序章-2
頭部にくるだろうと覚悟した衝撃はなく、代わりに砂利にこすれた肘が痛い。
身体を投げ出したまま、首をねじって上を見ると、〇・二秒前まで俺の頭があったであろう空間を、黒いバケモノが猛スピードで通り過ぎていく。
がごぎがぐぐげごご……。
ゲップとも呻き声ともつかない音を立てながら。
だらしなく開きっぱなしのビッグマウスからは、相変わらず不気味な粘液がしたたっている。
ジュ……。
地面に突っ伏した俺の頬のそばの地面に落ちたそれが音を立てた。
ジュ…? うひ────。
ブロック塀など、俺の前にも後ろにもどこにもなく、そこは住宅地の狭間にちんまりと作られた、小さな公園の入口だった。
中央に立つ、すべり台付きの小さなアスレチックジムのような遊具の間をすり抜けて、バケモノ様は公園の向こう側の出口に突進していく。
そのまんま、宇宙の彼方まで行っちまってくれ────!!
……俺の願いも虚しく、バケモノは公園の出口の手前、かわゆらしいブランコのところで、おっとっと…てな風に空中で急ブレーキをかけると、ぐわりとこちらに振り向いた。振り向くっつっても、目も鼻もない、でかい口だけがある、そっち側が前だと仮定しての話だけどな。
「さっさと片づけろってばよっ」
またしても、パキーンと頭がはたかれる。シナツヒコの扇子はなにでできてんのか知らないけど、それではたかれると痛いんだ、ホントに。
くっそー。わかったよ。やりゃあいいんでしょ、やりゃあよ!
俺は倒れ込んだ体勢からワンアクションで立ち上がると、ちょっとひと言では説明できない複雑な形に両手の指を組み合わせて、こっちに向かってスピードを上げつつあるバケモノに向き合った。
組み合わせた手を口の前に持ってきて、その手の中に息を吹き込むように、浄化のトナエゴトを唱える。下っ腹に力を入れるのがポイント。
「はらいごと きよめごと
のろいごと ほかいごと
もうす
にぎみたま あらみたま
あめつち ことだま
さわに
やそまがつひ おおまがつひ
かむなおび おおなおび
さわに さわに
いざあわな いざ!」
組んだ手を解き、右の手の平をバケモノに向かって突き出す。
トナエゴトによってたまり、形になったなにかが、俺の手から白い光の球となって飛んでいく。
自分の中にある「気」とか「魂魄」とか「精神力」とか、そんな普段は形のないものを光の球というエネルギー体にして発射するのだ。
俺の右手にあと三十センチまで迫っていたバケモノは、その光の球に正面からぶつかった。ぶつかりやがりましたよ。
パアァァ──ンッッ!
瞬間、空気を震わせて、バケモノの黒い身体は消え失せた。
確かに実体を持って襲いかかってくるように(俺には)見えていたそいつは、今や散り散りの灰色の気配のようなものになってあたりに拡散していく。小さな粒になったひとつひとつを見れば、小さいながらも邪悪なものをその中に保っていることがわかる。だけど、邪悪なものと同じだけこの世に存在する清浄な気配と混じり合い薄められて、力を失っていく。
ふっっ……。
ざっとこのとおり。やればできるんですよ、俺はね。
本気になった俺って、ちょっといい感じ?
どぉ? このポーズったら決まってない?
かっこよくない?
左足をちょびっと後ろに引いて身体を開き気味に、右手は水平にまっすぐ突き出し、左手はかるく拳に握って胸の前、顎を引いて眼光鋭く目標を見据える……。
く────っっ! しびれるねえええ!!
女の子がほっとかないよっ。この色男っ!
