ある悪者の一幕
ある都会の広場で大きな爆発が起こった。一瞬の間が空き、どっと歓声が沸き立つ。目一杯手を打つ者。数人で腕を組みあう者。近くの人と抱き合う者。各々が様々なリアクションをするが、それは一様に喜びを現すものだった。一部始終を見ていた佐竹未菜も、表には然程出さないが周りの者と同様、喜びを感じると同時に安堵の溜め息を吐いていた。
(これで安心して表を歩けるわ)
いつ訪れるかも分からない死の恐怖から抜け出せると思うと、自然と家路へ向かう足取りも軽くなる。人通りも少なくなった頃、未菜はちかりと反射する赤い光を感じた。目の前という訳ではないが、どこかで感じたそれを、つい探してしまった。もう一度ちかりと光る。瞬時にそちらを向き、目を凝らしてよく見ると、ビルとビルの間の隙間に、何やら人影が見えた。赤い二つの光が此方を見ている。先程のあれは、眼の反射だったのだろう。まるで猫のようなそれに驚きつつも、未菜はその人影に近付く。腰がひけているのは、その、日の差さないどんよりとした路地の不気味さ故か、それとも、まるで人間に有らん眼光を送る人影故か。
未菜は人影のはっきりとした姿を見るや否や、息をのみ、先程のにじりよるような近付き方と一変し、その身体をさっと腕で担いだ。未菜が見付けたのは、全身に傷を負った、まだ幼い男の子だった。
(病院へ連れていかなきゃ!)
近くの病院へ駆け込もうとしていた未菜だったが、今が、子どもどころか大人も床へ着く時間であることを思い出した。暫く立ち往生していたが、自宅で手当てをする方が良いと判断し、即座に家へと駆け出した。
子どもといっても、もう小学低学年ほどの大きさである男の子を抱えるのは中々に骨がいるはずだが、火事場の馬鹿力を発揮したのか、何とか家へと連れ帰った未菜は救急箱を取りだし手当てを施した。男の子はいつの間にか目を閉じており、一瞬死んでしまったのかとヒヤリとしたが、上下に動く胸を見てほっと胸を撫で下ろす。
手当てをしながら、未菜は何となく、この子もあの化け物たちにやられたのだろうかと考える。
奴等がやって来たのは、一月程前だっただろうか。いきなり大きな爆発音がしたと思ったら、身体を殻で覆われ、蛸のような足を六本も持つ、気味の悪い生物が高笑いをして、群衆の注目を浴びていた。周りにはやはり殻で覆われた球体が一つの目玉をぎょろりと動かしながら漂い、ぴたりと何処かを見つめたと思った直後近くの人が、どこに存在していたのか、その目玉が裂ける程まで広げた口に頭を呑み込まれていた。訝しげに見ていた群衆のざわめきが悲鳴に変わるのは当たり前で、次々に襲われる人々でその場は正に阿鼻叫喚と言わざるを得ない状況に陥っていた。
だが、そこに現れたのが、今ではなくてはならない存在である、英雄たちだった。初めは少ない人数だったが、今では五人組で活動しているようだ。未菜の友人にとっては好ましく映っているようだが、未菜は余り好きにはなれなかった。彼等は少し周りを考えずに動きすぎなのではないだろうかと未菜は思うのだ。意外と知られていないが、時々、彼等が戦う際に怪我を負う人がいる。それを目の前で見て以来、未菜はどうしてもそれが気になってしまっているのだ。しかし、命をかけて助けてくれていることに違いはないので、未菜も彼等に感謝している。そして、あの化け物たちを倒してくれることを祈るのだ。
男の子を連れてくる直前に沸き起こっていた歓声も、姿を変えて次から次へと現れる化け物を彼等が倒してくれたからであり、もしかするとその戦いの際に男の子は怪我を負ったのかもしれない。未菜の思考は至極真っ当である。
何とか赤い傷が見えなくなったところで未菜はばたりと倒れこんだ。 一先ず安心だという一線を越え、 慣れない緊張と焦りで張りつめていた糸が一気に解けたのだろう。眠っている男の子の横で未菜は目を閉じていく。意識が薄れていく中で、目の前にある男の子の手を握りながら。
* * *
"ソレ"は一概に言うと、地球外生命体である。"ソレ"には名前がない。"ソレ"には家族がいない。"ソレ"は、分裂、若しくは発生することでしか生まれない生物であり、「繋がり」というものは存在しない。ただ、頭にあるのは支配するという欲求のみ。生きるという活動も支配する為だけにあり、その為ならばどんな面倒なことだろうとやり遂げる、"ソレ"は、そんな生命体なのだ。
小さくなった"ソレ"が目を覚ます。身体中が軋むようだ。無理もない。"ソレ"は戦いに破れ、本来ならば死にゆく運命だったものを、ただの支配欲の為だけに無理やり力を使い、自分を再生させたのだから。その反動として力も弱まり、身体も小さくなってしまった。この"ソレ"は頭の回転はいいようで、人間の姿であれば直ぐには殺されないだろうと姿を変えたのだ。"ソレ"は考える。自分にまだ意識があるということは、何かしらの方法で自分は助かったのだと。ぐるりと辺りを見渡し、見覚えのない部屋にいることを把握した。そして、自分の手元を見る。先程から違和感を感じる手に力を込め、何かを掴んでいるとは思っていたが、まさか、人の手だとは思わず振り払いそうになる。力が弱まっているせいか、少しだけ浮いて落ちた振動は、掴んでいた人を起こしてしまったらしい。身動ぎをしたと思ったら、ゆっくりと起き上がり、"ソレ"と目があった。
「あっ、起きたのね! よかった、目を覚まさないかと思ったんだから!」
眉を動かし、目を開き、口角を上げ、頬を蒸気させている。"ソレ"はこの表情が何となく、"ソレ"等のする支配を味わったあの至福の表情に似ていると思った。いや、似ているが、全く似ていない。自分の判断に混乱するが、今はそんなことを考えている場合ではない。この目の前の存在を支配しなければ。そう思うのに、"ソレ"の身体は思うように動かせない。傷が深すぎたのだろう。これでは当分、思うように力を使えない。"ソレ"等の破壊活動は、自分のエネルギーを糧にして行われている。エネルギーがなければ、何も出来ないのだ。"ソレ"は諦めて目を閉じる。さっさと息の根を止めるがいいとばかりに動きを止めた"ソレ"の額に、暖かいぬくもりが被さる。驚きに目を開けた"ソレ"へ明るい声が降りかかった。
「こら! 君、寝すぎ! とりあえず、名前だけ教えて。あ、私は未菜よ。君の名前は?」
未菜は"ソレ"を覗きこんでいる。無邪気な、無害な様子で"ソレ"を見る。この様子に、"ソレ"は一抹の希望を見いだしていた。この人間は、自分を殺さないのかもしれないと。もしかすると、このままこの姿で人間に擬態し続けていれば、いずれ回復して支配出来るくらいに力を蓄えることが出来るのではないかと。"ソレ"が考えている間にも時間は過ぎており、未菜の眉間は深くなっているのに"ソレ"は気付かない。どうすれば長期間ここで滞在出来るかまで考えていると、額に軽い衝撃を喰らった。
「こら! 無視しない! 君の名前は!」
今度は眉間に皺を寄せて、口を尖らせている。この表情は人間がよくしているのを見る。これは、怒りを表していると"ソレ"は分析するが、そろそろ額への攻撃が来そうだと察知し、首を振る。すると、未菜は眉尻を下げ、肩を落とした。この表情は、悲しみを感じた時にするものだ。怒りや悲しみは支配する際になくてはならない感情である。もしかすると、未菜を支配することが出来るかもしれないと淡い期待を抱いていた"ソレ"は未菜の言葉に凍り付いた。
「はー……もしかして、記憶までなくなっちゃったりするのかなあ……。やっぱり、病院に連れていった方がいいよね……」
病院。弱き者が集まる、負の塊であり、"ソレ"等にとって攻めやすい場であることに間違いない。だが、あそこには"ソレ"等に攻撃出来るものも数多くあることを"ソレ"は知っていた。今のこんな状態でいけば火に入る夏の虫もいいところだ。"ソレ"は慌てて何度も首を振る。
