序章-1
(うっぎゃああああぁぁぁぁ~~~~~!!)
俺の声なき叫びが深夜の住宅地に響き渡る。
ホントの叫び声じゃないところが俺の鉄の理性の賜物だ。ほめてほしい。
ほんっとうに、ほめてほしい。
二十歳男子のホントの叫び声が、深夜一時半の静かな住宅街に響き渡ったら、おまわりさん呼ばれちゃうでしょ。
いやその、全力疾走している俺の後方約三メートルに今、迫っている、おそらく俺に危害を加えようとしているそのモノが人間ならば、俺だって遠慮なく大口開けて声帯最大限に震わせて叫びますよ。ええもう、叫ばせていただきますとも、恥も外聞もなく。
でもね、この殺気丸出しで俺を追いかけてきてるそいつが、直径二メートルほどの黒いぞわぞわした不定形の塊で、しかも宙を飛んでるとなったら、それは別でございましょう。
さらにさらに、それが俺にしか見えないとしたら!
おまわりさん呼んでもらっても、次には救急車を呼ばれるのがオチだ。ちなみにそのオチはすでに十三年ほど前に経験済み。そしてその経験から、このバケモノは自分でなんとかしないといけないってことも学習済みだ。
くっそ──。
都心から電車で三十分ほどの郊外の住宅地は夜が早い。ポツポツと灯りのついている窓もあるけど、細い路地に人通りはない。
おそらく俺を喰おうとしている(どんなふうにかは想像もしたくないけど)黒いバケモノの存在に気付いてから、そいつをなんとかまけないものかと右に左にめちゃくちゃに曲がりまくったせいで、俺は完全に自分の現在位置を見失っていた。
ココハドコ? ワタシハダレ?
自分の家の近くのはずなのに、角を曲がるたびに見覚えのない道に出る。
今日、というか昨日は、珍しく大学のクラスコンパに二次会まで付き合ってしまった。夜、それも深夜〇時を過ぎてからの一人歩きは、こういう目に遭う確率が高い。(俺限定だろうけどさ)
それはよーくわかってたはず、だったのだけど……。
だけどねっ!!
レースのキャミドレスの胸元から白い谷間チラつかせながら、
「高木くん、行く?」
なんて、くりっとした目の女子にだよ、上目遣いに小首かしげられたら!
俺だって、普通の、健康な、二十歳男子なんだあああああ!
「いくいく、行きます! どこへでも!!」
と答えるのは当然だろ。全国の二十歳男子にアンケート取ってくれていい。百パーセントの割合で、俺と同じように答えると思う。絶対。たぶん。おそらく。
しかも、二次会に移動する路上で、
「ちょっと酔っぱらっちゃった~」
とか言いつつ、腕なんかからめてきちゃったら! む、胸が! 胸のふくらみが! 腕にポヨンて。ポヨンて────!
二次会まで付き合ったら、その後なにかいいことありそうって思うじゃないですかっっ! 思わないですか!? 思えよっっ!
しかし、だ。その二次会の席で、胸ポヨンの彼女は、なーんかいけすかねえ男(当社比)に脇固められちゃって、飲まされてちゃってさらに酔っぱらっちゃって、俺がトイレに立った隙にどっかに消えてしまったのですよ。そいつと共に。
くっそ──────!
納得できねえ気持ちを抱えつつ、かろうじて間に合った終電で、自宅まで徒歩十五分の最寄り駅に降り立ったのが、一時十八分。
終電仲間の見知らぬ人々と一緒に、大通りを歩いてた時はよかったんですけどね。信号を渡るたび、角を曲がるたびに、お仲間はひとり減りふたり減り。俺の前後に人影が見えなくなった頃合いに、やってきました。
黒いバケモノがっ!
この俺としたことが、そんなこんなでいつもより少ーし酔っ払ってたせいで察知するのが遅れた。背中にぞわ──っとした殺気を感じて振り向いたときには、そいつは俺にあと五メートルのところに迫ってきていたってわけだ。
暗紅色のぬらぬらした大口(たぶん口だと思われる部分てことだけど)をぐわっと開いて。その口のフチにはヤニだらけのような汚れた、でも鋭そうな歯がびっしりと……。
煙草はあなたの健康を害する危険性があります。吸い過ぎに気をつけましょう……。
冗談言ってる暇もなく飛び込んだ路地から路地へ、走り続ける俺。アルコールの入った身体で全力疾走はつらい。死ぬ。
もうちょっと早くバケモノの存在に気付くことができたら、気配を消して逃げるなり、有利な体勢でさっさと浄化させるなりできたのに。
……ほ、ほんとだよ。
この八年で俺もいろいろ経験積んで、それなりに戦えるようになったんだ。
(ホントダヨ……、オトウサン)
それが! 俺が酒飲んでアンテナが鈍ってるこんな時にあえて襲ってくるとは!
あ、あれだ! こいつはあの、スーツ男が放った、俺への刺客に違いない!
あいつは、胸ポヨンちゃんを連れ出したはいいけど、酔いの醒めたポヨンちゃんに
「え──、やっぱり高木くんの方が、よかったあ~」
とか言われちゃって、そんでもって俺を逆恨みして、このバケモノに俺を襲ってくれと頼んだに違いない!
