プロローグ 「俺にとっての新生活様式」
俺にとって、午後八時過ぎは憂鬱だ。
夕食が終わり、1日労働に耐え抜いた体に更に鞭を打って洗い物をしなくてはならない。まだ大した食い扶持のない俺に、自動食洗器という魔法のアイテムは未出現だ。なんかの弾みでドロップすればいいのに。仕方なく食器をお盆ごとシンクへと持って行く。
「にぃ~」
水道代も決して安くはない。如何に効率よく短時間で洗い切るかは非常に重要だ。塵も積もれば山となる。この日の数円の努力によって、ひと月後、1年後にセーブできる金額は変わる。それ次第で、ちょっといい飯や新作ゲームの1本買うくらいの余裕は出来る。日々を絶えず充実させていく事は重要だ。
「文にぃ~」
しかしながら、洗い物が終われば風呂に入り、その後終わった洗濯物を干し並べ、気付けばドッと湧いた疲れで布団へ直行という生活がここ最近続いている。日によってはソシャゲのログインボーナスまで受け取り忘れる始末だ。体力が1日持たないこの体を呪ってやりたい。それもこれも、
「ねーねー文にぃってば~」
「あーうるさいな!」
「ヒマだから遊んで」
「洗い物のお仕事してるのわかりませんかー」
この女のせいである。人の苦労も知らず、ほのかに逆立つ神経をこれでもかと逆撫でしてくるこの女。しかし怒鳴ってはならない。当たってもならない。人間としての矜持を持ちあわせなくてはならない事は承知している。それがボディーブローの様に体調を揺さぶってくるわけだが。
「じゃあゲームやっていい?」
「やだ」
「なんでダメなの!」
「データ勝手に進められたら楽しくない」
「じゃあスマホ貸して」
「なんでだよ」
「ユーチューブ見たい」
「貸さん」
「なんなの!遊んでもくれない、遊ばせてもくれないじゃんアタシどうしたらいいの」
「知らん。テレビでも見とけ」
「おもしろいのやってない」
「NHKでも見てろ。ニュースだったらお勉強にもなるぞ」
「やーだつまんない」
そう言って彼女は仰向けに寝転がって手足をバタバタと床に打ち付け始めた。一般的に言う必殺技「駄々をこねる」である。
「つまんないつまんないつまんない、ヒマヒマヒーマー!」
俺はかなりヒヤッとした心地になった、何故ならここはマンションの2階、しかもこのマンション振動がモロに他室に伝わるという仕様である。従って規則上は子どものいる家族はお断り扱いになっている。ここで暴れられると、時間も時間である、あらぬ噂が立つ事は想像に難くない。あらぬ噂にも複数種類が出る懸念があるが、そのどれにしたって厄介である。
俺は慌ててブックシェルフに走り込む。女子にも読まれそうなマンガ、マンガ・・・。週刊誌系のコミックはほぼすべて実家に置いてきたか、上京の手元資金の足しにするためのエサになった。すっかり大人になった後の、ちょっとグロいかエロいかというようなものしかなかった覚えがあるが・・・。
ん、幸い「ウルフボーイ」の3巻が残っている。俺が小学生の時に某週刊マンガ誌で連載していた作品である。まあこれでいいだろう。
「おい、これでも読んでろ」
そういってウルフボーイ3巻を放り投げる。3巻は彼女の胸のあたりでバウンドして転がった。
「ちょっと、痛いよ」
「それ読んで大人しくしてたら、これが終わってからゲームやるのを横で見させてやる」
「見るんじゃなくてやりたいんだけど」
「ちょっとくらいなら戦わせてやるから」
「・・・むーん、約束だよ?」
なんとか条件を提示し丸め込む事が出来た。彼女は重そうに体を上げ、やや不満な顔をしてウルフボーイを拾った。まあなんとも、手のかかるというか、面倒の見方にも困るというか、とにかくこれで余計に疲れる。勘弁して欲しい、こちとらまだ26歳になろうかという年である。子どもの扱いには長けていないし、愛情なんかも湧きはしない。元よりガキンチョとの接し方はわからない。やたらと目が離せない、悪意のないトラブルメーカーを管理する方法など知りはしない。
洗い物に戻る。そういえば明日は火曜日か。朝出す燃えるごみをそろそろまとめなければならない。週の頭から堪ったものではない。先週末しっかり目に休んだつもりだったのだが・・・。早くも加速度的なストレスの蓄積だ。
慌ただしい中でようやく食器を一通り洗って拭き終え、ゴミ袋を明朝出しやすいようにまとめる。寝る前に縛って置いておくのを忘れないようにしなければ。そういえば、作業をする中で部屋の中が静かになった。彼女はどうしたのだろう?部屋奥を覗いてみると、音もなく眠りに落ちていた。全く呆れてしまう。さっきまでの元気は何処へ行ったのか。
ハッ、と思い出して卓上の時計を見る。21時3分。9時を過ぎていた。はあ、とため息が出た。どうやって起こせば良いだろう。おそるおそる、うつぶせになった彼女の肩のあたりをツンツン、と小突く。
「《《起きてください、先輩》》。9時過ぎましたよ」
うーんと唸りながら彼女は顔をしかめる。パチッ、と目が開かれる。
「えっ、文哉くん、私寝てた?」
「おはようございます、先輩」
気恥ずかしそうに杏香先輩はグタリと身を起こす。
「なんかほんとごめん。どんどん傍若無人になってる気が・・・」
「いえ、まあ、しょうがないっすよ」
「本当に何も手伝わなくていい?なんでもやるから、遠慮しないで言ってよ?」
「いいっすよ、お互い明日も早いですし。帰った方が良いっすよ」
「そうね、ごめんねいつも甘えさせてもらって」
そう言って杏香先輩はブラウスのシワを引っ張って伸ばした。
「・・・あのさ」
「はい?」
「今日、なんか迷惑なことしてるよね?」
先輩は、いつもこの時間の記憶をスッポリ失くしてしまう。であるからして、それを事後報告したところでなんともならない。
「いや、普通でしたよ」
「うそ、ついてない?」
「普通でしたよ」
ちょっと笑顔を作って嘘をつく。
「・・・そっか。じゃ、帰るね」
歯切れ悪く、先輩は荷物をまとめる。これからもうあと20分ほどかけて彼女は自分の家に戻る。俺より、余程気持ちの悪い体験だろう。
杏香先輩とのこの奇妙な時間の過ごし方が始まっておおよそ2週間になる。はじめは全く信じる事が出来なかったこの事象にも、人間不思議なもので数回体験するといくら信用できなくても慣れてしまうから怖いのだ。
杏香先輩は、午後8時から9時までの1時間、幼児退行してしまうのである。