「え、行きたくないの? いや、でもなあ。それじゃあ、とりあえず、警察かな?」
警察。"ソレ"等にとって敵以外の何者でもない。病院より論外である。先程以上に首を振ると、未菜は更に眉尻を下げて腕を組んだ。暫く唸っている様子だったが、一つ溜め息を吐くと、"ソレ"に向き合い、宣言した。
「よし! 怪我が治るまで、私と暮らそっか!」
"ソレ"は二度頷いた。何とか無事に回復出来そうだと息を吐く。未菜の方はというと、怪しげにぶつぶつと呟いていた。
「名前……名前がなあ……赤い……目……赤……赤……りんご……いや、……ルビー……んー……違うな……太陽……太陽…………陽……陽、太…………陽太!」
ぱっと組んでいた腕をほどき、顔を上げ、"ソレ"に目を合わせる。未菜は"ソレ"の頭に掌を乗せ、軽く動かしながら、覗きこんだ。
「君の名前は陽太! ここに入る間は陽太だよ。どう? 気に入った?」
名前という概念がない"ソレ"、いや、陽太にとって、未菜が何故気に入ったかなどと聞くのか疑問であったが、機嫌は損ねてはならないだろうと頷いておいた。歯を見せて笑う未菜に、こんな表情をよくすると陽太は思った。案外、悪くないなとも。
* * *
陽太は記憶がないという割には意外な程に物を知っていた。かと思えば当たり前に知っていそうなことにも首を傾げるという、不思議な知識の在り方をしていることが話をする中で分かった。といっても、未菜が話しかけて陽太が頷いたり首を振ったりという一方的なものではあるが。陽太は人見知りなのか、何かの理由で話すことが出来ないのか、言葉を発しない。未菜は触れていいものなのか判断しかねていた。なので自然と会話は未菜の声だけで行われる。未菜はそれに苦笑いしながら、頭では翌日のことを考えていた。今日から偶々週休に入り、明後日から仕事になるのだが、それまでに見つかるだろうか。今日は流石に一人には出来ないだろうと、家で過ごすにしても、一度は陽太の家族を警察に尋ねる等して探しに出掛けなければならないだろう。
陽太にはああ言ったが、未菜とてそこまで考えなしではない。この分だと陽太は、数日は動けないとふんだ未菜はとりあえず、警察へ行かなければならないとは思っていた。このご時世、下手をすれば子どもに声をかけただけで不審者扱いとなり得るのだから、連れて帰ってしまった未菜はどうなるかと内心冷や汗ものだったりするのだ。だが、あそこに陽太を置き去りにするという発想はあり得なかったので、未菜は自分の行動を後悔はしていない。誘拐だと捕まった時は捕まった時に考える。未菜は何だかんだ結構楽観的な考えを持っていた。成せば為る。未菜の好きな言葉の一つだ。
明けたばかりの日の眩しさに目を細めながら未菜は台所へ向かう。そろそろ朝ご飯の時間だ。陽太もお腹がすいただろうと簡単ながらもお粥を作る。一応怪我人には胃に優しいものにしておく、という建前で。それに食べさせやすい。決して作るのが面倒くさいから等ではない。ささっと作って陽太の元へ運び、スプーンで掬ったお粥を目の前に差し出す。未菜が見るなかで陽太の表情は余り変わらないものだと思っていたが、僅かに目が開かれたことに気付き、分かりにくいだけなのかと納得した。
陽太はぴたりとお粥に視線を固定させて動かない。まさかお粥まで知らないというのだろうか。そうだとしたら不信感故に動けないのかもしれないと思った未菜は、差し出したものをまずは自分でぱくりと食べた。もぐもぐと口を動かし、少々わざとらしく飲み込む動作をしてみる。これで変なものは入れていないことは分かるだろう。未菜はもう一度陽太に向けてお粥を差し出す。
「ほら、あーん」
自分で口を開けて、陽太に口を開けるように促す。言いたいことが分かったのか、陽太は小さく口を開いた。すかさず未菜はスプーンを差し込み、本当は良くないが陽太は口を閉じようとしないので上の歯に擦り付けるようにしてスプーンを抜く。未菜は自分の口を指差し、さも食べているかのように噛み締める。暫く続けていると、陽太も口を閉じて噛んでいる動きを見せた。未菜が飲み込むフリをすると、陽太もごくりと噛んだものを飲み込む。未菜は、まるで赤ん坊に食べ方を教えているようだと笑って、陽太の頭を撫でた。
「おいしい?」
陽太はじっとこちらを見つめ、こくりと首を縦に動かした。そして、今度は自分から口を開いた。どうやら、おいしいというのは世辞ではなかったらしい。未菜は雛鳥のような陽太の様子に頬を緩ませながら、再びお粥を陽太の口に運んだ。
陽太に食べさせてから自分も食べ終わると、未菜はデジカメを陽太に向け、シャッターをきった。陽太はぱちぱちと瞬きをして固まっているが、未菜は慣れた手付きでパソコンやプリンターを操作し、一枚の用紙を取り出した。そこには陽太がこちらを見て写っており、先程のデータをプリントアウトしたものだと分かる。未菜は満足そうにそれを見て、陽太へ向き直る。陽太はされるがまま、未菜へと視線を動かす。
「いい? もう一回聞くよ? 自分の名前も、家も、親の顔も、どうしてあそこにいたのかも、全然、分からないんだね?」
真剣に尋ねる未菜に、陽太は大きく頷いた。未菜は一つ溜め息を吐き、写真を持ったまま立ち上がる。そのまま玄関へと足を運ぼうとして、はっと何かに気付き、もう一度陽太へと近付く。未菜は屈んで陽太と視線を合わせると人差し指を目の前に突きつけた。
「いい? 誰が来ても扉を開けないこと。今はあんまり動けないから大丈夫だとは思うけど、一応ね。私がいない間、何を使ってもいいけど、刃物だけは使わないように。分かった?」
陽太は若干、未菜の勢いに押されながらも深く頷いた。その様子に未菜はにこりと笑い、今度こそ玄関を抜け扉を開けた。しっかりと鍵を閉め、よしっと小さく呟く。警察へ行く前にあの周りのマンション等に聞いてまわりますか。余り時間をかけたくない。駄目ならすぐに警察へ行こう。未菜は写真を握り締め、駆け出した。
* * *
未菜の足音が遠ざかるのを見計らって姿を元に戻す。黒い髪は毒々しいラフレシアのような花弁へ、やや白すぎる肌は棘の如く鋭く尖り盛り上がり始め、小さな細い指は揺らめいたと思いきや蔦に変化し、鞭を操るように跳ねている。真っ赤な眼球は白眼を侵食し、赤一色に染め上げた。可愛らしかった口元も大きく広がり、鈍く光る牙が覗いている。とても先程の小さな男の子とは思えない、化け物へと様変わりした。だが、人間の姿こそ陽太の変化した姿であり、あの姿は陽太にとって窮屈なものでしかない。"ソレ"等は回復に然程時間は要しない。陽太も時間の経過と共に動けるくらいには回復していた。それなのに未菜に食べさせて貰っていたのは、未菜を服従させているような気分に浸れたからに他ならない。あの人間は機嫌を損なわなければ大抵のことはしてくれそうである。未菜に対する陽太の認識はそんなものだった。きょろりと辺りを見渡し、各部屋を覗く。とはいっても、そんなに部屋はない。
(人間はよくこんな狭いところに住めるものだ)
陽太の元の姿は3メートル程にはなろうか。勿論頭部は天井についている。狭いと思うのは当たり前である。上から覗いているとこちらを見ている人の姿があった。一瞬固まる陽太だが、それが動かないと分かると蔦を使い自分へと引き寄せた。四角い木材のようなもので囲われているが、これは先程未菜が持っていたものと同じものではないだろうか。あれは自分が封じ込められたのかと数瞬考えたが、思い出した。写真というものだ。陽太が手にしている写真には小さい未菜を真ん中に、左に女、右に男が写っている。三人共、未菜のよくする表情でこちらを見ている。
(親……か?)
