王子様、あらわる その4
大通りに出てしばらくすると、宿屋の看板をちらほら見かけるようになった。どこに泊まろうかと財布と相談しながら歩いていると、僕の鼻をかぐわしい匂いがくすぐった。足を止め、鼻をひくつかせて匂いの元をたどる。どうやらすぐ脇にある宿屋から漂ってきているようだ。木造の二階建てで、店先から吊るした木の板に『踊る小熊亭』という宿の名前と、重なり合うナイフとフォークの絵が彫ってある。
ここならもしかして、と期待しながら宿の扉を開けた。薄暗い店には丸い木のテーブルとイスがいくつも並び、突き当りにはカウンターがあって、宿のおかみらしき太めのおばさんが食器を磨いていた。カウンターの奥が厨房になっているらしく、包丁を叩く音や何かを煮込む音がした。夕食の仕込みをしているのだろう。店の左手奥には二階へ上がる階段が見える。一階が食堂、二階が宿になっているようだ。いわゆる「はたごや」ってやつだ。
そして店の中に漂うあの匂い。僕の胸は高鳴るはかりだ。
少し早いのか、僕以外に客の姿は見えない。
僕が近づくとおかみさんが分厚そうなまぶたを上げ、上目づかいに僕を見る。
「泊まりかい」
「ええ、一晩お願いします」
「なら一泊ルシオン銀貨3枚だよ。もう1枚足せば朝晩メシがでる」
前払いとのことなので僕は銀貨を4枚手渡した。僕の部屋は3号室だそうだ。
「もう少ししたら夕食は出来るからそれまで待ってるかい?」
「それより、のどがかわいたので何か飲み物をいただけますか?」
「酒は何にする?」
「いえ、僕はお酒はやらないので」
酔っ払って変なことを口走るのは母さんだけでたくさんだ。
「ならコーヒーはどうだい?」
コーヒーは王国の南の島から運ばれてきた豆を炒めて水気を飛ばし、煮出した飲み物だ。
お酒の飲めない人や、お坊さんを中心に多くの人が飲んでいるらしい。僕も飲んだことがある。
やっぱりこの宿にはコーヒーがあるのか。だったら話が早い。
「では、たんぽぽコーヒーをください」
「なんだって?」
おかみさんが途方に暮れたような顔をする。
あれ?
「コーヒーでいいのかい?」
「違います。たんぽぽコーヒーです。豆ではなく、たんぽぽの根を洗って刻んだ後、お日様で乾かしてから炒めて煮出しするんですよ」
「作り方を聞いているんじゃないよ。どうしてわざわざたんぽぽなんか飲まなくちゃいけないんだい?」
「もちろん、美味しいからに決まっているじゃないですか」
おかみさんがあきらめたようにため息をつく。
「普通のコーヒーじゃダメなのかい」
「あれはちょっと……」
僕はたんぽぽコーヒーじゃないコーヒーを飲むと、夜眠れなくなってしまう。
「とにかく、ウチにはそんな飲み物はないよ」
「……では、水で」
そっか、ここにもないのか……。
僕はうなだれながらぬるい水をすすった。
一度部屋に入り休んでいると日も暮れかけた頃、夕食だと一階からおかみさんに呼ばれた。
出てきたのは硬そうなパンとちょっとだけ肉の入ったスープ、豆の煮物。
半分に割ったパンをスープにひたし、口の中に押し込む。
泥をかむような歯ごたえがした。
通された部屋はこじんまりとしていて、三歩で壁に突き当たってしまう。板窓の下には、硬い木のベッドとシーツだけ。
まあ、個室なだけまだマシか。この前泊まった宿は雑魚寝だった上に、ベッドの代わりに湿気たワラの山。酔っ払いが騒ぐし、どろぼうが僕の財布を盗もうとするしで、ろくに眠れなかった。
「あーあ、こんなはずじゃなかったのになあ」
皮鎧とマントを外し、ベッドに腰かけながら座ると天井を見上げる。
まさか、たんぽぽコーヒーがここまで飲めないなんて思わなかった。
村ではコーヒー豆なんてめったに手に入らないから母さんがよく作ってくれた。
母さんと夜、二人で飲むたんぽぽコーヒーが僕は大好きだった。
旅に出たら全国各地のたんぽぽコーヒーを飲み比べしようと思っていたのに。
まさかウチの村以外では、飲む人がほとんどいないなんて全然知らなかった。
国中でコーヒーは飲まれているそうだし、たんぽぽなんてどこにでも生えているというからきっと国中たんぽぽコーヒーが大流行しているだろうと固く信じていたのに。
「なんだか疲れたなあ……」
旅に出てはや七日。伯爵の城で大恥をかいて、夕飯はまずくて、ベッドは硬く、たんぽぽコーヒーは飲めない。
まったく、世の中というものはままならないことばかりだ。神様は僕にいじわるしているのかも。
一階からはにぎやかな笑い声が聞こえる。食事の頃には僕のほかにも七人ほどお客さんが集まり、お酒を飲んでいた。
下の人たちが楽しそうに笑えば笑うほど、二階の暗くて狭い部屋に独りぼっちの僕がみじめに思える。
日は落ちて空には星と月がかがやいている。窓から入り込む月明かりが部屋の中を寒々しく照らしている。
僕は窓の手すりにもたれかかり、月を見上げる。今日は双子月なので空は明るい。そのせいか、夜になっても町を歩く人の姿がちらほら見える。
ん?
