Ⅱ.ブドウは豊かに実っている
しばらく意識を失っていたリコリスは、ハッと目を覚ます。見知らぬ木造家屋の中。適当に家具をそろえただけの質素な部屋の、木製ベッドの上で彼女は眠っていた。全身あちこちにつけられた切り傷は手当が済んでいて、全身を包帯でぐるぐる巻きにされている。
「あら、目が覚めたのね。ご機嫌いかが?」
ロッキングチェアに座ってぎいぎいと音を立てながら編み物をしている白髪の女がいる。ひと目で老婆かと思ったが、そうではなく、ただ染めているだけらしい。肌は若者のそれで張りがあり、しわのひとつないきれいで繊細な指が忙しなく動いていた。
「あたしグレープっていうの。この森に住んでいるのよ。あなたはどこから来たの?」
「……私はリコリス・ヴィクトリア。城下町から流れついた」
「そう、リコリスね。かわいらしい名前だわ、気に入ったかも」
傍にあった小さな机に途中の編み物を置いて彼女は椅子から立ち上がった。
「ちょうど飲むつもりでいれた温かいミルクがあるの、あなたが飲むといいわ。疲れているでしょうから、きっと美味しいはずよ。さ、遠慮せずにどうぞ」
手渡されたカップを両手で受け取り、その温かさに気持ちはいくらか穏やかになった。自分に起きたことの全てを彼女は覚えている。今にも心が壊れそうなくらいの絶望が波と押し寄せ、ミルクをひとくち含んで、ゆっくり飲むと涙を流し始めた。どうして自分はあのとき逃げ出してしまったのか、なぜ生きているのか、そう後悔をして。
彼女は自分がなぜ森に着いたのかを包み隠さずグレープに話す。自分が何者で、どうして逃げてきたのかを。聞けばきっとおぞましい目で見られるに違いないと恐怖を抱きながら。しかしグレープはちっとも驚いたりせずに「大変ねえ」のひと言で済ませた。
「こう尋ねるのは失礼かもしれないけど、私の話を信じてくれるのか」
「ええ、もちろん。それがどうかしたのかしら。信じてほしくなかったの?」
「……あ、いや。意外だっただけだよ。嫌われるかもって」
逆に驚かされてしまったリコリスの表情に、グレープは可笑しそうにした。
「嫌われるのは得意だけど嫌うのは苦手なの」
「そ、そうか。君は優しいんだね、嫌われるのも得意じゃなさそうだ」
空になったミルクのカップを返して「もう行かなきゃ」とリコリスが言う。グレープは不思議そうに首をかしげて「行くところなんてあるの?」と尋ねると、城下町に戻ると話したので彼女はかなり呆れた。なにが起きたのか自分で忘れたのか、と。
「あなた、自分で気付いてないかもしれないけど二日眠ってたのよ。まだ傷だって完全に治ったわけじゃないのに戻って何がしたいの? もしかして死ぬつもり?」
返す言葉もなくリコリスは俯く。どうにかして真犯人を見つけ出したい。それが自分の今の目的だから、と。けれどもグレープは彼女の想いを鼻で笑った。
「真犯人を見つけて告発して、それで何が満たされるの? 目の前で大事な人が殺されたのに。もし無実だと証明したところで国と、その民は手のひらを返して褒め称えたあとでこう言うにきまってるわ。『ごめんなさい、以後気を付けます』ってね。それで物語はおしまい。悲劇のヒロインは最後まで悲劇の中でゆっくり死んでいくの」
立ち尽くしたまま、表情を落ち込ませていくリコリスの後ろに回って、彼女の両肩に手を置いたグレープは「ほら、目を瞑ってごらんなさい」と囁く。
「いい、想像して。あなたは哀れな騎士様よ。目の前で愛する人々を殺した元仲間たちが、死体を引きずって袋詰めにして捨てるか、あるいはカラスの餌にでもしたことでしょう。そして夜にはみんなで集まって酒を飲むの。脂の乗った肉や魚を食べながら何もなかったみたいに笑って楽しんで、ね。もしあなたが無実を証明したとしましょう。そうしたらきっと、みんなその日のことを後悔するはずよ。でも翌日にはばつの悪そうな顔しながら気さくに声を掛ける。『あのときは悪かった、許してくれ』なんて。そんなやつらが、あなたを哀れむ目で見ながら愛する家族と共に毎日を生きていく。それがさも自分に与えられた〝当然の権利〟とばかりに。でもあなたはひとりぼっち。それを指をくわえてみているしかない。これから先、何十年とそうやって生きていくのよ、たった独りで」
体が震えた。涙がこぼれた。自分を慕った部下の下らない自慢話を二度と聞くことはない。毎日城で暮らさなかった彼女の帰る家では、もう妹たちが笑顔で出迎えてくれることも、暖かなベッドにもぐりこんで身を寄せ合って眠ることもない。
何度も、あの手を握った感触を思い出す。離れていく感触を思い出す。胸の中に渦巻くどす黒い感情が吐き気を催した。何にも代えがたい家族を部下を失ったリコリスが今、国へ戻ったところでなにひとつ得られるものはないのだから。
「でも、それなら私はこれからなにをして生きていけばいい?」
「簡単なことよ、リコリス。むかつくやつはみんな殺しちゃえばいいのよ」
あなたの大切な人たちがそうされたように、とグレープの表情は歪だった。
