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白頁のレミット  作者: 汐見圭
裁ち布
1/8

裁ち布 壱

「君と彼の違いはたった一つ、安寧に対する価値観だ」





「え、中学校ですか」

 鎚葉時海(つちばときみ)は、入り口の扉に貼り付けてある学生からの相談予約表が空白なのを見ながら、そう答えた。

 某県の県立大学内に於ける共通講義棟一階の保険管理室に於いて、生徒の相談事に乗るのを仕事とし、非常勤担当二年目になる。

実大瀬(みのせ)南中学校だよ。思い当たる節があるだろう」

 一方、高身長にゆるめの天然パーマ、ラグビーで鍛えたかのような厳つい身体という、カウンセリングや人の心とは無縁そうな見た目でありながら、時海の上司にあたる日野居勝(ひのいまさる)は、朝一で管理室に届けられた大学からのお知らせ一覧から目を離さずにそう応えた。

「無いことは――、ないですけど」

 時海は、数日前のニュースを思い返していた。というのも、その実大瀬南中学校で、生徒が一名自殺したという少しショッキングなものである。学校はイジメを否定していて、遺書もなく原因は不明だというのも、彼女は何となく覚えていた。

「おいおい、我々にとってイジメは他人事じゃないんだから、そういう姿勢は見せちゃいかん」

 そう窘めながらも、日野居は彼女の方を見もせず窓際でブラインドを上げていた。

「所謂、子供達のメンタルケアだそうだ。ただ、担当するのが教育委員会から出向してきた人達だけというのでは時間的にも人材的にも荷が重いので、他大学や近隣の病院と連携してのプロジェクトとして動くため、あなた方のお手を煩わせる事は致しません――という但し書きまで付いてるぞ」

 子供。普段十八歳以上を相手にしている自分たちにとって、子供を相手にするというのはどういう感じなのだろう、と時海はふと思う。

「また、ボランティア出張ですか。毎度の事ながら、ご苦労様です」

 それに時海はこの男をずっと見ているからこそ、彼がそんな事とは一生相容れないであろう事もすぐに分かった。

「何を言っているんだ、君も同伴だ」

 日野居の、さも当然であるかのような発言に、一瞬の間が空く。そして、時海お気に入りの茶色いマグカップに、コーヒーが親の仇のように注がれていることに気付き、慌てた。

「冗談は顔だけにしてください」

 時海の日野居に対する態度や口調は、別に社会性が欠如しているわけではなく、彼女の入所当初に言われた日野居の弁があってのことだ。

『忌憚のない意見ほど、重要且つ洗練されていると私は思う。であるから是非、私に何かあれば素直に、率直に意見をして欲しい』

 時海はこれを守っているだけなのだ。勿論当初時海はその言を深読みしていたが、昨年に転任した時海の別の上司から、これは逆に『お前等の悪口など取るに足らんものだ』と豪語しているのと同じだという密告を受け、態度を改めた。

「何を言っている、僕は大学卒業以来、顔も人生も常道から外れたことなど一度も無いぞ」

 そんな事を言い、人の悪口を意に介さず、持論だけをぶつけて歩く男の事だ、時海の物差しからすれば、彼は十分な変人として扱われていた。至極真面目にそう言ってのける男性――三十七歳――は当然の如く独身であり、その言い訳も『四十にして惑わずというだろう、結婚は四十代でも間に合う』というねじ切れそうな程に捻くれたモノである事も、時海は知っている。

「それに子供相手なんて、日野居さんが一番蕁麻疹を出しそうなモノじゃないですか」

 すると、日野居はわざとらしく肩を持ち上げて嘆息した。

「当て推量にも程がある。僕は、子供を端から見ている分には一向に問題がないのだよ。ご存じの通り、アレルギーの類も見つかっていない」

 結局嫌なんじゃないかと時海が嘆息すると、時間外で閉じられているはずの学生用入り口の自動ドアが、無理矢理こじ開けられるのが見えた。

「おはようございます、今朝は何の話ですか」

 そこから、灰色のスーツにメガネを掛けた女性職員、志背晴峰(しぜはるみね)が入ってきた。時海と同年入所だが、歳は二つ上だと彼女は風の噂に聞いていた。志背は真ん中の大机の元までやってくると、彼が先ほどまで持っていたわら半紙を拾い上げ、目を通す。

