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Mana

「Mana」外伝 水色の時間

作者: 福島真琴

「……どうした? マナ……」

 形の良い眉を怪訝なときの表情に歪めて、ジーンはマナの様相を見つめて言った。

「どうしたもこうしたもないでしょう? 見てわからない?」

 少々むっとした表情を浮かべて、マナはそう返した。それに対してジーンは、〝難問だ……〟と言いたげだったが、なんとか言葉を発した。

「いや、新色にしたかったのかなと思って。ちょっとしたイメチェンとか?」

「ふーん……。馬鹿にしてるの?」

 平坦な声を発するマナの顔は声同様、無表情だった。こんなときのマナは要注意と、ジーンは何度も学習したつもりだったのだが、どうやらジーンはまたもやマナのプチ地雷を踏んでしまったようだ。

 しかしそんな心の動揺を見せることなく、ジーンは冷静に対応した。

「いやいやいや、滅相もない! ただ単純に、黒に飽きたのかなと思っただけのこと。……それにしても、艶がないね」

「だって、ペンキだもの」

 そう言うと、マナは頬をぶすりと膨らました。ジーンの頭の中で、丸く太ったふぐが泳ぎ始めた。今のマナのイメージは、そんなんなのだろう。しかも頭だけなぜか、黄色なのだ。

 そう、マナの今の髪は黄色だった。金髪とは言えない。黄色。なぜならそれは、髪の色を抜いた金ではなく、髪の色を付け足した黄。だってペンキなのだから。

 ジーンは訪問者が訪れたときによくそうするように、扉の隙間を開けて、マナと会話していた。

 その隙間からマナは、まるで入るのが当然とでも言うかのように、ずかずかとジーンの部屋に入室した。この街での滞在は、もう一週間となっていたが、相変わらずジーンの部屋は整頓されていた。変なところで几帳面というか、なんというか……。

 それにしてもマナは、よっぽど言いたいことがあるのだろう。愚痴を聞いて欲しそうにしている。〝やれやれ……〟と、心の中でため息をつきつつも、マナに向き直った。すると一気にその髪になってしまった原因を語り始めたのだった。

 早い話が、工事現場の下を通ったときに、手を滑らせた作業員によって黄色のペンキを被ることになってしまったとのこと(もちろん、作業員達はその場でマナにしこたま謝ったようだ)。後日、正式な謝罪と慰謝料を払いたいから、住所と連絡先を教えてほしいと言われてしまったようなのだ。

「というわけで、今からその作業員さんたちがここにくるんだけれど、いいかな?」

「いいも何も、ここの住所を教えたんだろう?」

「うん」

 しかもなぜかマナ自身の部屋番号ではなく、ジーンの部屋番号を教えたようなのだ。端っから巻き込む気、満々である。しかも、いろいろと厄介な勘違いをされそうな気もしないでもない。この件に関してジーンは、〝ロビーでの面談でもよかったんじゃないのか?〟と、提案したのだが、どうやらマナ一人ではそういった込み入った話(と言っても、謝罪と慰謝料を受ける側なのだから、そう込み入ったこともないとジーンは思うのだが……)は苦手らしいのだ。

 という理由もあり、百パーセント逃げられない手法を取ったようだ。やはり端っから巻き込む気しかない。

「これでも、三回くらい洗ったんだよ」

 不意にマナは、気に入っていた自分の髪をいじりながらそう呟いた。それでも落ちないということは、相当特殊な塗料ということなのだろうか……。ジーンはその辺の知識については詳しくないので、なんとも答えられなかったが。代わりに言えたのは、こんな提案くらいだった。

「その上から、さらに黒の染髪剤を使ってみるとか……」

「……この厚みは残っちゃうよ」

 よく見ると確かにマナの言う通り、その塗料は厚みを持ってマナの髪に付着してしまっていた。しかもその厚みは均一ではなく、洗って落ちた部分や削れた部分もあって、でこぼこしていた。そんな状態の髪に、上から黒のコーティングをしても、表面の凹凸は消えない。〝くせっ毛〟などの一言で片付けるのも心苦しい、特殊メイク状態である。