そうだ! 絶対そう……。
「なにありえねえ妄想してんだよ。このバケモノが、人間の言うことなんざ聞くわきゃねえだろが!」
パキーンと頭をはたかれて見上げると、俺の右斜め上前方で、十歳ほどの子供がこちらを目を細めて冷ややか~に眺めていた。俺の全力疾走と同じスピードで空中を飛びながら。
そいつの名を、シナツヒコという。
「早くなんとかしませんと、ハライゴトの体力まで使い果たしてしまうのではないですか?」
そして、左斜め上前方には、やはり子供が、こっちはキョトンとしたまん丸い目でもって俺を見ている。もちろん飛びながら。しゅーっと。
そいつの名は、ワカサヒコ。
こいつらは俺が物心ついてからずっと俺のそばにいて、たった今現在この時のようにまっくろくろすけのバケモノに襲われているときには、なにかと口出し……じゃなくて、アドバイスしてくれる、心強い俺の守護霊だ。ホントに守護してくれているのかとか、霊ってなに?とか、細かいことを考えるとキリがないが、少なくともこいつらはそう言っている。
言ってるけどな……。
だいたい「守護」ってのは、「まもる」って意味だろ? 「守」も「護」も、訓読みは「まもる」だ。「まもる」ってのは、俺を危険から遠ざけるとか、俺に危害を加えようとするモノを排除するとかいうことを言うんじゃないかと思うんだが、こいつらときたら、「こうやって攻撃しろ」だとか「正面向いて行け」だとか「逃げてんじゃねえ」だとか、俺を危険に晒すようなことばかり言ってくる。
それって、守護?
守護じゃなくて、コーチとかセコンドとかカントクとか、そんな感じ?
守られてる感じは全然しないっつうの。納得いかねえ。
「〝まもる〟ということの真の意味を吟味するのはまたにした方がよいようですよ。もうすぐ追いつかれます」
いや、俺が吟味してんのはそれじゃないんだけど……、と反論してる暇はないですかそうですか。後方三メートルにいたはずのバケモノは、もはや一メートルほどにまで迫ってきていた。首をほんのちょっと動かして、横目で見ただけで視界に入ってくる。
黒いテラテラした鱗状の体表が、波打っている。ぐわーっと開きっぱなしの(おそらく)口からは、なんだか黄色っぽい粘液状のものが泡だって溢れてきている。何度見てもこいつに慣れるということはない。気持ち悪い。なんというか、人間の本能の部分に訴えかけてくる気持ち悪さだ。うひー。
「さっさとやっつけろよ。なにやってんだよ」
「だっ…たい………たて……ひろ…ばっっ………ひ───っっ」
息が上がってる。もうダメかも。
「体勢立て直す広い場所がねえだとお? なに贅沢言ってんだ、ごるぁ!」
シナツヒコの、結構かわいらしい子供の見かけに似合わない怒鳴り声が耳に痛い。つうか、こいつらの声って実際に聞こえてるわけじゃなく、頭に直接響くテレパシーみたいなもんだから、耳じゃなくて、心に痛い。
ああ……、繊細な俺の心が…。
「そこを左に曲がって三つ目の細い路地を右に入って突き当たりの塀を越えたら塀沿いに右にちょっと行って家と家の間を抜けると通りに出ますからそれを渡ったところのすぐの路地の二番目の十字路を右に曲がって突き当たりを左に曲がると公園があります」
シナツヒコとは対照的なワカサヒコの、いつどんなときでも沈着冷静、優しげ~な声が左上から降ってくる。ああ、体勢を立て直せるスペースのある公園までの道順をご丁寧にも教えてくださってるのね……。
………って……。
そんなん、覚えられっか────っっ!!
「しょうがねえなー。んじゃそこ右だ」
シナツヒコにそう言われて、反射的にまわれ右をした俺の目の前には、灰色のブロック塀がそびえていた。
うわ止まれ俺の俊足。いや止まったら〇・五秒後にはバケモノに飲み込まれる。いや飲み込まれるっつうかあのギザギザの歯に噛みつかれる。そんでもってあの黄色い粘液が俺の皮膚をジュウジュウ溶かし始めるんだきっとそうだ。あの粘液は塩酸並の猛毒に違いないきっとたぶんおそらくよく知らないけど。あれが皮膚に触れるところを考えるだけで鳥肌が立つ。しかもしかもあの歯で噛み割かれた傷口からあの液体が体内に注ぎ込まれた日にゃあもう死んだ方がマシってくらいの気持ち悪さだ。いやそんなんなったら多分死んでるだろうけど。そんな死に方は勘弁。俺は死ぬときゃ美しく死にたいんだ。うわー止まれない。このままじゃブロック塀とバケモノに挟まれて俺はぺしゃんこだ。しかしこのスピードでコンクリに激突したらバケモノだって無傷じゃないだろうけどそこはバケモノなんだからきっとぺしゃんこになった後も浄化しない限りぞわぞわ再生したりして動けなくなった俺を喰い始めるんだ。それはいやだけどでもコンクリとバケモノに挟まれてぺしゃんこよりもバケモノとは別々にぺしゃんこの方がまだいいような気がする。きっとそうだ。別々ぺしゃんこにしよう。そうしよう。(思考時間〇・〇五秒)
俺はスピードをゆるめられないまま、ヘッドスライディングの要領で、地面から三番目くらいのコンクリブロックめがけて頭から突っ込んだ。無駄だろうけど一応両腕を上げて頭をかばって。
ずざ────っ!!
ずざ────っ?????
がつ────んっ! じゃなく?