Ⅺ.殺意を抱く幽霊花
ダリアをのせた馬車が遠くへ駆けていく。二度と会うことのない友人に別れを告げ、リコリスはうずくまりたい気持ちを堪えながら、ルピナスの言葉を胸に留めた。どうにかしてニコライの悪事を暴き、宰相アコニタム共々地獄に突き落としてやらねばならない。そのために彼女はもういちど立ち上がろうとする。へし折れたままではいられない。またまっすぐ背を伸ばさなければ、と。
「それにしてもせいせいしたわねえ」
ふいに、そんな言葉が耳に入ってくる。彼女は心底驚いた。何人かで集まっていた女中たちがダリアの陰口を叩いていたのだ。さきほど殺されてしまったばかりの哀れな娘に「いつも気に入らない態度だった」「仕事が減って楽になった」「貴族なんて恨まれてて当然」といった言葉の槍が次々と投げられている。
そうして笑い声さえも小さく響き始める頃、ルピナスが二度と町に戻ってはくるまいと喜ぶ貴族たちもちらほらと見え始め、誰も彼もがメイヴィス家の崩壊を自己利益に繋がったと酒の肴にでもする勢いだ。
「あのまま引きこもっておれば死なずに済んだものを」誰かが言った。
胸を抉る言葉にリコリスは剣の柄に手を置く。この場で引き抜いて喉元を掻き切ってやりたい衝動を必死に抑えた。だれひとりとしてまともな人間がいない苦しみが波になって押し寄せる。ダリアが言っていた民衆に漂っていた狂気は、ここにも蔓延しているのだ。いや、むしろこちらのほうがはるかに酷いのかもしれないとさえ思わされる。
(どいつもこいつもクズばかり。彼らのことを何も知りもせず、いや知ろうともせず自分たちさえ良ければいいと笑みを浮かべている。なんと邪悪なことだろう。……ああ、そうか。憎かったのは私を謀に貶めた者たちに限った話ではなかったんだ。――彼らも同じ、薄汚い罪人だ)
慕った部下を奪われ、肉親を奪われ、希望を与えてくれた最愛の友人をも奪われた。これほどの深い絶望があるかと人生を呪うなかで、彼らの言葉はリコリス・ヴィクトリアというひとりの女性に、なによりも強大で凶悪に膨れ上がった怒りを目覚めさせた。
これまでの悲しみが表情を変え、殺意を宿した。残酷に、凄惨に、この痛みよりも大きな苦しみに堕ち、なにもかも壊れればいいという願いを抱いて。
誰の視線も引いていないうちに城のなかへと戻ろうとしたとき、ひとりだけ泣いている女性が目に入る。女中らしい恰好をしていて、「君はダリアの友人か?」と尋ねると女性は涙を指で拭って「私はダリアお嬢様の侍女として仕えておりました」と答えた。
「彼女の世話役か。名前はなんというんだ」
「エリカ・ソリチュードです。……あの、あなたは?」
「……ダリアの親友、なのかな。彼女はそう言ってくれたらしい」
「そう、ですか。じゃあ、あなたもお優しい方なのですね」
「優しい……君はダリアが優しかったと?」
エリカはゆっくりと頷く。また涙を浮かべて。
「ええ、とても。私のような位の低い者でも、時折『お茶をしましょう』と誘っていただくこともありました。わがままに見えて、いつも気遣ってくださっていて……」
とにかく不器用な女性だった、とエリカは言った。つんとした態度をとりながら、いつだって周囲の目を気にしていて、何かあるとすぐに落ち込む癖がある。そしてなにより、いつでも何かを自分ひとりで抱え込んでしまいがちで、邸宅へと戻ってしまってからはすっかり見なくなってしまい、ずっと心配していたのだと彼女は泣き出してしまう。
「落ち着いて、エリカ。君の話していることは私にもよく分かるよ」
