010 一思いに飲み干して
顔のあらゆる場所から血が溢れ出た男が、椅子にもたれかかっている。もう動くことはない。
「ッ! 駄目だったか……」
男に止まっていた鳥が消える。
「巻き込んじまってすまなかった。仇はとる」
男に対して、一方的にそう約束したシュバルツの鼻や口からも血が垂れてきていた。
「どうやら俺も、同じ毒をもらっちまったみてぇだな。だが、まだ生きている。どうやら人間と魔界の住人では、毒がまわる速度に違いがあるようだな」
そんな考察をしていると、何者かに右腕を掴まれた。そちらの方を向くと、そこにはサングラスをかけた屈強な男が立っている。
「俺は見たぜ。お前がこの男に何かしてたのをな」
「なに?」
シュバルツは驚いた。まるで突然出てきたかのような大男の存在に。店内に入ったとき、人はほとんどいなかった。それこそ、こちらをじっと見てきた者ぐらいで、いま腕を掴んできているサングラスの男は見覚えがない。
「俺は何もしちゃいねぇ。それに、今こうやって安易に触るのはオススメしない。そこの男は血を垂れ流しながら死に、同じ症状が俺の身にも起こっている。まだ原因がハッキリしない段階で……」
「すぐにバレるような嘘はやめろ。お前のどこから血が垂れてるってんだ?」
「……あ?」
男の言葉を聞いたシュバルツは、空いている左手で自分の鼻の下を拭った。確認すると、そこには何もついてなどいなかった。
「どういうことだ、こりゃあ……」
しかし、鼻の奥から上唇にかけて何かがつたっている感覚はある。そのことについても考えようとするが、毒の影響か頭の中でうまくまとまらず、そこに腕を掴んでいる男が追い打ちをかけてくる。
「店員さん、早く警察を呼んでくれ! コイツは俺が押さえとくから」
毒に侵されているとはいえ、魔界の住人、しかも前魔王であるシュバルツが人間の拘束を解くことは至極簡単なことだ。が、それはなんの罪もない男に怪我をさせてしまうことを意味し、更にはこの騒ぎをより大きなものにしてしまう可能性にも繋がってしまう。
かといって、このままおとなしくしていたところで、警察などが来てしまっては今以上に身動きが取れなくなってしまう。シュバルツは素直に回ってくれない頭で少し考え、結論を出した。
「使わずに出れるのが理想ではあったが、こうなっちまったら仕方がねぇな」
「なにをごちゃごちゃ言って……は?」
言い切るより先にシュバルツが消え、男の手は何もないところを握っていた。
「よし、無事に出てこれたな。入るとき、外にテレポーターの羽を仕込んでて正解だった」
周りを確認し、歩いてきた道とは逆の方向へ走り出す。毒のせいか、あまり勢いはよくないが、できる限り思考しつつ前へと進んでいく。
「おそらく、毒をくらった原因は水だな。俺もあの男も様子がおかしくなったのは、水が肌に触れてからだった。発動条件は他にもありそうだが、この感覚からして魔法を使った本人から距離をとれば毒が消えるかもってのは望み薄だな。となると、直接叩くしか選択肢は無さそうだが……」
今あの店に戻るのは。そう思っていた矢先、通りがかった公衆電話が突然なり始める。この状況からみて、敵からのものかもしれないと判断したシュバルツは電話ボックスの中へと入り、受話器を手に取った。
「あいよ」
「……私の《一思いに飲み干して》によって発生した毒、気に入ってもらえましたか? まさか人間と違ってここまで耐えられるとは思ってもいなかったですけど」
電話の相手は、攻撃を仕掛けてきた者で間違いなさそうだった。
「なかなかのモンじゃねぇか。流石の俺でもそろそろヤバくなってきたぜ」
「そうだと思って、アナタが死ぬ瞬間を直接確認しに来ました」
受話器とは別に、うしろからも声が聞こえる。振り向くとそこには、携帯電話を耳にあてている女性が一人で立っていた。店内でハンカチを渡してきた人物である。目線は女性に向けたまま、受話器を置くことはせずにそのまま会話を続ける。
「お前だったのか、敵の正体は……」
「この魔法は、私が直接触れた対象に作用する力で、私の近くで摂取したりなどする液体が猛毒に変わってしまうんです。毒をくらったら、私から距離をとっても消えてしまうことはありません。死んだ彼とは店に入る前に手を繋いだりしてて、元々ああするつもりでした。最近しつこくて、邪魔で邪魔で……まぁ、あのタイミングは想定外でしたけど」
「ずいぶんとベラベラ喋るじゃねぇか。自分の力のことまでよ」
