第17話「夢に向かって進め(Ⅳ)」
♪♪♪
息せき切って転がるように病院から飛び出した俺は、駐車場に停めておいたワゴン車に乗り込み、エンジンをフル稼働させた。煮えくりかえった車内はサウナ状態。窓を全開にして、疾走する。まずは健一からだ。奴の実家を目指しながら、電話をかける。
「チッ、通話中か」
裏道に入り、ふと公園の横を通った際、サイドミラーにちらつく白い影が見えた。
「……ッ!」
慌ててブレーキを踏み込み、窓から身を乗り出して後方を振り返る。
「おーい、このゴリラ野郎―ッッ!!」
まひるだった。
公園の出入り口のところに立ち、こちらに合図を送っている。
ミラーにちらついた白い影の正体は、まひるが頭上まで掲げ、旗のように大きく振っている虫取り網だったのだ。
「やっほぅうーい!! こっちこっちー!」
まひるは眩しい夏の日差しの中、白いワンピースに大きな麦わら帽子を被って、虫かごを首から提げている。おおかた公園で蝉でも捕っていたんだろう。まったく、こいつはいつまで経ってもガキのまんまだな。
思わず口元に笑みが浮かぶ。バックで一気に車を寄せながら、俺は叫んだ。
「まひるぅうーっ!! 乗れぇええ!!」
「おおっしゃああーっ!!」
猛然と駆けて来たまひるは開けっ放しの窓から、昔の刑事ドラマさながらのアクションで後部座席へと転がり込んだ。衝撃でガタゴトと車体が縦横に揺れ、詰め込んでいた荷物が車内に散乱する。
「行くぞぉ!」
「おおっ!」
俺は思い切りハンドルを切って車を急発進させながら、再度、健一のケイタイへと電話をかけた。
♪♪♪
目的の駅に着き、改札口を抜けたところで、僕は今一度鮎川のケイタイに電話をかけた。
しかしやっぱり繋がらない。諦めて歩き出そうとしたところで、着信があった。
鮎川かと思ったら、相手は剛田だった。
『――おい、お前今どこにいるんだ?』
開口一番そんなことを尋ねられたので、これから鮎川の家に向かうところだと伝えたら、
『ちょうどいい。俺たちも今からそっちに向かうから、そこで合流しよう』
それだけて言って、性急に通話は途切れた。
鮎川の自宅は、今僕のいる駅から歩いて十分ちょっとのところにある。
人で溢れる雑踏から少し脇道に逸れ、しばらく行くと閑静な住宅街に入る。
そうして僕がちょうど彼女の家の前に差し掛かったとき、通りの向こうから騒々しいエンジン音とともに、あの派手なおんぼろワゴン車がやって来た。
いつになく荒々しい運転で急ブレーキと共に停車し、運転席から剛田が降りて来る。
「よう」
がらっと後部座席の扉が開いて、「待たせたな!」とまひるも出てきた。
「なんだ、お前ら一緒だったのか?」
「ああ、たまたま途中で居合わせてな? へへっ、おい、まひる。こいつは俺とお前の運命かもしれねぇぞ?」
「ばっきゃろー。腐れ縁だい」
適当なジョークを交わし、三人で軽く笑いあう。
「しかし、なんだかこうして揃うのも久しぶりな気がするな」
そう言って大きく伸びをする剛田の表情は、なんだかスッキリとしていて清々しかった。
長い付き合いだ。言葉に出さなくたって、顔を見れば一発でわかる。
「何があったのかは知らないけどさ、吹っ切れたみたいじゃん?」
僕の言葉に、剛田はなにやら含みを持たせた笑みを浮かべ、「まぁな」と答えた。
「さて、あとは――……」
僕たちは振り返り、三人揃って鮎川の家を見上げる。
「それじゃあ、お姫様をお迎えに上がりますか」
「そうしましょ」
率先して一歩前に出た僕はインターホンを鳴らして、家の人に告げた。
「――由姫乃さんをお願いします」
しばらくすると玄関の扉が開いて、鮎川のお母さんが現れた。
「あら、みんな久しぶりね。元気にしてた?」
門扉を開いて出てきたお母さんは、笑顔で僕たちのことを迎えてくれた。
上品な雰囲気と佇まいで、とてもじゃないが僕の母さんと同年代とは思えない。少し歳の離れたお姉さんだと紹介されても、何も知らない人はすんなりと信じてしまうだろう。
「どうもご無沙汰してます」
大学時代、今日のように彼女を自宅まで送り迎えする機会があったので、一応全員と面識があった。