親の姿など見かけなかったものだから、未菜にも親がいるのかと驚いてしまった。"ソレ"等には親の概念はない。親から子が生まれてそれがまた親になり、そこからまた子が生まれる。それを初めて知った時は、そんな効率の悪い生き方しか出来ないとは、人間とは面倒くさい個体だと呆れたものだと陽太は思い出す。
陽太は写真をまた元の場所に戻すと、台所へ向かった。やや太さのある図体を何とか物を壊さないように動かし、未菜の立っていたところに佇む。
(人間はちょこまか動いてあれを作っていたな。何とも器用なやつだ)
そこだけは人間の利点かもしれないと考えながら、陽太は皿の重なっている入れ物を見る。そこに、先の尖った刃物が立てかけられていた。陽太はにやりと笑うとそれを手にし、蔦に当ててみる。うっすらとだが傷が出来、陽太は低く笑う。その笑い声はまるで沼から這い出るようなおどろおどろしさであった。
(これをあの人間に突きつければ、恐怖でより一層自分に従うだろう。それで、自分の世話をさせて、回復したところで蔦で一突きすれば)
そう考えていた陽太の耳に鍵を開ける音が聞こえた。歩いてくる音すら聞こえていなかったとは、余程自分の世界に入り込んでいたらしいと慌てて姿を変えた陽太は、まだ自分が包丁を手に持っていることに気が付いていない。未菜は言葉を言いかけて、陽太の持っているものを目に入れた途端、陽太に駆け寄った。包丁を取り上げ、シンクへとやや乱暴に置いた未菜は、直ぐ様陽太の身体に怪我がないか調べる。目敏く陽太の指に切り傷があるのを見付けると、陽太へ大声で怒鳴った。
「刃物には触るなって言ったでしょう?! 怪我してるじゃない! もし間違って刺さって死んだらどうするの!」
陽太は目を白黒させて、未菜の豹変ぶりに驚いていた。陽太が何も言わないでいると、未菜は陽太の肩に顔を埋めて陽太を抱き締めた。未菜は陽太を心配しているのだが、陽太は訳が分からなかった。陽太がしてはいけないことをして怒っているのは分かる。けれど、どうして未菜は今怯えているのか。陽太は未菜に刃物を向けた訳でもないし、元の姿を見られた訳でもない。なのに、どうして泣きそうに震えているのか、陽太にはさっぱり分からなかった。それはそうだ。"ソレ"等には情というものは存在せず、心配される等、経験のないことなのだから。けれど、陽太は何故かそれが嫌ではないと感じていた。
未菜はすぐに顔を上げた。そこにはもう怯えは感じられなかった。少しだけ怒った表情をして、軽く陽太の額を叩いた。
「もう。心配させないで。今度から台所禁止令出すからね」
今のは心配していたのか。覚えておこう。陽太が一つ頷くと、未菜は外へ行ってきた理由を話した。何と、警察へ行ってきたという。よくもそんな恐ろしいことをしたものだと戦いていた陽太は、未菜の説明を余り聞いていなかった。一つだけ耳に入ったのは、まだ未菜の元で暮らせる、つまり回復出来るという吉報だけだ。
「ってことで、もう少し、よろしくね」
笑顔で陽太の頭を撫でる未菜に、陽太は頷いた。やはり、この人間は使えるなと思いながら。
* * *
昼御飯を食べ終えた未菜と陽太は、暫くまったりしていたが、思い出したように未菜が呟いた。
「陽太、あんた動けるじゃない」
ぎくりと肩を上げた陽太をじとりとした目で見ていた未菜だが、それより生活用品を買いに行かなければならないことに気付き、動けるならば丁度いいと陽太も外へ連れ出すことにした。
自分の支度をして、陽太と玄関を抜けようとした未菜は陽太が靴を履いていなかったことに初めて気付いた。そう言えば、靴を脱がした覚えがない。つまり、初めから裸足だったということか。もしかすると陽太は何らかの事情で家を飛び出したのか、追い出されたのか。これは、少々複雑な事情なのかもしれない。何も知らない未菜は、果てしなく間違った想像を膨らませていた。
とりあえず、靴がないのでは外に出ようにも出ることが出来ないので、未菜のスニーカーを履かせ、形が歪になるが、陽太が脱げないように紐を限界まで縛ることで解決させた。足だけが少々大きいのが気になるが、これはこれで愛嬌だろう。未菜は目を逸らしながら軽すぎる笑いを溢した。
扉を閉め、鍵をかけると、いつものようにエスカレーターに乗り込む。前を向くと陽太がエスカレーターに入ろうとしているところで中を覗きこんでいた。それを見るに、エスカレーターも覚えていないのだろう。やっと中に入った陽太に、ボタンを指差して説明する。
「これは、押したら行きたい階に行けるようになってるのよ。今は一番下に行きたいから、ここを押してみて」
陽太のギリギリ届くところにある1の数字に指を誘導する。陽太が何とかボタンを押すと、ガコンッと小さく揺れ、移動している感覚が始まった。陽太の渋い顔を見るに、やはり気持ちのいいものではなかったようだ。未菜は思わず笑ってしまい、陽太の渋い顔に見つめられることになった。だが、それすらも面白かったのか、未菜は吹き出す。
扉が開くと、未菜はバレバレの笑いを誤魔化しついでに陽太の手をとり、街を歩き始めた。未菜と陽太は手を繋いで横断歩道を渡る。人が多く行き交うここではぐれたりなんかしたら、見付けることは困難になる為、未菜はしっかりと陽太の手を掴む。未菜が先に歩き、陽太が少しでも歩きやすいように道を作ってやる。陽太はそれでも歩きづらいようで、窮屈そうに珍しく顔を潜めている。未菜は心の中で謝りながら、目的地へと足を動かした。
未菜と陽太が辿り着いた先は、歩いて30分もかからないところにあるデパートだった。生活用品を揃えるにはもってこいの場所だ。未菜は何がいるかと暫く考え、結局生活用品のコーナーをぐるりと一周し、必要だと思うものを籠へ放り込んでいった。陽太は未菜の手に持つものや棚に置かれているものに興味津々の様子で見ていたが、特に何かを伝えようとはしなかった。一通り揃うと、食料品コーナーに目が止まる。未菜は陽太を連れつつ、食材も買っていく。お菓子の棚へと来ると、未菜は陽太も何か欲しいだろうと提案した。
「陽太、どれが欲しい? この中の一つだけ買ってあげる」
そこは十円単位で売られる駄菓子屋が並ぶ棚だったので、一つとは少々ケチ臭いかと未菜は言ってから気付くが、まあいいかと陽太の様子を見る。陽太はじっくり満遍なく商品を見ると、一つ何かを手に掲げて未菜へと差し出した。それはトンカツを薄くしたようなお菓子で、パッケージには焼かれた分厚い肉が写っている。下に印刷されている「この写真はイメージです」をもっと大きくするべきだと未菜は思った。それにしても、何とも親父くさいものを選んだと、また笑いが込み上げた未菜は口元を抑える。それを見て首を傾げた陽太が可笑しくて、未菜は声をあげて笑ってしまった。周りの客に不審な目で見られたのは、当たり前と言えよう。
