裁ち布 弐
翌日になって、電灯が明々と点る保険管理室にて時海が前日の事を話すと、日野居はその表情筋が死んでいるのかと言わんばかりの顔のまま、にべもなく論を閉じた。
「別に、どれが正しいだなんていうのを決めた原理原則はない。君が信じたものだけが君にとって正しい、という認識の問題じゃなかろうか」
外は雨天で風も強く、行き交う学生の姿もまばらであった。寧ろ、雨宿りと称して構内で屯している人の方が多く、管理室入口の自動ドアが、度々行き交う学生を誤認して右往左往している有様であった。
それを目にする度、自動ドアの認識範囲を狭くするか、押しボタン式に替えろと再三再四学務に訴えているが、結局後回しにされていると日野居が嘆いていたのを時海は思い出していた。
「それじゃあ、教育という概念にも正解がないという事になってしまいます」
当たり前だ、と日野居は生徒からのレポート用紙の束に目を通しながら、ぴしゃりと言ってのける。
「通り一遍で言うところのそれに包含されているのは、個性と集団心理という相反するものなんだぞ、つまり磁石の同極を無理矢理くっつけているような話だ。端っから矛盾しているのに、それでも解を導けと言う数学者なんて破門だ」
そう言われてしまうと、と愚痴を吐きながら時海は自分のデスクにある照明を点けた。が、そこにあった山積み且つ訳しかけの英語論文が照らし出され、思わず彼女は目を背けた。
「まあ、せっかく我々もそういう場所に触れる機会を得たんだから、話を膨らませようか。その手の話となるとこの時期に多いのが、教育実習生の相談事だな。――最初から子供嫌いなら、子供と接するのも諦めて欲しいもんだが、最近の学位事情は複雑なようで――子供との接し方が分からないという学生未満、オトナ未満が、たまにやって来る」
すると、部屋の隅で官報を読みふけっていた志背が、それに乗っかる。
「去年も、二人ぐらいおりましたな。どちらも男子でしたけど」
「女性は、その手の事では心配ないイメージがありますからね」
そんなことはない、と日野居は机上から少し顔を上げて反論する。
「一昨年だか一昨昨年には居たぞ。無事に卒業出来たかについてまでは、感知していないが」
時海は少しだけ煙草が欲しくなって、スーツのポケットをまさぐった。勿論、普段から学生に禁煙や分煙を奨励している大学側の矢面に立っているはずのこの部屋の住人が、いきなりここで煙草を吸うという悪徳に手を染められるはずもないのだが。
「この手の話題はどう頑張ったところで、畢竟するに『手を出すか出さないか』の二極問題になってくるんだからタチが悪い」
あぁ、と時海は膝を打つ。
「体罰なら私の頃も少し見たことはありますけど、アレが本当に生徒にとって良い事なのかって考える事はありましたね」
将来この分野で飯を食っていくつもりならば当然だとばかりに、巨人は頷いた。
「理性的にはナンセンスだが、本能的にはこれほど上手い手段はないと賞賛しているからこそ、その乖離に悩まされる教育者"気取り"は多い。本当はそうでないと断言する人間は、若人はおろか老人でもそう居ない」
「……まさかこの話にも正解はない、と仰る気では」
流石に、自分が信じているから生徒に暴力を振るう、なんて理論は横車を押すどころの話ではない。時海もそう思いつつ振ったが、日野居はコーヒーをわざとらしく音を立てて啜ってから応えた。
「結論はある。十全に正しい答えはあるが、それを世に投げたところで思ったほど波風は立たん。つまり理想論であり自由律詩であり、無駄であることを承知の上で話すが」
日野居は空のコップを手にしてコーヒーメーカーの元に歩いていく。
「結局、そんな事を考えながら教壇に立っている時点で、教育者としては既に三流――と断ぜざるを得ないのだ。生徒、子供に暴力を振るう事について、最終的に誰が悪いのかと突き詰めていく話になれば、そのバカを育てた親族、教師、環境……キリがない。だが世の中には、それらを包括する便利な言葉がある――それは『経験』だ。教師が子供に手を出して抑え付けるのは楽だ、そして結果的にもの凄い効果を生んだ場合の方が、その教師の見聞の中では多いかもしれない。中には言うに事欠いてたった三年、たった六年とまでまくし立てる奴まで居る始末だ。それが子供の人格形成にとって大事な時期なのにも関わらず、だ。そんなのはただの絶対王政でしかないというのに」