「あー、なるほど。これまた面倒なやっちゃなぁ」

 すると、珍しく日野居が食ってかかった。

「面倒とは何だ。義を見てせざるは勇無き也と孔子が言っているのに、それを二千五百年後の僕らが受け継がなくてどうする」

 だが、別に日野居は儒教家でも何でもなく、ただの慇懃無礼なだけの男であるという事は付記せねばなるまい。

「あら、日野居さんって未来を見据えて生きていくタイプだと思うてはりましたけど」

 そしてついでに、こういう茶化しに対しても怒りも笑いもしない、朴念仁でもある。時海が裏で彼に千年杉というあだ名を付けたのは、志背にも内緒にしている。だが、当の本人は頭を振って否定した。

「まさか。未来の人々が今の我々の知識不足を嘲笑うのはともかくとして、過去の人物が未来を予期して馬鹿にするのが我慢ならんと思うだけだ」

 彼の捻くれた現実主義観が、ここにも現れていた。

「それに、日野居さんが子供と戯れてる姿って、端から見てると……ねぇ」

 ねぇ、の部分で時海は同意を求める視線を賜る。なので、彼女は一応話の流れを汲んで同調しておいた。

「ロリコンはちょっと……学内でも視線が厳しいですよ」

 医学的にもロリコンは中学生ぐらいまでを差すので、この場合間違いではない。日野居は、あり得ないと言いたげに手を"やれやれ"の形にすると、外が騒がしくなってきたのを見て、部屋全体の電気を点けた。

「悲しいな。これが情報を鵜呑みにする世代の性というやつなのか」

 そう言いながら怒気を微塵も感じさせない日野居の無表情ぶりに、時海は感服させられる。一度賭け事の類をやらせたら、一日で数億儲けて帰ってくるのではないかという程の仏頂面だった。

「情報と言うより、推理ですね。導き出された結果とも言いますか」

 すると、日野居は部屋の端に立てかけてあるホワイトボードに記された月別予定表の、とある日にちの時海と自分の欄に、朱色のペンでバツを書き込んだ。

「同伴って、二人一組で仕事ですか」

 時海は至極嫌そうなトーンで言ったが、こういうときの日野居は都合の良いノイズキャンセリング機能を発揮する、という事も織り込み済みであった。勿論、それらの含意が巨木に伝わるはずもない。彼は彼女が自分の職務に隙間を空けることを危惧したのだと勝手に勘違いし、得心そうに頷いた。

「当たり前だ、内務に支障を来すようなら最初からお断りしている。あと、今日の十六時半から、その事について校長から直々にお話があるそうだから、悪いがそれにも付き合って貰うぞ」

 時海はむくれながら「お願いします」と答えた。





 街の端から端まで移動となると、車で十数分も掛かってしまう。そのことが時海にとっては億劫だった。何より、車内で日野居と二人きりという感覚がそもそもキツいのである。

「弟君の調子はどうだろう。受験勉強は順調かな」

 発進後だんまりだった日野居が突如として話し出したのは、見慣れた交差点の赤信号に止められた時だった。

 ホワイトカラー・セダンの後部座席には、普段から使われないからか、多少埃を被った辞書や学会誌等がうずたかく積まれていた。それを右側へ無理矢理どかす事で、彼女が座るためのスペースを作っている状態だった。日野居はその山を大儀そうに片付けながら、彼女に助手席に座ることを二度薦めたが、当然ながら時海は固辞した。

「まだ二年ですよ。大学はウチ目指してるって言ってましたけど」

 大学を目指すなら一年でも二年でも三年でも変わらん、と日野居は注釈を入れる。

「まぁ、学歴コンプレックスじゃなきゃ、ウチは誰でも入れるからな」

 乗り気ではなかったが、時海は掘り下げることにした。そうでもしないと、パッションフルーツの香り漂う車内で、貴重な学会誌を吐瀉物塗れにしかねない、と考えたからである。