「なるほど……。そう言われればそうだな」

 こんなジーンの返答に、〝他人事だと思って!〟と、またもや不機嫌の虫が騒ぎ出したようだ。

 だがその虫が暴れ出す前に、噂の作業員たちが駆けつけ、ジーンも事無きを得たのだった。斯くして、謝罪と慰謝料の件は、粛々と話が進んでいった。といっても、マナは始めから慰謝料をもらう気はなかった。それよりも、その問題の髪を元に戻して欲しかった。それだけだった。

 これらの考えを、自分なりの言葉でマナは相手に伝えた。この一連の流れを〝自分は部外者です〟という空気を、脚を組んで座り、身体半分は横を向くという態度で示すジーン。そんな効果もあってか、作業員たちはジーンの存在を意識せずに、マナと話し合いを続けている。それなのに、肝心の決断となると、なぜかちらちらとジーンへと視線を配る作業員たち。これはどうやら勘違いされているなと気付いたジーンは、そそくさと態度を改めようとした。

 〝自分は一切気にしてないですよー。むしろそんなに気を使わないでください。この女、頑固で気が強くてすみません〟的空気を出そうとしたのも束の間、今度は隣に座る問題の〝この女〟事、マナが〝あんた、何へーこらしてんのよ〟とでも言い出しそうな鋭い視線を投げて寄越した。

 結果、どちらにも行けなくなったジーンは、腕を組み、目を閉じて、〝考えてますよ〟のポーズをとることにした。そのまま本当の眠りに落ちてしまえたなら、ナチュラルエスケープ、一石二鳥というやつである。

 それにしても、どうにも話が進まない。進まないというよりかは、膠着状態なのだ。片や謝罪と慰謝料で済ませたい、片や謝罪や慰謝料はいいから、髪を元に戻して欲しい。これでは話し合いも長期戦になりそうだと踏んだジーンは、電話片手に勝手にオーダーし始めた。

「あ、すみませーん。コーヒー四つお願いできますかぁ? ついでに、小腹を満たすものもつけてもらえると、ありがたいのですがぁ……」

 どこまでも部外者の能天気面のジーン。それも癇に障ったのか、顔は無表情だが、マナの空気がイラッと波立った。しかし、それもさして気にしないあたり、ジーンもジーンである。飄々とした態度で、部屋にあるメモ帳を手に取り、両者の話し合いをメモするふりをして、壁にかけてある絵を模写し始めた。

 やがて話し合いの声も途切れ、程良いタイミングでコーヒーを運ぶボーイが現れた。静かな室内に、コーヒーカップを置く音が木霊する(ちなみに〝何か小腹を満たすもの〟は、ブラウニーといちごムースのケーキだった。一口サイズのキューブ状に切り分けられていて、食べやすいのも好感が持てた)。

 全員分のコーヒーを配り終えたボーイは、不思議に思ったのか、マナの髪をじっと見つめた。その視線に気付いたマナは、棘のある目をボーイに向けた。〝被害を拡散させる気か!〟と焦ったジーンは、

「新色なんですよ。どうですかね?」

 と、軽い世間話のつもりで口を開いた。もちろんその言葉は、マナの地雷源(もう〝プチ〟はつかない)であったことは言うまでもない。しかし、その地雷が爆発する直前、ボーイはごく自然な手つきでマナの髪を一束掬った。

「これ、ペンキですよね。このメーカーのペンキだと、普通に洗っても取れないと思いますよ」

 その言葉がなければ、公衆の面前で女性をくどく〝キザ男〟にしか見えなかったことだろう。実際顔立ちも甘いマスクで、女性にモテるために生まれてきた、といった感じの男だった。

「えっと……、そういうのに詳しいんですか?」

 さっきまで人を射抜きそうな鋭い視線を投げていたマナだったが、突如現われた一条の光に、マナは目の色を変えた。まったくもって、現金な女だとジーンは思った。だがそれは、自分もか……と、心の中で小さく舌を出した。

「えぇ、そうですね。僕、ボーイをやる前は、美容師だったもので」

 その言葉を聞いた作業員たちも、救いが現われた! という顔で、ボーイに縋りつきそうな勢いである。マナと作業員たちの目には、今やそのボーイは救世主のように光り輝いて見えることであろう。

 ジーンは彼の言葉を聞いて、なるほどと納得した。コーヒーカップを置くとき、手の動きがこなれていると思ったのだ。しかもそれも、見栄えのする美しい動きだと思えたのだ。きっとそれは、美容師として働いていたときに身についた所作なのかもしれないと思った。それに、爪に透明なマニキュアをつけているのか、動くたびに煌いた。未だ、手や爪にこだわりを持って仕事をしているということの表れなのだろうか――。

