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 その夏、私は恋に落ちた。


 シーズンはまだ中盤ではあるが、父の出席する議会が先に終わったため、両親は早々に田舎の領地へと戻った。

 そして私は、一人王都の親戚宅へ残された――とは言っても、嫁ぎ遅れぎみの娘を心配する親の思惑である茶会や夜会といった社交の場所には出向かず、図書館や植物園といった施設の方へ入り浸りの毎日だ。


 このまま読書三昧の日々を満喫して日々をやり過ごし、秋になったら田舎へ戻る。

 村の小さな学校で子どもたちを相手に教え続け、オールドミスになることに何の問題があるだろう。体裁が悪いとそんなに言うなら、そのうち適当な男性と結婚させられるだろうけれど、そこに興味も関心も、ない。


 別に結婚が絶対嫌というわけじゃない。男性に恐怖心を抱いているわけでもない。

 ただ、自分には向いていないと思うだけ。

 誰かと出会って……その先がどうしても想像できない。


 そう言う私の言葉は両親には届かない。

「普通の結婚と人並みの幸せ」を望んでくれるのは、娘としてありがたいとは思う。というか、思わなければならないのだろう。

 こんな風に感じている時点で、やはり私には何かが欠けているのだと突きつけられる――それはいわゆる、情とか優しさとか。


 過去に何度かされたプロポーズの言葉ですら、私の心を揺らさなかった。

 面倒だな、と思ったのが顔に出ていたのだろう。私の前を去った彼らはそれぞれ私とは正反対の、可愛げのある女性と結婚したと聞いた。


 小説や戯曲のような恋愛は私の中にも外にも、かけらも見当たらない。

 あれは虹と同じ。見えたと思っても触れることも行きつくことも出来ず、ふと消えてしまう美しいだけの幻。


 確かに、そう思っていた。




 その日も昨日と同じだった。

 貴族としての立場は低いが学者肌の叔父のおかげで、預けられている家は大きな図書館へ歩いて行ける街中にある。

 閲覧室のお気に入りの席で午前中から本を読みまくっていた私は、昼もだいぶ過ぎてようやく空腹を覚えた。

 本を戻し日傘とバッグを持ち屋外に出ると、出迎えたのは重く身にまとわりつくむっとした空気。からりと晴れていたはずの頭上にはいつの間にか嫌な感じの雲が広がり、遠くで雷も聞こえる。


 どこかで軽く食べてまた戻ってこようかと思っていたけれど、この空模様では家に帰ったほうがよさそうだ。

 そう思い直して足の向きを変えて間も無く、ぼつんと大粒の雨が日傘を揺らした。


 瞬く間にどうと降り出した雨は石畳を濡らし、靴を濡らし、スカートの色を濃く塗り変える。

 役に立っているかどうか分からない日傘をそれでもさしながら、慌てて近くの軒下へと駆け込んだ。

 定休日なのだろうか、窓にカーテンがかかりひっそりと静まったティールームの壁に手をついて息を整え、突然の雨にけぶる街を茫然と眺める。

 近くを歩いていた人達もそれぞれ雨宿り先を見つけたようで、馬車が一台水しぶきを上げて通り過ぎたほかは動くものは目に入らなかった。

 こんなに強く降る雨は滅多にない。

 ゴロゴロと低く響く雷と叩きつけるような水音で、先ほどまでの街の喧騒はかき消されてしまった。


「ふう……びっくりしたわ」


 誰にともなく呟くと、すっかり濡れてしまったバッグから少し湿り気を帯びたハンカチを取り出し、手や顔に飛んだ水滴を拭う。

 強い雨はまるで滝のように石畳に打ち付け、たちどころに流れを作る。

 今が夏で助かった、この濡れ具合では秋や冬だったら確実に風邪を引くだろう。それにしても、今日に限って本を借りなかったのは幸いだった。


「すごい雨ですね」


 自分一人だけと思っていたのに、斜め後ろからかけられた声に肩が揺れるくらい驚いた。

 恐る恐る振り返ると、同じように濡れ鼠になった男性が、困ったように両手を振って水を落としていた。

 被っている帽子も、帽子の下からのぞくダークブロンドの髪も夏物の上着も、すっかりびしょ濡れだ。


「……本当に。あの、お使いになります?」


 あまり役には立たなさそうだけれども、ないよりはマシだろう。

 手にしていたハンカチを差し出すと、重さで前にずれていた帽子を指先で上げたその人と目が合った。見えたのは、なんてことはない鳶色の瞳。どこにでもよくある色。

 その瞳に射竦めるように見つめられて、心の奥がざわりと波立った。


「――ああ、ありがとう」


 一瞬だけ見えた驚いた表情はすぐに隠され、かわりにゆっくりと手が伸ばされる。


 彼が掴んだのはハンカチではなく、それを差し出している私。

 軽く、強く、握られた手首が熱を持つ。


 この人は、私の人生にきっと入り込む。


 そんな直感が頭の奥で警鐘を鳴らしているのに、ざあざあと庇を打つ雨は視界を塞ぎ、周囲の音もかき消す。聞こえるのは大粒の雨が叩きつける音と、重く響く遠雷。

 気付いた時にはその腕に囲われてティールームの壁に背中を押しつけられて。この雨にも流されない熱は身体に溜まるばかりで一向に出て行く気配もない。


 雨音だけが響く中、名前も知らないひとの口づけにただ酔いしれて、私は恋に堕ちていた。




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