Ⅶ.向かい合うマリーゴールド
ニコライがなぜ裏切ったかは分からない。だが、アコニタムがリコリスを疎んでいたことはたしかだ。もともと騎士団に平民の、それも若い娘が『実力が伴っているから』という理由だけで副団長の席に座っていることを好ましく思わない派閥はいくらでもいた。宰相であるアコニタムをはじめ、城に住まう貴族たち、それから騎士団内でも不満の声があった。だから裏切られること自体は不思議ではなかった。
(情に厚い面のあるニコライだ、結婚も当然のように愛があるからこそだろう。しかし、それとは別に〝監視〟の目的もあったのかもしれない。私自身が勝手にそう思っていただけなのかもしれないが、ダリアやプルメリアとはそれなりに仲が良かったから)
行方不明となったあと、ひとりの騎士の腕が城に届いた。リコリスが自ら切断して送りつけたものだ。いつか必ず後悔させてやるという宣戦布告。国王暗殺未遂の罪科をなすりつけた者に、自身が与えられた永劫に続く苦痛よりも醜悪な痛みを与えるために。
となれば当然、アコニタムは心穏やかではない。いくら証言に協力したといっても直接的に自身と関与していないダリアが行方を知っている可能性を含めて、彼女と恋仲にあるニコライを傀儡として操ることくらいは平気でやってみせるだろう。そしてプルメリアは〝なんらかの事情を知っていた〟から消されてしまったと推察できる。リコリスとしては残念だが、片棒を担がされたとみるのがもっともだった。
(……そもそも、なぜ平和な国で国王暗殺未遂など奇怪な事件を起こす必要があったのか。本当に寝首を掻くつもりだったのはアコニタム? たしかに現国王には王子がひとりだけ。もし国王が亡くなり、その王子に〝万が一のことが起きたら〟玉座を手に入れられる人物は彼以外にいない。誰が得をするかで見れば明白だ)
かつて、逃げ出す際に自身をどこまでも慕って命を投げ出したブルゲリという部下を思い出す。『真犯人を捜せ』と言い残して亡くなったときのことがフラッシュバックして冷や汗が出る。呼吸も少し浅くなり、重いものでも背負ったかの如く体がだるくなった。
「ど、どうしたのリコリス? あなた、顔色が悪いわ」
「なんでもない、気にしないでくれ」
トラウマが呼び起こされることはこれまでも多々あった。突然に頭の中をよぎる光景に何度胸を締め付けられたか分からない。それでも彼女は耐えてきた。いつか必ず妹たちの仇を討つために、自分の中にある復讐心を解放するために、立ち上がってきたのだ。
手紙をベッドに放り投げ、彼女は剣の切っ先をダリアの顔へ向けた。
「ダリア、正直なことを言って君に興味が失せた。メイヴィス家を崩壊させてやるつもりでここへ来たが、予定変更だ。ただ憎くないわけじゃない。君が私へ協力をするというのなら見逃してやってもいい。……どうするか、今ここで選べ」
城のなかで情報を集めるためには、まず入り込む手段が必要だ。最初こそダリアのことなど本当にどうでもよくなっていて、このまま口外無用を約束できるなら見逃してもいいと思った。しかしダリアは大貴族メイヴィス家の令嬢であり、城内を歩き回るに彼女の協力があればかなり楽になる。ただ見逃すだけよりも取引――半ば強制はしているが――するほうが互いにメリットが生じた。
「わかったわ……。それであなたが助けてくれるっていうなら」
自分の命はともかく、家族の命まで危険にさらしたくなかったダリアは協力関係を結ぶことに決めた。わずかでも二年前の罪滅ぼしができれば、リコリスも穏やかな気持ちを取り戻すかもしれない淡い期待を抱いて。
「では明日の朝、私といっしょに城まで行こう。……ひとつ聞いておきたいんだけど」
「なにかしら。答えられる範囲だったらなんでも答えるわ」
「いや、なに。君は外に出るのが怖いんだろう? 本当に大丈夫なんだな?」
いざ出発となってからごねるようなことは許さないと最終確認のつもりで尋ねれば、ダリアは強く頷いて返した。「今はあなたがいるもの」そう言って。
「よし、なら問題ない。念のため私は部屋に――」
「ここで寝たらどう。部屋に戻ったら眠れないでしょ?」