コーヒーを注ぎ終えると、彼はスティックシュガーを二本手に取った。
「そういう奴らには、その過程で誰かが嫌な思いをしている時点で、健全とは程遠いラインにあるという理解がそもそも足りていないのだよ。これは学校に限らず、社会にも言える事だがね。ただ、誰もが全く嫌な思いをすることなく達成出来る社会行為というのは、この国では今のところ数少ない。だからこそ暴力が正当化され、暴力が暴力の連鎖を生み続ける。蛙も蛙の子も、蛙しか作れんのだ」
だから仕方がないとも言えるし、努力でどうにかできると言えないこともない、と日野居は立ったままマグカップに砂糖を流し込みながらお茶を濁した。
勿論、それで時海が納得するはずもなかった。
「長々と講釈ありがとうございます。それで結局、日野居さんはどちら側なんですか」
時海がそう言うと、日野委は大きな背もたれの付いた、社長が座るようなサイズの椅子にどっかりと座りこんだ。
「そりゃあ、話し合いで有利そうな方につくよ。そもそも僕は人にものを教える事が嫌いだからな」
――やはり、この男に安い期待をかけると大損するのだ。
時海は言葉を失い、大げさに肩を落とした。
†
昼過ぎから時海の知り合いの論文発表会があり、それに顔を出していた彼女が保険管理室へと戻ってきた時である。ここでは、相談に応じるための応対表を外に貼りだしている。表の中は一週間が数時間区切りで分けられ、その中は空欄となっている。そこに、悩みを抱えた学生達が適宜自分の都合の付く時間に印をつける事で、予定が決まっていく仕組みである。名前を書く必要も無いので、プライバシーにも配慮されているのだ。
部屋の右奥が灰色のパーティションで仕切られているということは、学生が相談に来ているという証拠であった。片や、窓際の席で日野居がコーヒーの湯気を立てながら学生のレポートの山を片手に聞き耳を立てている様子だった。
「人にだって色々なペースがあるわ。歩みが早い人遅い人、それぞれ。あなたが無理して早い人へ追いつこうとするからこそ、色々と足を引っ張ることになってたりはしない?」
相談者――声色からして男子学生は、大学生につきものである就職の悩みを打ち明けていた。相手をしているのは志背のようだった。
「(就職でドロップアウトすると、人生の終わりだと思っちゃう人は多いから、仕方のない事だけれど)」
事実、この大学でもそういう報告が毎年山のようにやって来る、というのを時海は大学内部に入り込んでから初めて知った。
「出来るなら、小・中からやり直したいですね。今だと、ちょっとイジメで生徒が死んだ死んでないとかで忙しいみたいっすけど」
時海はその言葉に反応し、一瞬でパーティションをかき分けた。
「ごめん、ちょっといい?」
「鎚葉さん!」
髪を後ろで丁寧に纏めていた志背が振り向き、時海をたしなめる。彼女は二人に謝りながら、男子学生の方へ向き直る。
「すいません、あなたってひょっとして実大瀬南中出身じゃないですか?」
相談者のプライバシーには触れてはいけない取り決めだったが、時海はいてもたってもいられなかった。
「えっ……そうですけど」
「じゃあ――答えられたらで良いんですけど――中学時代に断ち布、って流行りませんでしたか」
意外にも、男は首を傾げる。
「断ち……? いや、知らないです」
そう、と時海が肩を落とす。が、そばかす気味の相談者は続けた。
「――あ、でも、布って言えば、変な風習はありましたよ。とんでもなく怒ったとき、そいつに布を――大きさや色とかは関係無く――ぶつけるんです。俺が居たときは悪い意味で使われたことはなかったけど、みんなでじゃれ合ってるときに、戯けて布をぶん投げて『決闘だー』とか言い合ったりしてたことはありましたけど」
在学中にそういう名前が付いたことはない、とまで彼は言った。