「日野居さんって、どこの大学出身でしたか」

 彼はアクセルを踏む。答えにくいのか、ややあってから声が返ってきた。

「……そこそこの所だな。ただ、そこで学を究めようという気は毛頭無かったから、大学院はこっちにした」

「わざわざ?」

「そうは言うがね。単位認定に不可を付けた教授の所で、共に学びたいと思うかい。あの――名前はなんだったかな、忘れてしまったよ――教授は、僕の人生にケチをつけたくて仕方がなかったんだろう。担当分野は光だったかな。まるで理系じゃないか。……ともかくも、今時の学生みたいな、単位をザルのように零す方々ならまだしも、僕はそんな無駄な行為に時間を費やすつもりはなかったからね」

 ふと彼女がその一番上の封筒に目をやると、例の実大瀬南中学校印の封筒だった。

「気になるか」

 実大瀬南中学には南と付いているが、近隣には北中学校も西中学校も無い。東に実大瀬東小学校があるだけであり、単なる地名の名残である。しかしながら、公立校であること、都会から僅かしか離れていないという地理的要因等から、学生はこのご時世になっても尚多く、所謂マンモス校的扱いをされている。それ故か、都会の進学校はこぞってここをジャンボと呼んでいる――というのを、時海は先ほどの保険管理室でのやりとりで知った。

「こんな茶封筒……秘密裏に金の取引でもしてるんですか」

 車が、また赤信号で止められた。

「何だ、人を疑惑の総合商社みたいに。ただの資料だよ」

 日野居は二重の意味でくさったが、時海は気付かずにそれに目を通し始めた。中は自殺した生徒のクラスについての報告書で、一枚開くと生徒の本名と素性が、二枚目以降の頁には被害生徒の状況がかなり濁した表現で書いてあった。

「これ、警察の極秘資料とかじゃ」

「こちらも――立場上セミプロみたいなものとはいえ――、手持ち無沙汰で相談を引き受けられるほどの有資格士ではないのでね。そんな旨をちょっと話したら、すぐ渡してもらえたよ」

 要するにゴネたのか、と思いながら、時海は封筒のどこかに持出禁止の判子が無いかを念入りに確認してから、報告書に再度目を移す。

 死んだ生徒は二年四組所属の女生徒、野上ひな。首には自殺用と思しき荷造り紐がくくりつけてあり、窓枠にも千切れた紐が残されていた。首にも索状痕がある事から当初は縊死(首つり自殺)と思われたが、致命傷は後頭部に強い打撃を受けた事によるものと改められた。つまり、窓枠で何らかの方法で首を吊ったが失敗し、紐が千切れて落下、床等の固い部分に後頭部を打ち付けて死亡、というものだという。尚、黒板には彼女の字で"white ice"と書かれていた。意図は不明。 

「ダイイングメッセージ……」

「遺書だろう。首吊ってから文字が書けるわけがない。それに、自殺に対してダイイングメッセージなどというミステリー用語を持ち出すのは実にナンセンスだ」

 確かに、と思いながら時海はクラス構成へと視線を写す。

「……このご時世に三十二人構成でクラスを保てるのは、確かにマンモス校ですね」

「いや、昔ほどではないぞ。少子化には勝てないようだ、昨年度入学生から五あった組が更に一クラス減っている。だから彼ら二年生は、四クラス編成になって最初の学年ということになるな」

 渦中のクラス――二年四組は、出席番号一番の相葉一(あいばはじめ)から三十二番の和山仁(わやまひとし)まで、転校による欠番も追加もない。素性といっても素行の悪さやアレルギー、被虐待歴、片親などの特徴があればという程度に留まり、ほとんどの生徒は空欄である。

「――なんだか、見飽きたような名簿なんだよなぁ」

 日野居が珍しい反応を見せたので、すかさず時海は食いついた。

「日野居さん、以前にこのクラスをご覧じて?」

「そんなはずはない、そうだったら事前にそう言うだろう。何というか、既視感があるのだよ、その名簿に。何だったかなぁ。遠い昔の話は、あまり良い事がないから思い出したくないのだが」