「そうなんですか! でしたら、この髪も元に戻せますか?」

 マナの質問と同時に、作業員たちも希望を込めた眼差しを元美容師に注いだ。その視線を一身に受けて、元美容師のその男は爽やかに笑った。

「えぇ、簡単に落ちますよ。今日の仕事が終わりましたら、こちらに伺いましょうか?」

「えぇっ! いいんですか!?」

 マナの歓声に、なぜか作業員たちも目をキラつかせながら、その男を見つめる。状況がわからない人が急にこの場面を見たら、イケメンボーイに惚れるごつい作業員の構図に見えるかもしれない。あまり美しい絵面ではないということだけは、確実に言える。

「えぇ、いいですよ。代金も頂きません。今はもう、美容師を本職にはしていませんので。ただ、ボーイの仕事が遅くなるかもしれませんので、そのあたりはご了承ください」

「いえいえ、構いません! でも代金は支払います」

「いえいえ、大丈夫ですから」

 これらのやり取りが数回繰り広げられ、やっとのことで一段落ついたようだ。やはり、作業員たちもほっと一息ついている。もはやジーンよりも作業員たちのほうが、マナの出来事を自分事として感じてくれているのかもしれない。ちなみに、イケメンボーイの名はミズキと言った。

 結局ジーンの部屋のテーブルには、ミズキの名刺と慰謝料が入った封筒が置かれていった。そしてジーン以外の人間は、この部屋を後にしたのだった(マナでさえも!)。名刺や慰謝料はマナに関するものなのだから、マナが持っていろと言ったのだが、〝お金の管理はジーンのほうが得意でしょ?〟の一言に、ジーンもつい頷いてしまった。が故に、ここに残ることとなってしまった問題のブツ。

 まぁ、マナの髪が元に戻れば全て解決することだろう。と、持ち前の適当な考え全開で、ジーンは気楽に今日の夜を待つことにした。その間、あの髪ではどこにも出歩くこともできないマナは、自分の部屋で静かに読書をして過ごしたようだ。その残り火とでも言うかのように、夜になりジーンの部屋に来たマナは、本片手に未だ入り込んでいた。本の背表紙には、〝遺伝学入門〟と書かれていた。

「それ、楽しいか?」

 思わずジーンは質問した。しばらく答えはなかった。やがて、きりのいいところまで読み終わったからなのか、マナは唐突に口を開いた。

「だってジーン、たまによくわからないことを言うでしょ? なんか、わからないのも癪だなぁと思って」

 純粋に自分の出自に関することを知りたいがため、ではなく、俺への負けん気からか……。そんな風に思ったら、ジーンの口元には小さな笑いが浮んでしまっていた。

「そうかいそうかい。だったら、頑張って勉強しろよ」

 席を立ち、部屋に備え付けられているコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れる。お湯を注ぐと、ふわりと芳ばしい香りが部屋中を満たしてゆく。夕飯はとっくに食べたのだが、その香りは再び食欲をそそる。

「はい、どうぞ」

  目の前にコーヒーを差し入れると、マナは目を丸くした。

「ごちそうしてくれるの?」

  まるでそれは珍しい光景だとでも言うかのように、マナは失礼にもジーンを二度見した。

「俺がごちそうしたらおかしいのか? それに俺はいつだって、フェミニストだろう?」

「へぇー……」

  えらく感情のこもらない声で、マナは返事した。目を針のように細めて、

「フェミニストが、旅行代金が足りないからって、仕事手伝えっていうかねぇ、普通。ジーンの場合、マネーニストのほうがふさわしいんじゃない?」

「なんだその造語」

 自分の分と、これから来るであろうミズキの分のコーヒーを、ジーンは用意しながらマナに返答した。

 コツコツコツコツ――

 しかし唐突にそんな音が室内に響いた。二人共、あたりを見回す。もちろん最初に見たのは、扉のほう。だけど音の質感と、近づいて聞いたときの音も違う。その音はもっと高くて、薄い何かのような――