「それって、誰から教わったかとかは覚えていたり?」
「部活中に、先輩がやってたんで。当時から見ても、だいぶ前から有る感じでしたよ」
「じゃあ、他の学校にもあったんでしょうか」
すると初めて学生は首を横に振った。
「それは無いっす。隣町の高校だったんですけど、他の中学出身で知ってる奴が一人も居なくて、今言われるまで全然記憶の隅でしたよ」
一応、過度にプライバシーを詮索しないように気を使いながら、時海はそのジャージ姿の男子学生に更に二、三話を聞いたが、有用な情報はそれ以上得られる事はなかった。
時海は礼を言い、志背にも詫びを入れて自分のデスクへと戻った。その時の日野居の『君はアホか』とでも言いたげな表情を、彼女はしばらく忘れられそうにない。
†
その日の夜、雨がすっかり上がっていたこともあってか時海は直帰する予定を変更し、昼間の事を羽嶋に持ちかけようと例の服屋へ赴き、そして愕然とした。
「しまった」
肝心の店の入り口の片側自動ドアには定休日と書かれたプレートがぶら下がり、奥を見ようにもカーテンが閉められていた。彼女は慌てて携帯電話を手に取り、そして肩を落とした。
「そう言えば、連絡先も交換してなかった……どうしよう、帰ろうかな」
時海は仕方がないので店の名前ぐらい覚えて帰ろうと思い、入り口の上にある、白地に紅色の洒落たフォントで書かれたアルファベットを読もうとする。
「チ……じゃないか、タイア……」
「ティレール・レペだ。意味は江戸時代の人にでも聞くといい」
ふと背後から聞こえた声に、時海は身体が縮み上がる程に驚いた。昼間にも見たような巨塔が、時海の背後数十センチの所で、その仏頂面を携えたまま腕組みをして立っていたのだ。
「は、羽嶋くんが、オフであるはずの日に、ホワイ何故ここに」
一体全体何時から彼は待っていたのだろうかと時海は顔色を窺おうとしたが、その表情から読み取れることは何一つ無かった。
「昨日別れた後、今日が定休日だって伝え忘れてたからな。また愚痴を積みに来そうだな、っていう男のカンだ」
その回答に、時海は少し心が揺らぐ。
「あっ……まず、連絡先から交換しましょうか」
羽嶋はジーパンのポケットから今時の携帯電話を取りだして少し操作すると、彼女に自分のアドレスをコード化したものを見せた。
「意外と、新しもの好きなのね」
彼が手にしていたのは、時海のそれよりも新しい機種だった。
「持ってないと――もとい、連絡が付かないと店長がキレるから、持たされてるだけだ。そうしたら少しだけ、そういうガジェットに興味が出た」
凝り性なのねと時海が聞くと、羽嶋は画面を見ながら、そうかもな、とだけ応えた。
「店長さんって、つまり相方さんなのよね。どこで知り合ったの?」
羽嶋は行きつけであるというバーに彼女を誘おうとしたが、下戸な時海はそれを固辞し、昨日とは別のファミレスで食事を取っていた。
「前々のアルバイト先も似たような、駅の中のエスニック系服屋でな。そこで一緒に働いてた先輩に誘われた」
「その人って、女性?」
「そりゃ、まあ。歳は六つ上だが、商才はあるし尊敬もしている」
時海にとってはガッカリするようなしないような、玉虫色の受け答えだった。
彼女はそれ以上追求することを諦め、昼間の日野居の話をする。
「――二択問題に対する健全な解答だな、それは」
羽嶋は成る程納得といった感じで頷いた。
「あら、羽嶋君もそんな感じなのね。もっと建設的な事を言うかと思っていたわ」
「そりゃあ、今の俺等には何の関係もないんだから、その話をするならそういう無責任すぎる極論になってしまう」
「だって、私だって将来大学で学生に単位を渡す立場になるかもしれないし、その事を考えたら頭が痛いわよ」
すると、羽嶋は飲んでいたコーヒーが喉に入ったらしく、三、四度咽せて見せた。
「大学生と小中学生は違うだろう。大学生は分別もあるし、それなりに教養もある。鎚葉の大学は公立なんだろ、のらりくらりと過ごすだけの所よりはマシじゃないのか」