会計を済ませ、デパートの出口を目指す。時刻も日が沈む頃になろうとしていた。もう帰ろうとふと前を見ると、子どもの服が売られていた。よくあるプリントTシャツで、その画像はあの五人組になっている。とうとうTシャツにまでなったのかと呆れ半分感心半分で通りすぎようとすると、くんっと手を引っ張られた。見ると、そのTシャツの前で陽太が立ち止まっており、眺めている。やはり男の子だなあと未菜が顔を覗きこむと、意外にも陽太は睨み付けるようにしてTシャツへと視線を向けていた。この様子だと、憧れている訳ではなさそうだ。
「どうしたの?」
未菜の言葉に陽太は顔を上げ、Tシャツを指差す。よく見ると、陽太が指差しているのは化け物の方だ。それは一番初めにやって来た殻に覆われた化け物だ。
「それ? そいつらは、悪いやつらで、人を襲ったり、物を盗ったりして皆を困らせるやつら。五人組の人達がやっつけてくれるんだよ。かっこいいよね」
未菜はそこまで熱狂的なファンではないが、子どもにも夢がある方がいいだろうと持ち上げて話してみる。未菜の優しさに反し、陽太の表情は心なしかどんよりと暗くなった気がする。言い方がおかしかったかと自分の言葉を反芻する未菜だが、心当たりがなく仕方なくそのまま帰ることにした。
人通りの少なくなった所まで戻ってきた未菜だが、陽太が依然として暗い雰囲気なのを気にして話しかけようとした。
「よぉ、お姉さん。弟と買い物ですかぁ?」
「俺ら、ちょっとお金足んなくてさぁ、その食糧とお金、分けてくんない?」
「ま、オッケーもらえなくても、勝手に貰うけどねぇ!」
どこから現れたのか、ぞろぞろと柄の悪い男たちが未菜と陽太の前を塞ぐ。未菜は然り気無く陽太の前に立ち、なるべく視界にいれないようにする。標的になり得ないように。
「……分かりました。少しですが、持っていってください」
こういう時は、下手な抵抗をすると返って殺傷沙汰に発展するらしい。未菜は食糧と財布から二万程出し立ち去ろうとした。
「おいおい、一番の食糧持ってどこ行くのさ」
「俺ら、飢えてんの。こっちこいよ」
未菜の腕を引っ張り、男たちは下衆な笑みを浮かべる。未菜は抵抗しようと暴れるが、男たちが陽太の腕を掴んだのを見て苦い表情を浮かべた。
「……っ、その子には、手を出さないでよ」
「はいはーい。だって、クソガキ。お前はあっちいってろ」
その時、人が倒れたような音を聞いて慌てて振り向いた未菜は、おかしなものを見た。陽太が倒れたのかと思ったのだが、そうではなく男たちの一人が、地面に臥せっていた。その向かいには、これまた男たちの一人が殴った後のような格好で止まっている。未菜も、残りの男たちも状況が飲み込めず固まっていると、殴ったらしい男は未菜を掴んでいた男を殴った。あれは全力なのではないだろうか。呆けている間に、何故か仲間割れの殴りあいになっていた。未菜は、陽太の握った手の感触で我に帰り、荷物を手にすると、その場を急いで離れた。
家まで一気に駆けった未菜は呼吸も荒く、疲れている様子だが、陽太は涼しい顔をして未菜を見ている。未菜は振り返り、首を傾げた。
(何が起きたの? だけど、助かったことには変わりないわ)
未菜はその時、陽太を見ていれば何かを感じ取ったかもしれない。今の陽太の目は、白い部分まで赤く塗り潰され、とても人間の目だとは思えないものだったのだから。だが、それは徐々に小さくなり、未菜が陽太を見た頃にはいつもの瞳孔に戻っていた。未菜は陽太の身体を調べ、怪我がないことを確認すると、夕飯の支度にかかった。陽太は、ただ未菜を見つめているだけだった。
* * *
近藤翔は、やや乱暴に閉められた扉の音で目が覚めた。翔はアパートの3階の端に住んでおり、隣は感じのいいお姉さんだし、上の階の住人は常時静かだしと、親も中々良いところに借りてくれたものだと感謝していた。
だが、いつもは静かに閉められる隣の扉が、今日は何かを閉め出すかのように大きな音を立てた為、翔は何かあったのかと寝起きの頭でぼんやり考える。翔は手探りで掴んだ携帯の時計を見てぎょっとした。もう一日が終わろうとしているではないか。昨日は深夜に呼び出された為、確かに眠る時間もなかったし、あの肉体労働を強いられたものだから疲れてはいたが、流石に寝過ぎだと頭を抑えた。そんなに長い間寝ていたと思うと、ふいに尿意を催した翔は立ち上がりかけて、掴んだ携帯が震えているのに気付いた。嫌な予感がしつつも携帯を開くと、やはり博士からのメールが届いており、そこには翔の家からかなり近い位置で事件が起こっていることが記してあった。
(寝起きなんですけど)
溜め息を吐きながらもトイレを済ませた翔は外へ出る支度をする。博士からメールが届くということは、あいつら関係の事件であることは間違いない。翔は人が死んでないといいと何処か他人事に思いながら、メールの記してある場所へと走り出した。
それは突然だった。翔が普通に学校に行って、普通に授業を受けて、普通に居眠りをしようとしていた、そんな日常で、それは起きた。学校中に爆音が響き、一度大きく揺れた。地震かと何人かの生徒が机の下に隠れようとして、けれどそれは一瞬で終わり、少しの間の後、誰かが吹き出した。徐々に笑いとざわめきが混じりあうようになった頃、一階の方から叫び声が聞こえた。再び静かになった教室に、血だらけになった生徒が飛び込んできた。
「にげ、逃げろ! し、死んで、死ぬ、死ぬから、早く、はや、早く」
「落ち着け、原田。何があったんだ。深呼吸しろ」
「駄目だ! 駄目なんだよ、先生! 早くしないと、みんな死」
そこまで言って、その生徒は息絶えた。何故なら、後ろから現れた何かに顔を食いちぎられたからだ。
教室は瞬く間に混乱の渦に呑み込まれた。窓から逃げようとする者もいたが、ここは三階だ。相当上手く落ちないと大きな怪我をすることは免れない。だが、事態はそうせざるを得ない状況で、廊下側の生徒が次々に襲われている。教師はというと、原田という生徒が食われた際に新たに現れた化け物に食われていた。
(あの小さな球体のどこにそんな大きな口があるんだ)