「それは、なにも問題がないからですよ。全て話したところでアナタの逆転はありえないから。現に、もう元気に動き回る体力も、鳥を出したり瞬間移動したりする魔法を使う気力も、全然ないんじゃありませんか?」
「…………いや、それはどうだろうな」
「図星ですね? とても魔法を使えそうな調子には見えませんよ? たとえ体力があっても、もう無理です。アナタはそこから死ぬまで出られない」
「なに?」
どういうことだろうか? そう思ったとき、上からポツポツと音が聞こえ始める。
「なんの策も講じないまま、敵の前に姿を晒すわけないでしょ? あらかじめ、スマホのアプリで正確な天気予報を調べてたんです。ここまでの展開を読んだうえで、アナタにこうして攻撃を仕掛けるためにね」
女は、隠すようにうしろに回していた左手を前に出し、シュバルツに見せつける。そこには、折り畳み傘が握られていた。
「なるほど。雨か」
女が傘をさすと、途切れ途切れだった雨音がずっと連なったものへと移り変わり、この状況とは真逆の心地よさをうっすらとだけ感じさせる。
「そこは、アナタにとっての檻です。そのままでは店でくらった毒で死んでしまう。かといって、出てきたところで何かできるわけでもなく、今度は猛毒の雨の追撃をくらい死ぬ。このとめどない量、魔界の住人といえど確実にくたばるでしょう」
「…………」
「詰み、ですね」
血を吐きながら咳き込むシュバルツは、体を電話ボックスの右側へと預けた。
「俺の魔法《思いを馳せる》はな、簡単に言えば、回復や瞬間移動の能力を持った鳥を呼び出せるってところなわけだ」
「??? なんですか、突然」
「爆発する鳥もいたりするんだが、それらの能力はその鳥の羽一枚に移すこともできる」
「なにが言いたいんです?」
「あぁ、すまねぇ。爆発する羽をもうお前に仕込んでるって言いたかったんだ」
「…………は?」
「んで、いま起爆した」
シュバルツの発言と同時に、女のカバンが爆発し、持ち主自身も巻き込まれ勢いよく吹き飛ぶ。
「!?!?!?!?」
「お。体が楽になった。さっきまでの苦しさもねぇ。殺さずとも一定のダメージを与えれば、毒の効果はなくなっちまうみてぇだな」
電話ボックスの扉を開けて、女の様子を確認する。所々が焼けこげており、致命傷ではないが、能力の効果が消えるには充分なダメージは入ったようだった。傘は一緒に吹き飛んだため、大の字で仰向けに倒れ込んでいる女に、容赦なく雨が降りかかる。
「ぐぅ……あァッ……ッ……がッ……」
「どうだ? 気に入ってもらえたか?」
扉は開けたまま、その場から離れずに話しかける。
「なッなんでッ……いッ……のまに……」
「仕込んだのは、最初に会ったあと、俺の横をお前らが通り過ぎたときだな」
「!? ど、どうして……」
「ハンカチだよ。柔軟剤だったか? もしくは香水の類か、お前の服から香ってきたそれと同じものを感じた。つまりは、本来自分の持ち物だったのをわざわざ嘘までついて俺に渡したわけだ。それにお前は、今日俺が血を出すまでに会った人間の中で唯一、直接肌に触れてきた相手だった。誰彼構わずに爆弾仕込むわけにもいかねぇだろ。だから一番可能性の高かった奴だけに羽をつけた。そんだけのことさ。魔法の特性上、多少無理があっても触れられればいいと思っての策だったんだろうが、裏目に出ちまったな」
「な……なによ……それ……」
「可能性が高いってだけで、絶対的な自信があったわけじゃなかったし、なによりも店内での爆破は無関係の人間を巻き込むかもしれねぇ。だから、あの場から逃げ出して、敵が追いかけてくることに賭けた。内心ヒヤヒヤだったよ」
「く……」
「さて、もっと喋ることはできるか? 無理だってんなら、ヒーラーを使って問題なく話せる状態ぐらいには治してやる。お前には、色々と聞きたいことが山積みだからな」
シュバルツは、倒れている女のおでこに、ボマーの鳥を止めた。
「まずは……」
一つ目の質問を。そのときだった。
「あらあらぁ。クルシキさん、随分と酷い有様ですねぇ」
クルシキ。どうやら今まで相手をしていた女の名前のようだ。そのクルシキの近くに、突然謎の女が現れる。長い金髪に喪服姿。20代後半だろうか。まだ雨はその勢いを弱めることなく降り注いでいるが、不思議なことに今出てきた人物にそれらが当たることはなく、謎の女の周りだけまるで晴れているかのような空間が設けられている。
「!!! ど、どうしてここに……!?」
「どうして? ふふ、それは今のアナタが一番よく分かっているんじゃないかしらぁ」
謎の女は、冷たい視線をクルシキへと送っていた。