「でも私が入学した頃とは全然違って、推薦だけじゃなくて自己推薦も出来るし。昔と比べて、偏差値が二、三は下がってたわ」
時海は、羽嶋のソーサーに乗った空のコーヒーフレッシュ容器を見ながら、嘆息した。
「少子化は、時代の流れだから仕方がないのだ。大学に入ってくる母数は年々少なくなり切羽詰まるだけ、法人化されて資金供給源も無くなり首の皮一枚となれば、やや長めの就職訓練校に成り下がってしまうのも、また然り」
「学を志す輩のための門戸というフレーズは、どこへ行ったのやら」
「ま、君みたいにそう憂う人が一人でも居るなら、将来は安泰じゃないのかな」
羽嶋修史という男は、とても適当そうにそう言って、コーヒーを飲み干した。
何故だかその日はお互いに気が乗らなかったのか、それでお開きとなった。
†
時海が家に帰ると、琢馬が前日に口をへの字にしていたのが、今日は真一文字に結んでむくれていた。
「……アイス、食べる?」
――こんな事になるのならば、もっと早めにケーキショップにでも駆け込んでいれば良かった、と彼女は述懐しながら、藍色のソファーで縦に大の字を作ってテレビを見ていた琢馬の前に出て、コンビニのロゴが入ったビニール袋をちらつかせた。
「事情を聞こうか。見習いの分際で残業なんてあるはずないって俺を笑った事、忘れたとは言わせないぜ?」
時海はしょんぼりとしながら、アイスを冷凍庫に投げ入れつつ、かれこれ二日間の収穫を話した。話の途中で、琢馬は三度溜息をついた。
「デートかと思ったら、デートなのかよ」
彼女はかぶりを横に振る。
「いや、うん……上手くいくかなと思ったんだけど、やっぱり酒の席にしないと距離は縮められなさそう」
「えぇ、やめときなよ。姉貴に酒入れて上手く話を進めようなんて、インパール作戦みたいになるぜ」
時海は、袋の中の溶けかけた保冷剤を琢馬の顔面目がけてぶん投げた。
「こんにゃろ、盧溝橋事件か、満州事変か」
何故近代日本史のワードばかりなのかは気になったが、時海は別の事を要求した。
「タバコ」
「……は?」
琢馬は目を丸くして姉を見た。
「何じゃ、文句でもあるんかい青二才。持ってこいっ言うたら持って来るんが弟のツトメじゃろが」
あんたも青二才だよ、と返せる琢馬は至って冷静だった。
「一度吸ったら三週間ぐらいは禁煙するのに、ひょっとして職場でストレスでも溜めた? もしくは強烈なセクハラを受けたとか」
――あんなのでストレスと言うのなら、常人は胃が溶けて無くなっているだろう、という言葉を時海は喉元ギリギリまで押し留める。琢馬にとっては些細な話である。
「二週間経てば、ニコチンも身体から出ていくからさ」
「どこの民間療法だよ」
「知り合いの医者志望に聞きました」
「ウソだ。ネットの受け売りか何かでしょ」
時海の中では本で聞きかじった話なので半分ぐらい当たっていたが、そもそも琢馬が全く信じていないのを見て、彼女は掘り下げるのをやめた。
「……いいからハリーアップ、可及的速やかに」
時海がその大きな背中をせっつくと、青二才その二は口をこれでもかというほど尖らせながら渋々立ち上がり、奥の部屋へと消えていく。やがて、向こうから気だるそうな声が聞こえてくる。
「一本でしょ」
「二本吸ったら縁を切れ、三本吸ったら警察に行けって言ったの、覚えてないの?」
「覚えてねぇよ。姉貴の中でタバコの占めるところ大きすぎだろ」
琢馬はむくれもせず、至って普通の表情でタバコを時海に渡した。
「流石は鎚葉家長男。気配りが出来る男は将来モテるよ」
「姉貴みたいな人は絶対に嫌だけどね」
時海は家用電話機の傍に置いてある百円ライターを左手に取ると、普段自分が食事を取っている椅子を壁際まで引き、窓を開けた。雨が降った後のアスファルトから立ち上る特有の匂いが、湿っぽくやや冷たい風に乗って時海の鼻をつく。電源を落としたテレビ画面のような黒さの空には、雲間から白銀色に輝く月が見え隠れしていた。
「虫が入るから、網戸は閉めなさい」
琢馬お母さんの小言に時海は二つ返事でそれをすると、右手で髪の毛をかき上げてから煙草を持って火を点け、二日前と同じようにゆっくりと吸う。そして今度は空に浮かぶ白い船目がけて、静かに吐いた。
