Ⅸ.秘めたるロベリア
ダリアが頼った相手は最愛の夫となったニコライだった。
リコリスは彼女が気付いていないことをしりながらも、あえて話さなかった。もしも彼が自分を裏切っているなどと言えば、今後に大きな影響を及ぼすやもと仕方なく黙っていた。それが裏目に出てしまった、と言えるだろう。
「どうした? まあ、少しくらいなら時間はあるが」
「そう。じゃ良かった、ちょっとお茶会の準備を手伝ってくれない?」
「……おい、俺は小間使いじゃないんだぞ」
「んもう、そんなの分かってるわよ。ただ、あまり人に聞かれたくない話なの」
彼女の真剣な眼差しに、いつもと違う雰囲気を感じ取ったニコライは周囲を見渡してから人の気配がないのを確かめて「わかった、少し時間をずらして会おう」と先にダリアを向かわせる。彼はそれから数分を過ぎたあとにやってきた。
中庭には、ダリアだけが使うお茶会用のスペースがある。草花に囲まれ外からは見えない。誰の視線も気にせず歓談に華を咲かせることができる最高の場所だ。連れられるのは城の女中か、他の令嬢か、あるいは家族のような親しい間柄の者だけ。
「それで、話とはなんだ? そんなに重要なのか?」
「ええ、とっても。家に帰ってからじゃ遅いくらいよ」
テーブルのセッティングをバッチリにして、あとは女中に茶菓子の用意をさせるだけだ。ひとまずはもういちどだけニコライが周囲を確かめる様子をみせたあと、ふたりでやっと椅子に腰かけた。誰の気配もない、今ここには二人だけだと彼は言う。
「それでね、ずっと隠していたことがあって、あなたに話すか迷っていたの。で、これを見せておこうと思って持ってきたのよ。プルメリアって子は覚えてる? その子が亡くなる前日、私に宛てて送ってくれた手紙なんだけど……」
テーブルに差し出された便箋に彼は一瞬だけ表情を険しくする。
「あのプルメリアが?……どれ、少し読ませてもらおう」
彼が手紙を読む間もダリアは話をつづけた。二年前の事件には宰相アコニタムが関わっているであろう事実、プルメリアは自殺として処理されたが、送られてきた手紙の内容を見れば彼女が殺されたのではないかという推測。誰かがリコリスを罠に嵌めたのだろう真実を明らかにして彼女の身の潔白を証明したい、と。
「……事実なら大変だ。よく教えてくれたな、ダリア」
「え、ええ! もちろんよ、だってリコリスは大事な仲間だもの!」
「ああ、その通りだ。それで、この手紙は預かっても?」
「え? うん、いいけど……それをどうするの? 証拠品に?」
彼は首を横に振った。花言葉を用いた風習は決定的な証拠になり得ない。プルメリア本人が亡くなっている以上、あくまで読む側による推測でしかない。これひとつでアコニタムを追い詰めることは不可能だ、と話した。
「手掛かりとしてはじゅうぶんだろう。しかし、なぜいまさらになってリコリスの潔白を証明したいと? まさか彼女が現れたりでもしたんじゃないだろうな」
冗談めかした言葉。だが瞳は決して笑ってなどいなかった。何かを探ろうとしているかの異質な雰囲気、普段とは違う様子にダリアがビクつく。
「そ、そんなことあるわけないじゃない! もしあの子が来たら、真っ先に私を殺してると思うわ。だって騎士団員を殺して腕まで送ってきたのよ? きっと今もどこかで、どうやって復讐を遂げるか考えてるんじゃないかしらね」
はぐらかすしかない。今までにない強烈な違和感。まるで獲物として狙われている感覚に、彼女はその場から逃げ出したくなった。小さく足が震えるほどに。
「わ、私、ちょっとお茶とお菓子を用意してもらってくるわね……」
「わかった。これはふたりだけの秘密、それでいいな?」
手紙をくるくると丸めて懐に入れるニコライから、ダリアは視線を逸らしてそそくさと席を立つ。危険な香りがして、いますぐにでもリコリスに会いたいと思った。
ふと、彼女のお気に入りの庭で育てられていたロベリアのつぼみを見つける。
(いつから育てていただろう。美しい瑠璃色が、情熱的な色ばかり好んで身に付ける私とは全然違って、なんとなく愛でたくなったんだっけ。開花はもう少し先になるってパパが言ってたな。リコリスにドレスを着せるなら、これとよく似た色を――)