「シアン!」

 窓のほうを向いて、マナはそう叫んだ。と同時に、ジーンはそちらに視線を向けると、暗闇の中で妙に白っぽい物体が口の中の歯を突き出して、コツコツと窓ガラスを叩いていた。若干窓が曇っているのは、シアンの息のせいだろう。

「お前、よくここまで上ってきたな」

 窓を開けると、シアンは一気に室内に飛び込んだ。大きなモップが部屋に置かれたみたいだった。

 外は寒かったのか、シアンは室内に身を滑らせると、身体を温めるためにマナの身体に身を摺り寄せた。

(だってさぁ、外寒いんだもん。ルナはよくこの寒さ、平気でいられるよね)

「いや、ルナも寒いだろうよ」

 ジーンはつれっとそう言った。そして、こう続けたのだった。

「だからこっそり、このホテルの地下室に潜り込ませておいた。どうやらそこは、空調も温度も一定に保たれている倉庫だったようで……」

「え! そんなところあったんだったら、教えてよ!」

(ずるーい! ずるい!)

 〝ルナはペットじゃない、自分のことは自分でできる女性だ〟とか何とか豪語していたわりに、結構大事にしてるじゃないと、マナは半分呆れながらそう思った。そもそも彼らは狼なのだから、寒い場所は平気なはずなのに……(シアンは根性の点で、平気ではなさそうだが)。むしろ、マナのほうがシアンの管理はワイルド飼育かもしれない。だがシアン自身も、文句を言ったりはしないから、このくらいで案外丁度いいということなのだろう。

 しかしこの状況、一体どうしよう……。これからこの部屋には、ミズキという一般人が訪れるのだ。普通の人間が狼であるシアンを見て、どう反応するだろうか……。シベリアンハスキーで強引に押し通すか? それとも隅っこのほうで、モップになりきっていてもらうか?

 マナたちは、あれやこれやと考えているうちに、運命の音のように扉は鳴った。もちろんその主は、ミズキだった。私服の彼は思っていたイメージとは違う雰囲気だった。水色のリネンシャツを、少し着崩してまとめている。はだけた胸元が色気を感じさせたが、マナはミズキのその様子に少々面食らってしまった。むしろ、何アピールなの? と、ちょっと引き気味になっているといっても過言ではなかった。

「こんばんは。遅くなってすみません」

 口ではそう言うものの、彼は笑顔でそう言った。

「はぁ……。どうぞ」

 つい薄い反応で応答してしまうマナ。相手にこの感覚が伝わっただろうかと、気にしつつも中に案内する。すると彼の表情は急激に華やいだ。

「わー! 可愛いですね、このわんこちゃん!」

 〝わんこちゃん〟の言葉に、二人はほっと胸を撫で下ろした。こちらでいろいろ手を打たなくても、独りでに勘違いしてくれた。だがそれは、人を疑うことのなさそうなミズキだったから通用したことなのかもしれない。その様子を脚を組んで頬杖ついて呆れたように見下している、人を疑うことしかしないマネーニストではありえないことだった。もしあったとしても、それは完全なる演技といえると、マナは確信を持ってそう思った。

「きゃーっ! もふもふしてるー! もふもふのふかふかぁ!」

 〝きゃーっ!〟???

 しかも語尾にハートマークがついていたような気がするのだけれど……。

 マナとジーンはお互いに視線を交わした。お互いの感覚が間違っていないか、確認するためである。その目にはお互いに、〝間違いない〟という文字が浮んでいた。

(ねぇ、ねぇ、マナ!)

 いつもなら撫でられると誰彼構わずお腹を見せるシアンだったが、今回は戸惑いながら、ミズキから逃げようともがいていた。

(なんかこの人から、女の子の香りがするよ! でも、顔をスリスリされるとジョリジョリするー!)

