ⅩⅤ.邪悪をもたらすクロユリ
彼女のなかで、達成感や爽快感よりも失望が占めていた。吹けば飛ぶような感情の軽さ。あのアコニタムを殺したのだから満足ではないかと自分に言い聞かせようとしても、まるでだめだった。それもそのはず、あの男の言葉を何度も思い出していたからだ。
(白髪をした、ひと目では老婆を疑う若い女性。誰かのふりをするのは簡単、か。私はいったい今まで何をしていたのだろう。たしかに復讐を選んで、自分のなかではなにひとつとして誤った道を進んだつもりはない。だが、それでも……いつも誰かに背中を押されていたのだとしたら、これほどない屈辱だ)
壁の向こう側に隠されてあった地下通路を通り、町のなかへ出る。意外だったのは、人目を避けてグレープと合流するために使っていた路地裏に出たことだ。町の外へ出る門とも近く、彼女は都合が良いとわずかばかりの喜びを覚える。
「さて、まずは何か縛るものでもあればいいんだけど……」
気絶しているニコライがいつまでも眠ってくれている保証はない。視界は確保させたとしても騒がれないようにくつわとなる物、それから手足を縛ることのできるベルトか何かを探す。幸いにも、路地裏にはくたびれたロープがあって、彼女はそれを手に取った。
(とても衛生的ではないし妙な病気にでもなって勝手に苦しまれたりするのは困るけど、どうせ殺すなら同じかもしれない。ほんの少しのあいだのことだ。……それにしても、あの侍女の娘がいないということはグレープが気付いて他の場所へ誘導したか?)
城での騒動の前、エリカに渡した便箋の中身はまっさらだった。ダリアを慕った彼女を死なせてはならない、たとえ狂気に身を堕とすとしても。最後の良心を自分の中から吐き出すつもりで彼女はエリカを逃がした。親友が大切にしていたのだから、と。
「真相を確かめるのは今度だな。やるべき順序は守らなくては」
身動きが取れないようにニコライを縛り上げ、馬車を借りられないかと町を歩き回る。今は誰もが城が炎上していると大騒ぎで仕事もそっちのけだ。その隙に彼女は、どこかの貴族が乗っていたのだろう城の近くに停めてあった馬車を盗み出して路地裏へと戻り、ニコライを荷台に乗せて町の外へ出ていく。いちどだけ振り返り、いくつもの思い出や後悔を捨てていくかのように見つめて。
「……おや。目を覚ましたかい、団長殿?」
もごもごと荷台でうめく声がして、リコリスは前に向き直り、手綱を握りしめる。城にいたときよりもずっと穏やかな表情をして遠く景色を眺めながら。
「風が気持ちいいだろう。あの灼熱のなかで気を失って、どうしてまだ自分が生きているのか不思議そうだね。それもそうか、弟は先に死んだんだから。でも安心するといい、すぐに同じ場所へ行けるさ。行きたくないとしてもね」
彼女が向かったのは、ずっと昔にいちどだけ訪れた小さな村。名をオウバイと言い、ニコライの故郷にあたる場所だ。すぐ近くの背が高い草のあるところで馬車をとめて隠し、そこにニコライを下ろす。口にまわしていた縄を外して地面に寝そべった彼の頭を掴んで持ち上げ、リコリスは尋ねた。
「アコニタムはすべてを話した。次は君の番だ、ニコライ。なぜダリアを殺した?」
「め、命令だったからだ。もし真実に近づく者があれば処分せよ、と」
アコニタムとの共謀が始まったのは国王暗殺未遂事件のあとだ。アコニタムは彼の弟レギネが騎士を目指していることを知り、入団を許して地位を上げたあとで、彼を人質に『協力しなければどうなるか分かるな』と脅迫を受けたのだ。最初は拒否をしようとしたが騎士団の中にはアコニタム派の人間が複数いたために村さえも焼き払うとまで言われ、どちらかを捨てることなどできなかった彼はプルメリアを手に掛けてしまう。
いちど手を出してしまえば終わりだ。彼は脅迫などなくとも共謀者としていざというときは道連れにされるのを恐れ、当時から婚約者であったダリアと婚姻を結び、メイヴィス家の人間として穏便に生きようと考えた。このまま誰にも知られることなく騎士団を辞めるときが来たならアコニタムもわざわざ追いかけてきたりはすまい、と。
誤算だったのは、プルメリアがダリアに手紙を遺していたことだ。それが元凶となり真実に近づいたダリアに全てを知られてしまったら、自分がどうなることか。あるいは明るみになればアコニタムがどう出るかを考えたとき、レギネや故郷の人々と、たったひとりの命を天秤にかけることは考えられず、彼が至った結論がダリアの殺害だった。