「で、今日は何の話?」
琢馬も冷蔵庫から取り出した麦茶を、自分用のクリーム色をしたマグカップに注いでいた。時海はそれを見ながら、今日あった出来事を回想する。
だが、正味な話、日野居に上手いこと言いくるめられ、羽嶋には肩すかしを食うという、彼女にとっては何とも向かい風な一日であった。
「……無いなぁ」
マグカップがテーブルを叩く音が、一瞬だけテレビの音を遮った。
「ふざけんな、事件の事で何か進展があったのかと思ったじゃないか」
実際問題、時海達の中学校当番は明後日となっているので、今日突然新たな疑問が沸くわけもなかった。
「(じゃあなんで、いま私は吸っているのかな)」
単に吸いたくなったから吸っただけ、という当時喫煙していた頃の悪癖が出てしまったのかと思うと時海は急に嫌気が差し、半分ほど吸ったところでそれを縁側に置いてある空き缶でひねり潰してしまった。
「ごめん。明日もタバコ吸ってたら、殴ってでも止めて」
時海は本気で謝ったが、琢馬はそれでもまだ冗談だととられているようで、くさって見せた。
「殴ったら、その倍以上殴ってくるくせに」
今でも割とそうかもしれないと思ったので、時海は否定しなかった。
†
進展がないのはいかがなものかという琢馬の言葉が少しは身に刺さったのか、時海は翌朝早くからルーズリーフを持ち出し、学生を多めに収容出来るサイズの講義室の窓際最前列に座していた。座席は後列、端から早々と埋まり、講義が始まる頃には講義室のキャパシティの八割ほどを擁していた。
講義をしているのは、いつになくスーツをしっかりと着込んだ日野居勝だった。彼が担当しているのは教養にカテゴライズされる授業で、やはり受講者は入学したての、若々しい顔ぶれが多い。時海はその授業のアシスタント――レジュメ配布、用紙回収などを手伝うだけの――として出席していた。
この講義は、一期もとい十五週全て日野居の単独で行われるわけではなく、所謂オムニバス形式の授業で、週ごとに講義をする教授が替わる。様々な分野について見聞を広めることで、大学入りたてで右も左も分からない新入生らへの橋渡しをしようとしている講義の内の一つで、人気の程は受講生の数が表しているとおりである。
日野居の教える分野は行動学や心理学の側面が強い。一時期は体育の単位も出していたというから、時海からすれば驚くべき状況である。
「(ホワイトとアイス……白い氷)」
短絡的な発想ならば真っ先に白石亜衣の事を思い浮かべるだろう、と時海は考える。
「(でもアイスからアイってのは流石に、原義に悖ってないというか、こじつけっぽいというか)」
時海の右手の親指と人差し指の上を水色のシャープペンシルが回転する。講義を生真面目に聴く必要がないことをあらかじめ日野居本人から了承を得ていたので、時海は二年四組の名簿と睨めっこしながら、謎を少しでも明らかにしようと考えていた。
「(それに、彼女が嘘をついてるとも思えなかったし。……だったらこれは一体何の意味なんだろう)」
日野居の持ち出し捜査資料によれば、二つの単語は前日の英語の授業で使われていた単語だという事は明らかになっていたが、そのせいで時海の中では余計に遺書性が薄まっていた。
「(やっぱり、適当に思い当たった言葉を書き殴っただけなのでは……?)」
しかしそうなれば、言葉を持ってくるだけなら他の――国語数学理科社会でも問題は無いはずなのに、何故この言葉がチョイスされたのかというジレンマに陥っていた。
「(ひょっとして、この書き方、もとい描き方に意図があるのかな)」
文字サイズはかなり大きく、黒板の左端を少し空けて『white』を、黒板の中心に少し間があって、ほぼ同じ高さかつ黒板の右半分、左寄り気味に『ice』が書かれている。
「(左に白、右に氷のある場所、もしくは暗号と仮定して、何かの単語、漢字、アルファベット……)」
そこまで来て、ようやく自分のやっていることが雲をつかむような話である事に気付き、時海はルーズリーフをグシャグシャと丸めた。