「健一くんに、まひるちゃんに、剛田くん」
そうやって順繰りに僕たちを指差して穏やかに笑う姿は、やはり親子というだけあって鮎川によく似ている。
「いつもうちの由姫乃がお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそ」
僕たちは軽く挨拶をしたあと、早速本題に入った。
「それで、由姫乃さんはご在宅でしょうか?」
そこでふと、お母さんの表情が少し翳る。
「ええ、そのことなんだけど……」
何やら怪訝そうに首を傾げながら、鮎川のお母さんは言った。
「変ねぇ……。由姫乃ちゃんなら、東京に帰るって荷物をまとめて出て行ったのよ。私はてっきり、あなたたちと一緒なんだとばかり思っていたのだけれど……」
「え――」
途端、驚きと焦りが一緒くたになって喉下まで競りあがってくる。
僕は即座に訊き返した。
「それは、いつのことですか!?」
「ついさっきよ? 十分ほど前だったかしらね。確か三時の新幹線に乗るって言ってたから、たぶん駅の方に向かったと思うんだけど……入れ違いになっちゃったのかしらね。あの子、おっちょこちょいだから、この通りケイタイも忘れて行っちゃって」
そう言ったお母さんの手のひらには、鮎川の携帯電話が握られていた。チカチカと点滅しているのは、不在着信を知らせるランプだろう。僕のコールは、何一つ彼女のもとへ届いていなかったのだ。自分の甘さを思い知ると同時に、自らを突き動かす強烈な衝動に駆られた。
「――ッ!!」
僕は、考えるよりも早く走り出していた。
踵を返し、今来た道を全速力で引き返す。
「おい、ケン!」
一瞬遅れて、剛田の声が後ろから追って来る。だが、構っている余裕なんかない。
急がないと、今行かないと、間に合わなくなっちまうんだ――!
「あーあ、行っちまいやがった……」
脇目も降らずに駆け去ってゆく健一の背中を見送ったあと、俺はやれやれと嘆息した。
「ったく、なにやってんだあのバカ。車で行きゃあいいのに……」
俺の手の中には、健一に渡そうと思って渡せなかった車のキーがある。
「無様だなぁー、あいつは」
隣に立ったまひるは健一の去って行った方角を眺めながら、なんだか楽しげにそう言った。
俺はまひるとふいと顔を見合わせて、小さく笑みを交し合う。
「ほんじゃ、俺たちも行こうか?」
「おう」
二人で鮎川のおばさんの方を振り返り、「それじゃあ失礼します」と挨拶をする。
忘れ物の携帯電話を預かって、俺たちは車に乗り込んだ。
おばさんに見送られながら、俺とまひるも駅に向かう。
「どうかあの子のこと、よろしくお願いしますね」
「もちろんです。任せてください」
俺は健一の代わりにそう答えて、アクセルを踏み込んだ。
♪♪♪
住宅街の道を抜け、灼熱に焼け付いたアスファルトを蹴って雑踏へ。
ひしめく人の波を突き裂いて走りながら、僕は考えていた。
この数日間、本当に色んなことがあって、たくさんの思い出が僕の中を駆け巡った。
それらは本当に忘れることの出来ない大切な記憶だし、出来ればいつまでも浸っていたい心地良さがそこにはある。
だけど……。
懐かしいあの頃にはもう戻れない。どんなに心が揺れたって、決して時が立ち止まることはない。外の景色も、人の心も、どんどん変わってゆく……。
僕だって自分じゃ気づかないだけで、本当は色々と変わっているんだろう。
だけど、それでも変わらないモノもある。
この想いだけは、今も変わらない。この気持ちだけは、決して止められないから……。
まひるは言った。難しいことなんてない、思った通りにやればいいと。
剛田が言った。世界の中心は、いつだって自分自身なんだと。
――だったら僕は、僕にとっての一番星を獲りに行く。
誰にも文句は言わせない。絶対に諦めない。この第一志望だけは、死んでも譲れないんだ。
揺れる前髪を伝って汗が跳ね、昼下がりの陽光をきらきらと照り返した。
八月もいよいよ終盤に差し掛かり、夏も最後の力を振り絞ってぎらぎらに燃え盛っている。
道行く人々が、次々に僕の方を振り返っていた。
こんな人込みの中を、汗みどろになって必死に走る僕の姿は、さぞかし滑稽だろう。
