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リトライ  作者: hiroma
9/9

本性

もうすでにこれがいつも通りという風景になってしまった喫茶店<リトライ>。

いつも通りで、いつものメンバー。

ここで働く自分とは違い、大志と遥と夏美のこの三人は大学生。

彼らは暇があればこうしてこの場所へとやってくるのだ。


大志「なぁ浩樹よ」

浩樹「なんだ」

大志「高校の同窓会どうするよ、ってまぁ行かないとは思うが」

浩樹「そもそも同窓会があることすら初耳です」

まともに高校に行っていないぼっちの自分が参加したところで、誰だアイツはという扱いになることは目に見えている。


夏美「高校の時のヒロ君ひどかったもんね」

遥「どこがひどかったの?」

夏美「ん~、全部かなぁ」

遥「大丈夫よ、全部愛せるわ」

浩樹「ブレませんね、アンタ…」

確かにあの頃は髪を明るい色に染めたりして、それはもうひどかったとしか言いようがない。

そう<あの頃>は。



「こんにちは」

昼を過ぎたこの時間帯にお客が来るのは珍しい。


浩樹「あ、いらっしゃいませ空いている席どうぞ」

こんなくだらない話をしていながらもちゃんと仕事はしなければいけない。

グラスに水を注ごうとしたが、そのお客は席へ座ろうとせずこちらに向かって歩いてきた。


「浩樹君、だよね」

浩樹「え…?あ、はいそうですが…」

綺麗な黒髪、スーツ姿の清楚な雰囲気を出した女性だった。


瞳「お久しぶり、橋岡 瞳です」

寒気が走った。

頭の中が真っ白になり、一瞬にして口の中がカラカラになった。


中学時代の先輩だった。


大志「アンタ、何しにきたんスか」

あのおバカという言葉が似合っている大志が低いトーンで彼女に問う。


瞳「あ、確か坂上君だったよね?」

大志「質問してんのこっちッスよ」

夏美「ちょ、ちょっと大志言い方怖いって」

大志「うるせぇお前は黙ってろ」

大志の彼女である夏美にここまで強く言っているところを初めて見た気がする。


瞳「ここで働いてるのを見かけてね、それで来てみたの」

大志「ふざけんな」

浩樹「大志、黙ってろ」

大志「…お前」

手を出しかねない雰囲気の大志を下がらせる。


浩樹「お久しぶりですね先輩」

瞳「うん」

浩樹「社会人やってるんですね」

瞳「ええ、浩樹君は…ずいぶん変わっちゃったね」

大志「てめぇ!どの面下げて…っ」

この状況を誰が見ても過去に嫌な出来事があったことくらいは理解できるだろう。


浩樹「変わってませんよ」

瞳「え?」

浩樹「ただ、本性を出すことにしただけです」

瞳「本性って…」

浩樹「こっちが本性です」

瞳「…ちゃんと謝らせてくれない?」

遥「ねぇ」

そこで珍しく黙り込んでいた遥が沈黙を破った。


遥「何があったかはわからないけど」

自分と瞳の間に立つ遥、男でも怯みそうな鋭い目つきをしていた。


遥「感謝するわ」

瞳「え?」

遥「あなたはひどいことをしたんでしょう?」

瞳「…それは」

遥「きっとそれがなかったら私は浩樹と出会えなかった気がする」

瞳「あなたは…?」

遥「だから感謝するわ、けどそれだけ」

理由も知らずに年上にここまで言えるこの女がすごいと思った。

女の勘、というやつか。


遥「これ以上彼に近寄るな、それがあなたにできる唯一の謝罪よ」

瞳「…」

遥「帰りなさい」

下を向いて言葉を失う瞳。


瞳「…そうね、ごめんね浩樹くん」

浩樹「いえ」

重い足を動かして静かに去っていく先輩。

言いすぎだ、と遥に言おうとしたが正直スカっとしたのでその言葉は飲み込んだ。


大志「浩樹…」

浩樹「いや、いいんだ」

大志「ちょっとクリームパン買ってきてくれ」

浩樹「どのタイミングでパシリに使ってんだこの野郎」

大志「すまん、2ミリほど冗談だ」

浩樹「単位がわからんのだが!」

小さく鼻で笑い、大志は椅子に置いていたカバンを肩にかけ、彼女達の背中を押す。


