#01 アルステリア王国
「ごめんなさい!」
周囲を見渡してみる。一面緑一色の草原。頭上を覆い尽くす青い空。先ほどから変わらない景色が広がっている。
変わっていることといえば、金髪の女の子が隣で頭を下げていることくらいだ。
身長はおそらく少年より頭一つか二つ低い程度。紺色をした革の鎧を身に纏い、顔を上げて翻った金髪からはなにやら甘い香りが漂っていた。見ると、胸元や肩など重要な箇所だけ鉄製の防具を付けているらしい。年齢的なものか、女性的な凹凸は少ないように感じた。
「……えっと、君は?」
おずおずと少年は告げた。
「は、はい。初めまして。わたしは、アイリスといいます。20年後から来ました」
ふんふん、アイリスか、と納得しかかったところで、彼女がとんでもないことを口走ったことに一旦思考を巻き戻す。
「……今、なんて言った?」
「はい。……20年後から、未来から来ました」
思わず額に手を当ててしまう。まさか夢ではあるまい。
この現実を額面通り受け止めてもいいのか? と少年は自問する。
『門』は空から消えていた。アイリス、という少女があの『門』から出て来たのは彼も見た通りだが、さすが記憶喪失であっても、「はいそうですか」と全てに納得してしまえるほど判断力が落ちたわけではないのだ。
「あの、信じられないかもしれません。でも、信じてください。このままでは、王国が危ないんです」
「王国?」
ふと、真横を見やる。遠方には巨大な城塞都市が相変わらず鎮座していた。
「アルステリア王国。近く、あの国で『騎士団』によってクーデターが発生します。それが引き金になって戦争になって、それから……」
「ちょっと待ってくれ」
慌ただしく口調を早めるアイリスに待ったをかけ、記憶のない少年は今一度思考の海に浸る。
果たして彼女を信用するべきかどうか。
信用しない場合、事態はまた振り出しに戻る。目的もわからない自分探しに途方に暮れ、運が悪ければ行き倒れて死ぬだろう。
信用した場合、アイリスと何かしらの行動を取ることになる……のか? 確かに、少なくとも一人で露頭に迷うよりはマシかもしれない。
(思えば、先ほど内側から話しかけて来た『声』はなんだ?)
疑念は尽きない。が、考える時間が山ほどあるわけでもない。
記憶もなく、名前もなく、金銭はといえば、先ほど盗賊の生き残りが置いていった袋があったか。
「……君は、どうして僕を置いて行かなかったんだ?」
「わたしを送り出してくれた『おじさま』が、最初に出会った人を頼れ、と教えてくれたからです」
……まったく、適当なことを言ってくれたものだ。
本当に時を超えてきたのなら、もっと昔のことを調べて、あれこれ知識を付けさせてから送り出すべきだろう。
「あの、どうか、手伝っていただけませんか?」
アイリスと名乗った少女が、控えめに右手を差し出した。
──ともかく、少年の側としても、食事と体を休める環境ぐらいは迅速に確保する必要がある。
こちらが利用するにしろ、利用されるにしても、利はあっても害らしい害は見当たらない。
やがて少年は頷き、手を取った。
***
まずは王国の中に入ります、とアイリスは言った。
この草原一帯は国の管理している場所ではないらしい。どうりで人っ子一人見当たらないどころか、いたとしても盗賊くらいな訳だ。力の無い者が襲われても文句は言えないだろう。
歩くこと約20分程度。都市を囲う巨大な壁は、高さにして5メートルほどあった。
真っ黒に塗られた鋼鉄の門。その両端で番をする衛兵にアイリスが近付き、何度か口を交わすと、やがて門が開いた。
「どうやって開けてもらったんだ?」
「冒険者になりにきた、と言いました」
「冒険者?」
少年は首を傾げた。
「知りませんか? この時代では一般的じゃないのかな……ええと、金銭の報酬を前提とした何でも屋さん、みたいな感じです」
「なるほど」
方便ですけどね、とアイリスは言いながら、彼の手を引いて中に入った。
***
城塞都市──アルステリア王国の中は、活気に溢れていた。
商人がいる。子供がいる。大人もいる。通路に所狭しと並べられた露店には人が溢れ返り、やいのやいのと客引きの声などで賑わっている。
「このあたりは下層の商業区です」
アイリス曰く。
巨大な外壁に囲まれた都市は、中央に行くほど防衛が強固になるようにデザインされているらしい。理に適った地形だ。
『下層』は外壁沿いを指し、商業区と居住区に分かれている。少し中央へ行けば、土台が数メートルばかり上がり、『中層』になる。そこは国の武力であり防衛力でもある「騎士団」や、政治的発言権を持つ「貴族」たちが居をなしているそうだ。
そして『中央区』。「上層」ではないらしい。中央区は主に国政を行う王族と一部の騎士団のみが出入りできるようになっており、一般市民は立ち入れないようになっているという。
説明を聞きながらぶらぶら歩いていると、アイリスがふと足を止めて振り返った。
「あれが、勇者アルス様の銅像です」
指した指の先に目をやる。特徴的な槍を掲げた男の銅像だった。立体物として形にはなっているものの、表情などが読み取れるほど精巧でもない、といった印象だ。
「勇者?」
「はい。……約一千年前、『魔神』を封印したのが、あの勇者アルス・アルク様。この国は、彼の子孫が建国したんです」
ふうん、と少年は興味なさげに反応する。