ふと町の方に目を向けると、エプロンドレスの女の子がこの宿の前の通りを歩いているのが見えた。
間違いない。さっきの女の子だ。確か名前はミルだったかな。
ミルは心細そうにきょろきょろしながらスカートの裾の汚れをはたき落とし、看板の下を潜り抜ける。昼間の元気がウソのようだ。
「ねえ君!」
僕が声をかけるとミルがはっと顔を上げる。
「もしかして迷子? ママとはぐれたのなら一緒に探してあげようか」
「結構よ、田舎者さん」ミルは首を振った。「私は忙しいの、放っておいて」
「とても忙しいようには見えなかったけど。むしろ今にもべそをかきそうだった」
「そうやって夜は高いところから女の子を見ているわけ。いやらしいわね」
「誤解だよ。そもそも僕は昼間だって女の子を見ていたわけじゃない。あれは、その……社会勉強ってやつだよ」
「呆れた寝言はその辺にしておくのね、田舎者さん。高いところにいるからって調子に乗らないでよ」
ミルは腰に手を当て、僕をきっ、とねめつける。
「蹴っ飛ばされたくなければその口を閉じることね」
「じゃあ、やってもらおうかな」
僕は窓の手すりに足をかけ、飛び降りる。一瞬、宙に浮くような感覚を味わった後でくるりと一回転してミルの側に着地した。
「こんばんは」
「あなた、軽業師だったの?」
ミルが丸い目を更に丸くする。
「たいしたことじゃない。高いところから落ちるのなんて誰にでも出来るよ。えいやっ、て飛び降りればいい」
「ケガはするでしょうけどね。それにしてもおどろいたわ、平気なの?」
「まあね、色々慣れっこだし」
この程度でケガしていたら僕はとっくに冥界の住人になっていただろう。
「さて、それじゃあ行こうか」
僕は左手でミルの右手を取り、並んで歩きだす。
「強がらなくてもいいよ、迷子なんだろ? 僕も探してあげるからさ」
「別に頼んでないわ」
「いいや、君は僕に頼むはずさ。かけてもいい」
「何を根拠に? うぬぼれもたいがいにしないと怒るわよ」
「もう怒ってるじゃないか。夜道は危ないからね。一人より二人の方がいいだろ」
「余計に不安よ。そうやって女の子を追いかけまわしているの? まるでゴブリンね」
「グギャゴキャッ」
ゴブリンのものまねをしたとたん、僕のすねが痛くなった。
「本当に蹴るだなんてひどいなあ。こういうことは口だけにしておくものだよ」
「離して、でないと人を呼ぶわよ」
「そうだね、その方がいい。そうしたら連中もあきらめるかもしれない」
「どういうこと?」
僕はミルに顔を近づけ、耳元でささやく。
「三人の男が君の後を付けている」
はっと振り向きかけたミルの頬を反射的につかむと前を向かせる。
「振り向かないで。気づかれるから」
「デタラメじゃないでしょうね」
「ウソは言ってないよ。ふとっちょと大柄な男と小柄の男が君と距離を取って後を付けていた。心当たりは?」
「ぜーんぜん、全くこれっぽっちもないわね」
ミルはふてくされたように言う。ああ、これウソだな。けど、教えてくれそうにないので今は聞かないでおく。
「わかったよ。僕はどうすればいい? お城まで送ればいいのかな?」
ミルは少し迷っているようだったけど、僕の顔をのぞき込む。
「本当に守ってくれる?」
「僕は男だからね。男というものは困っている人を見捨ててはおかないものだよ」
「そうね、いざとなればあなたを盾にして逃げるって手もあるものね」
ひどいことをさらりと言ってのける。
「いいわ、付いてきて」
盾は一枚でも多い方がいいと思ったのか、ミルはやむをえずって口調でうんと言ってくれた。
僕は心の中で快哉を叫ぶ。
「言っておくけど、変なことをしたら承知しないわよ」
「もちろんだよ」
「あと、付いてくるのはいいけれど、その前に一つだけ条件があるわ」
ミルは僕とつないでいる右手を胸のあたりまで持ち上げ、にっこりと笑った。
「手を離して」
僕は言われるまま手を離した。思い返すと我ながら大胆なマネをしたものだと今更ながらに気恥ずかしくなる。
おや?
路地の陰から見覚えのある顔がこちらを覗いている。
目を凝らすと向こうはびっくりして路地の陰に引っ込んでそれきり見えなくなった。
「どうしたの?」
「ちょっとね」ミルの問いかけに僕はあいまいな答えを返す。「思い出しただけ」
そういえば僕も追われている身だったなあって。
まだあきらめてなかったんだ。そんなにお金がないのかなあ。
ネズミ顔の男を思い出しながら心の中で苦笑した。
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※たんぽぽコーヒーが生まれたのは、19世紀になってからですが、この世界ではかなり早い段階からコーヒーの代わりに飲まれるようになっています。
ファンタジーということでご容赦ください。