Ⅰ.リコリスの悪夢
民衆の叫びが聞こえる。怒号。罵声。嘲笑。失望。どの感情も目に見えて分かるくらいで、その視線は絞首台に立つ女性に注がれている。見目麗しく、腰まで流れる白金の長い髪に薄浅葱の優しい瞳が特徴的な彼女の名をリコリス・ヴィクトリア。ロストラータ王国が誇るユニフロラ騎士団の長い歴史の中で、たったひとり女性の身でありながら副団長という地位まで上り詰めた女性だ。
(……どうして。こうなってしまったのだろう?)
彼女はロストラータ国王の暗殺を企てた首謀者として絞首台に立たされていた。それは、あるはずのない罪。ありえるはずがない罪。最後まで仕組まれたものだと主張した彼女の言葉は、呼ばれた証人たちによって呆気なく踏み潰されてしまった。
絞首台にはリコリス以外もいる。彼女の親族。それから庇おうとした部下のひとりが、同じく分厚い鉄でできた手枷を嵌めて、それぞれぶら下がった首吊り用の縄の前に立って顔面を蒼白くさせている。リコリスだけが自分以外を無感情に見ていた。
(誰よりも努力してきたつもりだ。多くの人たちと笑い合い、助け合って信頼関係を築いてきたつもりでいた。なのに、すべて私の空想、勘違いだったのか?)
証人たちには、自分が親しいと思っていた者たちが多くいた。苦しいときも共に戦ってきた騎士団の仲間。城内で幾度となく茶会に誘ってくれた貴族の令嬢。穏やかで気弱で、いつも姉のようと慕ってくれた使用人の娘。城で働いている家族想いな兵士。誰もが口を開けばリコリスがやったのではないかと言った。なにせ証拠として見つかった剣は、彼女自身も所有を認めるものだったから。
使用人の娘と城で働く兵士のふたりは彼女と似た人物の後ろ姿を見たにすぎず正確さはなかったが、騎士の男が見つけた証拠の剣は現場に残されていたもので、国王も下手人を見たわけではなくとも、自身の部屋に残された動かぬ証拠が彼女を犯人と告げていることに違和感を覚えたりはしなかった。
そして貴族の令嬢は彼女に対して冷ややかな視線を送りつつ、普段の人柄がどうであったかについて語り、「私の婚約者に色目を使っているのを見た」と言い出したのだ。
下った審判は彼女を処するに決定し、両親を事故によって失った彼女の肉親である幼い妹ふたりまでも巻き込まれてしまった。あまつさえ、せめて彼女の家族だけでも助からないかと進言した部下までもが、罪人を庇ったとして周囲から非難を浴び、精神をいくらか病んでしまったのか同じ絞首台に立つことを自ら選んだ。
「怖いよ、おねえちゃん。わたしたち死んじゃうの?」
妹の言葉にリコリスは何も言わなかった。いくら慰めたところで、順に首をくくられれば嫌でも現実は目に入る。知りたくなくても知ってしまうことになるだろう。そう思うと、言葉にすることができないままでいた。
(出る杭は打たれる。そういうことなんだろう、所詮私は……)
たかだか平民が独学で鍛えた剣術の腕前が騎士団長ニコライ・オーガスタの目に留まったというだけで、副団長の地位に座ることを気に喰わないと思う人間がいないはずがない、とはリコリスも思った。
だから裏切りに腹こそ立ち悲しみに暮れはしたものの、こうして自分がいつか不遇な死を迎えること自体は不思議に考えたりはしなかった。
曇天の下で陽の光も拝めないまま死んでいくのか、と絶望する。人々から向けられる視線に肌がぴりぴりと痛む。生きている心地などすでに失われている。ただひとつ太陽が見えていれば気持ちも少しは違ったのかもしれない、と諦めに笑みを浮かべて。