 シアンは哀れにも、じたばたしながら全身の毛を逆立てていた。確かにシアンの言うとおり、よく見るとミズキの口のまわりがうっすら青い。うん、身体は男の子なんだねと、マナは暗黙の了解のように全てを理解した。人は外見と中身は一致しない……。その最たる例であろう。だがそれは、マナ自身も含めての言葉なのかもしれないが。

 それにしても先程からジーンもシアンのように、何やらたじたじしている。よく見ていると、ミズキの視線はジーンにばかり注がれている。蛇に睨まれた蛙よろしく、あのジーンがびくついている。ある意味マナは、貴重な場面に遭遇し、薄情にもレア感を味わってしまっていた。こんな心の内をジーンに読み取られてしまったら、〝マナこそ馬鹿にしてるでしょ!〟と、顔を赤くして憤慨したことだろう。状況が状況なだけに。

「すごく気になっていたんですけど、そちらの方の長い襟足、僕が整えてあげましょうか?」

「いえ、結構ですッ!! それにこのスタイル、気に入っているものですからッ!!」

 天敵を前にしたジーンは、斯くも怯えるものなのか……。少々哀れに思ったマナは、ミズキの意識をジーンから引き離すため、ミズキに話しかけた。

「あのぅ、この髪、元に戻してもらえるんですよね?」

 ジーンに向けられていたミズキの全神経を、引き離すことには成功した。成功したのだが、今度はその神経は刺々しいものへと変化していった。

「もちろんですよ! そのために僕はここにきたのですから!」

 まるでとってつけた理由のように聞こえるのは、気のせいだろうか。昼間の顔とは正反対の対抗心である。まさに、恋する乙女は強し! というやつなのだろう。乙女パワー恐るべし……。その中に自分が入っていないということに気付いたマナは、自分は乙女ではないのかもしれないと薄々感じ始めている。ジーンの言っていた〝剛〟という単語を、だんだん受け入れ始めている自分がいた。〝漢〟と言われないだけ、まだ救いはあるのかもしれないが……。

 だが、好きな人を前にしてあんなに可愛くなれるミズキを、可愛いなと思う自分がいることを、マナは少々脅威に感じた。そんな何目線なのかわからない自分は静かに蓋をして、ミズキに髪の洗浄をさらにお願いした。

「ならミズキさん! あなたの腕を見込んで、ぜひともあなたにお願いします!」

 一度も美容師としてのミズキの腕前を見たことはないのに、よくもいけしゃあしゃあと言えたものだなと、マナは自分で自分に少々呆れた。誰かさんに似てきているのだろうか。それはそれで、また先程とは別種の戦慄を覚えずにはいられないが。

 しかし、マナの薄っぺらいおだてでも功を奏したようだ。〝まぁ、そんなに言うんだったら、仕方ないなぁ〟といったまんざらでもない様子で、早速本来の目的に戻り始めたミズキ。うん、誰かさんよりは断然扱いやすい、と思っている時点で、やはり自分も腹黒の影響を受け始めてきているのかもしれない。これは伝染性の性質の悪いウイルスのようだと、マナは思った。そう思うと、華やいだ笑顔の仮面をつけた底意地の悪いジーンウイルスが、マナの頭の中で、暴れだす妄想が騒ぎ始めた。

 こんな長いやり取りがあったものの、やっと本来の作業に戻り、マナもジーンもほっと一息ついた。特殊な薬剤を髪全体に塗りこみ十五分。軽く流したら、あとはいつものコースといってもよさそうなシャンプー、リンスである。だがこの工程にヘアパックも加わる。洗浄の薬剤が強いため、普段より髪が傷みやすいからなのだろう。

 その作業は滞りなく進んでいった。やはり、元美容師なだけあって、作業が手早い。それに何よりも、その作業をしているときのミズキは職人らしく、外側の造りそのものの男前に人の目には映ることだろう。やはり人間、一心に働く姿は美しいということの現れなのかもしれない。

「それにしても、驚きました……」

 洗浄後の第一声、ミズキはそう言った。鏡に映るマナの髪を見つめながら、ミズキは目を瞠る。そこにいるマナは、髪を染める前の水色の髪のマナだった。ミズキはその髪を珍しそうに手にとって、見つめた。

「これは、銀髪の部類に入るのでしょうかね? でも少し青みがかかっていますし、初めて見る髪ですね。出身はどちらなのでしょうか?」

 出身地を聞いて、おおよその人種の見当をつけようということなのだろう。だがそれは、マナにとっては返答に困る質問だった。

「えーっと……」

 考えるふりをしつつ、視線を彷徨わせる。だが間髪入れず、別方向から声が上がった。

「氷の街、クリスタル出身だ」

 その声の主は、ジーンだった。さっきまで彼とシアンは、部屋の隅のほうでミズキからは背中しか見えないようなポジションで、縮こまっていたのにだ。それなのに、急に存在を現わしたから、マナとしては大丈夫かなこの人……と、心配になってしまった(ちなみに縮こまりながら、マナが持ってきた〝遺伝学入門〟を細々と読んでいたようだ)。