翔は悠長にそんなことを思っていた。周りの生徒は、叫び声を上げ泣きわめき、命乞いをしながら、はたまた愛する者の名を呼び、逃げ回っている。自分の命が危ういのは確かだが、翔はどうにも恐怖というものを感じられなかった。その光景は、余りに非現実すぎた。どうやら、翔は現実を感じなさすぎて感覚が狂ってしまっているらしい。翔はその事実に気付かないまま、周りを見渡す。誰かのロッカーから覗く鋏を見付けると、翔はそれを握り、自分へ向かってきた化け物の目に突き刺す。化け物は断末魔の叫びを上げて床へと落ち、翔は追い討ちをかけるように踏み潰した。だが、殻が固くて足に振動が来ただけだった。屈んで足を抑える翔にもう一体近付く。ぐわりと口を開け翔の頭を食いちぎろうとした化け物は、翔の握る鋏に喉の奥であろう場所を貫かれ、動かなくなった。翔は自分の腕に嵌まった屍を外す。うへえ、と体液でドロドロになったそれを無造作に落とした。翔が気付くと辺りは静かになっており、教室中の視線が自分に集まっていた。やり過ぎたかと頭を掻いていた翔にわっと生徒が群がる。かけられたのは、翔の懸念とはまるで正反対の、感謝や称賛の言葉ばかりだった。翔は認識した。これは殺していいのだと。虫や爬虫類を殺していた時のように気味悪がられることはない。翔の捌け口を見付けた瞬間だった。恐怖からの解放からで、誰も気付かない。翔の笑顔は、とても生物を殺した後とは思えない、晴れやかなものであるということに。
その後、このような事態が、翔の住む地域一帯で起こっていることが分かった。直ぐ様下校するようにと指示された残った生徒等は足早に学校を後にした。翔も早々に追い出され、いつものように家路へと向かう。いつもの習慣で携帯を開くと、知らないアドレスからメールが届いていた。興味本意で開いてみる。
「私は博士だ。君には世界を救う力がある。共にあの化け物を倒そうではないか。その気があるなら、ここに来てくれ」
何とも怪しげな内容だが、翔は迷わなかった。家へと向かっていた足を、添付された地図に記してある場所に向かわせる。辿り着くと、そこは普通の家のようだった。翔は逸る胸を抑えてインターホンを押す。やっと、やっと見付けたのだ。殺してもいい存在を。そして、そこから翔の人生が大きく変わったのだ。
博士の示していた場所の近くまで行くと、野次馬の集まりを見付けた。翔はその野次馬の中に無理矢理割り込み、前へと進む。ギリギリ収束する前だった様で、警官が若い男を取り抑えている。しかし、若い男は、三人程の警官で抑えているにも関わらず、負けじと抵抗して、目の前の担架で運ばれている人に殴りかかろうとしているではないか。更に有り得ないことに、その若い男は、全身が血だらけで、顔も元の造りが分からないくらい損傷している。意識を失ってもいいだろうに、何が彼を掻き立てているのか。その時、翔のポケットに入っている携帯が震えた。翔は携帯を取り出し、内容を確認すると、もう一度若い男を見つめた。男はちょうどパトカーへ乗せられ、連行されようとしていた。
(あれが、あいつらに操られた末路ってことか)
翔は携帯を収め、次は博士の家へ向かった。実は博士の家は地下があり、そこで怪しげな発明をしているらしい。よくは知らない。今にも壊れそうなエレベーターに乗り、下へと降りていく。ここに来るのは翔だけではない。翔は、確か他に四人いたはずだとうっすらと思い出す。
(興味ないしな。俺が興味あるのは)
そこまで考えて博士の翔を呼ぶ声で意識が逸れる。翔はリビングと呼んでいるそこで立ち止まり、見渡した。
「今日は居ないんだな」
「おお、そうじゃよ。皆忙しいようでのぉ、お前ぐらいじゃよ、呼んで来てくれるのは」
どうやらメールを送ったのは翔にだけではないらしい。全く協調性のない奴等だ。そう思う翔こそ輪を乱す要員だったりするのだが、棚上げとはこういうことだろう。椅子に座り、翔は腕を組む。
「で、あれは何だった訳」
「おお、あれはのぉ、あいつらが催眠か何かで操った人間じゃの」
「それはメールで分かった。何で倒したはずなのにあいつらはそんなこと出来んのかってこと。それとも違うやつが来た? 早くないか?」
「いや、新しいやつらは来てないはずじゃ。恐らく、倒し損ねたのじゃろうて」
「そんな馬鹿な。あいつは博士の爆弾で木っ端微塵にしたはずだ。跡形すら残らないだろ」
「あいつらには異常な回復力があると言ったじゃろ?」
「マジかよ」
言葉に反して翔の表情には笑みが広がっている。世間で憧れの的となっている人間のする笑顔とは言い難い黒さだ。博士は肩を竦めながら小さな機械を取り出す。
「何らかの方法で回復したやつの仕業じゃろ。じゃが、今はまだあれくらいで済んでおる。つまりは、まだ完全には回復していないのじゃろう」
「はあ、そういうことか」
「うむ。そこでじゃ、今のうちに倒しておいた方が今後の為にもなる。翔、これをお前に渡しておく」
「何だ、これ」
「それは、あいつらを感知するセンサーじゃ。お前らが時々持って帰ってくれる奴等のデータからやっとこさ作れたのじゃ。それを持っているだけで奴等が近くにいるかどうか分かる」
「便利だな。さんきゅ。じゃ、帰るわ」
「お前は相変わらずせっかちじゃの。まあよいわ。気を付けて帰るのじゃぞ」
「誰に言ってんだよ」
翔は振り向きもせず博士の家を後にした。外へ出ると、もうとっぷり暗くなっていた。翔はコンビニに寄り適当に弁当を買うと、夜の道を歩く。ポケットに手を入れると、右には携帯、左には先程博士に貰った機械が入っていた。翔は機械を取り出すと、ひっくり返したりして眺めてみた。二センチくらいの正方形。一つのスイッチがあるだけで、特に変わったところはない。カチッとスイッチを押すと、小さくノイズが入る。これがONの状態のようだ。ふと顔を上げると、いつの間にか家の近くにまで来ていたようで、スイッチをOFFにする。電池式だとしたらいきなり切れる可能性もある。なるべく温存しておこうと翔はそれを再び左のポケットに突っ込む。くあ、と欠伸をしながら翔は扉を開けた。
* * *
目を開けると陽太の目の前は未菜の首元で占められていた。何故こんなに近いのかを考えて、身体に巻き付く四肢の感触に気付いた。離れようにも、未菜が抱き着いて離れられなかったのだ。夜、未菜は寂しいだろうからとか言い分けじみた言葉を陽太に呟きながら、同じ布団で寝る支度をしていた。一緒に寝るのはいいが、眠り始めると未菜は陽太を抱き枕代わりの如く巻き付くので、鬱陶しくて敵わない。陽太はげんなりと、何とか小さい身体を駆使し、未菜の腕から抜け出した。その途端、未菜は苦しそうに呻き始めた。
「……ごめ、……なさ、い……おか、さ……おと……さ……」