 日野居からあと一歩で過去の話を引きずり出せると知れば、彼女の頭の中がそれで一杯になるのも仕方のない話であった。

「……とりあえず、進んで下さい」

 そう言うが早いか、背後の軽トラックが、青になっても進まない彼らにクラクションを鳴らした。





 その日の夜、十九時過ぎ。すっかり暗くなった道を一人で歩く事に抵抗がなくなってから数年が経ち、自宅前の電灯の電球が交換されたことにもすっかり気付かず、時海は自分の家の扉を開いた。

「お帰り」

 居間に繋がるふすまを開くと、そこには一人分の食事にカサがかけられ、反対側の席で男子が一人、テレビを点けたままスマートフォンに夢中になっていた。

「どっちかにせいや、コラ」

 たった一人の弟、鎚葉琢馬(つちばたくま)。高校二年生で、一年前の進学を機に時海と同居を始めた。そもそもこの家も、彼女らの母方の親族が持て余していた一軒家をほぼ自宅のように間借りしているのだった。

 琢馬は画面から視線を移さずに、テーブル端にあるテレビのリモコンを背後の彼女へ渡した。

「今日、オムレツだけど良かった?」

「別に」

 家事は分担とは言っているが、最近は時海が遅くなることが多く、琢馬が勝手に夕食を作っている場合が多くなっていた。しかも、これが時海より上手なのだから、姉としてはたまったものではない。

 ――やがて、夕食と風呂を済ませ、二人は所在なげにテレビのニュースに目を懲らす。朝と昼に見たモノの繰り返しであることに時海が辟易すると、寝間着代わりのジャージの袖を捲り、立ち上がった。

「……タク、例のやつ」

 琢馬もそうなるのを予期していたのか、少しだけ立ち上がる準備をしていた。

「はいはい」

 そう言うと琢馬は、リビングを出て隣にある、時海の部屋へと赴く。その反対側の天井近くにあるクローゼットの扉を開き、中から煙草と百円ライターを取りだした。

 時海はスモーカーではあるが、自制のため普段は吸わないし、吸っていることを公表もしていない。身長一八〇センチ近い弟にしか手の届かない場所にそれを配置する事で、自らへの戒めとしていた。

「一本でしょ」

「然り」

 無論、副流煙(ケムリ)を苦手とする弟からすれば、あまりいい話ではない。が、彼はこの事についてあまり口出ししないと決めていた。

「……今日は、何の話?」

 時海は煙草に火を点けて、くうっと吸い込み、そして煙を窓の外へと吐き出す。更に彼女は手を伸ばし、縁側に置かれた灰皿代わりの空き缶を手前へと引き寄せ、それに灰をたたき落とした。

「実大瀬南中の話、知ってる?」

「勿論。ウチの高校、そこ出身の奴が四割だって聞いたことある」

「今日いきなりなんだけど、それのカウンセリング出向を任されちまったのさ。出ずっぱりじゃあないんだけど」

「凄いじゃん。いっぱしの仕事出来るようになったんだね、姉さん」

「人を平生からのダメ人間みたいに言うな。それに無償だから仕事と言えるかどうか微妙だ」

「じゃあボランティアじゃん。人の心を気遣う前に労基署行きなよ」

「だったら私の事はどうでもいいから、労基署は他のもっとアカン人達の為に時間を割くべきだね」

 煙がテレビ画面を遮るように撒かれた。

「で、中学で何か見つけたの?」

 すかさず、弟はリモコンラックに差してあった団扇を抜き、それを煽いで吹き飛ばす。

「いや、何も。生徒達も大人しそうで特に何も無さそうで、それが返って怖かったな」

 時海が訪れた説明会の時、校長は明らかに浮き足だっていた。教師陣もまばらで、明らかに元気がない先生すら居た――というのが、返ってその印象を強める結果となった。

「今の子供ってそんなもんでしょ」

「そうか?」

「そう。テレビとゲームとインターネットで育って――現実と区別が付かないなんて程過剰じゃあないだろうけど――、どことなくフワッと現実から一センチ浮いてんだよ。だから、死体を見て、触って、もしくは殺してみないと、"現実の死"は本人のものにならない。本人のものにならないと分かれば、自分の事象からは切り離されちゃうから、真剣には受け止められない、って話」

