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呼び出しくらった


「いい加減にしろよ」


目の前に立つ無駄に背の高い男が、薫を睨みつけてそう言った。

低い声だ。教室でいつも楽しそうにお喋りしている声とは随分と様子が違う。


怒っているなあ。

と、薫は男の顔を見ながらどこか他人事のように考えた。


「いい加減にしろとは」


とりあえず、男が怒っている理由を尋ねなければなるまい。

この男はいつも短絡的なのだ。豪気だが短気で怒りやすく、ただ機嫌が直るのもはやい。

ふざっけんな今すぐ剥かれてえのかこのアマ、と怒鳴った数刻後には、けらけら笑いながら薫を真冬の海に放り込み、一緒に寒中水泳なんぞを始める男だった。

そう、昔からこいつは、そういう男だった。


「薫子……じゃねえ、いすゞにちょっかい出すのはやめろ」


眉間に寄った皺を深くして、男は答えた。

男が一番最初に発した〝かおるこ〟の名前になんとなく嬉しくなりつつも、悲しく切ない想いも無視できない。


「いすゞというのは、穂積くんの彼女さんのいすゞさんでしょうか?」


あの髪が長くてメイクばりばりで、でもなんとなく儚げで可愛い、あの?


「……すっとぼけてんじゃねえぞ」


からかったつもりはなかったのだが、どうも胸の内がにじみ出てしまったらしい。

穂積くんの醜くない顔が強張って、とても恐ろしい形相になっている。


しかしな。

と、薫はまたのんびりと考えて、穂積の言葉には答えず、彼の向こうに見える海を眺めていた。

そして思う。


どうしてこうなってるんだろう、と。





薫が自分の中にもう一人いる、と気付いたのは、小学生になってからだった。


それまで不規則に見る夢があり、その夢の中で薫は〝薫子〟と呼ばれていた。

薫が歳を追うごとに夢は鮮烈になり、時にはうなされ、時には涙し、時には切なさに蹲ることもあった。

そうこうしているうちに、これは夢じゃない、記憶だ、と考えるようになったのである。


夢で見るもう一人の自分――薫子は、時代の波に置いていかれて廃れてしまった華族の一人娘だった。産みの母は幼い頃に亡くなり、病弱な父と意地悪な後妻の三人で質素に暮らしていた。海に面した裏庭に出て、白熊と名付けた真っ白い仔犬と戯れるだけが心の癒しの、寂しい娘だった。

そんな薫子は十六の歳に、多額の結納金と引き換えに大きな港を牛耳る網元上がりの行商の家へと嫁ぐことになる。

相手は薫子よりいくつか年上で、恋人もいたが、すったもんだの挙句、結局は家が決めた婚約者である薫子と結婚した。

一旦話がまとまり、ぎこちないながらも絆を深めていった夫婦仲は決して悪いものではなく、幾人もいた同居人たちにはおしどり夫婦とからかわれるほどのものになった。


賑やかな人生だった。

それまでの味のない日々はなんだったのかというほど、鮮やかで穏やかで、時に激しい毎日。

そしてそんな日々の隣には必ず、夫となった男がいた。

日に焼けた浅黒い顔に、小さくも大きくもない、えらく眼力のある目玉が二つ。豪快に笑う大きな口と、うっすらそばかすの浮いた高い鼻。潮に傷めた長い赤毛を、薫子が編んだ紐でいつもひとつに束ねていた。


夫は酒に酔うとよく言っていた。


『お前は俺の追い風だ。お前がいるから俺は船を操れる。来世ってもんがありゃ、そんときはまたよろしく頼むわ』


と。それは薫子を気恥ずかしくも呆れさせもし、言葉にできないほどの幸せを与えた。


だからだろうか。

きっと〝今〟が、薫子の来世なのだ。


ご親切にも〝薫〟、などというわかりやすい名前をつけてくれた現世の親には感謝しかない。

そして好都合にも、現代の薫はさして混乱することもなく、過去の〝薫子〟を受け入れ、ひとつになっていった。

薫は薫子であり、薫子は薫だ。



『仕方ないですね。来世でも、貴方のその大きな背中を押せるように、わたくしも精進いたします』


男に甘言を言われる度、薫子はそう返した。

それを満足そうに聞き、にやけたまま寝入ってしまう大柄な男に布団をかけてやるのが好きだった。

たまに別の女の名前を呟いたときは、二週間口を聞かなかった。


船の舵をとり、風を読むのがうまい男――それが薫子の夫。

己の船に乗って異国へ行くのが夢だという、そしてその夢を叶えた先でついぞ帰らずの人となってしまったひと。

それが、薫子の夫だった。



そんなわけで、薫の中にはもうひとり、赤毛の夫を持つ薫子という女が存在していた。

そして薫がそうであるように、もしかしたら夫も現代に生まれ変わり、前世の記憶を持って生きているのかもしれないと思うようになった。


父の転勤が海がる街に決まったときには、これはもう運命だな、と暢気に考えたものだ。

もしまた出会って、たとえ恋には落ちなくとも、あのときの記憶があるのなら、〝あのひと〟に伝えたいことがたくさんある。


そして薫はものの見事に、現世に生まれ変わった夫を見つけた。


(運命的だったんだけどなあ……)


