辿り着けなかった家
今回はちょっとしんみりです。
こないだ、まだそう寒くもなく、天気のいい日、いつもより長くお散歩しました。
気づくと母校である小学校の近くまで来ていました。
いい思い出が少ないし、学校そのものが嫌いだったので、懐かしいとか、好ましい気持ちにはなりませんでした。
その小学校の、更に近所には、小学、六年生でしたか、当時のクラスメートの家があります。
引っ越していなければ、今でもあるでしょう。
けれどクラスメートはもういません。
交通事故で亡くなったからです。
小学六年生の子供にとって、クラスメートが亡くなるというのは一大事件です。
友達というほど親しくはありませんでした。
でもいつもはつらつとして、内気な九藤にも「おはよう!」と元気に挨拶してくれる、明るい女の子でした。
絵に描いたような。
漫画ならきっと、主役級です。
死神さんとは無縁に見える子だったんです。
もうよく憶えてはいませんが、彼女はスピードを出した車の被害者でした。
相手の車の方は、身内がいる病院に急がれていました。
そして事故が起きました。
九藤はその後、数年間、花束を持ってお線香を上げさせてもらいに通いました。
ほんの時々です。
一人っ子を亡くされた御両親が、子供ながらに気の毒でした。
でも、疑問もありました。
彼らの子供はもういません。成長もしません。
かたや、九藤はすくすくと育っています。
その姿を見ることは、苦痛ではないでしょうか。
癒えようとするものを刺激して、引っ掻いているのではないか。
お線香を上げた九藤はそれで満足ですが、自分が帰ったあと、笑顔で迎えてくださった御両親が、どのような顔をされているだろうかと。
人間はなろうとしなくても、いくらでも無邪気に残酷になれます。
それで、段々、その家に向かうことが怖くなりました。
彼らの悲しみに責任が持てません。
能天気で無神経な行為をしてはいないか、と自分を振り返ると、もう無理でした。
クラスメートを亡くした九藤ですが、それは人生の山の一つ、通過点であり、その後も自分の人生を歩みます。
平穏であろうとなかろうと、生きています。
亡くなった少女の時間はもう動きません。
恐らく、御両親の心の時間も、大きな部分が、そこで停まっていると思います。
そして今でも生活しておられるのでしょう。
笑っておられるかもしれない。暗いお顔かもしれない。
わかりません。
彼らはもう、九藤の手が届くところにいないから。
九藤が怖気づいて、身を引いたから。
それでも、家の外観だけでも確かめたくて、小学校の周りをうろうろしました。
家には辿り着けませんでした。
道がわからなかったんです。
もう憶えてなかったんです。
そんなものか、と、心に乾いた風が吹きました。
冷たいなあ、と思いました。
自分とか、自分を含めた世の薄情さに苦笑いする思いで、俯き加減に家に帰りました。
交差した人生も、そのように離れたりするのですね。




