編んで巨大な魚網など作って、川に出るたび漁師のまねごとなどして。おまけに敵兵のヘルメットを拾ってきて鍛冶屋にフライパンに打ち直させて、料理するんですからね。」
「そんなこと言ったって、あんなまずいスープを飲み続けたら、英国にたどり着く前に死にます。道具がなければ作れば良いのです。次は隊長に頼んで敵兵の甲冑一式をもらってきてもらいましょう。私の考えでは煙突付きのオーブンができるはずです。」
「適応力ありすぎです! 貴婦人の針仕事は刺繍だけ。ワラで魚網を編むんですからね!」
リチャードが魚網を借りに来て、この網を兵士達に持たせておいて、盗賊の一味を追いこみ、文字通り一網打尽にし、「どの甲冑がいいですか?」と聞きに来た時は、乳母の脳の血管は切れそうになった。
修道院あがりで学術的なものに興味津々のリチャードは、昼休みや、夕食後の時間を利用して姫から天文学を詳しく習っていた。そしてある日巡礼団の鍛冶屋の親父に小さな炉を借りると、怪しげな笑みを浮かべながら、彼のとっておきのローマ金貨一枚を取り出して溶かし始めた。金貨に刻印された月桂樹の冠をかぶった皇帝の横顔がでろでろと不気味に鎔けた。
「やばいだろ、隊長、どんなに貧しくても安い金属まぜての金貨の偽造は天下のご法度、ローマ兵も見てますぜ」
「オレは何も見てねーよ。組織も離れたし。で、何を作っているんだい?」
ゲオルクも興味津々でリチャードの手元を見つめた。
「偽造金貨ではない。失礼な。高度な実用品だ。私の計算に間違いがなければ日時計ができるはずだ。」
「金貨一枚分で日時計が? 小さすぎないか?」
「いいんだ。携帯用なんだから。」
更に手元をみていると指輪のようなものを作り、一か所に小さな穴をあけ、あらかじめ印をつけてある紐にあわせて穴の反対側にローマ数字を上下二列に丁寧に書き込んだ。地面を水平にしてそこに指輪の穴を上に向け、太陽の光のあたる位置を確かめた。周りの現在の太陽の高さと影の長さを比べ満足そうにニヤッと笑った。
「できた。穴から差し込む太陽光線の位置で時間がわかるんだ」
姫のテントに飛んで行った。
「姫様に捧げるつもりだったのか」
「金貨一枚分だからな。こんなもので私の心が買えるとお思い? ツーン、て、ふられるんじゃないの?」
「まあ、ここは温かく見守ってやろうじゃないか」
彼女はひとしきり笑い転げた後、細い金の鎖を持ちだしてきて、それに通して首に掛けた。彼女のほっそりとした指にはゆるすぎたようだが、とりあえず、お気に召したようで、休憩のときなど取り出しては日に向けて、時間を確かめくすくす笑っていた。
この鬱蒼とした森林をもうすぐ抜けられる。次はいよいよ大きな街に出るのだ。そこで姫に必要なものをいろいろ買いたすことができる。宿屋もあるから姫もゆっくり休めるだろう。だが、どこもそうだが大きい街には城門があり、日没で閉まることになっている。一刻も早くここを出て、城門をくぐりたい。
この辺りはゲオルクの地元に近く、彼は森林の香りが違ってきた! とうれしそうだった。針葉樹の堆積した独特の香りだ。この辺りは湧き水の名所で、城門をくぐる前に、姫様用の飲み水だけはこちらの名水を汲んでおいた方がよかろうということになった。乳母もこの申し出を喜び、このような人気のない森なら大丈夫であろうと姫に相応しい銀の水指をリチャードに渡した。リチャードは姫の喜ぶ顔が見たくて、部隊を先に進ませ、自分が水を汲んで、後から追いかけることにした。
水場は難なく見つかるだろうと思ったのだが、泉を示す標識に従ってきたのに、彼は同じところをぐるぐる回ってしまった。辺りも薄暗くなってきた。突然、妖精のような娘が現れ、彼はあわてて馬をとめた。礼儀正しく馬から降りて話しかけた。
「すみません。この辺に湧水はありませんか。さっきから迷ってしまって。」