普段の僕だったら、恥ずかしいって、思ったかもしれない。
けれど今は構わない。格好なんてどうだっていい。恥ずかしいことなんてあるものか。
好きなだけ笑ってもいいから、道を開けてくれ。
僕は先を急いでいた。
ただ、ただ、彼女に逢いたくて。――
♪♪♪
《十四時二十分発 博多駅方面行き 車両点検のため、五分遅延》
駅のホームで電車を待ちながら、私は電光掲示板の表示を気にしていた。
壁にかかった時計が示す現在時刻は十四時二十四分。
溜息が漏れる。
そしてふと思った。この溜息は果たして、遅れている電車に向けられたものだろうかと。
「……」
この期に及んで、私は何を期待しているのだろう。
今この場に彼が現れて、私を引き止めてくれるとでも思っているのだろうか。
そんなことはありえない。今私がここにいること自体、彼は知らないのだから。
自分の甘さと卑屈さに、嫌気が差す。
そのとき、ホームに備え付けられたスピーカーからアナウンスが響いた。
『――大変長らくお待たせしました。十四時二十分発・博多駅方面行き、まもなく到着します』
♪♪♪
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ!」
ふらふらになりながら駅まで辿り着き、改札口を抜けたところで時計を見た。
十四時二十五分。――間に合うだろうか。
乳酸菌が溜まって熱くなり、もう動きたくないと悲鳴を上げている足腰に鞭を打って、プラットホームへと続く長い階段を二段飛ばしで駆け上がる。
息切れと汗の量が尋常じゃない。お前、中高は陸上部だったんだろうと自らに戒する。
煙草はやめよう。そしてもう少し普段から体を鍛えようと僕は心に誓った。
「……っ!」
発車のベルが鳴り響く。
やばい。ちょっと待ってくれ。
途中よろけて落っこちそうになり、手すりを掴んで這い上がるようになんとか昇りきった。
しかし、タッチの差だった。
動き出した電車が、ゆっくりとホームから滑り出してゆく光景を、僕はもう為す術も無く見送るしかなかった。次第に速度を上げ、彼女を乗せた電車は線路の向こう側へと消えて行く。
――鮎川……。
がっくりと膝から力が抜け落ちて、僕はそのまま地面に両手を着いた。滝のように吹き出した汗が、顎や髪の毛の先を伝ってぽたぽたとコンクリートの地面に滴り落ちる。
「くそッ!!」
僕にもう少し体力があれば。あと数瞬、早く走り出していれば、こんなことにはならなかったのに。――
後悔ばかりが頭の中を埋め尽くしそうになる。
僕は唇を噛み締め、キッと眼を見開いた。
「いや、まだだ……」
諦めるのは早い。次の電車で追いかければ、まだ間に合うはずだ。
顔を上げて電光掲示板の表示を見る。次の博多駅方面行きは五分後。
切符を買うためすぐさま立ち上がり、改札口まで引き返そうと階段の方に向かう。
そのとき。
「ケン」
不意に背後から呼び止められて振り返ると、そこには剛田とまひるが立っていた。
鮎川を引き止めることが出来なかった僕は、二人に会わせる顔がなくて一瞬目を逸らす。
しかし、何故か二人はしたり顔でにやにやと笑っていた。そして。
「――あらっ??」
二人の背後、隠れるように立っている人物の存在に気づいた僕は、すっかり放心した。
「鮎川」
「…………」
所在なさげに肩を丸め、彼女はそこに立っていた。
俯きがちに目を泳がせ、ちらりちらりと僕の方を窺っている。
「えっへっへ、いい運動になっただろう?」
「ご苦労さん」
剛田とまひるがニターッと白い歯を見せてふてぶてしく笑う様を眺めながら、僕は深い安堵とともに、へなへなとその場に座り込んだ。かっこわりぃ……。
♪♪♪
久しぶりに勢ぞろいした僕たち四人は、駅を出たあと、剛田の運転する車に乗ってドライブに出掛けた。そういえば大阪ライブで惨敗したあとも、ちょうどこんな感じだったなと思い出す。車内にはあのときと同じように重たい沈黙が渦巻いていた。
「…………」
「…………」
まひるが助手席を先取したため、僕は鮎川と並んで後部座席に座っていた。