大志「んじゃ俺達はそろそろ一回大学戻るわ」

遥「え、でももう講義って…」

夏美「ほら、遥も行くよ」

遥「あ、ちょ…ちょっと、浩樹っまた電話するね!」

浩樹「あ、結構です」


大志の性格はよく知っている。

―――気の使い方が下手くそなんだよ。

そして大志もまた自分のことをよく知っている。

きっと<口止め>しても無駄だろう、と。






 大学に戻るなんてのはもちろん嘘だ。

浩樹の勤める喫茶店を出て、俺達は近くの公園で腰をかけていた。

とんでもない美女を両手にといったシチュエーションでベンチに座りたかったが、そこはあえてやめておいた。


遥「…」

夏美「大志、聞いてもいいの?」

真ん中に座る夏美が下を向きながら呟いた。


俺は後ろポケットに入れていたスマホを取り出す。

少し操作をし、そして無言のまま隣へと流した。


夏美「ん、うわっ大志若いっ」

遥「へぇ~、中学の時くらい?」

大志「ああ、中学一年のだ」

それは俺が大切にしている思い出の画像だった。

いかにもヤンチャをしていそうな雰囲気の俺と仲のよかった友達とのツーショット写真。


夏美「隣の子、超爽やかだねぇ可愛いなぁ!」

大志「だろ」

遥「…」

その友達は眩しい笑顔でカメラに向かってピースをしている。

楽しそうに肩を並べて、爽やかな表情をした友達だった。


夏美「この子とヒロ君が何かあった…とか?」

大志「違うぞ夏美、これは…」

遥「……浩樹」

大志「正解だ」

夏美「ん、え?お?うぇええええ!?これヒロ君!?」

今のあいつしか知らない人間なら驚くのも当然だろう。

この画像の俺の横に立っている爽やか少年は数年前の浩樹だ。


あいつはきっと自分からは話さない。

だからいつか俺がこの二人に話すときが来るだろうと覚悟はしていた。

浩樹が好きな遥と、奴が死人だという秘密を知っている夏美。


空を見上げて、俺は重い口を開いた。





中学生にして悪ガキ、俺は何度も親や教師に叱られていた。

仲のいい同級生は結構いたが、周りからは怖がられて少し距離を置かれていた。

その中でも幼い頃からの付き合いだったあいつだけは自分をそんな目では見なかった。


大志「くそ野郎、頭をグーで殴りやがって」

浩樹「そりゃ校庭を自転車で走り回ってたら怒られるよ…」

大志「浩樹も今度やろうぜ」

浩樹「嫌だね、俺は生徒会に入ったんだ」

大志「うひぃ、よくやるよ」


中学二年に上がったばかりの時に聞かされた奴の告白には驚きという言葉はなかった。

困っている奴がいれば手を差し伸べ、人が嫌がることも率先してやる浩樹には似合っている居場所なんじゃないかと思った。

聞けば、生徒会長が直々に推薦したらしい。

橋岡瞳、清楚で人望も厚いその人物を知らない生徒などいない。

浩樹を紹介したのはこの俺、そして紹介してくれと言ってきたのも彼女だ。


瞳「あの子、私と同じ眼をしているの」


家庭でうまくいっていない、そう言っていた。

つまらない理由なら断ろうと思った。

だけど、これはチャンスなんじゃないかって。


浩樹は祖母の家でお世話になっている。

別居中の両親、父親は仕事場の近くで愛人と共に暮らしている。

母親もまた愛人を見つけその男の家に住んでいた。

周りに迷惑をかけ、最後にはそれぞれの欲望の為に家から出て行った両親。

あんな人間にはなりたくない、それがあいつの口癖だった。


浩樹「大丈夫、手伝うよ」

「ありがとう!」

「さっすが生徒会、助かるよ!」


浩樹「よーし皆、文化祭で一位目指そう!」

「おー!」

「がんばろう!」


浩樹「悩みがあったら聞くよ」

「ぐすっ、東田君っ」


俺とは違って人気者だった。

学年問わずモテていたといっても過言ではない。

しかしその人気者の顔は仮面なんじゃないか、と思っていた。

あんなクズにはなりたくない、と必死になっているんじゃないか、と。


―――きっとあの女には見えているんだ。

いつか俺の前ではその仮面を外してくれる日がくるのだろうか。