「仕方がなかった! 大勢の命と引き換えにたったひとりを愛して、自分だけの保身に走れというほうがどうかしているだろう!? お前だって同じ立場だったらそうしたはずだ、リコリス! なぜ分からない!? ひとつの村が消えるやもしれん、ましてや俺の故郷なんだぞ!! 俺は俺が間違っているとは思わない! たとえダリアであろうとも――」
リコリスは目を瞑り首を横に振って、彼がまくしたてる最中、ロープを使って口をふさぐ。これ以上はなにひとつとして聞く価値がないと感じた。
「だから私の部下や妹たち、プルメリアにダリアが殺されたのは当然だと言うんだな。真実を明るみにしようと誰に手を掛けるわけでもなく戦い、自分の命すら投げうった者たちに君は後ろ指をさして〝正直者がバカを見るんだ〟と嗤うんだな?」
彼の言い分がリコリス・ヴィクトリアという復讐鬼の逆鱗に触れてしまったのは間違いない。彼女は殺意に満ち満ちた瞳で彼を見下ろし、告げる。
「王が、民さえもが許したとしても私は許さない。絞首台に立たされた幼い少女の恐怖がお前に分かるのか。嘘を暴こうとして命を捨てた男の覚悟が分かるのか。愛した男に裏切られた娘の心苦しさが分かるのか。すべてを奪われ、この二年を地獄の中で耐え続けてきた私の怒りが分かるのか。……いいか、ニコライ。私と同じように、いや私以上に、お前には苦痛を味わってもらう。愛する人々の首を眼前で掻き切り、絶叫を子守歌に聞かせてやる。目の前でひとつずつ丁寧に並べ、順に踏み潰してやる。老人だろうが赤子だろうが関係ない。どれだけ愛情に満ち溢れた生き方をしていたとしても惨たらしく殺す。懇願する口を引き裂き、舌をちぎり、苦しむだろうお前の目の前にいくつも積んでやる」
沸々と湧き上がってきたこれまでの怒りを叩きつけた。苦しみから解放されないと分かっていても、いちど始めたのなら終わりを迎えなければならない。底なし沼へ沈むのさえ厭わない。彼が築き上げてきたものを徹底的に踏み躙ってやらなくては、と。
なにかを叫ぼうとするニコライのうめきを背に聞きながら、彼女は生まれて初めての高笑いをあげた。こんなにも悪辣で愉快と思うことが人生にあるとは知らなかった。こんなにも誰かを憎めるとは知らなかった。これが私の人生なのか、そう自嘲を含んで。
それからは宣言通りだ。グレープから譲られた赤い薬でリコリスという人間を隠して最初に尋ねたのは、ニコライの親族が暮らす普通よりも大きい家だ。村は決して貧しくない。名家とまでは行かなくともオーガスタ夫妻はそれなりに身分がはっきりとしていて、まして息子であるニコライとレギネが騎士団団長と副団長を務めるともなれば、とくに立派なものだ。いちども尋ねたことがないとしても、どれが夫妻の家なのかは一目瞭然だった。
リコリスは村人たちが家畜の世話や畑仕事に追われているのを横目に小さく会釈をして、立ち止まることなく村長のオーガスタ夫妻の家へ向かった。扉を何度か叩いて「すみません、お話をさせていただきたいのですが」と呼びかければ「少々お待ちくださいね」と返事があって、ぱたぱた駆けてくる音が聞こえてくる。
玄関を開けて出迎えてくれたのは、穏やかそうに見える中年の女性だ。少し痩せ気味だが血色はよく健康そうで、瞳は明るい。ニコライは母親似なのだろう、と思いながら。
「申し訳ありません、いきなり訪ねてしまって。私はユニフロラ騎士団の伝令役を務めております、アマリリスです。十時間ほど前になりますか。城で何者かによる放火によって大規模な火災があり、レギネ副団長がその際に犯人を見つけたのですが……」
真実と嘘を織り交ぜながら仔細に語られた内容に女性は放心状態で、ほどなく現状を理解し始めるとさめざめ泣き出した。覚悟はあった、それでも死んだと告げられれば誰とて悲しいものだ。その涙も今から引っ込むことになるのだが。
「……それで、実は遺品を届けるよう仰せつかっていまして」
自身もまた負傷者の救護にあたっていたふうに伝えながら、胸ポケットにずっとしまい込んでいたものに手を伸ばす。この瞬間のためにずっと持っていた、最悪な代物。眼球だったそれの気味の悪い感触を楽しみながらリコリスは言った。
「切り落とした首から抉り取るのは、なかなか爽快なものがありましたよ」




