ギャンブルはお好き?
「ええ、いまいましい、さっさと出発したらどうなんだい?」
娯楽の少ない中、賭けに勝って、次の宿場町についたら酒でも飲もうと、大きく賭けていた老兵などは、財布を相当軽くしており、機嫌が悪かった。
巡礼団の中で機知に富み、計算の速い貴族の夫人が胴元を務めていた。彼女はコンスタンチノープルで貴重品の紙でできたノートを買いこみ、几帳面な文字で、きっちりと誰がいくらかけたか記帳していた。彼女はそれをつねに小脇に抱えて歩いており、その倍率ノートは開運ノートと呼ばれていた。
護衛の兵士達は、一番若い連絡係りの兵士を除き、薄情にも姫がコンスタンチノープルに留まる方を選んでいた。
自分達の信頼する隊長は、勝手な想像だが、小さな荘園領主で妻子持ち。きっと妻は耐えるタイプの細面の美人で、子供は黒髪の美しい女の子。行かないでと泣いてすがる彼女たちを領地に残し、生活の糧を得るために出稼ぎで護衛の仕事にきた、しがないまじめな三十男だと信じてきた。
それが兵士社会で最も忌むべき出世の早い若造だったと知った時の裏切られたような感覚! 絶対に女がほっておかない整った貴公子面! 自分達はこんな青二才に仕えていたのかという驚愕! 今また姫をぼーっと見つめてこけたな! さては初恋かっ!
上司への複雑骨折してしまった信頼感覚を修復するためにも、失恋に泣け! 隊長たるもの、自分達より強烈な不幸に耐えて、そのガッツを証明せねばならんのだ! 隊の結束を固めるためにも、出世の早い若造で、初恋もまだの未熟者上司の不幸を願い、不幸な結末に大きく賭けていた。
「初恋は破れるものと決まっておる」
「初恋の乙女は必ず別の男と結婚するものなのだ」
「んまあ! 自分達の失敗例をもとに普遍の真理のように言って、若者の気持ちをくじこうとするなんて!」
胴元夫人は立場上賭けには参加していないが、個人的にはリチャードを応援していた。
「彼が若くても、優秀であることに変わりませんわ。前隊長が亡くなった時、砂漠で立ち往生などしてたら、エルサレムのお参りどころか、今頃みんな生きてここにいませんよ」
神経質だった前隊長が病で寝たきりになってしまった時、隊長代理を務めたリチャードがいなかったらどうなっていただろう。病に苦しみにのたうちながら一刻も早く目的地エルサレムに着こうと、距離的に最短である砂漠ルートを選んだのはこの前隊長だったのだ。リチャードは無理だと反対したのに、階級の差で最終決断はこの前隊長が下したのだった。
最終決断を下しておきながら、前隊長は砂漠の真ん中で亡くなった。砂漠で立ち往生などできる温度ではなかった。追い打ちをかけるように砂嵐も起き、リチャードの指示で急いで幌も畳んで馬も寝かせ、身を低くして何とかやり過ごし、太陽や星の位置から方向を割り出せる彼の導きで、砂漠を脱出できたのだった。焚火の上に鍋をひっくり返して置いて小麦粉を水に溶いたものを乗せると見る間にパンになるなんて砂漠での素早い調理方法を知っていたのも彼だった。砂漠でベトゥインに出会ったとき、自分の金で病人用にデーツの実を買ってくれたのも彼だった。老兵たちは大金をあんな小さな木の実に使って腹の足しにもならないじゃないかと笑ったけど、実はすごく滋養に満ちていて、慣れない酷暑で熱射病でばたばた倒れていた私たちが息を吹き返せたのはそのおかげだった。彼にはもっともっと感謝してしかるべきなのに、老兵たちは彼が若く、僻地の小さな領地とはいえ領主と知ると、嫉妬に燃え、悔しそうだった。
胴元夫人はリチャード現隊長について思うところをはっきり言った。
「年下の領主って悪いことかしら? 単なる嫉妬で、隊長の資質が目減りしたかのように言わないの。彼はそれを親からの相続財産としてではなく、実力で手にしたのよ」
思いのほか若かったが、彼が経験豊富で博識で、身分に分け隔てなく公平で、強く、そして優しく誠実な男であることに違いはなかった。まあ、お姫様との結婚は無理かもしれないけど、隊長の幸せを願って、ささやかながらこの初恋を応援していた。
「おーっ、ほっ、ほっ!」
胴元夫人はこの巡礼中、かつてないほど高らかに笑い、優雅な手つきでお金袋と倍率ノートを持って、他人の失恋を面白がるような兵士や忠告に従わなかった自分の夫の前をわざとらしく見せびらかすように素通りして、巡礼団の勝者達にきっちり計算された掛け金に応じた受け取り金を配り歩いた。