娘は彼の手の銀の水指を驚嘆の目で見つめた。いかなる神の細工かと思ったことだろう。驚くほど繊細な彫刻が施されているのだ。彼もそう思った。皇帝への献上品のレベルの高さを知らされる。これを見ていつかこのような一流の職人を住まわせるだけの街を作ってみせると気概を新たにしたところだ。
「さる身分の高い人用の飲み水をこれに一杯汲ませてほしいのです。私は巡礼団を守っているもので、あやしいものではありません。」
娘は頷き、ついてくるように合図した。湧き水の道路標識を無視した道筋を入ってゆくと、小さな泉があった。
「ありがとう。」
「町のお祭りに行かれるのですか?」
「お祭りがあるのですか? 知りませんでした。我々はそこで今日は泊まり、あすまた出発します。冬が来ない内に急いで英国にたどり着きたいのです。」
「英国、この剣の家紋、あなたひょっとして、リチャード? ほら、小さい頃、あなたの家に遊びに行って、こっそりお酒を飲んであなたのお母さんに叱られた」
「まさか、ミラベル! お父さんは今、こっちの建築現場で働いているのかい?」
「そう。父は亡くなり、今は私が建築家よ。お祭りではダンスがあるんだけど、あなたは踊ったりしないの?」
「踊れないからね。あれから両親が亡くなって、修道院にいたんだ。ダンスのことなんて何もわからないし」
彼女は悲しそうな顔をしたが、事実だから仕方がない。城勤めで見習騎士になったばかりの頃、他の少年たちにダンスを知らないと言ったら、驚かれた。同じ年頃の娘と口をきいたこともなかった。城勤めになってから、貴族の来客に無礼にならないようにと、やれダンスや女性に対する宮中作法やと習ったが、なにせ付け焼刃なので自信がない。博学で知られた修道院長は大貴族の出身で、こういう社交の世界も知っていたはずだが、あたりまえだが祈りと労働の修道院では必要のないことなので、教えていなかった。
「隊長! よかったご無事で! そちらの方は?」
「幼馴染のミラベルだ。建築家だよ。湧き水の場所を教えてもらったんだ。ありがとう」
城門がもうじき閉まりそうなので、怪我でもしたのかと、一番若い兵士が心配して探しに来てくれたのだった。ミラベルは城壁の外の村に泊まっているというので、リチャード達は城門に駆け込み、同時に日が落ちて、城門が閉じられた。大きい街だけあって、宿屋は何件もあったが、彼に導かれて、我らが姫君の宿泊所に急いで水を届けた。乳母に渡すとすぐに彼は宿屋を出たのだが、やけにたくさんの女たちから声をかけられた。質問も答えも同じだったが。
「踊らない?」
「踊らない」
「リチャード! さっきから捜していたんだよ! 収穫祭があるらしい。広場でダンスがあるってさ。誰でも参加できるんだ。早く行って姫様を誘って来いよ! 楽師たちもそろい始めている。早く! お祭りは無礼講なんだぞ。こんなチャンスもう無いぞ!」
ゲオルクにせきたてられるがそんなこと言ったって、ダンスは城で一応習ったのだが苦手だった。楽しいとも思えなかった。
「ダンスは苦手だし、姫が踊ってくれるわけないじゃないか。それにここらの商人に聞いて回りたいんだ。どうして大きな河川もない内陸の都市なのに、こんなに栄えているのか。あの塔のからくり時計なんてすごいじゃないか。」
「あの程度ならおれも作らせた。イスラム軍の連中に壊されたがね。ここらの土地は塩の鉱脈があって、それで儲けているんだ。でも掘って売っているだけさ。堀尽くしちまったら、何も残らねえよ。さあ、講義は終わり。早く行って踊ってこい!」
「でも・・・」
「大丈夫、ここら辺のダンスは曲に合わせてくるくる回ればいいだけだから。時々反対側に回ったりすることもあるけど、そんなの周りに合わせればいいだけだから。ああ、曲がはじまっちまう! 早く!」
噂をすれば影、姫が目の前に立っていた。いつもの肌を隠す旅姿ではなく、天女のような軽やかな薄絹のドレス姿で、月光を浴びた白い肌が肩から胸にかけて輝いていた。豪華な総刺繍の婚礼衣装姿も素敵だったが、このようななまめかしい姿はそれにもまして美しかった。