今のリコリスは孤独に等しい。本人は意識していなくとも周囲はすべてが敵に思えるほど追い詰められた精神状態であるのはたしかだ。そんな中、信頼のひとつないダリアが彼女を部屋に戻して離れれば、警戒心から一睡もできないのはだれでもわかることだ。ならばせめて一分や二分でもいい、傍にいれば監視も兼ねて休めるのではないか、と。
「本気で言ってるのか? 君はずいぶんと不用心なんだな」
「かもね。でもあなたは何もしない」
「……前より意地悪になったね、ダリア。今の君は好きになれそうだ」
「それはどうも。さ、ひとまず寝ましょう」
なぜだか、リコリスがいることにダリアは安心感を覚えていた。ずっと抱えていた気持ちを全部吐き出したからなのか、本人にもよく分かっていない。ひとつだけはっきりと思えたことがあるのだとしたら、今日の夜は泣かなくていいんだ、ということだった。
(ああ、よかった。生きていてくれたのならそれでいい。きっとあなたは私を許さないでしょうけれど、こんなにも嬉しいと思ってしまうことあるのね。くだらない嫉妬と強がりで生きてきたことの愚かさに悩まされる日々も今日で終わり。あなたの復讐は遂げられて然るべきものだから、すべてが終わったあとで穏やかな生活が過ごせるようにしてあげる。……私の罪滅ぼしとして、あなたの願いがひとつでも叶うように)
ベッドにもぐりこんですぐリコリスは寝息を立てていた。穏やかな表情は二年前までよくみた少女のそれで、さきほどまでの彼女のなにもかもに失望したような輝きを感じられない瞳が、今だけは嘘だったと言っているようにも見える。ダリアは胸がちくりとした。
「おやすみなさい、リコリス。……あのときはごめんね」
ようやく訪れた静けさと眠気にダリアの意識もゆっくりと閉じていった。
誰の邪魔もなく、互いに寄り添うようにして明け方の日が昇る頃まで、ふたりは泥に沈んだみたいにぐっすり眠った。先に目を覚ましたのはリコリスで、侍女が部屋を訪ねてくる前に持っていた予備の薬を服用して、また髪と瞳の色を変える。
(城に行く前にグレープから薬をもらっておかないと支障が出そうだな……)
ドレッサーに映る自分ではない自分。二年前のハツラツとした雰囲気はかけらもない。常に何かへの怒りが滲んでいるような厳しい顔つき。愛情を失い、絶望した人間が辿り着く場所なのだろうか、と彼女はふいに思った。
(……何年か前に近隣の森を占拠していた盗賊団の討伐任務に出たとき、そういう顔をした人々ばかりだったのは偶然ではないだろう。当時ニコライが『堕ちるとこまで堕ちて後戻りできなくなった連中』と話していたが、私もそうなのかもしれない)
あまり良くないことだとは思いながらも、なんとなく気分は悪くない。それもひとつの人生の到達点だ、と考えた。どうせ堕ちるとこまで堕ちてもいまさらだ。
「起きろ、ダリア。今日は私の都合で動いてもらうんだから」
「ん、ううん……。おはよう、リコリス」
はあ、とため息を漏らしてがっかりしたリコリスはダリアに言った。
「その名前で呼んでどうする? 私を困らせたいわけじゃないだろう?」
「あっ、そうだった。ごめん。でも、なんて呼んだらいいの?」
スカーレット家の令嬢の名を騙ったままでは気づく人間も出てくるかもしれない。城内にいる貴族たち全てがどういった人間関係を構築しているか、その相関図までは、数百人いようがひとりひとりの顔と名前が一致するダリアでさえ把握しきれていないほど他国まで交友の根を広げている者もいる。途中で気付かれて衛兵を呼ばれては大問題だ。
しかしながら、それくらいのことはリコリスも考えている。
「難しいことじゃないさ。私は君とのみ交友のある人間として潜り込む。困ったら、遠い海の向こうからやってきた友人だと言えばいい。名前は適当に君が考えろ。雑に話を盛ったとしてもメイヴィス家という大貴族の名が君を助けてくれるはずだ。いいね?」
計画は必ず成功する。何度かダリアに説く言葉にそう混ぜて言い聞かせる。そうすれば段々彼女も安心感を覚え始める。やがて女中が朝餉の支度が出来たと伝えにやってきて、リコリスは優しく彼女の頭を撫でてから背中をぽんと軽く押した。
「行こう。今日は君を頼りにしているよ、ダリア」