Ⅳ
シーズンの終了間際に王都を離れ、公爵閣下の差配で自分とは全く縁のない北の領地に暮らして数ヶ月。
季節はすっかり秋色に染まり、周囲は収穫や冬の支度で忙しい。
領主夫人が第二子をご懐妊中のため、上のお子様の子守という名目で招かれたのだが、可愛らしい上に手のかからない嫡男様であった。
奥方様は子どもの養育に関わりたいと考えていらして、邸内では母子で過ごされることも多い。私の仕事は主に外遊びや入浴のお手伝いくらいのものだ。
地方の小さな領地持ちの男爵家に育った私には、貴族の身分など大して意味を持たない。流石に洗濯女中のようなことはしなかったが、何かしら動いているのが通常だった。
手持ち無沙汰で贅沢すぎる待遇に、遠慮や恐縮の前に時間を持て余してしまう。
空き時間にせめて何か仕事をさせてほしいと申し出て、今では街の小さな学校の手伝いとして一日おきに子どもたちに読み書きを教えている。
穏やかな領主夫妻の元で、素直で可愛らしい子どもたちに囲まれた生活。
時折王都から訪ねて来られる大奥様と、隣接する辺境の領主夫妻の他は客人らしい客人もない。
ゆっくりと過ぎる時間の流れの中にいると、あの雨に炙られたような日々が遠く薄くなる。
ふとした時にいまだにツキリと痛む胸がなければ、本当に夢だったかと思うほど。
故郷の教え子たちは、家族はどうしているだろうかと気にはなったが、万事滞りなしとの伝言を信じるしか今の私には出来ることがない。
公爵閣下と交わした「他言無用、全て任せよ」の約束は違えることができないのだ。
「リア。お茶にしませんか」
「ええ、奥方様。喜んで」
学校から戻り次回の授業の支度をしていると、お子様はお昼寝されてしまったと仰る領主夫人から誘われた。
「今日は辺境伯はいらっしゃらなかった?」
「はい、大丈夫でした」
くすくすと楽しそうに私をからかう奥方様。
隣領の辺境伯は私の父より歳上なのに身軽で気さくで、ふらりと訪れることがある。
突然、私が教える学校に姿を見せ、呆気にとられたままの私の頭を軽く撫でると、子ども達に剣の稽古をつけて満足そうに帰って行ったのはつい最近のことだ。
よくあることかと奥方様に問えば、気が向かれたのかしらねと鷹揚に笑っていらした。
家格は私と同じ男爵家の身ながら伯爵家へ嫁いだ奥方様は、侍女を通さず私に話しかけてくる。かといって礼儀作法を知らぬわけではなく、外に出れば至極立派で完璧な淑女として振る舞う姿はさすがだと思う。
こうしてよくお茶などに誘われて共に過ごしているが、驕った所のない方で一緒にいて心地よい。
身を立てる役に立てば、と惜しみなく上級貴族のマナーや作法も教えてくださる。
一通り身につければ、ここを出た後に家庭教師やマナー講師に就く道も開けるだろうと、覚える方にも熱が入った。
茶葉の選び方、淹れ方、茶器の扱い、茶器そのものの知識。話題の選び方、話の進め方……奥方様の歌うような声でお喋りをしながらふと挟まれるそれらは、ごく自然に記憶と身体に染み込む。
教え方も無駄がなく、自分よりよほど教師に向いているのではないかと思ってしまう。
「それで、リアは恋人はいませんの?」
なのに一体何の流れでこうなったのか……ああ、そうだ。流行りの劇が恋愛の話で、王都から離れたこの地にも噂が届いていた。
私はその劇こそは観たことがないが元となった小説は読んでいたので、その話をしていたのだ。
私がここにいる理由を知っているのは領主様だけで、奥方様はご存じない。
公爵閣下のご縁で紹介を受けた、ただの子守の扱いだ。
「ええ、おりません」
「『今は』でなくって?」
きらきらと明るい琥珀色の瞳を輝かせて、カップを傾ける奥方様。
心を過るのは覗き込むように私を見つめる彼の鳶色の瞳。強引にそっと触れてくる硬い手のひら、私の腕がまわりきらない広い背中……諦めたのに、まだ痛い。
でもこの痛みがあるから、私はこうして立っていられる。
「……もともと、誰かを好きになったことがなかったのです。生まれてからずっと」
「あら」
「人間に興味が薄い、といいますか。父母や兄姉から別に何かされたということはなくて、ごく普通に育てられたと思いますが、家族のことも特別好きとも嫌いとも思えなかったのです」
教え子たちはそれなりに可愛いと思う。でも、懐いてくれれば嬉しいが、そうでなくても悲しいとか寂しいとかは感じない。
仕方ないな、と思うだけだ。
交友を持った人たちとも、親密と呼べるような付き合いはない。私が周囲の人に感じるのは、義務感と惰性。それが全てだった。
「友達も。男性とお付き合いしたこともありますが……ふとした時に思い出したり、その人でなければ、とか、そういった想いは……」
「彼が初めてなのね」
咎めるでもなく誹るでもなく、ただ事実を述べるその言葉。
返事に詰まる私に、奥方様は柔らかく微笑んだ。
「誰かを切ないぐらい想ってる……諦めようとして、いいえ、もう諦めているのよね。でも、忘れるつもりはないのでしょう?」
「……ええ」
公爵家との関係にさえ言及がなければ、この程度は話せるだろう。なんとなく、頷いてしまった。
――最初から、先を望んだことはなかった。
この広い世の中にこんなにたくさんの人がいて、それでもずっと一人だと思っていた。
そんな私が誰かに心を傾けることができて、その人も私を求めてくれた。
たとえほんの一時でも、確かに存在したその時間はそれだけで十分に残りの人生をも照らす灯になる。
それを、どうして忘れるなんてできるだろう。
静かに扉が開いて、替えのポットを持ってきたと告げる侍女の声が聞こえたが、奥方様は話を止めなかった。
「また会いたいと思う?」
「いいえ」
「本当に? その人が今もリアのことを好きだって言ったらどうするの」
「どうしようもありません。一瞬だけ交差した道のようなものです。行く先は別なのですから」
「――だ、そうよ、ウィル」
背後の扉から入って来たのは侍女一人ではなかった。
記憶をくすぐる独特な足音に振り返りたくとも身体は動かない。代わりに音もなく茶器をテーブルに戻した奥方様が席を立つ。
震える心臓を落ち着けるように絞り出した声は、自分でも驚くくらい小さかった。
「奥方、様?」
「話だけでも聞いてあげて。忘れないで、何をどう決めても私は友人の味方よ」
「……それは分が悪い」
懐かしい声が耳に届く。
ゆっくり見上げれば、苦笑いを口元に浮かべながら私を見下ろす彼――ウィルと、目が合った。