瞳「ね、浩樹君、今度の休みどこか行かない?」

浩樹「え、そそそそれって…っ」

瞳「ふふ、デート、かな?」

浩樹「デートって、それはつまり…っ」

瞳「意味くらいわかるよね」



もちろんそれをあいつの口から聞いた時は俺も喜んだ。

学校中でも二人のことは噂になっていたくらいだ。

誰にでも優しい浩樹と穏やかな性格の瞳、全生徒公認の二人だった。


浩樹「デートだよデート!先輩とデート!」

大志「ああ、何度も聞いたって」

浩樹「何かプレゼント買って行こう!」

大志「はりきってるなぁ」

浩樹「先輩、何買えば喜んでくれるかな?」

大志「しらねぇよ、キーホルダーとかでいいんじゃね?」

適当に答えているようで自分の事のように嬉しかった。

前々から浩樹が橋岡瞳に憧れを持っていたことを知っていたからだ。

その表情は嘘偽りなく、心から幸せそうに見えた。





瞳「ここの紅茶おいしい」

浩樹「おいしいですね!」

デート当日、午前中はいろいろと歩き回りチェーン店の喫茶店で休憩している二人。

この後は映画館に行く予定だった。

ポケットには恥ずかしくてなかなか渡せないキーホルダーが入っていた。

生まれて初めて恋をして、生まれて初めて手を繋いだ。


瞳「私とデートして楽しい?」

浩樹「も、もちろんですよ!」

瞳「誘ってよかった」

浩樹「光栄です!」

それはもう付き合う一歩手前の状況だった。

最高の青春。


瞳「あ、ちょっとお手洗い行ってくるね」

そう言って彼女はスマホをテーブルに置いて歩いていった。

浩樹はポケットからキーホルダーを取り出して、彼女が戻ってきたら渡そうと決心した。


マナーモードにしていたのであろう瞳の携帯が震える。

振動の短さからすると誰かからのメッセージだろう。

人の携帯を見るなんて当然するわけがない。


でも。

振動に驚いてスマホに眼をやってしまったんだ。

トップ画面にはメッセージと送り主が表示されていた。


《欲しがっていたカバン見つけたから買ってあげる タカシ》


背筋に寒気が走った。

頭の中では父親だ、とか兄貴だ、とか安心させようとしている自分がいる。

だけど、彼女は父親とうまくいっていない、そして兄貴などいない。


手に持っていた物をしまう。

心の中の黒い物を必死で押さえて彼女を信じた。


瞳「おまたせ」

浩樹「あ、い、いえ大丈夫です!」

瞳「あ」

スマホを手にとって少し操作をし、驚いた表情を見せた。


瞳「ごめん!バイト忘れてた!」


時が止まった気がした。

飲み物を飲んだばかりなのに口の中はカラカラだ。

それでも浩樹は必死で表情を作った。


浩樹「あ、それはしかたないですね」

瞳「ごめんね」

浩樹「いえ、楽しかったです」

瞳「また埋め合わせするからっ」

そう言って彼女は走って去っていった。

浩樹はしばらくその場を動けずにいた。

それが彼の初めての失恋。


つらくて苦しくて張り裂けそうな心。

大丈夫だ。

学校で皆に相談しよう。

<大丈夫だって!>

そう言った言葉をもらって自分を元気づけよう、と。


それはこれまで浩樹が周りにしてきたように――――。




全力で学校へ走っていた。

こんな日に限って寝坊してしまった。

昨日、浩樹はうまくやっているかな、と自宅でゴロゴロしていた俺にメッセージが届いたんだ。

《今日、生徒会長が大人の男性といた!》

とあるブランド店から出てくる瞳とスーツを着た男の画像付きのメッセージ。

送ってきたのは何かあるとすぐに人に言いたがるクラスメイト。

たちの悪いことにグループ送信している。

俺は朝早くに起きて浩樹の家へと行くつもりだったんだ。


嫌な予感しか出てこない。

カバンすらも持たずに俺は急いで教室へと向かった。



大志「ひろ…っ!?」

教室の扉を開けた先の光景に眼を疑った。



「かわいそう」

「浮かれてたのにね…」

「おい、お前声かけてやれよ」

「え~お前がしろよ」



俯いて中央に座る浩樹に対しての同情。