ぽろりと溢れた涙を見て、陽太はすごすごと元の位置に戻った。すると、未菜は安心したように寝息をたてて眠り始めたのだ。結局、陽太は未菜から解放されないまま、夜を明かしたという訳なのである。
陽太は舌打ちをして未菜の頬を軽くつねる。
(こいつの悲しい顔を見ると気分が悪い)
昨日も、男たちが未菜を連れていこうとしたのを見て、陽太は訳の分からない苛立ちに襲われ、気付けば男たちの一人に、周りにいる男たちを襲うよう催眠をかけていた。未菜は不思議がっていたが、家に帰ってからは特に気にしている様子はなかった。
(こいつは俺が支配するのだから、あいつらにはあれでよかったんだ)
んむ、とつねっている頬の方の眉をぴくりと動かした未菜は、けれど起きる様子は見られない。陽太は掴んでいる頬をもっと伸ばしてみる。
(それにしても、俺がこいつに守られるとはな。こいつは俺を守って何が目的なんだ? 恩を売っておこうとしているのか? そんなこと、無駄な話だ)
そうは思っても、それを否定する自分がいることに、陽太自身気付いていた。未菜は、そんなことをする人間ではないような、そんな気がするのだ。陽太は自覚をしていない。"ソレ"等にそんな思考を持つこと自体異例であり、有り得ないことであるのだと。
いい加減もう伸びないというところまで来ると、流石に未菜も目が覚めたらしい。未菜の瞼が揺れ、ゆっくりと目が開いていく。ぱちりと目があった陽太に、緩く微笑むとその頭を撫でた。
「おはよー、陽太」
陽太が一つ頷くと、未菜は大きく伸びをして起き上がった。やっと起きたかと半目になる陽太だが、未菜にまたもや頭を撫でられて笑われた。
「まだおねむですか~。そろそろ起きてくださいよ~」
陽太は余りの理不尽さに白目を剥きそうになった。お前が言うなというやつである。未菜はさっさと台所へ行き、ちょこまかと動いている。食事を作るのだろう。眠たいと言うのなら、本当に寝てしまおう。陽太はそう考えて立ち上がった身体をまた布団へ戻そうとして、棚に置いてある写真に目がいった。未菜が外出している時に見た、あの写真だ。今度は人間の姿でそれを手にする。
三人のしている表情は、どうやってしているのだろう。陽太は柔らかい笑みを浮かべたことがないので、それを目指すも、悪そうな笑みになっている。陽太を呼びに来た未菜が肩を震わせて笑っているのには、写真を見つめている陽太が気付くことはなかった。笑いをおさめた未菜は、陽太の持っている写真を覗きこむ。
「それね、私のお父さんとお母さんよ」
陽太はそんなことは知っていると思いながらも、頷くに留めた。未菜は口角を上げながらも、何故か悲しそうだ。陽太の心がもやもやと燻る。
「事故で、死んじゃったけどね。雨の日で、前がよく見えない時に、トラックの不注意で起こった事故だったの。事故、だったんだけどね。私が、あの日、早く帰って来てって、言わなかったら、もしかしたら、少し遅くなって、事故に遭わなかったかもしれないって」
陽太は、どんどんと泣きそうになる未菜の頬を、両手で挟んだ。未菜はきょとんと陽太を見る。そして、はっとする。陽太の顔は、怒っていた。
(だから、こいつの悲しい顔は、気分が悪いって言ってるんだ。そんな顔をするな)
陽太は横に首を振る。すると、未菜はふっと笑って、陽太の手を掴んだ。目を閉じて、愛しそうにその手を撫でた。
「ありがとう、陽太」
陽太は心底驚いた。何故、自分はお礼を言われたのかと。自分が嫌だからしたことなのに、感謝をされた。この人間は変わっている。そう思っているのに、陽太の心はじんわりと暖くなった気がした。ありがとうという言葉を言われただけじゃないか。陽太は鼻を鳴らして、未菜の手を掴み居間へ連れていった。ご飯のいい匂いがする。そう言わんばかりに引っ張るが、その頬は仄かに赤く色付いていた。
「陽太、今日は服と靴を買いにいくよ」
陽太は魚を骨ごと食べながら未菜の言葉に顔を上げた。またあの店に行くのか。今まで人間の店というのはしっかり見たことがなかった為、昨日は面白かったと陽太は目を輝かせる。今日は昨日とは違うところに行くのだろうか。それはそれで楽しみだ。大きく頷こうとして、はたと気付く。服を買うということは、これを脱ぐということだ。実はこの服は陽太の一部だったりする。なので、これを脱がされると困るのだ。昨日のお湯浴びは何とか誤魔化せたが、これ以上は難しいのではないか。そう思い、頷きが中途半端で止まってしまっている。未菜は陽太が喜んで頷くだろうと思っていたので、迷っている様子の陽太に首を傾げた。
「行きたくない?」
陽太は考えた。誤魔化す労力と好奇心の間で揺れる。が、料理もすっかり冷めた頃、陽太は横に首を振った。どうやら、好奇心には勝てなかったようだ。陽太の謎の葛藤に未菜は肩を竦め、食べ終わった皿を片付け始めた。
「早く食べないと置いていくよ?」
置いていかれては困ると陽太は慌ててご飯を掻き込む。未菜は笑いながら、流しで腕捲りをした。それを皿洗いの合図だと知っている陽太は、口一杯に頬張ったまま皿を重ね未菜に駆け寄る。それを未菜に差し出すと、未菜はにこりと笑って受けとった。
「はい、ありがとう」
陽太は昨日、皿をそのままにしていると、未菜に流しに持っていくように指摘を受けた。だが、命令だと思った陽太はそれを無視。すると、未菜は澄ました顔をして「悪い子にはもうご飯を作りません」と陽太を脅したのだ。何だかんだ未菜の料理が気に入ったのだろう陽太は、未菜の言うことを大人しく聞いてしまっている。胃袋は掴まれた方が敗けなのである。
陽太はまたもやガポガポの靴を履き、一足先に踊り場へ出ると、未菜が出てくるのをぼんやりと待っていた。だが、すぐに後ろからの衝撃で我に返る。未菜といると、力が抜けてしまって仕方がない。陽太は気を引き締め直して、先程の衝撃は何だったのかと振り向いた。そこには地面に座っている男がおり、目を見開いて陽太を見ている。もしかすると、陽太にぶつかって尻餅をついたのかもしれない。陽太はほぼ完全に回復しており、ただの人の力では、今の陽太を容易に跪かせることは出来ないだろう。
陽太は男をちらりと見たが、興味がなかったのか視線を外す。ふと横目に黒い塊が見えたのでそちらを向くと、四角い物体が置かれていた。陽太はそれを掴み、眺めてみる。ただ、四面ある中の一面だけにスイッチがつけられているだけだ。
「あっ、それは」
陽太は、男の言葉も聞かずにスイッチを押した。途端に警報のように鳴り出す物体。
(煩い!)
