やみつき
打ち合わせを済ませると、しばらくは各々が自由な時間を過ごす。もちろん、俺はバットの素振りに剣術の復習、それから筋トレと彗星の一撃をもとにした身体操作だ。バットの素振りは趣味のようなものだけど、それ以外は魔法戦士である俺の能力を維持するのに必須のトレーニングだな。
十分に体を動かした後は、リビングでゆっくりと休息をとる。それを待っていたかのようにやって来たユリーシャと、とりとめのない話をすることにしよう。心の安定は必要不可欠なことだからね。
もっとも俺達は単におしゃべりに夢中になっている訳ではない。俺もユリーシャも、周囲の様子を不可視の錫杖で探りながらのおしゃべりだ。
このカルルタリチェでも、あの女の仕組んだ何らかの事件に遭遇する可能性は高い。その芽というものは、街ゆく人々の中にあるものだ。ならば、それを見つけることができるかもしれない。
とは言え、そう簡単に事件の芽なんて見つからないものだ。結局、何事もなく、平穏に時は流れていった。そうこうしているうちに、夕食の時間である。みんな揃って再び『インシグネ』に行くことにしよう。
「ここのおすすめはピンクタルタルのチキン南蛮だけではないのです。やみつきローストビーフ丼もおすすめですよ～」
フェリシアさんによると、このローストビーフ丼はあのチキン南蛮と人気を二分しているそうな。となれば、ここはローストビーフ丼一択だろう。待つこと数分、出てきたローストビーフ丼は、期待を裏切らないものだった。
見るからに美味しそうなローストビーフがたっぷりと乗せられている。もちろん、ご飯なんて見えはしない。これは絶対に旨いヤツだ…早速いただくことにしよう。
「玉ねぎとトマトの甘酸っぱいタレがいい仕事をしているな…」
「この酸味の効いたタレこそがやみつきの原因なのですよ～」
さすがは料理ガチ勢。カレンとフェリシアさんは、見るところが違うな。
「粗挽き黒胡椒もいいアクセントになっている…タレとの親和性もいいな」
「白だしで炊いたご飯も最高ですよ～」
料理ガチコンビの解説は止まりそうにない。
「これなら暑い時期でもペロッと食べられますね」
舌が肥えておられるユリーシャ様も、しっかりと見ております。
一方で、その他3名は無言でガツガツ食べている。それにしても旨い！ローストビーフはたっぷりあるから、誰もが大満足である。その名に偽りなし…また食べたくなるね。
『インシグネ』には、『ピーノリブロ』のように木彫りの人形やトートバッグなどの展示スペースはない。それでもこの店は、地域の人の憩いの場になっている。
ここに来たのは今日が初めてだが、お店の雰囲気が似ているね…マニュアルのようなものがあるのかもしれない。待っているお客さんもいるようだし、食後のティータイムを堪能したらコテージに戻ることにしよう。
『インシグネ』の営業が終わる22時までは、再び自由な時間を過ごす。暇なのだろう…ユリーシャとカレンは俺の部屋で寛いでいる。こうなることが分かっていれば、俺がユリーシャの部屋に行っていたんだけどね…まあ、仕方がない。
こうなってくると、トレーニングをし続けることは悪手だ。適当なところで切り上げて、お喋りを楽しむことにしよう。
カレンが淹れてくれた紅茶を楽しみながら、俺達は時間までのんびりと過ごす。そして、迎えた22時過ぎにマニエラさんがコテージを訪ねてきた。
「『インシグネ』の女将、マニエラです。ユリーシャ様のようなお方にご宿泊いただき、光栄の至りに存じます」
マニエラさん、そんなに畏まらなくてもいいと思うぞ。
「今はただのユリーシャ・セレナソルノです。ですから、そのように畏まる必要はありませんよ。しばらくの間、こちらでお世話になります」
ユリーシャもそう言っているんだし。
とは言え、ユリーシャがいつものように椅子から立ち上がって深々と頭を下げるもんだから、マニエラさんは狼狽えまくっております。いつものことだからね…仕方がないね。一通りの挨拶が終わると、今後のことについて話し合うことにしよう。
「誰かさんから事前に聞いているかもしれないが…俺達はサクリファスでもパルシファルでも事件に遭遇した。このカルルタリチェでもそうなる可能性は高いと思う。その場合はここの魔法戦士と連携して事に当たなければならないが…そこら辺は大丈夫か？」
ジルニトラのようなお偉いさんがいてくれると助かるんだがな。
「カルルタリチェの西部方面を指揮している団長のゼフィルスは、レガルディアの魔法戦士でもあるから…十分な協力ができると思うわ」
それは心強いな。
「何が起こるか分からないけど、上手く対処できそうね」
アマユキの言う通りだ…もちろん何も起こらないのが一番いいが、そうは問屋が卸さないからね。
「ゼフィルス以外にも、カルルタリチェには数名の魔法戦士が正体を偽り働いています。事件が起きれば、全力で支援させていただきます」
頼りにしてるぜ。でも、まるでトラブルメーカーのようで…嫌になるね。
「騒動を起こすようなことは望んでいないのですが…おそらくそうなってしまうことを申し訳なく思っています」
ユリーシャもそれを感じているのか…複雑そうな表情だ。
「そんなに気にする必要はないかと。ユリーシャ様が来られなくても、カルルタリチェでは事件が起きていますから」
マニエラさんはユリーシャに気を使っているが、確かに俺達が来なくても事件は起きているのだ。
今日はマニエラさんだけがコテージを訪ねてきたが、近いうちに他の魔法戦士の紹介をしてもらえることになった。カルルタリチェでもあの女は必ず動いてくる。これまでの経緯から考えても、捕まえるのは容易なことではないだろう…少しでも近付けるといいんだけどな。