 しかしジーンの一言は、大いに助かった。地理や街の特徴に弱いマナは、咄嗟に答えられなかっただろう。そもそもその街の名は初めて聞いたくらいなのだ。それでもマナは、その答えに適当に合わせてこの場を乗り切ることにした。

「え、えぇ。クリスタル、クリスタルです。それにしても、そんなに珍しいですか?」

 ミズキはマナのド下手くそな演技には、何一つ疑問を抱くことなく、会話を続けた。

「えぇ、そりゃあもう。この髪は、売れば結構な値がつきますよ」

「えっ! そうなんですか!」

 〝結構な値〟と聞き、ついマナは飛びつきそうになった。こんなところもジーンに似てきてしまっているのだろうか。

 しかし実際問題、交通費や宿泊費、飲食費に雑費と、出費は二人分となると、なかなかの金額になる。仕事を手伝っているとは言え、その仕事も上手く見つかればいいが、見つからない場合、露店のアルバイトなんてのもこなした。選り好みなんてしていられない。金は天下の回り物。現実問題、どんな綺麗事を言ったって、お金がなければ生きていけないというのもまた事実。なくなれば、どんな仕事でもこなして稼ぐのみ、である。

 ジーンから言わせれば、〝ただそれだけのこと〟と言うのだが、世の中のことに疎いマナにとってそれは、少々逞しく映ったものだ。

 話が横道に逸れたが、こんな簡単にお金になるのならば得以外の何者でもない。それに、少しでも足しになればとマナは思った。

「じゃあ、少し切ってもらおうかな……」

 マナがそう言うと、ジーンはマナたちのほうに視線を向けてじっと見据えた。

「切るの?」

 ジーンはぽつりとそう聞いた。

「うん、少しでも旅費の足しになればなぁと思って」

 そう答えると、ジーンの視線はつと正面に戻り、手の中の本へと注がれた。そして、興味もなさそうな平坦な声でこう言った。

「そう。でも俺は、そんなお金はいらない」

「え?」

 マナは一瞬、理解できなかった。予想外とも言える。マナの中では、ジーンは喜んでくれると思ったのだ。たかが髪だし、ショートから少し伸びて肩につきそうなボブっぽくなった髪、マナ自身伸びてきたから切ろうかなぁ、くらいの軽い気持ちだった。しかもそれがお金になるなんて、一石二鳥ではないか。

 マナは困惑したまままごついていると、ジーンは自分の鞄の中を探し始めた。そしてごく普通の調子で、何の感情もこもっていないときのジーンの表情で、素っ気無くミズキに言った。

「あ、もういいですよ。これ、シャンプー代です。ありがとうございました」

 その言葉と同時にジーンは、茶封筒に入ったお金をミズキに手渡した。

「いいですよ。僕だって、今は仕事でここに来たわけではありませんし、このシャンプー代はいりません。むしろ、あなたに会いたくて来たようなものでして……」

「そうですか……」

 はっきりとミズキは自分の気持ちを口にしたのだが、ジーンは笑顔でそれに応じた。

「あなたのその笑顔を、お礼の代わりにしますよ」

 そう言うと、ミズキは心から嬉しそうに微笑んだ。その笑みには、花が似合うとマナは純粋にそう思った。たとえお金にならなくても、誰かの期待に応えることもまた、立派な仕事(本人はそのつもりはないのだろうけれど)だと、マナはこのとき気付かされた。この花のように微笑む、ミズキという男性から。

「なら、こちらはほんの心付けだと思ってください」

 そしてジーンはそう言うと、ごく自然な流れのように、ミズキの顔に近づきその頬にキスをした。その動作があまりにも自然すぎて、マナもうそうだが、当のミズキ自身も一瞬目を瞬いた。みるみるうちに時間差で、ミズキの顔が赤くなる。だが数秒後には、彼はそのままはしゃいで(ハイになってしまってとも言える)、〝おやすみなさい〟の挨拶を言うと、ばたばたと出て行ってしまった。その背を笑顔のまま、しばらくジーンは見送っていた。

 やがて二人だけになった室内は、急激に何かが萎んでしまったような、そんな気がする。それはきっと、さっきの髪のことをまだ引き摺っているからなのかもしれない。二人とも、言葉にはしないけれど。