「そこまで酷いか?」

「"野生"を知らない奴らは特にそうなんじゃねーの。親からアレはダメ、コレはダメ、って言われて選別されたモノだけ食べ続けてたら、要らないモノが本当に要らないのかって判断は曖昧になる気がする。時が経っても、ダメなモノはそいつにとってひとまずダメなモノであり続けるけど、実は本人にとって必要なモノだったりするって事、大人になってからは姉ちゃんも結構あったでしょ」

 時海は煙草が燃え尽きたのを残念そうに見つめると、吸い殻を缶の中に綺麗に仕舞い込み、外に戻して窓を閉めた。

「夜に爪を切ると、親に死に目に会えないって話?」

「半分ぐらい違うけど、まぁ。あんなのは、昔に電気とかじゃなくてローソクで過ごしてた世代の方々が、夜に爪を切ると深爪したり、切った爪があちこちに飛んで迷惑だったりするからやめろ、って話でしょ? 今で言うと、乳酸菌飲料を飲むと歯が溶けるとか、チョコを食べ過ぎると鼻血が出るって話」

「あぁ。ちょっと分かる。歯は溶けないし鼻血は出ないけど、釈然としない怖さは残るね」

 テレビはお笑い番組が終わり、県内の天気予報をやり始めていた。

「そうやって、地味に理論武装する子供は増えたと思うよ。そういう意味では、中学生や小学生は僕らより、姉ちゃんよりよっぽど賢いんじゃないかな。でも――」






『六月二日 担当:日野居、鎚葉』

 日誌にそう記してから、時海は頁を戻って過去の人達の相談記録を読む。

 中学校二階にある保健室の隣の小会議室を間借りして、カウンセリング専用スペースを作っていた。引き継ぎ事項が特にない事を確認すると、日野居も一緒に席に着いたが、流石に朝は誰も来なかった。やはり信用されていないとこの程度か、と時海が思った矢先、二限と三限の間にある少し長めの休憩時間にそれはやって来た。

 一人目は、白石亜衣(しらいしあい)と名乗った。見覚えがあると思って時海が名簿を確認したら、予想通り二年四組所属であった。

「気になったらどんな事でも話して。私達には守秘義務があるから、言われた事を他人に漏らすことはありません」

 日野居は女生徒相手はデリケートだから聞き役に徹すると言って、さっきから窓際を向いている。

「……じゃないんです」

「え?」

「私じゃないんです! 私、本当にヒナの事いじめてないし!」

 泣き腫らした跡のような赤い目が、時海にとって少し印象的だった。

「ま、ま、待って落ち着いて、冷静になろう?」

 そんな彼女から重要そうな言葉を引き出すのに、時海は少なくとも十分以上掛かった。

「誰も、誰も信じてくれなくて――なんでヒナがあんな言葉残したのかも全く分かんないし――前日もヒナとちゃんと話してから別れたのに――それなのにみんな私の事が犯人だ犯人だって――もう、学校来たくない――」

「でも、普段から仲良く出来てたなら、それすなわち犯人と疑われることもないわけよね? そこは胸を張るべきだと思うんだけど、それが――十全に――出来ないって事は何かやましいことでもあったの?」

「……裁ち布」

「裁ち、布?」

 ――裁縫用語だろうか?

 時海はチラリと日野居の方を見やるが、そこには窓の方を向いたままペン回しをしている脳天気な男の背中が見えるだけだった。彼女は心の中で三度舌打ちしながら、相談者の方へ向き直る。

「よく分からないけど、その"裁ち布"ってのが何か悪い意味合いで使われたのね」

「……そうじゃないんですけど、裁ち布っていうのはおまじないみたいなので――」

 とうとうオカルトチックな事情にぶつかってしまうのか、と時海は焦りと期待が入り交じったような気分になりながら、白石の話を聞いた。

 簡潔に述べれば、不幸の手紙のようなものだった。黄色い布を相手に送りつけると、その相手との関係が切れる――という、本当におまじないなのかどうかも分からない陳腐なモノだった。

