今度はこっちが修羅場
前回、最後の台詞が薫子じゃなくて薫になってました。
すみません。
『――あいつは、薫子じゃねえから』
もっと声を張れ、と応援団みたいなことを言いたくなるほど小さな声だった。
それが薫の耳に届いたのは偶然なのか必然なのか。
とりあえず今、言いたいことは。
(知ってたの?)
である。
「……じゃあ、誰なんですか」
そっぽを向いたままこちらを見ない穂積に、少々苛立ちが湧いて低い声が出た。
意地の悪いことを言っている自覚はある。あるが、痛いところをつかれたように肩をそびやかす穂積のその反応がなんだかむかつく。
はっきりしろ。
前世の勇魚は、薫子の勇魚は、そんなみっともない真似はしなかった。
「あいつは薫子じゃないから?――ですよね、あの人いすゞって名前ですよね。ちなみに私の名前は薫といいますけど、そこらへんちゃんと把握して口開いてます?」
耳しか見えない穂積を見下ろして、思わずそう口走っていた。
意地が悪いどころか、性格の悪さが滲み出ている声音になってしまったが仕方がない。
「わかってていすゞさんと付き合ってらしたんですか?はじめから薫じゃないと気付いていながら?わかっててキスしたんです?わかっててエッチしたんですか?薫子じゃない女と?」
「してねーよ!!」
感情が迸るまま声まで大きくして追求していたのを、それ以上の大声で遮られた。
と同時に立ち上がってこちらを向いた穂積の顔が真っ赤になっている。
「いつ!俺が!いすゞとキスしてえろいことしたって言った!」
穂積が立ち上がったことで視線が逆転してしまった。
穂積に上から睨まれながら、薫も負けじと応戦する。
「この歳で付き合っているということはそういうことも含まれるのではないかと一般論を口にしただけです。大体、あなたすぐ手を出すでしょう。性別が女なら見境がない。そういうのが滲み出てます」
「にっ……滲み出てねーわ!」
「出てます」
不毛な言い合いをしている。
わかってはいるが、なんだかもうどうとでもなれな気分である。
何より、そこはきちんとはっきりさせておきたい。
いすゞとわかっていて付き合っていたのか。キスしたのか。抱き締めたのか。
考えただけで目の前の赤い顔をぶん殴りたくなる。
(私に、薫子に、あんな思いをさせたくせに)
どうして未だに雷が恐いのか、その理由を言ってやったら、この人はどんな顔をするだろう。
「お前、ほんっとかわいくねーな!」
顔も見たくないというように視線を逸らして、穂積はそう吐き捨てた。
何度も言われてきた言葉だが、何度言われても傷付く大嫌いな言葉だ。
なんだかもう、どうでもよくなった。
「……可愛くなくて結構ですよ」
お前のような不埒な男はもう知らん。切り捨てて帰ろう。
さっきまでことをはっきりさせてやると意気込んでいたのも忘れて、ざっくりと傷つけられた薫は踵を返そうとした。
「勇魚ちゃん?」
銀杏の陰からでたところで、見知った《・・・・》顔の女性がこちらを見ていることに気付く。
気付いた途端、彼女は薫の後ろにいる穂積にそう声を掛けた。
豊かな黒髪をふんわりと編みこみでまとめ、口許の黒子が色っぽい美人だ。この暑い中、涼しげな浅葱の浴衣を乱れなく着こなし、とても涼しげに見える。
(――お義母さん……)
勇魚の母、静。
薫子がよく知る、その人だった。
「おふくろ」
愕然として、この場を去ることすら忘れてしまった薫の後ろで穂積が応える。
穂積の母親は、今世でも静その人だったらしい。
「あなた、こんな所でなにしてるの?」
その問いかけに、穂積がしどろもどろになりながら、友達とちょっと涼んでいた、というような旨を伝えた。
静の視線が、薫へと向けられる。
優しげだが、芯の強い眼差しが薫を見ていた。
(……お義母さんだ)