転入した学校は長い坂道を登った先にあり、窓からは海が見えた。

漁港ではなく、サーフィンや海水浴が盛んな海の街だったが、どこにいても香る潮の香りは薫の中の薫子を落ち着かせた。


そして今回は同い年で生まれたらしい夫が、今目の前にいる薫のクラスメート、穂積だった。

なんという運命。なんという好都合。

久々に、というか前世ぶりに見た彼は変わっていなかった。

笑えば飛び出る八重歯も、日に焼けた肌も、短くはなっているが、潮で傷んだ赤毛も。


(――ああ、あのひとだ)


彼を見つけたときの充足感といったら、やはり言葉にできないほどだった。

胸を引き絞られるとはよく言ったもので、先人が散々使い古してきた言葉だというのに、まさにその表現しかあてはめようがないほどの痛みを、薫は感じた。


(だがなあ、薫子)


しかし彼にはなんと、恋人がいたのである。


これが件のいすゞである。

薫はじっと観察した。穂積といすゞ、その他周辺のお友達たちを。

そうして気付いたことには、彼女は前世の薫子を騙り、薫子と同じように前世の記憶を持つ穂積を騙している、ということだった。


要するにあれだ、『私よ、貴方の妻だった薫子よ。前世では死に目にはあえなかったけど、今世では幸せになりましょうね』と、正体のわからん女が薫子のように振舞ってほざいているわけである。


気付いたときには激オコを通り越して呆れてしまった。呆れが去ると再び怒りが湧いたので、そんな彼女の耳元でこっそりと囁いてあげたのだ。


『いすゞさんて、確かお茶屋さんの娘さんでしたよね』


と。

その時の彼女の青ざめた顔を思い出すと、自分でしかけておきながら気の毒になるほどだ。

前世で、薫子と結婚する前に夫とお付き合いされていた女性が、まさに、お茶屋の娘であった。

しかも可愛い顔して玉の腰を狙うなんともあざとい女で、いきなり現れたライバルの薫子を嫌っており、嫌がらせをされたのも一度や二度じゃない。

まあ、獲物を横から掻っ攫われたわけだから、気持ちはわからんでもないのだが。

きっと彼女も、玉の腰だなんだと言いながら、不器用ながらも優しい夫のことを憎からず思っていたのだと、薫子は同じ男を愛した女として、知っているし。


(とはいえ、嘘はよくないなあ)


なにが一番腹立たしいかって、自分と穂積の間にあった絆を利用されたことである。


だからこそ、ほんのちょっと警告するつもりで近付いただけだった。

全部知ってんだからな、調子のんなよ、と。

びびらせてやろうという気持ちで、ついついやらかしたわけである。

しかしあまりにもいすゞが薫に怯えるので、穂積はじめクラスメートは薫がいすゞに嫌がらせでもしているらしいと予測をつけたらしい。

なんとも迷惑なことだが、真実をいえないいすゞが否定すればするだけ、薫への疑惑は深まった。


そしてこの呼び出しである。

ことの顛末をぼんやりと思い出していた薫の前で、赤毛の頭が勢いよく下げられた。


「……あいつがあんたの気に障るようなことしたってんなら、俺が謝る。だからあいつには、なにもしないでくれ」


そもそも何もしていないのだが、薫と目が合えば悲鳴を上げ、ほんの少し近付いただけでさっと穂積の影に隠れるいすゞを見ていれば、薫がなにを言ったところで信じてもらうのは難しいだろう。



「いすゞさんが、そんなに大切ですか」


「大切だ」


言い切りやがった。


「あいつには随分と辛い思いをさせた。あいつのために何かしてやれるなら、なんだってする」


夫らしいな、と思った。

真っ直ぐで言葉を飾ることなく口にするので、本当に恥ずかしい人だった。

彼の言う辛い思いとやらは、薫子を置いて異国へ旅立ち、その道中で命を落としたことだろう。

薫子はあの人を浜から見送って、そして二度と、彼に会うことはなかった。


そんな夫に、こうして再びあいま見えているというのに。


(やっと会えた前世の夫と初めて交わした会話がこれでは、なんとも格好がつかないなあ、ねえ、薫子)


あの頃、真っ直ぐ薫子だけを見ていた男が今は、違う女を見ている。

しかもその女を、薫子だと思い込んで。


(貴方の愛はその程度だったということでしょうか)


まあ仕方がない。

自分の今の容姿は、まるであの頃の薫子とは似ても似つかないのだから。


(どちらかといえば、前世の茶屋の娘さんに似てしまったのが悪かったのかもしれない)


そしてその茶屋の娘といえば、薫子にそっくりなのだから、この運命というものはなにを企んでいるのか、さっぱりわからないのである。



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