険悪なムードというわけではないのだが、なんだか気まずくて、お互いに目線を逸らしてしまう。あれほど鮎川に会ったら気持ちをぶつけようと息巻いていた僕だったが、駅で食らった肩透かしのせいで、若干その気が引っ込んでしまったきらいがある。鮎川がいなくなるという不安と焦りから開放されて、それまでの覚悟が弛んでしまったのだ。
閉塞的な心境で、やり場の無い目線を狭い車内から窓の外へと逃がす。
沿道に立ち並んでいた松の木々が途切れて、視界が開けたかと思うと、そこは海だった。
一瞬目の前を横切った道路標識に『志賀島海水浴場』の文字を見て、僕は剛田のハンドルに委ねられていた行き先を察した。……――
「着いたぞ」
剛田の一声で、僕たちはそぞろ車を降りた。
眩しい日差しがかあっと目に入り、反射的に目蓋を閉ざす。
手で庇を作りながら、ゆっくりと目を開け見渡すと、そこには白い砂浜と青い海、突き抜けた空が一面に広がっていた。
近くに海の家がないことから、恐らくは剛田がなるべく人のいないところを選んで車を停めたのだろう。人気のない夏の浜辺は、思う存分に恵みの陽光を浴びてきらきらと輝いていた。
ここに来るのも久しぶりだな。大学生の頃は、毎年夏になると四人でよく遊びに来ていた。バーベキューしたり、スイカ割りしたり、ビーチバレーしたり、貝殻拾ったり。遠くの方をスイコロスイコロ泳ぐ剛田とまひるから馬鹿にされ、かなづちの僕は浅瀬の方で鮎川に手を引いてもらいながら泳ぎを教わっていた。結局、僕は今でも泳げないままだけど。
「……」
潮風と波の音に誘われて、僕は焼け付いた砂浜の上を歩き出す。
少し距離を取って後ろをついてくる足音を聞きながら、僕は波打ち際を目指した。
♪♪♪
私は彼のあとを追って、さらさらと音を立てる砂浜を歩いていた。
波打ち際まで歩いた彼は、靴と靴下を脱ぎ捨てて、素足を海水に浸している。
「……」
私はもうずっと前から彼の姿だけを見つめていた。しかし彼は今も私に背中を向けたまま、どこかずっと遠くを見つめている様で、その表情は窺えない。
駅のホームに剛田くんとまひるちゃんが現れたとき、私はすごくホッとした反面、酷くがっかりした。だけど、これから面白い物が見られるから少し隠れていようと言われ、それからまもなくしてケンちゃんが現れた。――
髪の毛はぐしゃぐしゃで、全身汗だくで、激しく息を切らせながら走って来た彼の姿を見て私は驚いた。彼のあんなにも必死な姿を見たのは初めてだった。
私は嬉しかった。そして彼のことを少しでも疑っていた自分自身を深く恥じた。
電車が行ってしまった事を知り、あられもなく涙ぐんで悔しがる彼の姿を見て、彼がどんなに私のことを想ってくれているのか、わかったから……。
だけど私は、どうしようもなく欲張りな女だった。
彼の口から、言葉を聞きたい。
証明して欲しい。疑う余地もないくらい、はっきりと。
「ケンちゃん……」
♪♪♪
消え入るような細い声で呼ばれ、ぼんやりと水平線を眺めていた僕は振り返った。
「……」
そこには鮎川が立っている。わななく薄い唇が不意に小さく開かれた。
「どうして……。どうして、私を迎えに来てくれたの……?」
言いながら彼女は少し怯えたように、自らの指をきゅっと握り締める。
「ねぇ、どうして? お願い……教えて……――」
不安げに揺れるその瞳が渇望する先には、僕がいた。
顔を上げて、胸いっぱいに息を吸い込む。
唇に浮かんだその言葉は、ちょっぴりしょっぱい、潮の味がした。
目を開いて、彼女を見つめる。
そして、僕は言った。
「好きだからだよ」
「――」
瞬間、大きく膨らんだシャボン玉が目の前でぱっと弾けたように、驚いた顔をする彼女。
「愛してるんだ」
鮎川の瞳から、不意に涙がこぼれ出す。
「ケンちゃん……っ」
彼女の頬を濡らしている感情が、悲しみじゃないことを僕は知っていた。だから。
「鮎川も、――まひるも、剛田も!」
「……えっ」
だから僕は、最大級の愛しみを込めて心の底から言った。
「僕はみんな大好きなんだ!」
♪♪♪
車を降りてすぐのところにある大きな松の木陰から、俺はまひると二人で、健一の告白を見守っていた。
「あーあー、何やってんだあのバカ」
思わず苦笑する。