「……そういえば、あなたの名前をまだ伺っていませんでしたよね」
そして、ついに来たか、と彼は内心で舌を巻いた。
なんと答えるべきか一瞬だけ迷ったが、嘘をついたところで、その嘘を突き通すだけの知識量もなければ演技力も期待できない。ありのまま話すことにした。
「……それも込みで、少し腰を落ち着けて話をしたい」
アイリスは首を傾げながらも、まあそれなら、と頷く。
「……? わかりました、いいところに案内します。このあたりはわたしの庭といっても過言ではありませんからね」
ふんす、とない胸を張りながら彼女はそう言った。
***
よく使っていた食堂がある、と連れられて来たものの、そこは腐りかけた木造の倉庫があるだけだった。
「ぐぬ……二十年前はまだなかったなんて……」
(まさか本当に、未来から来たのか)
演技にしろ演技ではないにしろ、二人とも只者ではないのは確かだ。方や自称未来を知る少女、そして方や記憶喪失の少年。まともな今後が見えない。
観念して、適当な店を見繕って入ってみる。居酒屋だった。
「金はあるのか?」
「はい、一応。あなたは?」
「まあ、僕も一応は」
彼にあるのは盗賊が置いていった袋包みだけだ。そしてこのアルステリア王国とやらの貨幣価値についても彼が明るくないのは言うまでもあるまい。
「一番安い飲み物を」
「じゃあ、わたしもそれで」
ぬるいミルクが出てきた。
「それで、あなたのお名前はなんていうんですか?」
ミルクを半分くらい飲んでからアイリスは本題に入った。
「……それについてなんだが。実は、記憶喪失らしいんだ」
胡散臭いのはお互い様だった。
「えっと……はい?」
(まあ、そういう反応になるだろうな)
数十分前の自分もこんな感じの顔をしていたのだろう、と彼は思いつつ、さて、賽は投げられた。あとはアイリス次第だろう。
「それは……冗談とかではなく?」
「ああ。僕は君と出会う直前まで、あの草原に倒れていたんだ。目を覚ましたところで、君が」
盗賊と一悶着あったことについては伏せておいた。まさか堂々と命を狙ってきた手前、人殺しを絶対悪だと宣うような文化ではなかろうが、心情的にだ。
思わず自分の格好に目をやったが、返り血がついている様子はない。
「ああ、よかった。てっきり、落ちて来たわたしとぶつかった拍子に、記憶が吹っ飛んでしまったのかと」
何もよくはないのだが、一応受け容れられたということで、彼もまた本題に入る。
「呼び方がないのは不便だな……僕のことは、好きなように呼んでくれていい。君が俺を信じてくれるなら、君もアイリスの言うことを信じよう」
自称未来人と自称記憶喪失者。
奇妙な共犯関係の始まりだった。
「わかりました。では、アレンさん、と」
「……その心は?」
「昔、父に読んでもらった本に登場する、ある英雄の名前です。数ある勇者アルスの本当の名前の一説、ともされているそうですよ」
それはまたご大層な名前を授かったものだ、と彼──アレンは小さく息を吐く。しかし、好きなように呼べと言ったのはこちらだ。従うほかない。
「そんなに名前があるのか? 勇者ってのは」
アイリスは大好きなものを褒められたみたいに饒舌に語った。
「ありますよーたくさん。呼び方も、この現代では『勇者』が一般的ですが、他にも『英雄』『魔術師の父』『聖人』『第一文明人』、それから『始祖』なんて呼ばれ方をされる地域もあるそうです」
あれこれと並べられたところで、アレンに実感はないが、それほど偉大なことをした人物なのだ、ということはいい加減にわかった。
なるほどな、とアレンは適当に区切り、
「僕の方の問題はひとまず置いておく。記憶は早めに取り戻したいが、まずはそっちだ。これから何が起こるのか、詳しく聞かせてくれ」
「はい。実は──」
***
曰く。
これから少なくとも数日後に、このアルステリア王国の『中央区』、王都で大規模なクーデターが発生する。
主犯格と目されるのは、王国の剣であり盾でもある『騎士派』。中でも最上位にあたる『剣聖騎士団』によるもの。
目的は、病に侵されている現国王「アルバート・セラム=アルステリア」の命で、彼女が知る『正史』では、王が崩御し、以降国は第五王子である「イルゲン・ウェルム・アルステリア」という男によって統治され、武力にものを言わせた恐慌政治の時代が訪れるという。
またその結果国は疲弊し、のちに始まる戦争で大きく消耗してしまうようだが、このあたりは彼女が生まれたばかりだったらしく、詳細な話もよく知らないらしい。
「名前の違いに気付きましたか? 現国王は『セラム』、つまり正しい血筋を歩んでいるのですが、此度の革命で国を握るのは『ウェルム派』、数十代前に枝分かれした、分家の人間になるのです」
「……なら、セラム派の王族は? まさか世継ぎがいないのか?」
アイリスは「いえ、」と言葉を区切り、
「セラム派、現国王アルバート様の王妃は、第一王女誕生とともにご逝去なさなったのです。以後、アルバート様は複数の妾とも子を成したのですが、男児が産まれることはありませんでした」
「……、」
それは、アレンにはなんとも言えない話だ。
「──そして、その正しい血筋のもとに生まれたたった一人の王女は、名をイネス・セラム・アルステリアといいます。……わたしの、母上です」
そうしてまたしてもアイリスは、そんな爆弾発言をしたのだった。