陽太は余りの煩さに、思わず手の中の物体を握りつぶしてしまった。あ、と気付いた時には遅かった。目の前には、一般人がいる。普通の人間ならば、怯えて気味悪がるだろう。バレてしまえば面倒くさいことになる。陽太は苦い顔をしながら男の顔を見た。さぞ青い顔をしているだろう。
どうして気付けるだろうか。陽太の目の前には、一般人などいない。居るのは、恐ろしい程楽しそうな笑みを浮かべた、ただの殺戮者であるということに。
* * *
目を開けた翔は、立ち上がると冷蔵庫の中の水を取り出し飲み干した。渇いた喉には丁度良い潤いが流れたのを感じ、口から溢れた水を拭う。ふ、と目をシンクに移すと、小さな蜘蛛が這っていた。翔はそれを自分の手のひらに乗せると、蜘蛛の足を摘まんだ。そして、それを、何の躊躇もなくもぎ取った。蜘蛛は逃げようと動き回るが、どんな動体視力をしているのか、翔はそれを逃がさない。着実に一本ずつ、足をもいでいく。とうとう胴体だけになったそれを、シンクに置き、人差し指で押し潰した。ぐり、と捻ると、後の残ったところを水で流す。翔は、苦い顔をすることもなく、流し終わると何事もなかったように手をタオルで拭いていた。
翔にとっては自然なことなのだ。少しずつ生命活動を止めていく様を見るかのような、残酷な殺し方をすることが。
気味が悪い。親の言葉を思い出す。そんな子どもを育てといてよく言う。翔はそう思っていた。傷付くこともない。おかしいことは自覚している。だから、人には言わないし、知られないようにしてきた。この、生き物を殺したいという欲求を。しかも、いかに残酷に殺せるか。小学生の頃は、虫。中学生の頃は、蛙や蛇。今は、そう、今は。
朝食を食べることもなく、翔は玄関の扉を開けて外へ出る。一人暮らしなんてそんなものだ。作るのが面倒くさい。ならば食べなければいい。そんな考え方。
ポケットの中のあの機械の感触を確認し、エレベーターへ向かう。翔はこれを活用するには兎に角歩き回るのがいいのだろうと、散歩がてらに探索をするつもりだった。だが、三歩歩いたところで何かにぶつかり、後ろに倒れる。翔は訳が分からず、ぱちぱちと瞬きをする。気付かなかったが、翔の前には小学生くらいの男の子が立っていた。それにしても、小学生が自分をぶっ飛ばすなんてどうなっているのだと、翔は呆然と男の子を見つめる。男の子はゆっくりとこちらを振り向き、少しばかり翔を見たかと思うとすぐに地面に視線を移し、それを拾い上げた。それが何かに気付いた時には、男の子はスイッチに指を置いていた。
「あっ、それは」
次の瞬間、アパートに警報が鳴り響いた。だが、すぐにそれは鳴りやんだ。小さな機械が、男の子の手の中で握り潰されたからである。男の子は、悪戯がバレた時のような表情をして、こちらを見ている。大方、有り得ない力を持っていることへの偏見の目を気にしているのだろう。
その予想を裏切り、翔はそれを気にしていなかった。何故なら、理解したからである。いや、理解してしまったからである。この男の子は、あの化け物であるということを。
翔は、笑っていた。翔自身、笑おうと思っている訳ではない。なのに、笑いが込み上げて仕方ないのだ。その笑みはどこか、おもちゃを見付けた子どもの笑顔にも似ていた。
翔は立ち上がると、腕に着けていたブレスのボタンを押した。すると、あっという間に赤の全身スーツ姿になる。更に、首の後ろから覆い被さるように仮面が装着される。博士が発明した、変身スーツというやつらしい。そのメカニズムはよく知らないが、攻撃力も防御力も上がり、有り得ない程の身体能力も手に入れることが出来るので、翔は化け物の前では変身するようにしていた。この時、必ず五人と掛け声をかけるようにと博士は口を酸っぱくして言っているのだが、翔は気が向いた時くらいしかしない。こういうところが輪を乱す要因である。
男の子、いや、陽太は、翔の変身した姿を見るや否や指を蔦に変形させ、翔へと伸ばす。だが、それは一瞬、翔の手前で止まった。
「陽太、おまたせ。ねえ、今の警報って何だったの……」
隣の扉が開き、未菜が出てきたのを見ると、陽太は目をみはり、アパートから飛び降りた。未菜は悲鳴を上げるが、翔は陽太へ意識を集中させているため、未菜へは目もくれない。
(逃がすか!)
翔も陽太を追いかけ飛び降りた。一足先に地面へ降り立った陽太を見て、周りの人が悲鳴を上げる。翔が再び陽太を見た時には、指は元に戻っていた。それでも陽太が化け物であることは翔は分かっているので、対化け物用の銃で陽太を撃つ。間違って急所を撃たないよう、足や腕を中心に狙っていく。急所を撃てば、死んでしまうかもしれない。翔の癖だった。早く倒そうとする他のメンバーとは違い、ゆっくり、いたぶって殺そうとする、翔の狂った考え方故の。
陽太はそこでは戦わず、逃げることを選んだようだ。子どもでは有り得ない速度を出し、街を駆けていく。翔もそれを追いかけながら、陽太を銃で撃つ。翔に敵わないと分かったのか、ひたすらに逃げる陽太。翔もそれをただ追いかけながら、ふと周りを見て違和感を覚えた。何だか、だんだんと人が少なくなっているような気がする。翔は、まさか、と目をみはる。
(関係のない人を巻き込まないように?)
そんな訳あるはずない。人間を襲っていた化け物が、そんな考えをするはずがない。偶然、逃げている先に人がいないだけだ。翔はそう納得し、陽太を追いかける。翔は少々生死に対して鈍感すぎた。"ソレ"等と戦う時、極稀にではあるが、人が巻き込まれていることがあるのに、気付いていなかったのだ。いや、気付いたとしてもこう思うだろう。「申し訳ない。だが、弱い奴等がそんなところにいるのも悪い」と。だからこそ、人が多い広場で戦ったり出来るのだし、脚光を浴びる。翔はそれに気付かない。気付かないのだ。
陽太が振り返り、追いかけていた翔も立ち止まる。そこは港にある廃れた倉庫のようなところだった。人気はない。翔は銃を構えた。こいつの弱点は何か、どこを撃てば苦痛を感じるだろうか、翔は狙いを定めていく。翔はここだというところへ銃で連射した。が、蔦が集まり陽太をガードし、弾ははじき返された。蔦がほどけると、そこには醜い化け物が立っていた。翔は舌打ちし、陽太へ飛びかかる。実は武器を使うのは翔の性分にはあわなかった。直接肉を潰す感覚を味わう方が好きだからだ。
残像が見える速さで拳を陽太へ突き出していく翔。陽太はそれを蔦を使ってかわしたりいなしたりして上手く避けていた。翔は再び舌打ちする。
「何で攻撃してこねえんだ!」
面白くない。自分の命の危機に必死になるあの姿が面白いというのに。翔は、陽太はただ避けるばかりで翔への攻撃を避けているように感じたのだ。事実、陽太は傷が増えるばかりだが、翔には傷一つついていない。苛つく翔は、陽太の言葉に絶句した。
「オマエモ、ニンゲン ダロウ?」
(こいつは、何を言っているんだ?)
翔は本気で理解出来なかった。けれど、翔の苛立ちは更に増し、腰に差している刀を抜いた。翔は苛立ちに任せ、複雑に絡まる腕を模したような蔦の塊を根元から切り落とした。陽太の獣のような雄叫びが上がる。けれど、やはり翔には攻撃してこない。翔はもういたぶって殺すという目的を忘れ、ひたすらに斬っていく。
(殺す殺す殺す殺す殺す殺す! 化け物の癖に俺に情けをかけているだと? ふざけるな!)