いつも男装ばかりして立派な騎士の模範となるような振舞いを心がけていたリコリスだ、たまにはドレスを着ることがあっても贈られることはなかった彼女に、たまには着飾って歩くだけの楽しみも教えてあげたいと感じた――直後。
背中から何かで押されたか、全身に迸った冷気にも似た感触に彼女は「え?」と声をもらす。それから、悪寒ではない徐々にこみあげてくる熱と痛みに声が出なくなった。彼女の視線が落とされた先にみえるのは鉄の塊、剣が背中から胸を貫いていた。
「悪いな、ダリア。……何も知らなければ、まだいっしょにいられたのに」
振り返り見つめた男の冷たい表情に、ダリアは初めて〝悔しい〟と感じた。
「ニコ、ライ……! どうし、て……?」
愛した男。愛してくれた男。けれども今の彼は違う。なによりも恐ろしい殺人者。およそリコリスのほうが人間らしいとさえ思うほどの冷ややかさ。剣が引き抜かれると同時に彼女は前のめりに地面へと倒れ、体からどろりとした血がどくどく流れだす。
「残念だ、ダリア。もっと利口な子だと思っていたんだが」
剣についた血を振り払い、鞘に押し込める。ひどい出血が庭を紅く染めていくのを少しだけ眺めてから、もう助からないと判断すると彼は立ち去っていく。
「安心しろ、俺がお前のぶんまで生きてやろう。誰もこのことは知らんのだ、この手紙を利用してリコリスの仕業として発言すれば誰も俺を疑うまい。アコニタム卿も手助けをしてくれるはずだ。……じゃあな。愛していたよ、ダリア。さっきまで、だがな」
ニコライ・オーガスタは宰相アコニタムと結託していた。何か理由があるのは確かだろうが、裏切られた現実がダリアに重く圧し掛かった。ひとり中庭に取り残され、充満する血の臭いと腹部を襲う激痛が彼女を苦しめる。
「く、くぅ……っ……げほっ、げほっ……!!」
身動きが取れない。叫び声をあげるのもままならない。血を吐き、ゆるやかに死が迫ってくるのを実感した。苦しい、助けてほしい、そう思っても何もできない。それでも、ただ死ぬだけはごめんだと彼女は必死に這いずった。朦朧とし始める意識の中で、縋るように。
(ああ、私は馬鹿だった。ごめんなさいリコリス、私なんにもしてあげられなかった。罪を償うことも、あなたにきちんと想いを伝えることも……)
ロベリアのつぼみを引きちぎり、手の中に握りしめて仰向けになり、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返す。「うう、ひっく」と涙を流して、彼女は「死にたくないよう」と悲しさに満ち満ちた声を絞り出す。誰かにこの悔しさを伝えたい一心で。
「っ――大丈夫か、ダリア!?」
叫ばれた声。焦燥感を伴った声。すぐに彼女の身体に触れ、その体温を確かめたのはリコリスだ。消えかけた意識、暗くなっていく視界の中でもはっきりと理解できた。そして『これはきっと神が下さった最後の機会なのだ』と。
待ち合わせの時間よりずっとはやいのに、なぜリコリスがいるのかなど今はどうでもよくなっていた。とにかく伝えたいことをひとつでも多く、と力なく微笑んで。
「ご、めんね……。お茶会、できな、くて。わた、し、あなたに、なにもして、あげられなかっ……ごめん、な、さい……。ね、最後に聞かせて、リコリス……。わたし、あなたのお友達に、なれたかなあ……? こんな私を、許してくれ、る……?」
力ない手が繋がれる。優しく温かい手。二年前、どうしてつまらない嫉妬ひとつで彼女を地獄に突き落とす真似をしてしまったのか、今もずっと胸のなかでつかえていた。その悲しげな潤んだ瞳を知っているリコリスが何度も、何度も頷く。
「ああ、ああ! もちろんだよ、君は私の親友さ、ダリア……! だから謝るな、すぐに助けを呼んであげるから、もう少し我慢して……ダリア? おい、ダリア!」
もう何も見えていない。声もでない。最後の力を振り絞って持ち上げた手が、リコリスのやわらかく白い頬を撫でて赤く汚した。聞こえずとも、しっかりとリコリスには届いたダリアの遺言。『ありがとう、さよなら』ただ短く、穏やかに微笑んで。
「行かないでよ、私を置いて行かないで。もう寂しい思いをしたくないんだ。目を開けて、ねえ、ダリア……! なにか、言ってよ……ひとりにしないでよ……」