姫に申し込むべきか、慣習に従って、後ろで目を光らせてる乳母に断りを入れるべきか迷ったが、乳母はにべもなく却下するに決まっている。
「姫、踊っていただけますか?」
習い覚えた宮中作法に従って、彼は足を後ろに引いて膝を曲げ、正式に礼をとって、姫に申し込んだ。彼の真っ直ぐな瞳に姫は微笑み、頷いた。彼女も優雅に膝を曲げ、礼をした。頬がほんのりバラ色になっていた。二人は手を取り合って曲に乗って踊り始めた。
隣のカップルを見習って、互いの右手を挙げてくるりとターンした。回る時にじゃまなので姫は変装用に身につけていた本来既婚女性が身に付ける髪を隠すためのウインプルもベールもはずした。姫の美しい顔や髪がよく見えた。あまりの美しさに周りの男たちが群がってきた。中の一人が言った。
「この街では領主が好の女性と一曲踊っていいことになっている」
本当にこの街の領主かどうか怪しい。この華美な服装の太った男はただの裕福な商人ではなかろうか。第一、初夜権ですら廃止している領主も多い世の中だ。絶対ウソに決まっている。絶対に彼女を手放すものか。
「私は決闘で手加減するような男ではありませんが」
彼は半分本気で言い、男はこそこそと去り、彼女はくすくす笑った。リチャードは気づいていなかったが、文句を言っている着飾った女達もいた。
「誰が踊らないって?」
たぶん宿屋で彼に声をかけた女達であろう。
こんなに楽しい夜は、人生初めてだった。
芸術家によくいるタイプだが、芸術のためならば常識をかなぐり捨てる、あるいはその突出した才能のために常識を身につけるのを忘れてきたタイプ。ミラベルはその両方だった。
美しい泉の絵を描きあげるまで他人に邪魔されぬよう、道路標識の向きを変えたのは彼女だった。当時としても珍しい女性の天才建築家にして天才画家は美しいものを描くためには手段を選ばなかった。泉だけの絵ではつまらぬ。祭りのために警備の者がいなかったとはいえ、ほぼ垂直に切り立つ城壁をよじのぼって街にはいった。
美しく立派に成長したリチャードの絵は銀の水指を持つ姿で日が沈む前に一気に書き上げてしまった。彼女は仕事が早いのだ。筆が乗っている。まだ描き足りなかった。
リチャードが踊っている相手を見て驚愕した。この世のものとは思えぬ美しい女が軽い薄絹をまとっただけの姿で軽やかに踊っていた。天女だ。早く描かねば天に舞い戻ってしまうかもしれないではないか。彼女は精密に描くのに筆が早く、仕上げると、羽振りの良さそうな商人がすぐに買いたいと言ってきた。自分でもいい出来栄えだったので、こんなにすぐには手放したくなく、一枚につき金貨二十枚といってやったら、安い、と言われ、喜んで買われてしまった。金貨百枚と言うべきであった。今彼女の絵はその値段で売買されている。
商人は彼女のもっと大きな絵が欲しいと言った。絵の具が切れてきたというと高価な顔料は商売道具で持っているから描いてくれと言われた。泉を背景に銀の水指を持った端正な男の絵は「要らん」と言われてしまった。天女の絵だけが欲しいという。引き受けた。彼女は一度見たものは決して忘れない。天女の舞う姿をアップにして素早くもう一枚描いて、男の絵とセットにして金貨百枚で売った。リチャードの絵とセットにしたのは画家の目で見て二人が惹かれあっているのが分かったからだ。別れ別れにするのはしのびない。
現存する彼女の最高値の作品は金貨千枚の「天女の水浴」である。木漏れ日のなかで、奔放に水しぶきをあげている何もまとっていない天女。真珠色の肌が日の光ととけあっているようだ。彼女は自然の女神かもしれない。
二人はラストダンスも一緒に踊った。彼はあきれて姫のウインプルやベールを持って先に引き上げた乳母の待ち受ける宿屋の部屋の前まで送ってくれた。おやすみを言う前に一呼吸あった。口づけされるのではと思ったのだが、彼は礼儀正しく
「今日はありがとう。またあした」
と言って、彼女を扉の中へ入れた。その時彼の唇が髪に触れたような気がした。黒髪に黒い瞳と見えていた彼の本当の瞳の色は深い葡萄酒色だった。このことを知っている者は何人いるだろう? 甘い気分のままもっと踊っていたかった。