彼女の頭を優しく撫でて、ハンカチで涙を拭う。落ち着いてきたところで、彼女は「君に頼みたいことがあるんだが、構わないだろうか」と丁寧に折りたたんだ紙と簡易的に作った地図を手渡す。
「いまからこの場所へ向かってほしい。ある時間になると、そこに誰かが訪ねてくるはずだ。その人物にこの手紙を渡してくれ。少し待たないといけないだろうけど」
戸惑うエリカに、本来はダリアに頼むはずだったと言えば、彼女はそれならと頷く。
「城の者には私から事情を説明しておこう」
「わかりました。……あの、ひとついいですか」
「なんだい、答えられることなら答えよう」
「帰ってきたら、ダリアお嬢様のお話を聞かせてもらえませんか?」
もう会えない大切な主人を共に思い出す相手が欲しい。いっしょに涙を流せるひとが傍にいれば、少しは前向きになれるかもと彼女は思ったらしく、リコリスも「ああ、そのときはいっしょにお茶会を開こう」と優しく声を掛けた。
きっとそのときは永遠に訪れないだろう、と胸の中に転がして。
(さて、心配事はひとつ減った。あとは――どうやって全員殺すか?)
もはや誰をどう想うこともない。とにかくすべてが気に入らなかった。何も必要ないと決心した。自分を裏切った人々も、城に住まう女中たちも貴族たちも兵士も、そのほとんどがダリアの死など興味もなく、それどころか「当然だ」と言わんばかりで、自分が対象でなければ誰がどうなっても構わないという冷たい視線の数々にひどく失望した。
(……こいつらは何も思わない。誰が死んでも、自分でさえなければそれでいいんだ。いや、それ以上に死を喜ぶなどありえない。たとえダリアが彼らにとってはあまり好ましくない人間だったとしても、死んだ者を平気で嗤うなんて……)
エリカを立ち去らせたあと、非常時というのもあって一時的に門は閉ざされた。というのも、あとからやってきたニコライたち騎士団員が封鎖を指示したからである。彼らはまだ下手人が潜んでいる可能性もあるとして、全員にこれまで通りに過ごすことを勧めながらも、常にふたり以上で行動することを心がけるよう注意を促した。
「アマリリスといったか。ダリアの件もあるから、申し訳ないが今日は帰れないと思ってくれ。調査が終わるまではしばらく滞在してもらうやもしれんが……」
「構いません。私もそのつもりです、どうか犯人を見つけてください」
鋭い刃のような殺意を隠し、リコリスは弱々しい笑みを浮かべ憔悴してるふうを装う。最愛の友人を失った――これは事実ではあるが――遠い国の貴族令嬢のふりをして。
彼女はそのまま個室をあてがわれ、そこで部屋に鍵を掛けたまま夜を待った。誰もが寝静まり、城内を歩くのが警備の兵士か仕事の残った女中たちくらいになった頃、部屋の化粧室に籠り鏡の前で息苦しそうにしたリコリスの足下には青い液体がわずかに残った瓶がある。グレープから与えられた人間の性能そのものをいっときだけ飛躍的に向上させる薬だ。人体への影響がいかほど出るものかは尋ねなかったが、それなりの代償は覚悟していた。最初に飲んだ外見を変える薬の効果はすっかり切れて元通りだった金髪も、血色の良い肌も、今は色がいくらか抜け落ちて白んでいた。
(まるで死人だ。これが今の私。ラジアータでもアマリリスでもない、本来の私。リコリスという復讐鬼の成れの果て、と例えるのが尤もらしい感じがして実にいい。連中をよりいっそう恐怖させるには、この姿こそが相応しいかもしれない)
ダリアから返された剣を携え、呼吸を落ち着かせる。これから彼女は二度と戻ることのできない道を進む。そのさなかで志半ばに朽ちぬよう、ひたすら冷静でいるために。
「……ダリア、ごめん。やはり私は以前のように生きられない」