気付くと化け物は息も絶え絶えに地面に倒れていた。翔は息の根を止めるため、刀の持ち手を反対にし、握り締める。それを、陽太に振り下ろした。
* * *
陽太は動けない身体に心の中で溜め息を吐いて翔の最後の一突きを待っていた。もうこの状況ではどう頑張ろうと助からないだろう。
(最後に、あの人間の顔が見たかったな)
陽太は目を閉じた。思い出すのは、未菜の笑顔ばかりだ。陽太はふっと笑った。
「やめて!」
陽太はそれが自分の走馬灯の声かと思い、暫く反応出来なかった。けれど、翔の声に目を開けると顔を上げた。
「……何ですか?」
陽太の目線の先には、未菜がいた。未菜は荒い呼吸を整えながら、陽太を見ている。
(何で、お前がここにいるんだ)
せっかく、人気のないところまで誘導し、人間を巻き込まないようにしたというのに。一番巻き込みたくない人間がここにやって来るだなどと、本末転倒もいいところだ。未菜は一歩ずつこちらに近付く。それを見た翔が、未菜に警告する。
「近付かないで下さい。こいつは危険です。離れてください」
「嫌。違う、やめて。それは、陽太なの。陽太だから……お願い……殺さないで……」
「この醜い化け物がですか? 失礼なことを言うようですが、妄想癖でもあるんですか?」
「だって、私の靴が。出掛けるから、今日買う予定だったから、それまでは私の靴を履かせてたのよ。だから、あれは、陽太なの!」
陽太ははっと未菜の指差す方向を見る。そこには、玄関で履かされた未菜の靴がボロボロになって転がっていた。蔦を這わせると、もう一つはまだ陽太の蔦に絡まっていた。自分でもどう履いているのか分からないが、確かに履いている。どうして脱いで来なかったのだろう。そうすれば、未菜はもしかしたら知らないまま居られたかもしれないのに。陽太は後悔するが、もう遅い。未菜は"ソレ"を陽太だと知ってしまった。陽太は頭上から舌打ちを聞いた。
「だからと言って、それが化け物であることに変わりありません。見たでしょう? こいつらが人を殺しているのを。あなたはそれを野放しにするつもりですか?」
「そ、れは……」
目を伏せた未菜に、翔は目頭を抑え溜め息を落とす。未菜はその一瞬の隙に走りだし、陽太の上に被さって翔に叫んだ。
「でも、私はもう、家族を失いたくない……!」
翔は今度こそ未菜に聞こえる程の舌打ちをし、その苛立ちを表に出した。
「めんどくせえ……」
「え?」
翔は刀を未菜に向けた。そうして、嫌悪を露にした声で忠告する。
「そこ、どけないとあんたも差すよ? それでもいいなら、そこにいていいけど」
未菜は一瞬怯えた表情を見せたが、すぐに決意した顔になり、陽太を強く掴んだ。陽太は、信じられないものを見たかのような目で未菜を見つめた。
(何で、そこまで俺にこだわる。たった二日いただけの、俺に)
「ナンデ……」
「……私も、初めは大変な子拾っちゃったって思ったんだけどね、陽太、あんまりいい子だから、大好きになっちゃったみたい。陽太が怪物でも、本当は優しいってこと、私、ちゃんと知ってるから。ごめんね、勝手に家族なんて言って」
未菜は悲しそうに、陽太へ笑いかける。
(この顔は、嫌いだ)
陽太は、蔦を未菜の頬へ滑らせ、むにっと押し潰す。未菜は、笑ったまま、涙を溢した。だが、そんなしっとりとした雰囲気も、翔によってぶち壊される。
「はい、ちゃんと言ったから。さようなら、お姉さん」
振り下ろされる刃を見つめる未菜を、陽太は最後の力を振り絞って投げ飛ばした。直後、急所へ衝撃がくる。投げ飛ばされた未菜は、何とか身体を起こすと、陽太を見て目を見開いた。
「う、そ……よう、陽太。え、し、死んで、ない……よね?」
未菜は這って陽太にゆっくりと近付いた。陽太はやっとのことで未菜を見る。未菜はボロボロと涙を流していた。こんな顔をしてほしかった訳じゃない。また笑ってほしかっただけだ。
(俺が、いるから、こんな顔を、するんだな)
陽太はよろよろと力なく蔦を伸ばすと、未菜の額に置いた。
「アリ、ガト……ミナ……」
未菜はすうっと目を閉じると、その場に倒れた。陽太は未菜に催眠の力を使ったのだ。
(もう、支配なんて、どうでも、いい。未菜は、陽太を忘れ、幸せに、なる、ん、だ)
目を閉じた未菜の顔を最後に陽太の視界は、永遠に明けることのない闇に閉ざされた。
* * *
「今日は楽しかったー! また遊ぼうね、未菜」
「うん。奥さん連れ回してごめんなさいって、旦那さんにも宜しく言ってといて」
「大丈夫大丈夫! どうせ私がいなくて羽伸ばしてんだから」
「あははっ」
「じゃ、また!」
「うん、またね」
未菜は家まで送ってくれた友人に手を振り、アパートのエレベーターに乗る。今日は友人と久々にショッピングやら食べ歩き等充実した一日を過ごし、未菜は鼻歌をうたいながら鍵を開けた。やはりたまには遊ぶことも必要なのだ。溜め込みすぎて、先週のような、二日間の記憶が飛ぶなんてふざけた症状が出るのだろう。本当に怖い。しかも、何故か生活用品が倍に増えていて、通帳を見て愕然とした。未菜はその晩、ショックで立ち直れなかった。まあ、どうせ買わなければならなかった物だし、プラスに考えれば当分先まで買わなくて済むのだからと未菜は無理矢理消化させた。
しかし、もう一つ不思議なことがあり、今朝下駄箱を開けて見ると、馴染みのスニーカーが一つ消えていたのだ。捨てた覚えはないのだけれど、どこへやったのだろうと未菜は頭を悩ませた。
とりあえず、今日は折角写真を撮ったのだし、プリントアウトする前に整理しておこうとカメラを操作する。今日の思い出を一枚ずつ確認するが、思った以上に撮っていなかったのか、すぐに以前の写真に移ってしまった。けれど、未菜はその写真に記憶がなかった。
(この目が赤い男の子は誰?)
確かに自分の家、しかもこの部屋で撮られたものだというのは背景で分かるのだが、全く記憶にない。気味が悪いと、未菜はすぐにそれを消去した。すると、データを消去しましたの画面に、水滴が一粒落ちる。未菜はそれをさっと拭くが、後から後から落ちてきて、未菜は上を見上げた。だが、雨漏りはしている様子はない。どういうことだと立ち上がりかけた未菜の頬を、何かが流れた。それを触ると、指には水がついていた。
「私、泣いてる……?」
悲しくもないのに、何故自分は泣いているのか。分からないけれど、ただ、未菜の胸はどうしようもなく締め付けられて、涙が止まらなかった。
私は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。まるで、大切な何かをなくしてしまったかのような、そんな気がするのだ。
あの二日間は、私にとって何だったのか。未菜はふと、そんなことを思う。嫌な記憶や消したい記憶でないことは確かだ。
だって、両親が死んでから出なかった涙が、こんなにも溢れてる。この胸が締め付けられるのは、固まっていたものが溶かされたからだろう。
未菜は空を見上げ、くしゃりと笑った。
空のどこかから、幸せだと笑ってほしいと、そう言われた気がした。