「秋の夜で冷えていたのに、薄絹で胸の開いたドレスなんて! ダンスに夢中になってベールもおはずしになって! そもそもあのドレスは心地よい夏の夕涼みの折、花香り、孔雀遊ぶ庭園で吟遊詩人の宴を楽しんだりする時用です。なんでこんな僻地のお祭りごときで貧乏隊長相手に着にゃあならんのですか!」
乳母はこの時とばかりに小言を言ったが、彼女は甘い気分をブチ壊されたくなかったので、さっとベッドにもぐり込み、頭から毛布をかぶった。
そんなこと言ったって兵士達が食堂で騒いでいたのだ。隊長は村の湧き水の所で城門の閉まる時間も忘れて、トルコ石のように青く澄んだ瞳と豊かな金髪の泉の精霊のようなすごい美少女と楽しそうにお祭りのダンスの話をしていたし、宿屋でも複数の女達にダンスに誘われモテモテだった。自分がその気になればもてることに気付いていないのはおそらく隊長だけだろう。今夜は無礼講の夜で、彼がその気になれば、気に入った娘と夜を共に過ごすことも可能だろうと。
彼が着飾った街娘達と楽しく踊っている姿と、見知らぬ娘とベッドを共にしている姿が同時に目に浮かび、乳母の制止も聞かず、自分でも寒いだろうと思ったが、迷わず一番魅力的に見えそうなドレスを選び、飛び出したのだ。ああ、リチャードが他の女の子を誘ったらどうしよう! 私も、私も、彼に踊ってもらいたいのだ! あの情熱的な瞳の彼に!
「男に振り回される人生を送る気はない。ダンスに興味などない。修道院の静謐の中で一生読書にあけくれて日を送るとおっしゃっていたのはどこのどちら様でしたっけ?」
背後に迫る乳母にさんざん嫌味を言われながらも、彼女は広場で彼を見つけ、彼に申し込まれ、その夜二人はずっと一緒に踊ったのだ。ウインプルもベールも外してしまったのは、ありのままの自分の本当の姿でリチャードと踊りたかったからだ。彼は彼女にダンスを申し込む男達を次々と断った。強引な者には決闘を申し込んで断っていた。修道院育ちで、礼儀を重んじる彼にしては、珍しいことだった。一度も彼女を手放さず、見つめあって踊った。少し照れたような、困ったような彼の瞳を見ながら、人生これほど楽しいと思ったことはなかった。
後々までの語り草になったことだが、最初に断られた男は本当にあの街の領主で、隣の州の領主だったゲオルクの友人だった。
翌朝、出発準備を早々に済ませたリチャードが朝市をぶらついていると、コンスタンス姫もいつもの旅姿で出てきた。二人は一緒に市場を回った。久々に見る大きな市だった。
「きのうはありがとう。楽しかった」
「ダンスは苦手だと聞いていたのに上手ね。足も踏まれなかった。こんなにダンスが楽しいものだって思ったの初めて」
「それは私もです」
「城勤めの頃、パーティーが多かったんでしょ?」
なんとなく十四才で城勤めしていた頃の彼が想像できた。優秀で、自分の専門分野については少し生意気で、ありとあらゆることに好奇心旺盛な少年。端正な容貌はもう十分に表れていただろうから、彼とあまり年の変わらない小間使い達がほっておくとはとても思えなかった。城でダンスパーティがある度にひっぱりだこだったのではあるまいか。
「私は見習い騎士の立場でしたから、パーティに参加するのではなく、お客様に料理を運ぶ係りでした。大きな城だったので、そういうのも見習い騎士の仕事だったんです。その他にも警備の仕事の臨時増員もあって、私は剣術の方も力をつけたいと思っていたので、私も警備に回して下さいって言ったら、奥方様にすごい剣幕で大反対されました。「饗宴とは、自分の富、権力、文化的教養を見せつけるためにするものなの。あのバカ共に給仕させて私が大恥をかくためにするんじゃない! あの連中に優雅な振る舞いを身につけさせるには百年かかる!」ってどなられて。それでもって今度は猫なで声で「修道院で鍛えたおまえだけなんだよ、いざって時ラテン語も喋れるし、上席から配る順番やなにかを間違えないのは。つまみ食いもしないし、料理も落としたりしないし、安心して上客の前に出せる行儀作法が身についているのはおまえしかいないだろうが。私の顔に泥をぬらないでおくれ」ってすがられてそういう役割分担に。奥方様の予定している何人前の献立をどう配ってゆくか、厨房の人達とも打ち合わせして、食器の種類も数も確認したりの仕事で、ダンスも剣術も習う時間があまりないまま、大変な本番が来てしまったんです」
