Ⅱ
彼――ウィル、は新聞記者だと言った。
もちろん記事も書くが、それよりも取材をしたり事件や話題を探して街中をうろつく方が多いのだと笑う。
それは確かに、私が図書館や植物園への行き帰りに頻繁に見つけられてしまう理由ではあるけれど。
「それにしては、今まで見かけた記憶がないわ」
「まあ、そうだけど……もう会っただろう」
あの雨の日の熱に浮かされたような出会いを思い出し、口をつぐむ。ウィルはそんな私を面白そうに眺めると、飽きもせず引き寄せる。
大抵、施設を出たところで捕まえられて、そのまま食事に行ったり図書館へ連れ立って戻ったり。
彼と過ごす時間はするりと私の中に入り込み、まるで元からそうだったかのように溶け込んだ。
話すのはたわい無いことも多い。それでも、記者をしているだけあって話題は豊富だし、嫌味でない程度に挟まれるちょっとした意見や感想で、彼の人となりはよく分かった。
何にでも興味を持ち、怖いもの知らず。
まるで子どものように無邪気な好奇心、それと相対する気遣いや仕草。
おどけた態度の裏で、はっとするような深い考察。
……時折届く白紙の封筒や、私の存在に気付くと姿を消す訪問者。
新聞記者にはあり得るだろうけれど、微妙に違和感を感じるそれら。極秘の取材だ、と言うのを問い詰める理由も持ち合わせていない。
寝るためだけに借りていると言う通りの殺風景なウィルの部屋では、当たり前のように私に触れてきて、私もそれを受け入れる。
常識として普通に持っていたはずの貞操観念は、彼との間では何の力も失くす。
だって、そうするのがあまりに自然だったから。
「泊まっていけばいいのに」
「それは無理よ」
姪の動向にも全く関心のない人嫌いな叔父の家には、年かさの雑役女中が一人だけ。しかも同居を嫌がってわざわざ住むところを他に用意して通わせる徹底ぶりで、男やもめの彼は放っておくと食事も取らず机に向かってばかり。
なぜか昔から私のことは邪魔にならないようで、構われることはないが他の親類のように邪険にされることもない。
私が王都に残ったのは、叔父にせめて「食事をとり、夜には休む生活」をさせたいと考えた両親の差配でもあるのだ。
手近なところに置いてあった服を手繰り寄せてベッドから起き上がると、後ろから腰に手が回る。
その腕に薄く残る傷痕をなんとなく指でなぞった……怪我の名残は脚にもある。記者というものは荒事も仕事の内なのだろうか。
「――、」
「ウィル、くすぐったい」
脇腹の後ろあたりに軽く口づけるウィルが何か呟く、くぐもった声が熱を持つ。
最近は帰ろうとすると、こうして言葉だけでなく引き止めてくる。肌をくすぐるダークブロンドの髪に指を通したら、その手を取られた。
「……リア。どうして何も聞かない?」
私の指を甘噛みしながら手のひらに向けて言うその質問には答えず、身体に回る腕を解いてベッドから足を下ろし肌着を身につける。
ほどけた髪を左肩から胸元に流すと、少し振り返ってバスクだけ留めたコルセットの紐を背中で揺らした。
「結んでくれる?」
離れたことに少しだけ不満そうな顔をして、それでも結局は片方の唇の端をあげて手を伸ばす。
几帳面なのか、適当でいいと言っているのにきっちりと締めて、左右の長さも私がするよりよほど完璧だ。
きゅ、と締められるたびに溢れそうになる吐息で胸が潰されていく。
「……っ、」
「きつい?」
「ううん、大丈夫」
むき出しの頸に唇を落としながら固く紐を結ぶその指先に、何かが込められているように感じるのは気のせいだと、思う。
私が服を着て髪をまとめ直す頃には、彼自身もすっかり身支度が整っていた。
「俺も社に戻る。そこまで一緒に行こう」
「まだ遅くないし平気よ。この辺は明るいから」
「いいから」
そう言って新聞社の近くの交差点で別れるまでが、二人の暗黙の了解になっていた。そこから叔父の家まではそんなにかからない。
ウィルは別れる際に、私の手の甲にまるでお手本のようなキスを落とす。道端なのに。
『そういえば名前も言っていなかった。俺はウィル、』
『私はリアよ、それだけでいいわ。だから聞かないし、言わないで』
あの雨の日に言葉少なく二人で過ごした後。
黙って帰ろうとした私の腕を取った彼を遮ったのは自分だ。あの時の彼の呆気にとられた顔は忘れられない――お互いに知っているのは愛称のみ。
彼が新聞社で働いているのだって、向こうが勝手に話してきたから知ったのであって、私から尋ねたわけではない。
叔父の家へと戻る道すがら、最近何度か繰り返された彼とのやりとりを思い返していた。
『どうして何も聞かない』のかって、それは、聞く必要がないから。
誰も好きになったことがない私が、初めて「これは恋だ」と言える気持ちを知った。
そしてその相手が、今この時に一緒にいたいと思ってくれている。
これ以上、何が必要だというのだろう。呼び合う名前以上の何が。
彼を見た時に心をよぎった何か。予感のような直感のようなそれは、現在だけのもの。
次の約束をすることも振り返って背中を見送ることもしないのは、もう少しだけこのままでいたいと思うから。
『リア』と、まるで大切なもののように呼んでくれるその声がコーデリアと響きを変えたら。
――この夢も、覚めてしまいそうな気がしていた。