Ⅷ.ガーベラの芽吹く心
朝餉をしっかりと摂り、目も冴えてきた頃。胸に残っていた微かな気分の悪さもなくなり、出発の準備をダリアがしているあいだにリコリスは少しだけ外を見て回りたいとルピナスにも伝えて邸宅を出て、人気のないところまで向かった。
「グレープ、いたら返事をしてくれ。薬が欲しいんだけど」
「はいはい、もちろんいるわよ」
建物の影から出てきたグレープはいつもよりみすぼらしい恰好をして平民を装っている。手には皮の袋を持ち、中から赤色をした液体の入った小瓶を三本、それから青い液体の入った瓶を一本取り出して、リコリスに手渡した。
「はい、どうぞ。赤いほうがいつもの薬。一日に多量摂取すると死んじゃうから、使いすぎには気を付けてね。胸の悪さとか酷い吐き気の時間、少し伸びたでしょ?」
「どうでもいい。それよりも青い薬のほうはどういう効果なんだ?」
小瓶をつまみあげて、中身を訝しげに見つめるリコリスにグレープは呆れる。
「いわゆる超人薬、みたいなものね。飲めばしばらくのあいだ、普通の人間では考えられないくらいあなたを強くする。動くものを視るとき緊張状態でゆっくり見えることがあるでしょ。それを意識的に行いつつ、運動能力も適応させる薬よ。万が一にもあなたが危険に晒されたときに咄嗟に逃げ出せるように用意したの。必要になるかも、ってね」
本当ならメイヴィス家に入り込む前に渡したかった、とグレープは肩を落とす。きっと皆殺しにするんだとわくわくしていたが、実際にはこうして何もせず出てきたことにはかなり意外だった、とも。リコリスは新しい計画ができた、と彼女に話した。
なぜ何も起こさず今日を迎えたのか。これから何をするのか。
「ずいぶん楽しそうね。じゃあ、そのアコニタムっていうおじさんを殺すの?」
「全部暴いたうえでそうしたい。できれば、だけどね」
妹たちを失った心の傷は癒えていない。たかだか二年しか経っていないのだ、忘れられるわけがない。それどころか経てば経つほど、現実味のない毎日と戻らない現実の狭間にある苦しみに苛まれるようになった。なにもかも宰相アコニタムの悪行によって引き起こされた悲劇に他ならないことを彼女はひどく憎み、絶対に彼だけは逃がしてはならない、確実に始末するのだと心に誓っている。
「それは素晴らしい心がけよ、リコリス。じゃあ、私はまた薬を作っておくとしようかしら。あなたがまた欲しがるかもしれないから」
あまり頼ることがなければいいが、とリコリスは思う。実のことをいえば、なんとなくグレープが信用ならなかったからだ。助けてもらった恩もあるし、薬だって作ってくれる。けれども彼女の持つ狂気がリコリスに一線を引かせているのも事実だ。自身がそうであるように彼女もまた何を企んでいてもおかしくない、と。
「ありがとう。そろそろ行くよ、あまり誰かを待たせるのは好きじゃないんだ」
「あら、そ。もうちょっとお話したかったけど残念。気を付けてね」
グレープに軽い挨拶を済ませて目立たないようにその場を離れる。メイヴィス邸まで戻れば、正面では馬車を用意してダリアが普段よりも気合の入った紅いドレス姿をして待っていた。「いちだんと綺麗だね」とリコリスが褒めると嬉しそうに頬を赤らめる。
「あ、ありがとう。ニコライにも褒められたことないのに……」
「つまり最初は私というわけだね。なかなか光栄だな」
「お世辞でも嬉しかったわ。ふふ、あなたは相変わらず優しいのね」
「さあ、どうかな。二年前は違っても、今やただの殺人者だよ」
リコリスがユニフロラ騎士団の人間を殺害し、切り落とした腕を送りつけたのは事実だ。冗談めかして言いはしたもののダリアはきっと怯えるだろうと思ったが、彼女は決してそんな素振りは見せず、馬車に乗り込むとリコリスに手を伸ばして。
「それでもあなたはあなたよ、リコリス。……私がこんなことを言う資格なんてないのかもしれないけれど、あなたは自分が正しいと思った道を行って」
仮に進んでいる道が茨に満ちていて誰もが間違っていると嗤って後ろ指をさしたとしても、彼女にはそれ以外に進むべき道を与えられなかった。皆が彼女の選択肢を閉ざして進ませたのだ。ダリアにはそう映っていた。自分も含めてそうさせてしまった、と。
「なら君は私の共犯者になってくれると思っていいのかな」