姫が英国についてくる方に賭けたのは、たとえ少額しか賭けていなくとも隊長をしたう巡礼団に多かった。兵士達の中で例外的に初恋応援組に賭けた一番若い兵士にも渡した。少額だから小さな儲けだが、彼女は彼の嬉しさをわかっていた。若くても、隊長にも領主にもなれるんだと知った喜び。隊長は他の兵士たちと違い、一番の下っ端兵士の自分に偉そうな態度をとったことは一度もなかった。もともと彼の知性や剣の腕を尊敬していたが、お姫様もゲットしてくださいね、だった。
全体の賭け金が大きかったので、一割と定めている胴元である彼女の取り分も多かった。これだけあれば商売を始められるわ。
「おまえ、守銭奴は神の教えに反するよ。」
嬉しそうに金を勘定する妻に、夫は自分がケチだと思われぬよう用心しながら言った。彼も次の宿場町で酒を飲みたいと思っていたが、妻が財布の紐を緩める気配はなかった。ダニューブ河に沿って北上するにつれ、うまい葡萄酒は姿を消すのだ。
「あの婚礼の美酒は一生一度だったねえ。」
「もう一度飲みたいものだねえ。」
「いいんですかい?ゲオルクの旦那。北にはこんな葡萄酒はねえってこと忘れちまったんじゃないでしょうね?」
「酒も女も一夜の夢にすぎぬ。もはや未練はない。それよりいいのか? 胴元夫人がまた新たな賭けを始めたようだが?」
「おまえ、自分から賭けごとなど、なんということを!」
夫は妻の得た収入を、神への冒涜というより、うまい葡萄酒を飲む前に、次の賭けごとで失うことを心配した。悪銭身につかずというではないか。
「あなた、私たちは英国に戻っても内乱に巻き込まれるだけなんですよ。生真面目なあなたはぶつくさ言いながらも、国王軍につくはず。でも圧倒多数は反乱軍ですよ。あなたが兵を率いて雄々しく戦っても、その結果はどうなの? あなたは戦死し、城を守っていた私は反乱軍に包囲され、狼藉を受けるくらいなら塔から飛び降りて人生を終わらせるしかない。あなた、私たちは残念ながら子供に恵まれなかった。エルサレムまで行ってお祈りしてもだめだった。だから子供に僅かばかりの土地や財産を残す必要はない。どこか平和な町で商売でもしながら気楽な余生をすごしても罰は当たりませんよ。」
「まあそうかもしれぬが・・・そんなこと考えたこともなかった。」
妻はいつからそんなことを考えるようになったのだろう。
巡礼者達はよく眠れなかった。かつて隊長が歩哨に立つ時、厳しい野宿で、背中にごつごつした石を感じながらも至福の爆睡ができたものだった。隊長の歩幅は一定で、伴なう剣のガチャ付きも心臓の音のように規則正しく、類まれなる剣の使い手である彼に守られている安心感で、砂漠のような過酷な環境下でもいつもよりずっと深く眠れた。
だが、悩み多き若者と化した最近の隊長の動きは、悩みながら歩いては立ち止まり、星を見上げてため息をつき、しばらくじっと星を見ていたかと思うと、意を決したかのように唐突に歩き出すという不規則で不安定なものになっていた。腰からつるした剣はその都度ガチャリと音を立ててはまた止まるので、睡眠の浅くなっている老兵などは、
「えー、やかましい! 全然眠れねえ!」
と文句たらたらだった。
「コースも彼女がなるべく宿屋に泊まれるように大きな城郭都市のある街道沿いを選んでたし」
「美人に弱いんだ。彼女が我々と同じ巡礼団定食を食べないのはわがままからだろう」
保存用の塩漬け豚の肉をカラス麦と煮たものだが、お姫様の口に合うはずもなく、彼女は見るのも嫌がり、配られた食事をそばを通る子供に器ごと与えていた。新鮮な水しか受け付けず、水筒の水も飲まないので、体が弱っているのは目に見えていた。乳母が心配して叱ったりするのだが、どうしても受け付けなかった。こんなことでは長旅は命取りだ。
食事時に姫のそばに行くとスープがもらえることをわかっているので、腹を空かせた子供達がいつもよってきていたのだが、子供ですら姫が具合が悪そうにしているのを心配し始めていた。命取りになる不治の病ではないが、食が細いのと旅の途中で携帯用の水筒の水を飲みたがらないことからくる脱水症状や熱射病だった。変に我慢強いところもあり、何でもないと言い張り、本式に臥せるほど具合が悪くなってから、乳母が隊長のところへ飛んで行き、診察とハーブの薬湯の調合を頼んだりするので、気が気ではなかった。
こんなことが繰り返されるようでは、彼女の体力では英国までたどり着けまい。