「いつまでやってんだよ、このボケナス!」
「さっさと結界張らないと、また集まってきますよ」
せっかくいい気分でいた俺に、冷たい声がステレオで降りかかる。そうじゃなくてここは、「きゃーっ。すてき──!!」ってな黄色い女子の声でしょうが。風情がないね。
「バカかおまえは」
シナツヒコくんのつめたーい声が降ってくる。ええー、もうちょっとノリよくしていこうぜ? こんないきなりやるかやられるかみたいな展開でさー、ギャグ要素もないとやってけないでしょ。
言いたいことはてんこ盛りにあったけど、あの真っ黒バケモノにまた襲われるのは死んでもいやなので、言われたとおり結界を張ることにする。
足を肩幅に開いてまっすぐに立ち、背筋を伸ばす。
「やえがきっ」
また下っ腹に力を入れて、ひと言唱えた後に、かしわ手をひとつ。
ピイイ───ンと、あたりの空気が張りつめて、俺のまわりがきれいになった気がする。ま、あんまり長続きしないんだけどね。俺の結界レベルじゃ、さ。これが俺の力の限界。もっと修行しなさいってこった。ちぇ。
「おや、結界のトナエゴトは、ひと言でできるようになったんですね」
わざとらしく感心した風に、ワカサヒコが言う。おまえっ、俺が練習してたの見てたじゃねえかよ。俺の部屋で。ゆうべも。
「結界だけじゃなく、浄化の方もひと言でやっつけられるようになれよ。呪文が長すぎんだよ。ギリだったじゃねえか」
「呪文」て……シナツヒコさん、それを言うなら「トナエゴト」でしょうが。
ま、トナエゴトだろうが、呪文だろうが、お経だろうが、祝詞だろうが、おんなじだってことはわかってますけどね。要は自分で声を出すという行為でもって精神統一をして、バケモノをやっつける力をためるってこと。だから、トナエゴトの文句も別に俺がさっき唱えたのそのまんまじゃなくてもいい。自分の精神統一ができればいいだけのことだ。
「龍吉だったら、『ほい』のひと言だったけどな」
「なにも唱えずにすぐに攻撃することもできましたね」
シナツヒコとワカサヒコが懐かしげに語り合ってる。
龍吉とは、高木龍吉。俺の父親。
日本民俗学、考古学、上代文学の研究者にして、幻想文学作家。しかしてその実体は……(いや実体っていうか裏稼業か?)現代の陰陽師にして悪霊祓い、憑き物落としに祈祷師と、世の中の不思議不気味現象解決なんでも請負人とでもいいましょうかね。
別にすごい霊能者!みたいなもんじゃない。見かけはだたのおっさんだった、と思うけどさ。
要するに、世の中の幽霊とか憑き物とかの騒ぎってのは、さっき俺が遭遇したようなバケモノのせいがほとんどだってことなのだ。それを見た人や場所や言い伝えによって、いろんなモノになってしまうってだけだ。親父のは、そのバケモノが見えてやっつけられるっていう、自分の特異体質を利用しての裏稼業だ。
だから、やることは全部同じ。「ほい」つって、光の球をバケモノにぶつけて浄化して結界張っておしまい。見物人にそれらしく見せるために、モニャモニャと、なんか唱えたりもしてたけどな。
あのお偉い祈祷師さまがありがたい呪文で悪いモノを封じてくれたからもう大丈夫って、そこに暮らす人間たちが思い込むことが大事なんだってさ。あの真っ黒バケモノは、人間の黒い想念が凝り固まったモノでもあるわけだから。
俺は七歳の頃からそんな親父に連れられて、あっちこっちのバケモノ退治をやってきた。
俺に自分と同じように、バケモノを見る力があるとわかったときの、親父の喜びようったらなかったらしい。俺は覚えてないけど、母親は今でもその時の大騒ぎを嬉しそうに語る。もう語り始めたら止まらないほど語る。
…そんな能力、正直言って、いりませんでした。お父さん……。
同い年の若者が、胸ポヨンの彼女といいことやってるときに、なにが悲しゅうて巨大まっくろくろすけと命かけて戦わにゃあならんのですかっ!?
見る能力のない一般ピーポーはめったに襲われることはないのに、見えてしまう俺のことは問答無用で襲ってくるのだ、あいつらは。
ご──っと。ぐわ────っと。
理不尽。
「おまえはすぐそうやって疑問を持ってしまうからいかん。襲ってくるからやっつける、怖いから攻撃する、でいいんだがな。なにごとも単純に考えればトナエゴトなどなくとも浄化の光は作り出せるぞ。長ったらしい文句を唱えんでも『ほんにゃらぴー』でもいいんだが、まあ、その性格は直らんだろうから、浄化と結界のトナエゴトくらいはよっく覚えておけ。わしがとびっきりの言霊を込めてこしらえてやったから」
まだ無垢な少年だった俺は、親父の言葉を信じてせっせとトナエゴトを覚え、十歳になるころには、浄化と結界はどうにかこなせるようになった。親父の言ったように真面目な性格の俺には、いくらなんでも『ほんにゃらぴー』では精神統一なんかできなかったからね。
だいたいありがたみがないよな。『ほんにゃらぴー』じゃさー。ありがたみとかの問題じゃないって、親父にはよく怒られたけどな。
さっきの結界のトナエゴトも、親父が教えてくれたのは、『ひとえがき』から始まるありがたくも長ったらしい文句があったんだけど、日々の努力と練習でもって、最後のひと言『やえがき』とかしわ手で、どうにか同じ効果を生むことに成功した。ついこの間。
ほらね。俺だって成長してんですよ。努力してんですよ。
……で、俺はこれからどうしたらいいんでしょうか…オトウサン……。
星のない真っ黒な夜空を見上げても、返ってくる答はない。
ちなみに、高木龍吉六十四歳、八年前から失踪中。
家族の元へも、八年間まったくもって連絡なし。