「そんな、殺すだなんて。それでは今度こそ私が悪人になってしまうじゃないか」
「いいじゃない。どうせあなたは罪人よ。どれだけ無実を唱えても、彼らにとっては」
仮に無実が証明できたとして騎士団は自分たちの体面を守るために平気でリコリスを消そうとする可能性がある。次は自分たちが首をくくる番が来るかもしれないと怯える必要がないように。彼女の行いがどれだけ善良なもので満ちていたとしても、だ。だったら堕ちるとこまで堕ちればいい。グレープは唆した。
「人間なんてあっけないものよ。どれだけ悲しんだり、怒ったりしても、永遠にその感情を抱き続けることは少ないの。これからあなたがどれだけ怯え続けても、彼らは朝に目を覚まして、いつも通りに汗を流して働いて、夜になれば食事をして眠る。家族といっしょに至福の時間を過ごすの。あなたなんか頭の片隅にも置かないで忘却の彼方に捨てちゃうの。本当に怯えるべきなのは、あなたじゃないでしょ?」
耳を塞ぎたくなるような言葉が並べられても、不思議と聞き入ってしまう。リコリスはだんだんと彼女の言いたいことが理解できていた。国に許されるかどうかではなく、自分が国を許せるかどうかなのだ。今、彼女が迫られているのは。
「世の中は馬鹿なの。『死んだ人は復讐を望んでない』とか『復讐をしても虚しいだけ』とか、尤もじみた理屈を並べて善人ぶった連中ばっかり。自分に酔ってるのね、きっと。でも違う。復讐って、ただ単純に嫌いなヤツを殺すのが楽しいのよ! 悪辣に染まりきった感情で惨たらしくいたぶって、彼らの泣き叫ぶ姿を見るのは最高よ?」
ぞくぞくした。背筋にひやりとしたものが伝うような感覚。グレープの言葉は魔性として彼女の中に響き、内に秘められた暗い感情が掘り起こされていく。
「さあ、ついてきて。いいものを見せてあげる。これからのあなたに必要なものよ」
リコリスの手を引いて、グレープは無邪気なふうに小屋を出た。外はうっそうとした森が広がり、彼女は庭を駆けるように進んでいく。その先でリコリスは見た。生い茂った草の中に仕掛けられた罠に掛かり、甲冑の隙間に矢を受けて傷ついている騎士たち。三人いたが、うちひとりは首に刺さっていてすでに事切れていたが、他の二人はまだ生きていた。ただし怪我で身動きが取れない状態だ。
彼女は彼らを見て胸が押しつぶされるくらいの恐怖を思い出す。彼らの肩にある紋章は紛れもないユニフロラ騎士団のものだ。逃げ出した罪人の首を持ち帰るために足を運んだのだろう。ただ、ここはグレープがひとり暮らす森であるがゆえに罠が多く仕掛けられていた。リコリスは運よく罠に掛からなかっただけに過ぎなかった。
「さあ、リコリス。この剣を使って彼らを殺すの。簡単よ、ほら」
ひとりをグレープはなんの躊躇もなく剣で頭を叩き割った。返り血を浴びても動じず、冷たい瞳をしながらも笑顔を浮かべてリコリスに振り返り、剣を差し出す。
「次はあなたの番。ね、とっても気持ちいいからやってごらん」
「わ、私に彼を殺せと……そんなことできるはずが……」
剣を受け取りはしたものの、抵抗感は拭えない。ここは戦場ではないのだから、同じ人間を殺すなどとてもできるばずかない。そういう感情を抱いて、死の恐怖にさいなまれる男と目が合ったときだった。――彼女の中から抵抗感が消えた。
「や、やめてくれ……俺たちはただあんたを連れてくるように言われて探しに来ただけなんだ、頼む……まだ死にたくない……殺さないでくれ!」
男の声が決め手だった。城下町で向かい合ったときに『悪く思うなよ副団長』と告げた、あの声。彼こそが妹の腕を斬り落とし、容赦なく胸を貫いた騎士の男だ。彼女は知っている。騎士団内で序列の低い騎士は、逃走した罪人の追跡を行うことがある。捕まえれば功績となり彼らの行動が称賛され、優遇されるようになるからだ。目的は見え透いていた。この男に情などない、と彼女は胸中で断じた。
「そうか。ではひとつ聞かせてもらえないか。君が私の大切な妹の腕を斬り落としたとき、どんな気持ちだったのか教えてほしい。幼く抵抗できない彼女を刺したときの気持ちを。後悔はなかったのか、少しでも情けを掛けようとは思わなかったのか」
彼女の問いに男は必死の形相で叫ぶ。だが飛び出してくるのは「仕方なかった」「そうしなければ自分が処断されていた」と都合のいい言葉ばかりが並び立つだけで、だんだんと耳にするだけでも苛立ちが募り始める。もはや聞くだけ無駄だ、と。
「ありがとう、聞けて良かった。もうじゅうぶんだ」
そう礼をいいながらリコリスは不思議と穏やかな気持ちで――腕を斬り落とした。
男が悲鳴を上げる。もはや絶叫に近いが、広い森では遠くへ吸い込まれるように消えておしまいだ。リコリスはそのときになって初めて、自分が笑っているのに気付いた。
(……ああ。清々しいなどとは思ってはいけないのに、なんて心地いいんだろう?)
箍が外れた。怒り任せとはいえ犯すべきでない罪を犯した瞬間に、彼女は狂気を知った。深い深い心の奥底にある、どす黒い感情の正体を。