リチャードが選んだのは自分は野宿でも何が何でも彼女を宿屋に泊らせるというコース選びだった。宿代も彼女の持参するローマ金貨を使うのは危険が大きいということで、節約家の彼の路銀から支払われていた。一年近くも共に旅をしているとみんな家族も同然である。ふーん、そうなんだ。次なる賭けは彼がライン川の手前までで姫に告白できるかだ。
リチャードはひげを落としてから、どうも調子が出ない。貫禄が出ないせいで、隊長として明日のスケジュールなどをみんなに話そうとしても、誰も聞こうとしない。以前はこんなことはなかった。青二才としてなめられているというか、無視されているような気さえする。以前はさすが隊長と言われていたことが、同じことを言っても、くちばしの黄色い奴がうるさいこと言いやがって! と言われる。
それに比べて胴元夫人が声を張り上げることなくいつもの気取った調子で
「皆様にお金のお話があります。」
と一言いうと、夕食準備の一番ざわついている時ですら物音一つせずにシーンと静まり、皆、彼女の方を目を皿のようにしてしっかり見るのだ。走り回っていた子供ですら時が止まったように動きが止まり、彼女をじっと見ている。
「人徳の差かああっ!」
「落ち着け。話の内容の差で、人徳の差じゃねえ」
ゲオルクは笑いながらリチャードに言った。だが、若い彼に失恋が重なったりすればしばらくは再生不能なまでに落ち込むことであろう。
ゲオルクは悩み始るリチャードの良き相談役になるよう心がけることにした。生まれて初めての恋で、どうしたらよいのかわからないのだろうと想像はついていた。幼いころに両親と死別し、修道院で暮らし、そのあと他の少年たちと城に剣術を習いに行って、いきなり十字軍である。女性と知り合う暇などなかったに違いない。
ゲオルクは、所属組織こそ違ったが、隊長同士ということで、これまでリチャードを対等に扱ってきたが、リチャードの年齢が自分の息子と同じくらいで、領地の規模が(ゲオルクの場合、失っていたが、)大貴族と名もない村の村長くらいに違うことから、フレンドリーな親父という感じで接するようになっていた。ゲルマン系に多いが、空色の瞳と白っぽい金髪で、苦労も悲劇も知っている分、慈愛に満ちたまなざしでリチャードを見た。
平和な世ならば、村の祭りなどで近隣の領主の娘と踊ったりという機会があるのだが。妻の持参金目当てに自分より資産家の結婚相手を選ぶ男もいるが、大抵の場合、貴族としてのランクも、荘園の規模も同程度の者同士であった。彼が気に病んでいるのはたとえ身分を失っているとはいえ大国の姫君で、持参金も莫大だということだ。彼の資産の比ではない。王族は王族同士、または大貴族と結婚するのが普通だ。身分も資産も格差が大きすぎて手も足も出ないと彼は考えているようだった。だが彼は肝心なことをわかっていない。最期を決めるのは姫自身なのだ。女という生き物は、見た目がいい上に頭もよく、その根性で必ず成功するであろう男をほっぽっておくほどまぬけではない。身分の束縛を受けなくなった姫は、もともとの分別に加え、意志強く、自分の判断で動くようになっていた。彼を選ぶかもしれなかった。逆に言えば彼女が選びさえすれば、身分を失った彼女には反対する両親、親戚、王族などはいないのだ。
「最近、元気がないようじゃないか。言っとくが、女は、この男についてゆくかどうかを資産だけで決めるわけじゃないんだぜ。あの時彼女はコンスタンチノープルを選ばなかっただろうが。今度の旅で何を学んだ? 何か計画していることがあるんだろ?」
少し離れた所に立っている姫が聞くともなしに二人の会話を聞いているような気がした。だがリチャードは意を決して言った。爆笑されようとそれが何だ。きっと成し遂げてみせる。
「村を立派な都市にして、大学や病院、銀行もつくるんだ!」
グワッハッハッ! ゲオルクは大爆笑し、姫は礼を失しないように咄嗟にこちらに背を向けたが、こらえきれず腹を抱えて笑った。やっぱり聞いていたのか。
今まで散々通過してきた貧しい村の数々から、彼の封土とやらの村の規模の想像はついていた。大学は首都にこそふさわしい。だが何もないからこそ、発展の余地があるのではないだろうか。地方の中核都市は目指せるかもしれない。無論、大学、病院、銀行付きで。
「頑張れリチャード、男の本当の価値は人生何に熱くなっているかで決まるんだ」