「こんなのは不当だ!」と誰かが叫んだ。彼女の部下、同じ絞首台に立った若い男ブルゲリだ。体格が良く、ひとたび力ずくで暴れられては取り押さえるのに大のおとなが数人掛かっても手こずるほどで、彼はそれまで大人しく従っていたから拘束具も手枷のみだったことが手伝って、大きな騒ぎが起きた。
「その子たちを連れて逃げてください、副団長! あなたならできるはずだ!」
混乱で思考が麻痺しだしたところへブルゲリの叫んだ言葉はリコリスの耳に響く。まだ希望は失われていない。彼は「今はとにかく逃げて、本当の犯人を捜すべきだ!」と彼女とその妹たちを助けるために自らが囮となった。大暴れして兵士のひとりから剣を奪い取り、副団長と慕う者へと命を賭して放り投げた。
「……し、しかしこんな……私は……!」
これでは罪を認めたようなものではないか、さらに罪を上塗りするのではないかと危惧する。斬りつけられたブルゲリは血を吐き、それでもまだ暴れて、もういちどだけ叫ぶ。
「騎士団が集まってくる前にはやく! 行ってください、ヴィクトリア様! 俺を無駄死にさせないでくれ、あなたはこんなことをするひとじゃないはずだ! こんな――」
首や胸などに複数の剣が突き立てられる。ブルゲリは、まだリコリスを見つめた。
「……すまない、ブルゲリ。行くぞ、ふたりとも。私から離れないように!」
本当は良くないことだと分かっていても、ほんのわずかに見えた希望の兆しに手を伸ばしてみたくなった。まだ自分を信じて戦ってくれる者がいたのなら、どんなに時間が掛かっても必ずや罪を暴かなければならない、と。
怯える妹たちを守りながら、彼女は持ち前の腕で並大抵の兵士程度なら一方的に打ちのめした。そしてあえて群衆の中に飛び込み「私たちの道を邪魔する者があればこれを斬る! 潔く道を開けてくれ!」と剣をかざす。その姿に民は誰もが恐れて逃げ出すか、へたりこんでしまう。
誰も傷つけずに逃げるんだ、せめて妹たちは遠い町のどこかで静かに暮らせるようにしてやらなければ。そう胸に決意を抱いた。
だが、ちいさなうめき声がひとつ聞こえたとき、彼女は声に振り返り、自分が握っているので腕だけということに気付き、頭が真っ白になる。
「……え? あ、そんな――っ!?」
妹が腕を斬り落とされた。遠くから眺めていた騎士たちが騒ぎを聞きつけ、罪人を逃がすまいと本気で殺そうとしている。その標的として弱者である彼女のふたりの妹が先に狙われた。ひとりは胸をひと突きに、もうひとりは腕を斬り落とされたあと、こん棒で頭を強く殴られて倒れ、血を流して動かなくなった。恐ろしさと耐えがたい痛みに悲鳴をあげる暇すらないうちに、ふたりは死んだ。
「逃がすな、罪人はここで始末せよ!」
絞首台の傍で宰相アコニタムがたったぷり蓄えたひげを撫でながら、堂々と落ち着いた様子で騎士団に指示を送る。彼らは剣を構えて、残るリコリスへと向かい合った。
「正直なところ、俺たちも本当にあんたがこんなことをするとは思えないが、悪く思うなよ副団長。仕事なんでね、ここで死んでもらえると助かる」
そう話しかけられても彼女は理解できていなかった。妹たちが目の前で殺されたことで錯乱し、絶叫して剣を放り捨て、限界を超えた恐怖心が本能的に逃走を選ばせた。目の前で物言わぬ人の形をした肉の塊に彼女はとにかく走り出した。後ろから何かを叫ばれてもわき目もふらずに、死にたくない、誰か助けてと唱えながら。
――それからのことを彼女はよく覚えていない。崩壊した思考が形を取り戻し始めたとき、彼女は全身傷だらけで意識もいささか朦朧としていた。美しかった白金の髪は血でべたつき、服はずたずたに引き裂かれて肌まで切れている。どうして自分が生きているのかなど考えるくらいに。
ただひとつ言えるのは、運よく逃げ果せたらしいことだけだ。