裁ち布 参
『六月五日 担当:鎚葉、日野居』
日誌にそこまで書いて、時海は少し笑みがこぼれた。が、日野居は眉をひそめていた。
「昨日、一昨日と相談が殺到してるじゃないか。何があったんだ」
時海が聞いた話では、一人一回は必ず相談に行くように義務づけたのだという。だが、日野居はその事を聞くと憤慨した。
「心のケアを何だと思ってるんだ、ここのボンクラ教師共は。カウンセリング――もとい、心と心の触れ合いというのは非常にデリケートな事だから、その人にとって最適なタイミングというのが必ずあるのだ。やれ今ココに専門職の奴らが来たから、この期を逃すなとばかりに生徒を急かす。これは阿呆のすることだ」
理路整然と話すタイプの日野居にとって珍しく、かなり汚い言葉を多用している。これは相当怒っている証拠かもしれない、と時海は冷や汗をかきながら話を聞くのに徹した。
「一日寝ていれば直る程度の風邪に、薬を山のように処方する医者がどこに居る。逆上がりが出来ないからといって出来ない奴を論う教師がどこに居るというのだ。アイツらは僕らを軽んじている」
「それにしても、昨日一昨日のスタッフはよくその人数を捌ききりましたね。学年の九割以上の名前が出てますよ」
「何だ、それなら文句はない」
日野居は、さっきの語気が嘘のように矛を収めてしまった。
「あの、日野居さん」
何だ、と投げやりに言う日野居は既に窓の方へと向き直り、暇を持て余すからと持ってきた学会誌を机の端に山のように重ねだしていた。
「自分の作業量が増えるからって、私にキツく当たるのはもうこれっきりにして下さい」
日野居の真摯な作業振りが見られるのかと思っていた鎚葉は、大きく溜息をついて日誌を閉じた。
†
事態が大きく動いたのは、その日の午後だった。
「――本ッ当に、申し訳ありませんでした」
男――男性教師は、地面に頭を擦り付けて謝罪していた。
手慣れているかのような土下座である。
「か、顔を上げて下さい。それでは話が出来ませんから、ね? 佐材先生」
時海も慌てた様子で彼をなだめる。
佐材松陸は、鈍色の眼鏡に髭の少ない、外面だけは若々しい様子の先生だった。名簿一覧によれば、渦中の二年四組担任ではないか。そう思って時海がよく見てみれば、彼の目は虚ろで、スーツは少しくたびれている。
「元はと言えば、下らない噂に対抗する為に、別の噂を私がでっち上げたのが始まりだったんです」
そう言って佐材が語ったのは、数日前に時海の聞いた『断ち布』の話であった。ネガティブなイメージを持つそれをイジメの原因材料になると危惧した佐材は、去年から少しずつ真逆の意味を持つ『断ち布』の噂を流布しだしたのだという。
「それが、まさか結果としてこんな事になるなんて……私は教師失格です」
――まさか、教師のメンタルケアを請け負う羽目になるとは。
これは一体どうしたものか、と時海が言葉を選んでいた時、背後の椅子が動く音がした。
「失礼ですが、佐材先生と言いましたか。――今回の事件とあなたが流した噂は、ほぼ無関係だと思いますよ」
日野居勝が、とうとう声を上げた。すると彼はすかさず時海にアイコンタクトをした。記録しろという合図だと察した時海は、彼と入れ替わるように背後のデスクに向かい合った。
「そ、それは一体何故、そう言い切れるのでしょうか」
「分かりませんか? 重ね重ね失礼ですが、先生は何年目でしょうか」
「四年目です。生徒からの評判は可もなく不可もなくと聞いていました」
「まぁまず、その辺りの認識でしょうな。生徒におべっかを使うことだけが、教師のマストじゃありませんよ」
時海はそのやりとりを心の中で省略しながら咀嚼していく。
「と、言いますと……」
「生徒と不要なトラブルを避けるために、普段から一定の距離を置いていたりしませんか」
「それは、そうです。転ばぬ先の杖というやつです。でもそれが問題視されたことは一度もありません」
日野居は声のトーンを全く変えない。
「ま、見た目上問題は無いでしょうが当然生徒にとってはよろしくないでしょう。あなたがやっているのは学習塾の先生と同じ事だ。いや、塾の先生は試験に受かるための先鋭的な方法を教えているのだから、ひょっとしたらそれ以下かもしれない」