「ヒナのこと、嫌いだった時期もあったし、その時にそれを信じて、裁ち布(コレ)を送りつけたこともありました。……でも、死んで欲しいなんて思った事は一度も無かったし、直接手を出したこともありませんでした」

 その後、結局日野居は一言も話すことなく、彼女をなだめながら他愛のない話に終始した後、チャイムが鳴ったので彼女は出て行った。

「――日野居さん。流石に場慣れしているとはいえ、いきなり私に任せきりってのはちょっと」

「うむ。黄色い布といえば幸せの象徴なのに、今は不幸の象徴なのかと考えながら、行雲流水という言葉の意味を噛み締めていた」

 普通の人なら出るとこが出てもおかしくない発言だったが、時海はまたか、と流した。

「すいません」

 その時、ドアの向こうに人影が現れた。授業は始まってるから、時海はひょっとして先生かな、と思って声の主を招き入れた。

「ちょっと、お話いいですか」

 が、それは先生でも何でもなく、男子生徒だった。髪の毛は整えられておらず、背は同年代と比べれば少しだけ高めだった。

「その前に。……いま授業中だって事、分かってる?」

「はい。のっけにお腹痛いって言って出てきたんで、問題ないっす」

 そういう事じゃないんだけど、と時海は窘めるように言うが、男子生徒はさっさと目の前の生徒用椅子に着席してしまった。

「二年二組一番、相葉一です。あだ名はハジメとかが多いです。よろしくお願いしまーす」

 乗せられてはイカン、と彼女は自身を戒める。

「私は鎚葉です。こっちは日野居さん。……で、そもそもここは悩みを相談する場所なのだけれど……相葉君は何かをお悩みで?」

 相葉一は、人差し指で右頬をつり上げて、最もらしい"考える仕草"をした。

「そうっすねぇ……強いて言えば、クラスの雰囲気が真っ暗で辛い、って事かなぁ。みんなテンション低いから、何やっても楽しくないし、先コ……先生は誰彼問わず話をするなって厳しいし、最近じゃ街に行くのも制限されてるって聞いて、そういうのどうなのかなって思うんですけど」

「つまり、それを私達から何とかしてくれ、って?」

 相葉は指をパチンと鳴らした。

「お、察しが良いですね! 昨日の先生にもお願いしたんですけどダメって言われたし、一昨日に至ってはそこを説明するのに相談時間一杯分要しちゃって」

「うーん……確かに私達、先生方の業務に口出しするのは無理かもだけど。ここって、先生も相談可能って事で触れ込んでるから、その時についでにお願い出来れば、ってぐらいかな」

 一応時海は教員免許を所持しているが、財布の中の自動車免許と同様に埃を被りつつある。

「ひょっとして鎚葉先生は、日野居先生に頭が上がらないタイプ?」

「へっ……?」

 時海は、先ほどまでずっと聞きに徹していたはずが、突然刃を差し向けられたような気分になる。

「いや、そうなのかなって。さっきから二人の間に会話がないけど、さっき日野居先生にはさん付けしてたし、仲が悪いわけじゃなさそうだなって」

 ピタ、と日野居のペン回しが止まった。

「いや、別にそういうワケでは」

「あ、じゃあ一定のラインで尊敬してるけど普段はそこまで興味が無い、みたいな感じ?」

 相葉は声を潜め気味にそう言ったが、この密室でそれは何の意味も成さない。

「じゃあもう、そういう事でいいよ」

 それにしても、と時海は考える。この生徒、先ほど二年二組所属と名乗った。ともすれば、先ほどの白石よろしく、何か事件に繋がる事項を抱えているのでは、というものだ。

「ふーん……それにしても先生、この部屋暑くない?」

 先ほどから背後の窓は十センチほど開いていたが、部屋の入り口部分が空いていないせいか風通しは良くない。時海も日野居もあまり汗を掻くタイプではなかったので、気がつかなかったといえる。