「ふふ、そうね。きっとそれでもいいのかもって」
「……はは、強いひとだ。昔よりもずっとかっこいいよ」
「本当にそうだったらいいけれど。ま、今日は頑張りましょ」
流れる外の景色をリコリスはぼんやり見つめた。かつては美しいと思った賑わいある街並みも、歩く人々の笑顔も何もかもが色褪せている。もうこの町は自分の居場所ではないのだと告げられているようで、置いた手にそっとダリアの手が重なったのを見て、彼女は今だけは昔のように笑ってもいいのかもしれないと寂し気にした。そういうふうに振舞うべきだ、と自分に言い聞かせて。
城についてからはダリアが前を歩く。彼女の親友であり、遠い国からやってきたアマリリスという貴族の少女のふりをすることになった。流石にメイヴィス家の言葉ともなれば、だれひとりとして疑う者はいない。たとえ彼女が帯剣していても、ダリアが「持ってみたいというから持たせた」といえばそれで済む話だった。
騎士団長のニコライを除いては。
「ここでの帯剣は騎士以外許されていない。どこの誰であろうともだ」
場内で珍しく可愛らしい貴族の女性が客としてやってきたと騒がしく、異国の文化に触れてみたいという話だったからか周囲がすっかり持て囃しているのを見つけたニコライが咳払いをしながら、少し気を悪くするかもしれないがと前置きしてそう言った。
「申し訳ありません。我が国では騎士は珍しいものでして、少し憧れがあったので真似事をしてみたかったのです。ダリアにはわがままを言って困らせてしまいました」
腰につるした剣を差し出して深く頭を下げた彼女に、ニコライは頭を掻く。いくら他国のとはいっても貴族であったし、なによりダリアの友人ともなれば身分など考えるまでもない。強く言いすぎてしまっただろうか、とちらりとダリアに視線を向ける。
「お前もすぐに情に流されるのはやめてくれ。あとで小言を言われるのは俺なんだ、分かってるだろう? お父上殿に恥じぬよう規律に厳しく頼む」
周囲にいた者たちもニコライが現れて、おっかないとばかりに離れていく。彼の説教が始まれば、周囲を巻き込んでどんどん長引いてしまうからだ。幸いにも今回は異国よりの来客ともあって彼もしつこくはせず、他に用があるからと立ち去って行ったが。
「やれやれ、この程度で済んでよかった。日が暮れるかと焦ったよ」
「そうね。彼ったらとにかく話が長いから……」
ふたりともホッと胸を撫でおろし、顔を合わせて笑う。自分の感情を塞ぎ込んでいたリコリスは自分が笑っているのに気付いてハッとした。ダリアといることが自分の中に安心感を芽生えさせているのに、惹かれてしまったのだろうか、とさえ思った。
「さて、もうここまで来たら安心だ。私は適当に情報収集でもしてこよう」
「なら私はいつもの場所でお茶会の準備をして待ってるわ、二年ぶりにね!」
子供の無邪気さ。霧が晴れたような笑顔。抱えていたものを彼女は下ろせたのだろう。リコリスに向けて大きく手を振りながら、ぱたぱたとどこかへ向かっていく。
(お茶会、か。あれから二年、たまに妹たちも呼んでくれたっけなあ。ふたりが生きていたら、今頃出されるお茶菓子に飛びついているんだろう。いつもダリアと取り合いっこをしていたのが、なんだか遠い昔の話みたいだ……)
大事な妹たち。もういない妹たち。取り戻そうと思っても取り戻せない、遠い場所の話。思い出したところでまた心が傷つくだけだ、と胸にしまい込む。
「……あれ、そういえばダリアはどこへ行ったんだ。お茶会の準備なら中庭でいつもしていたのに……まあ、いいか。他にやりたいこともあるんだろう」
彼女が裏切るのではないか。そうは思わなかった。言葉の端々から感じられる気遣い、優しさ。なにより昨日ずっと独りで流していた涙が強い信頼を生み出していたのだろう。――ダリア自身もそうだった。リコリスのために何かしてあげられることがないか、城の中を歩いて手掛かりのひとつでも持てば、お茶会のときに話して驚かせてやろうとした。
だから、ひとりの協力者を探しに来た道を戻っていったのだ。スカートを持ち上げて小走りで追いついた男の背中にぽんと手を触れてダリアは言った。
「ねえ、待って! ちょっと話があるんだけれど時間あるかしら――ニコライ?」