例えるなら、思いがけない場所で会うはずもない旧知に出会ったときのような嬉しさが胸を占める。
どこかむず痒いような思いに顔が緩むのを堪え、薫は穂積のクラスメートとして、あたりさわりない挨拶をした。
「こんにちは、薫といいます」
名前を言うと、静は、まあ、と小さく呟いて、まじまじと薫の顔を見つめてきた。
その視線にはただの驚き以上のものが含まれていて、薫は自然と背筋を伸ばす。
見た目はいすゞで名前が薫なのだから、その反応もまあわかる。気分はよくないが。
(……ということは、お義母さんも、記憶持ちなのか)
今世の転生は一体どうなっているのだと神様が存在するなら問い詰めたいところだが、生憎、神様の所在を薫は知らない。
「うちの馬鹿息子がお世話になっています。薫さんて、この前転入してきたあの薫さんかしら?うちの主人がPTA会長をしていてね、新しく転入してきた女の子がいると話していたわ」
にこにこと笑う静の笑顔が、薫には随分と温かいものに感じられた。
あの頃よく向けられていた、懐かしい笑み。
(そうか、あの髭もじゃの義父殿は、今はそんなものをしているのか)
あの世話好きの義父らしくて、なんだかとても可笑しかった。
前世の勇魚が帰らぬ人となり、帆積家をまとめようと必死になっていた薫を支えてくれたのが、あの時既に家督を勇魚に譲っていたこのふたりだった。
叶うなら孫の顔を見せてやりたかったと、何度思ったことだろう。
「おふくろ」
穂積が少し焦った声で静を呼ぶ。
たった今修羅場を勃発しかけていただけに気まずいのか、のんきに薫と世間話を繰り広げている己の母親に弱りきっているようだった。
薫とは少し距離をとって並び、前世と変わらず空気の読めない母親を止めようとする。
そうして静は、穂積が薫と距離を空けたことを意味ありげに見ていた。
その表情がなんだか妙に目に付いて、薫はじっと、それを見つめていた。
「……そういえば、かおちゃんはどうしたの?今日はうちに遊びにくる約束をしてたのだけど」
静は探るような視線を薫に向け、にっこりと笑って、次には穂積を見た。
(――あ)
冷水を浴びせられたような、とはこいうときを言うのか。
トドメを刺された。
「あいつならさっき……じゃなくて、薫子じゃなくていすゞだろ!」
穂積が慌てて母親の言葉を誤魔化そうとして墓穴を掘っていたが、薫にはほとんど聞こえていなかった。
風に揺れる銀杏の影だけを見るともなしに眺め、胸にぽっかりと空いた穴をどうしようかと思案する。
(……結局、今世の薫子は、あのいすゞか)
自分でもちぐはぐなことを考えていると思ったが、静から出た言葉が思っていた以上にショックだったらしい。
穂積は、勇魚は、あのいすゞを薫子として家族に紹介し、家族ぐるみで付き合うほどの親密な関係を築いていたのだ。
それがいすゞに騙されていたからだとしても、今の薫には到底許容できないものだ。
(あの富豪は、薫子の顔をしたいすゞに、気付いていた)
それなのに、穂積は気付かないまま、義母である静に、いすゞを薫子として紹介していたのだ。
そして、静も、話からして義父殿も、いすゞを薫子として受け入れている。
騙されているなら仕方ない。
いすゞの顔は薫子寄りだから。
本人が薫子だと言ってしまえば信じてしまえるくらい、似ているから――。
わかっているのに、どうしても割り切れそうもなかった。
「……そろそろ帰ります。さよなら」
静に小さく頭を下げて、その場をあとにする。
穂積の顔は、見たくもない。
出来れば静とも、もう二度と会いたくないと思うくらいには、今の薫に余裕はなかった。
(……苦しい)
あの頃、勇魚と義両親に囲まれて幸せそうに笑っていた薫子に、もうこの世での居場所はないのだなと思うと、悲しくて悲しくて、悔しくて腹立たしくて、仕方なかった。