「そんな! あなたに何が分かると言うんですか」
「あなたも私も中学は卒業してますから、ひょっとしたらご存じではと思いましたが。その時何をしたかというのは、後々大切な思い出としてその人の中に残る。もしかしたら、酒の席の語りぐさになる事だってあり得る。生徒達にとってはそれが今なんですよ、その為の努力もせずに、イジメの根っこ潰しだけして安心しているというのなら、あなたは確かに教師失格かもしれませんな、という話です」
それに――、と日野居はとどめを差しにかかった。
「子供というのはかなり賢い。惑わされるような情報が無い故に、純粋に事態を見据えますからね。何が本物で何が偽物か、すぐに分かってしまう。中学、高校と進んで行くにつれて、そのレンズを磨くための作業が行われていくわけですが――それはともかく、今回あなたが流したという噂も、きっと彼らはそれが噂ではなく嘘である事に、心の何処かで気付いていると思いますよ」
「そんな――」
「あなたはまず同僚、教師ではなく子供を見るべきだ。そして、今回の事を深く考え込まない、自分を追い詰めない事。それが、皆から望まれていることだと思いますよ」
†
「日野居さん、ありがとうございます」
時海がやりとりを記しながら礼を述べると、日野居は欠伸をして背伸びをした。
「僕は理系、もとい理系脳が嫌いなんだ。理系は正論でしかこちらを殴ってこないから、こんな風に感情論でいたぶれるときは徹底的にいたぶる。これが最強のストレス解消法なのだ」
どうしてこう、この男は上がりかけた評価を地の底まで叩き落とさないと気が済まないのか、と時海は疑問に思った。
「ま、今のは誇張表現だが。子供なんて十歳過ぎればサンタを信じてるのなんて一握り以下だし、小学生の頃と比べれば力も魅力もついてきて、純粋さなんて薄れていく。そこに出来た心の隙間を埋めてやるようにする事が、教師の使命なんじゃないかと思っただけの話だ」
酷い矛盾だ、と鎚葉は思った。
「日野居さんも理詰めなんですね」
「当たり前だ。僕は文系も嫌いだ」
敵だらけだった。
×
時海は家に帰ってから、先日の羽嶋の指摘が当たっていたことを思い出し、慌てたように彼に電話した。
羽嶋は別に驚いた様子はなく、時海が事の顛末を話すと、フフと笑ったように彼女には聞こえた。
『――日野居さんは面白い人だな。是非会ってみたい』
「やめておきなよ。大火傷するから」
『ご忠告どうもありがとう。これで仕事は終わりかい?』
「来週以降は全体としてのペースが減るから、週一回出校するだけになりそう。それでも、あと二回は機会があるみたいだけど」
『お疲れ様だな。いや何、ちょっと色々事件について考えていてね』
電話の向こうから、ペラペラと紙をめくる音が聞こえてきた。
『まず黒板のダイイングメッセージというか、告発文というかだが、これには様々な意味があると思っている』
「様々……?」
『例えば今回のそれは、人々の間の噂の話だった。噂はやがて人々の口伝の間に浮かぶ、一つの化け物として存在するようになる。こういう話はそれらを取っ払った向こうに真実があるのが普通だが、ひょっとしたらその重ね合わせの中にこそ重要なヒントが隠されているかもしれない』
時海は黒板に書かれたあの歪な文字列を思い出す。
『white』と、『ice』。
「つまり、どういうこと?」
『黒板の文字は消されなかった。つまり、犯に……心当たりのある人物にとってそれが致命的であるとすぐには分かりにくいものだったのだ。だから、そのメッセージに含まれている意味もまた単一ではないということだ』
そういう羽嶋の物言いも歯切れが悪い。どうやら、本人の中でも何かまだ核心のようなものには至っていないと時海は感じていた。
「姉貴、メシ冷めるぞ」
台所から、琢馬の声が聞こえてくる。
『呼ばれているようだね』
「はぁい! ――それじゃ、また。何か思いついたら、いつでも言って。こっちも情報は惜しまないから」
――火は、まだ消えていないのだ。
時海はそう思いながら、襟を正した。
第一部 了 第二部「違え時」に続く