「何が起きたの?」
「当初接待用の芸人を呼ぶはずだったのに、当日になってから、客の一家のわがまま娘がなんと芸人など見あきている。ダンスにして欲しいって言ってきたんです。領主はもちろん、奥方様も結構年で、実はダンスはしんどいから、あんまり好きじゃなかったんです。そんなわけで楽士達は呼んであったんだけど、若い娘のダンスの相手が務まるような若い男をそもそも客として招待していなかったんです」
「それでもしや?」
「そう。私に白羽の矢が当たってしまって。必死になって断ったけどだめだった。警備に回っている仲間の中に僕よりダンスの上手な子がいくらでもいますっていっても、「あの連中に女性への礼儀作法や教養を教える時間はない。おまえにダンスを教える方が早いはずだ。幸い楽士達はもう到着しているから、大丈夫、音楽がかかれば、ネコでさえ踊れる!」って。とりあえず三拍子の曲だけ踊れるようにして、楽士達と打ち合わせて僕が踊る時は三拍子の曲しか演奏しないことにして、それ以外の拍子の曲の時は飲み物を取りに行ったり、バルコニーでお話ししてやりすごすって決められた」
「なかなか芸が細かいのね。」
「奥方様は何事も完璧主義だから。楽団や歌手との打ち合わせもすごく緻密で、何番目の料理が出たら、何の曲、何の歌と決めていた。デザートの前にテーブルセッテイングを変えるとか、デザートが終わったら、テーブルそのものを片づけて、床を掃き清めて、埃が立たぬよう水を打ってダンスタイムに突入するというところまで決められていた。私はたまたま説明も付けられないような大陸の果てから遊びに来ていた奥方様の遠縁中の遠縁、はとこの、はとこの、はとこって設定となった」
彼女はもうこらえきれずに大きく笑った。
「そのわがまま娘はせいぜい私と同じくらいの子供だったんですけど、自分が美人だってうぬぼれていて、まあ、姫を見たら恥ずかしくて自分が美人だなどと言えないでしょうが。とにかくすっごく生意気ないやな子で、ダンスをすれば、絶対にわざと私の足を何度も踏むし、バルコニーでは僕の身元について詳しく聞こうとするし、白状しないと突き落とすって脅すし。奥方様からは何があっても身元について口を割るなって言われてて、仕方なく英語があまりよくわからないふりをしてラテン語で話したりして、結構命がけだった」
「そのすさまじい子からどうやってのがれたの?」
「何か特技を見せたら解放するって言われて、バルコニーでラテン語の賛美歌五〇曲メドレーやったんです」
彼女は再び大きく笑った。
市場はだんだん活気を帯びてきた。みんなまだ久々の大きな街であれこれ買い物でもしているのか、まだ出発準備完了を知らせる兵士はこなかった。
兵士達も市場にいた。ただ、二人の雰囲気からひょっとして昨晩プロポーズがあったかどうか知りたくて、気づかれぬよう雑踏にまみれながら後ろについていた。昨晩姫と踊っていたことはみんなに知られていた。とりあえず姫の指に指輪はない。この街ならば姫の挙式にふさわしい大聖堂があるのだが。
「俺達に常々厳しくよその街で喧嘩をするなと言っておきながら、姫と踊りたいって言った男達に片っ端から決闘売ってたよな」
「お作法はどうしたんだよ。お行儀は?」
さぼるな、働け、喧嘩をするな、は、盗むな、殺すな、姦淫するな、の聖書の教えの次に、ともすれば愚連隊のようになってしまう護衛隊の連中を統括するために、リチャードが定めた軍内規律だが、姫が旅に加わってから、行儀作法を守れが追加されていた。