「なんだか、可愛い人だったなぁ」

 ジーンがぽつりとそう言った。それは素直な感想だと、マナは思った。

「そう、だね」

 なんとなく、合わせてみる。部屋の隅のほうで、シアンがふわりと欠伸をした。そのまま顎を床につけて、うとうとし始める。

「髪、切りたかった?」

 口火を切ったのは、ジーンのほうだった。ごく普通な、感情の読み取れない声音だった。ちょうど今のジーンはミズキを見送ったばかりで、マナの位置からは背中しか見えない。マナは返答に困った。だけどいろんな想念を予想して、小細工して答えることは、自分の性に合わないと思ったマナは、そのまま素直にごく簡単に答えた。

「うん、少し伸びてきたからね」

 ジーンは静かに、ミズキが通り抜けた扉を閉めた。音の出ない閉め方だった。そのままするりと、部屋の椅子に座り、読みかけだった本を開いた。

「俺はそのままがいいと思うんだ」

 ぽつりぽつりと落とされる言葉。それはごくさりげなく、素朴にさえ感じられる、自然の一部。

「いや、いいと思ってた。だけど結果的に、切らせてしまった」

 雨みたいだと、マナは思った。最初は少しずつ、水滴が落ちてくる。だけど一度降り出すと、たくさん流れ出して、河になってゆく。だから彼の言葉は、雨みたいだと思った。

「だからせめて今日だけは、そのままでいてほしい」

 そんな雨の言葉を、ジーンは本から目を離すことなく落とした。マナの中でその雨粒は、大きな湖のようになり、あの星の滝の湖に落ちたときのように、水の中に浮かんでいるような感覚を覚えた。マナはこの室内に満ちている水の中を泳ぎだす。思いの外すんなりと、ジーンのところまで辿り着いていた。

「後悔してるの? 私が髪を黒く染めたこと、そして結果として髪を切ったこと。〝切らせてしまった〟なんて思って……」

 やっとジーンは本から目を離し、マナを見上げた。少しだけその目は、弱気な目をしていた。マナは怒ってはいなかった。怒っていなかったのだが、喋っているうちに伝えたい気持ちが強くなって、語気が荒くなってしまった。

「私は後悔なんてしてない。私があのときあの髪のままでいて、あなたもシアンもルナも、あの街の人々も危険に巻き込んでしまうことのほうが、絶対後悔する」

 見上げるその目を覆っていた僅かな影が、消えたような気がした。代わりに、白に近い水色の髪が、その漆黒の瞳に映り込んでいる。彼は少しだけ、息を吐き出した。

「……そっか」

 素っ気無い一言。だけどそれを言った彼の表情は、少しだけ和らいでいた。

「だからこの髪も、今日限り。明日になればまた、黒に戻るから」

 マナはそう言うと、ジーンの手の中の本を取り上げた。

「まだ、勉強中なもので」

 小脇に抱えると、マナは扉に向けて歩き出した。

「そうだったな」

 小さな笑い声が、背中から追いかける。

「おやすみなさい」

 肩越しに振り返ると、なぜか惚けた顔のジーンがこちらを見ていた。そして片手を上げて、彼は応えた。

「おやすみ」


 部屋に残されたジーンは、鏡を未だぼんやりと見つめていた。そこに見た、あの髪の色のマナを思い浮かべていたのだ。その色を見ると、水の中のマナを思い出すのだ。正確に言うと、水の中のマナのあの不思議な瞳を。心を捉えて離さない、様々に変化するあの色を。

 だが、一人のその至福の時間を切り裂くようないびきが、部屋の片隅から急激に上がった。その物体に近づき、ジーンは声を張り上げる。

「おい、シアン! ここは俺の部屋だ! 早く飼い主のところに戻れ!」

(うんにゃ? ……飼い主って言ったってぇ……、マナはおんにゃのこで……、ボクおとこのこだものぉ……)

「……お前は、異種間でも恋愛対象なのか? ルナはどうする、おい」

(むんにゃ? むにゃ、むにゃ……)

「……」

 青筋を立てたジーンはそのあとどうなったのかは、ここに書くまでもないこと。ジーンにとってはまだしばらく、眠れない夜が続いてゆくことだろう――



 完

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