「――それで、人の話も聞かずに九〇分ほとんど無為に過ごして、妙案は出たのかね」
終わりのブザーが明けて、誰も居なくなった講義室で出席代わりの小レポート用紙を纏めている頃になってようやく、日野居は時海に話を振った。勿論、時海も無我夢中になる程熱中していたわけではなく、しっかりアシスタントしての仕事をこなした上でのそれだったが、彼の物言いは多少小言臭かった。
「犯人捜しなんてしちゃいけないとは思うんですけどね」
時海のぼやきを遮るように、日野居は紙束を整えるため机に叩きつけた。
「それには反対だ。犯人がもし居るのだとするなら――さっさとお縄につけて、しっかりとお白砂の上で裁きを受けさせるべきだ」
時代劇丸出しの物言いに、彼女は溜息も出なかった。
「随分と強硬派ですね」
「それは裁きだけが恐怖だと思う奴の意見だろう。法を犯した人間にとって、裁かれない内は天国か? 自分のしてきたことのせいで常に追い詰められながら、それを他人へと愚痴る事すら許されない生活は、本当に日常と言えるのだろうか」
「罪の意識がない人間も、たまにいます」
「捕まりたくなくて逃げている内は同義だ。結局、人を地獄から解放する手段もまた地獄なのだ。その人間は、如何なる理由にせよ、既に地獄へ渡る為の船賃――六文銭を渡してしまったのだからな」
凄く決まったような顔をしていたので、時海はおどけて見せた。
「それって、死刑制度の話ですか」
――何が気にくわなかったのか、日野居は管理室に帰るまで一言も口を聞かなかった。
†
琢馬に、今日は絶対に外食しないとメールで念を押してしまった為、今日は羽嶋の店に立ち寄るだけになった。前日とは違い、辺りが暗くなってもここはしっかりと上の看板がライトアップされている。
「今日、話だけをしに来たんだけど」
すると、羽嶋はレジ傍に置いてあった背もたれがないタイプのパイプイスを、アヒル口の女史の元へ蹴り出した。
「服、買ってけよ。今ならセールで、安いやつは三割引だぞ」
「給料日、しばらく後だから、それまで待って」
時海の財布の中身は潤沢とも空っ風とも言い難い状態であったが、そういったモノを選び出すと弟が飽きて先に家に帰るほどの凝り性なので、ここでその本性をさらけ出すにはいかない、と彼女なりに歯を食いしばった結果であった。
「混雑してきたら、邪魔だから帰れよ」
羽嶋の目はいつだって何を考えているか時海にはよく分からない雰囲気だったが、今日この時だけは、喫茶店においてひたすら水でねばるような客を見るような目にも見えた。
「はい、かしこまりました」
しかし、時海が先ほどまでの話をしている間、客は一人もやってこなかった。羽嶋は、最後の日野居が黙った件についてはすぐに答えた。
「明言したくないだけだろう、それは」
羽嶋修二は、時海が出会う度に服装が替わる。店員という事もあり気を使っているのだろう、と彼女は推察する。
「どういう事?」
「白黒はっきりつけない方が、生きやすい場合もあると言う事だ」
そんなものなのね、と時海が納得していると、今度は彼の方から話題を振ってきた。
「で、結局中学校の件はどうなった」
「さっき話したので全部よ。出校日が明日の予定だから、それ以降に話を纏める予定なんだけど」
「そうか……何か不安そうだな」
それはそうよ、と時海は初日の気苦労と謎の数々を思い出す。
「断ち布の噂は確かに昔からあったんだな、ただし当時はネガティブな側面だけ、か」
「だけど、こんな事だけで人が死ぬとは思えないの」
すると羽嶋は、あっさりと結論づけた。
「うむ。思うに、この件についてはすぐ犯人が見つかるような気がするな」
「どういう事? じゃあ、事件の犯人もあっさりと明らかになるのかしら」
「そう上手くはいかない。だが、恐らく糸口はすぐそこに有るだろう」
時海は全く意味が分からず、詳しく聞き出そうとしたが、羽嶋はレジ休止中のポップを立てて言った。
「今日はもう閉店だ」
そう言う羽嶋の顔に時海が若干の不快さを覚えたのは、先ほど偉そうに何某かを語って見せた日野居によく似ていたからだろう、と彼女は断じることにした。