「隊長たるもの、誰よりも幸せになって規範を示さねばならんというのに、何をぐずぐずしておる?」
「ゲオルク、おまえ、地元だろ。なにをぼやぼやしておった?」
「ちゃんと姫をダンスに誘うように仕向けたし、今夜は無礼講だと念も押した」
「おまえは詰めが甘い! お前以外で上流貴族の結婚の申し込み方を知っているやつがいると思うなよ! なんでそこまでちゃんと指導しなかった! 隊長は合法にこだわる男なんだぞ!」
「え? 姫を祭壇の前まで曳きずって行ってからベットへ突入すればいいんじゃないのか?」
「大雑把すぎだろ!」
「この街の大聖堂を虚しく通過するとは! 誰の責任かわかってんだろうな!」
ゲオルクは監督不行き届きの代償として、極上の葡萄酒一樽を買わされた。今晩はやけ酒、残念パーティだ。この街の大聖堂の立派さは広く知られており、この街でプロポーズに賭けていた者は兵士達にも巡礼団にも多かったのだ。
コンスタンチノープル程ではないが、やはり大きな市場のにぎわいは楽しい。
彼は前回の十字軍で主人と一緒に初めてコンスタンチノープルの大きな市場に行った時のことを話した。
大規模で世界中の品物が並んでおり、ものすごい人ごみで、主人は
「はぐれるなよ、子供は売り飛ばされるぞ!」
と注意しておきながら、忽然と姿を消した。まだ少年だった彼は青ざめ、必死で主人を探すと、なんと居酒屋で酒を飲んでいた。
「なんだ」
居所が分かり、安心すると持前の好奇心で、スパイスの香る珍しい東洋の品々を扱う店など、あちこち一人で見て回った。中に一件、本を扱う店があった。ものすごい高値で、彼の所持金ごときで買えるものではなかった。店主が居眠りしていたので、彼は本を開いた。アラビアの最新化学知識をラテン語に翻訳したすぐれもので、夢中で読み始めた。どれぐらい時間がたったかなど気づきもしなかった。
「これくらいの背丈の黒髪のナマイキなガキ見なかった? ひょっとして売り飛ばされたかも!」
彼が聞き覚えのある声に反応してふいと本から顔を上げると、
「リチャード! どれほど捜したと思ってんだよ、心配させやがって! 酔いが醒めちまったよ!」
彼はしっかりリチャードをだきしめた。こんなことはしたことが無かった。
「ごめんなさい。でも、もう少しで読み終わるんです」
「はああ?」
「いいでしょ? だって高くて買えないんだもん」
「いったいいくらするんだい?出発時間てもんがある」
「金貨十枚だって。」
「金貨十枚! 極上の葡萄酒が酒樽で何個買えると思っているんだよ!」
店主が
「アラビアの最新知識だよ。安いくらいだ。今買わなきゃ売れちまうよ」
「買って!」
「うう! そんな瞳で見るな! ええ半値で買ってやるわい!」
「半値! 冗談じゃない!」
「やかましい! こんな本が早々売れるか、ふっかけやがって! こちとらは略奪しようってんじゃない、金を払うっていってんだよこのクソ親父! 半値だ!」
体格良くかつ太り、酒が入っている上に剣を下げている男をこれ以上怒らせるのはまずいとふんだのだろう。店主は半値にしてくれた。
「ありがとう」
彼が本を抱きしめ、心から礼を言うと、
「これで貸し借り無しってことで、俺が酒であたって本来のコースを外れてマルタ島の病院に行ったことは奥方には言うなよ」
と、口止めされた。
姫は少年時代の彼が目に浮かぶようだと言って、心ゆくまで笑った。
彼女は自分から彼の腕にそっと自分の手を絡ませた。昨晩宿屋に送ってもらった時、彼はそうしてエスコートしてくれたのだ。彼の顔がうれしそうにぱっと輝いた。とても頼もしく、自信に満ちて、何があっても彼女を守ってくれる男がそこにいた。
「いらっしゃい! この絨毯は昨日入荷した上物で、一流の職人によるものですから、子孫代々までもちますよ。」
仲良く並んで歩いていた二人は若夫婦に間違えられたのだ。楽しいひと時だった。
連絡の兵士がやってきた。
運命とは本人たちの行動でダンスのようにぐるぐる回転するものかもしれない。