胸がえぐられるようだった。

困っている人がいれば手を差し伸べ、誰にでも優しかった浩樹。

それだけの事をしてきた浩樹に対してのこの反応は、


――――残酷な他人事。


俺は人間の薄情さを知った。

浩樹は人間の薄情さを経験した。

全部が敵に見えた。


大志「テメェら!ふざけ…」

ふざけるな、と言いかけた時大きな音と共に椅子が宙を舞っていた。

窓ガラスの割れる音と女生徒達の叫び声。

投げたのはもちろん浩樹だった。


浩樹「くだらね」

その眼には光が点っていなかった。

冷たい表情で、ゴミを見るような視線を周りに向けていた。


浩樹「死ねよお前ら」

机を蹴り飛ばして教室を出て行こうとする。


大志「お、おい浩樹」

浩樹「…」

こちらをチラリと見たが見られた気がしない。

こいつの眼にはもう誰もうつっていなかった。




その夜、例のクラスメイトがまたメッセージが振りまいていた。

《これやばくね?笑》

生徒会長とスーツ男がホテルから出てくる画像だった。

当然次の日俺はそのクラスメイトをボコボコにした。

昨日は浩樹が暴れ、今日は俺が暴れた。

当然その画像は学校中に回っていた。


「おい!東田待ちなさい!」

廊下で教師の叫び声が聞こえた。

飛び出した俺は自分の眼を疑った。


「何だその髪は!」

浩樹「うるせ」

そこには髪を金色に染めた親友が歩いていた。

そして前方には運も悪く、生徒会長がこちらに向かって歩いていた。

横には教師、後ろには親御さんらしき人物がいた。

きっとあの画像が出回ったせいだろう。



足を止めた瞳は驚いた表情で別人となった浩樹を見ていた。

浩樹は構わずに歩き続ける。


瞳「あ、あの…浩樹君…私…」

浩樹「お前、誰」

瞳「…っ」

眼を合わせることなく浩樹は彼女の横を通り過ぎて行った。

瞳は会長を降ろされ、その後彼女は親の都合、という名目で転校していった。


生徒会を辞めた浩樹は毎日傷だらけで登校してきた。

噂によるとケンカばかりをしているそうだ。

傷の負い方からすると負けてばかりいるのだろう。



こいつは変わったんじゃない。

浩樹はもともと人間に不信感を持っていた。

だけどそれを隠そうと、信じようと必死になっていただけだ。




大志「よう、今日も負けたのかなぁ?」

浩樹「黙れ」

夜、俺は浩樹を待ち伏せをしていた。


大志「よわっちーくせにバカじゃねぇの?」

浩樹「殺すぞ」

大志「やってみろや、ボケが」

当然殴り合いになる予定でいた。

話にならないくらいの圧勝。

もともとケンカっ早い俺はそこそこ強かったんだ。


横たわる浩樹を俺は見下ろしていた。

正直あの女は許せない、だが今感謝を覚えた。

浩樹の仮面を外してくれたんだから。


大志「おい」

浩樹「…」

大志「今から街で暴れようぜ」

浩樹「…あ?」

大志「いいから来いって」

浩樹「…ちっ」



それが幼馴染だった男との友達の始まりだった。







夏美「…」

遥「…」

夏美が握っていたスマホを受け取りポケットにしまう。

遥の目にはうっすらと涙が浮かび上がっていた。


夏美「その後に私と出会ったんだ」

大志「ああ、あいつ運動神経はよかったからな、すぐにケンカ慣れしたわ」

何度も何度も乱闘を繰り返しては負け続け、いつの間にか浩樹は強くなっていた。


遥「やっぱりさ」

指で眼をこすって空を見上げる遥。


遥「絶対に許せないけど感謝してる」

夏美「…うん」

遥「それがあったからこそ今の浩樹があるんだもん」

大志「だな」

夏美「家族、友人、大切な人、そりゃ人間不信にもなるね」

遥「でももう状況が違う」

大志「状況?」

立ち上がって正面に立つ遥。


遥「私たちが彼を信じてる」

そうだった。


あいつが俺達を信じるかどうかじゃない。

ここにいる三人、そして藤堂アリサもきっとそうだ。

浩樹が人を信じれなくても俺たちがあいつを信じているんだ。


―――やっぱりこの女はすげぇな。