「そ、そう? それなら入り口開けるけど――」

 そう言って、時海が腰を上げたとき。相葉が、律儀に制服のポケットからハンドタオルを取り出して顔を拭き始めたのを見て、手を止めた。

「――黄色!」

 相葉が呆気にとられる。日野居も、チラリと背後に視線を向けた。

「黄色いハンカチ! それ、誰かに貰ったモノ?」

「まぁ……。サッカー部の監督から入部一年目の記念として全員にって贈られたヤツですけど」

「そ、そう。それじゃあ、関係無いわね」

「ひょっとして、"裁ち布"の話してます?」

「そう、それ! さっき――人が来て――、裁ち布の事を心配してたの」

 時海はうっかり白石の名前を出すところだったが、すんでの所でぐっと飲み込んだ。

 が、相葉少年はもっと凄いことを口にした。

「裁ち布なんて、みんなやってますよ?」

「そうなの?」

「ありふれたおまじないですから。ま、僕もあやかりたいと思った事が何度かあるけど」

 少年は、かなり軽い口調でそう言った。もっと何か聞きだそうと時海が身を乗り出した時、向こうのドアが開き、日野居より数倍厳つい見た目の教師が入ってきた。

「すいません、ここに生徒が――って、相葉! またお前はそうやって保健室に行くとウソついて!」

「だって、ここって通り道じゃないっすか! ついでに僕のメンタルケアもしてくれないかなーって――痛い痛い!」

 教師はちょっとこの時代にはナンセンスな感じで相葉少年の首根っこを引っ掴むと、時海達に一礼してから去っていった。

「……嵐のような生徒でしたね」

「そうかな。かなり頭の良い生徒に見えたが」

「えっ? おちゃらけた感じで、私にはとてもとても」

「彼、僕と君の関係性にいち早く気付いていたしな。それに、君がハンカチに気付く前、彼は君の仕草を観察していたのではないか? 君も君で、何か聞きたそうにしていたんじゃないかね」

「そ、それはまぁ。二年二組所属って言ってくれてましたし、何か無いかなとは――ぼんやりと、ですけど」

「そういう聡さは、怖いな。大人を手玉に取れる人間は、大成しやすい」





 帰り道、普段の道が道路工事で塞がっていたので、一本別の道を通らざるをえなかった。ツイてないと思いながら彼女がふと目をやった先の服屋に、時海に見覚えのある顔があった。

「ねえ、羽嶋君じゃない?」

「はい。……お、鎚葉じゃないか」

 日野居と同じぐらいの背丈だが、茶色がかった黒髪に細めの体型。日野居(あれ)を巨人とするなら、彼は塔だろうか、と時海は考える。塔はとにかく物事に無頓着で、かといって何かに食らいついたら決して放さないあくの強さを持ち合わせていた。鎚葉は、そんな羽嶋修史(はしましゅうじ)という男のことをよく覚えていた。

「何年ぶりだろうな」

「六、七年ぐらいじゃないかな。相変わらず大きいね」

「スポーツは不得手だがな」

 そこも変わっていなかった、と時海は安堵する。とにかく内向的且つ厭世的だが、それが物事をこの上なく考えるが故に陥るジレンマによるものなのだ――という事を唯一吐露してくれたのが、高校生活に於いてこの鎚葉時海だけであったのだ。

「ここで働いてるの?」

「共同経営だ。俺の方が立場が弱いから、店員やってる」

 副店長なのかと時海は聞いたが、それもまた違うと彼は首を横に振った。

 中は男性女性関係無く取り扱っているタイプの店で、客足は閉店間際だからか時海ひとりであった。

「ね、この後ヒマ?」

 すると、緩慢な動作で羽嶋は腕時計を見つつ応えた。

「閉店作業があるから、六時半以降でいいなら」

 ――指定時間まで三十分ほどあったが、時海は彼に久々に会えた事で気分が高揚していた為か、待ち時間はあっという間に過ぎ去ったと感じていた。話すついでにファミレスで夕食でもどうかと誘えば、この手のことに不得手な羽嶋が適当に頷くのは時海も既に分かっていた。

 お互いにこれまで何をしていたのかを話した後、話題は現在のことに移る。

「中学か。過去の事はあまり振り返りたくないが、一番楽しかった頃かもしれないな」

 羽嶋は腹が減ってないと言いつつ、注文したドリアに少しずつ手を付けていた。

「その頃はどうだったの? 今と同じ感じ?」

「……そうだな。バスケ部に入れと強要されて断り続けたが最終的に俺が折れて、その上クラスで知り合った奴が運動好きばかりだったせいもあって、そのせいで筋肉が付いたと思う」