ここまで言い切れる遥を見てうれしく思った。

仮面を外したあのバカをここまで想ってくれる彼女に感謝した。








 お経に聞こえる大学の講義を退屈そうに私は聞いていた。

同じ科目を取っている夏美は横でスマホをいじっている。

大志はというと一番後ろの席で堂々と寝ていた。

昨日の大志の話からどうもソワソワがとまらない。

一言で言えばそう、不安だ。

橋岡瞳にあれだけのことを言ったのだ、だから大丈夫だと言い聞かせても心は嘘を付けない。

女の勘というやつが働いている。


マナーモードにし忘れていたスマホが一瞬鳴り響き、私は慌ててカバンから取り出した。

珍しい人物からのメッセージだった。


遥「…え」

驚きが声になって外に出ていた。

しかしそんなことはどうでもよかった。


遥「すいません!急用でお腹痛いです!!!」

意味不明な言い訳を理由に私は教室を飛び出した。

後ろで夏美の声が聞こえたがそんなことを気にしている余裕はなかった。


《告げ口みたいで言うか迷ったけど言うね。

 昨日の夕方、橋岡さんって女性がヒロキ君に会いに店に来たわ》

そのメッセージの送り主は浩樹が勤める喫茶店のオーナーの雪さんだった。


《明日、朝10時に駅前に来てくださいって言って帰っていったわ》

私たちが店を出た後にまたあの女が現れたのだ。


《さっきね…ヒロキ君ちょっと抜けますって言って出てったの…》

現時刻は10時10分。

私は短距離走の授業でもここまで本気を出したことがないくらいの勢いで走っていた。

脚フェチの浩樹の好みに合わせるため、短めのスカートだったが気にしてなどいられない。

途中でカバンを捨ててしまおうかと思ったが、彼からもらった宝物のキーホルダーが付いているためそれはできない。


走って走って、無我夢中だった。

こういう時に限ってタクシーが捕らない、探してもいられない。

だから全力で走った。


浩樹を取られるという焦りの気持ちもなくはない。

ただそれ以上に強く私を動かしているのは、

浩樹がつらい思いをしている気がする、そんな自分勝手な思い込みだった。


いつもは電車ですぐだった彼のいる場所がすごく遠く感じた。

胃が痛くて何度も吐きそうになりながらも彼のもとへと向かった。



綺麗にセットしたはずの髪は乱れ、服は汗でとんでもないことになっていた。

視界に入るリトライと書かれた喫茶店。

ここまで来るのにどれだけかかったかわからない。

身体中が悲鳴をあげ店の前で膝を付く。

地面に自分の汗が次々に落ちていく。


そうだ、今思えば場所がわからないのだ。

ここに来ても彼がいないのであれば意味がない。

荒れた呼吸はなかなか整わない、震えた腕を必死で動かしてカバンからスマホを取り出した。

膝を付いたまま、スマホの操作をしようとするが手が震えて思うようにできない。


遥「浩樹…浩樹…」

浩樹「なんスか?」

遥「…え?」

聞きなれた声、求めている声。

片手に袋を提げ、私を見下ろす形で覗き込む男。


目つきが悪くて、相変わらずの口調で、大好きな人がそこに立っていた。


遥「…どうして」

浩樹「いや、汗だくで跪いている女に言われたくないんですが…」

遥「だって…昨日誘われたんじゃ…」

浩樹「え?…あぁ、雪さんか」

勘の鋭い彼は状況をすぐに察していた。


浩樹「行くわけないじゃないッスか」


袋からペットボトルを取り出してふっと笑った。

しゃがみ込んでこちらに差し出してくる。


浩樹「水分補給、した方がいいッスよ」


汗以上に涙が込み上げてくる。

<いつもの彼>はちゃんとそこにいた。


浩樹「何してんスか」

遥「…え?」

浩樹「店、入らないんですか?」

遥「あ…」

自分の勝手な不安。

この男がどういう人間かなんて私が一番理解していたのに。



―――絶対に。


遥「入るっ!」


―――絶対過去の思い出なんかに負けないからね。

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