 時海は、彼が凄く嫌そうな顔でそう述懐したのを見て、さっきの『楽しかった』とは何だったのか、とつっこむのも諦めた。

「最近の中学生って、何というか、ポーカーフェイスみたいな感じ。無闇矢鱈と感情を顕わにしないの。私達の頃もそうだったのかな」

「子供がさっさと大人になっただけだろう」

 羽嶋は仏頂面のまま、ぴしゃりと結論づけた。

「その(こころ)は」

「鎚葉の言ってるポーカーフェイスってのは要するに、社会に対する俺等の向き合い方みたいなものだ」

「……やっぱり、そう思う?」

 対面で男はコーヒーをすすりながら続ける。

「昔は、『外に行って情報を得る』為の手段が、文字通り『外に赴く』しか無かった。だから、外に赴くまでの準備が出来なかった奴は、社会の荒波を知らないんだ。ところがどうだ、この情報にありふれた社会は。外に赴かなくてもデータは流れてくるんだから、社会の荒波を知ったフリぐらいは出来るようになる。勿論、実際に体験した社会と見聞の中にしかない社会の中にはギャップがあるんだが――」

 いきなりそうまくし立てられ、時海は少し慌て気味に話を中断させる。

「よ、要するにそれが、今の中学生を必要以上に育ててしまった、と」

「必要以上ではない。そう思うのは大人の思い上がりでしかない」

 例えば、と羽嶋はテーブル端のペーパーナプキンを取る。

「これが何のためにあるか、とファミレスに行ったことのない――もとい、外食を経験したことのない人に問うたところで分からない。鼻紙にされるかもしれないし、最悪は尻拭きや台拭き、眼鏡拭きにするかもしれない」

 尻拭きのくだりで時海は周囲を見回した。視線は来ていない事に安堵し、彼に注目し直す。

「それがかつての中学生だとするなら、今の中学生は外食未経験ながらこれの使い方を知っている、という事になる」

 それではただ自身の論理補強でしかなっていないのだが、と時海が注釈を入れようとしたら、羽嶋はまだ続けた。

「しかし、だ。今の俺等のような社会人にこれを渡されて、完全な正解が出せる奴が居るか?」

「さぁ……食後のエチケットみたいなものという、漠然とした答えしかないけど」

 くしゃり、と羽嶋は紙を丸めた。

「そうだろう。ひょっとしたら先ほどの鼻紙は正解なのかもしれない。いやひょっとしたら、一部のファミレスでは、席に着いたら最初にこれで台拭きをするのが常識になっている事だってあり得る。しかし、これの正解を知っている人種は確実にこの世界に居る。今の中学生はそういう面で脇が甘い」

 中学生擁護かと思えば、批判に回っていた。何なんだこの男は、と時海はますます引き込まれる。

「脇が、甘い?」

「だから、中学生は所詮武器を持っても中学生なんだ。知識を付けて心が育っていても、武器の正しい使い方を知らない内は大人気取りでしかない。しかし、それが時に大人達に致命的なダメージを与える事だってありうる。だがそうだからといって、大人達にはそれを批判し、刀狩令を起こす資格なんて無い。何故ならそれは自分たちの通った足跡を辿る速度が速いか遅いかの違いでしかないからだ」

「……つまり、双方に良いところ悪いところがあるという事かしら」

「そんな感じだ。君が若干中学生に批判的だったから、そういう視点を崩壊させてみただけの話ではあるが」

 ドリアの皿は、水洗いしたかのように綺麗に食べ尽くされていた。

「――また、店に行けば会える?」

 お互いに会計を済ませると、羽嶋は外で棒立ちしていた。

「業務の邪魔だから、長話目的ならやめてくれ」

「昼間っから行くわけ無いじゃない、私だって仕事よ」

 まあしかし、と彼は袖に着いたクズを払う。

「その案件、興味がない事もないな」

 時海はその時ようやく、自分の周りが動きだしているのを感じていた。

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