みんなって……。そりゃあ、ねーだろ。
隣に立ったまひるが、けらけらと笑いながら大声で野次を飛ばした。
「きょしょいぞー! おまえー!」
すぐさま波打ち際の方から健一の怒鳴り声が返って来た。
「うっせーばぁあーか!! ホントに好きなんだからしょうがねぇだろ!!」
♪♪♪
ったく、こっちだって恥ずかしいんだぞ……。
顔から火が出るような思いでまひるを野次り返したあと、僕は気を取り直して鮎川と向かいあった。
「四人で一緒にプロの舞台に立つこと――それが僕にとっての一番なんだ。この四人でないと駄目なんだよ。一人も欠けてはいかんのだ。たとえもし一人でも欠けたら、それはもう、僕の求めるではなくなってしまうから」
勇気を出して、一歩、また一歩と。僕は彼女の許へ、足を踏み出す。
「だから……行くなよ、鮎川」
鮎川の濡れた瞳に僕が映っている。はっきりとそれがわかるくらい、僕と彼女との距離は、もうすぐそばまで近づいていた。
「――心からキミが欲しい。キミがいないと駄目なんだ。もっと高みへ、もっと光差す場所へ、一緒に行こう……? 何も心配はいらないよ」
そして、僕は彼女に。
「キミが失くしたものや、キミに足りないものは全部、僕がわけてあげるから――」
そっと、手のひらを差し出した。
はじまりのあの日、あのときと、同じように。
力強く降り注ぐ八月の光を浴び、寄せては返す波の音を聞きながら、僕はただ彼女の答えを待った。静けさのあと、俯く鮎川の口から、囁き混じりに言葉が漏れる。
「ばか」
「――!!」
次の瞬間。――どんっ、と軽い衝撃が僕の体を小さく前後に揺り動かし、気づくと文字通り彼女の顔が僕の胸の中にあった。
「あ、鮎川……?」
今度は、僕が驚く番だった。
ぎゅうっと密着した体から、薄い衣越しに鮎川の温もりを感じる。女の子の柔らかい感触と甘い匂いにドギマギしているうち、彼女の腕はすっかり僕の背中の方へとまわされていた。
♪♪♪
「はぁ~あ。無様だなぁ、あいつは」
鮎川に抱きつかれ、おろおろしている健一の姿を遠く眺めながら、まひるはそう言って笑った。確かに、あいつは男として格好が良いとはお世辞にも言い難い。実際、肝心なところで外しまくっているし、情けなくて、みっともないグズグズの告白だったと思う。……だけど。
「いいじゃねぇか、無様だって……」
情けなかろうが、みっともなかろうが、あいつはちゃんと自分自身の言葉で、はっきりと自分の気持ちを鮎川に伝えたんだ。俺はそんな健一を立派だと思う。よくやったなと、褒めてやりたかった。俺は親父に、結局、何も伝えられなかったから……。
鼻腔の粘膜がつーんとして、視界がグラスに注がれた透明な水のように、ゆらゆら滲んで揺れていた。やっぱり今日はダメだな。やけに涙腺が弛みやがる。情けねぇのは俺の方だ。
こりゃあ茶化されるかなと思ったが、まひるは風で飛ばされないよう麦わら帽子を手で押さえたまま、海の方を眺めて気づかない振りをしていた。
けっ、味な真似しやがって……。
♪♪♪
そろそろと私の背中に手をまわし、ちょこんと少しだけ肩に触れてくる彼の指が可愛くて、思わず笑みがこぼれてしまう。どうせだったらもっとしっかり抱き返してくれればいいのにと思う。先に抱きついたのは私の方なんだから、ここで遠慮はいらないのになぁ。
「……なに笑ってるんだよ?」
そう尋ねられて、私は尚もくすくすと笑いながら首を横に振った。
どこまでいっても格好良くなれない彼のことが、私は愛しくて堪らなかった。
やっぱり私は、ケンちゃんが好きだ。
ライブでギターを弾いているときすごく素敵なのに、それ以外のところではてんで間抜けなケンちゃんがいい。ケンちゃんでなくっちゃ、だめなんだ。
けれど彼と二人になるのは、まだ先でいい。
四人でプロの舞台に立つこと。――それは私にとっても、叶えたい夢だから。
「ねぇ、ケンちゃん」
「……ん?」
「私も好きだよ、ケンちゃんのこと……。愛してる……」
「あ、あぁ……」
「――もちろん、まひるちゃんと剛田君もね?」
「……あっ、はは、そっかぁ」
私たちの夢が叶って、いつの日か落ち着けるときが来たら、そのときは今度こそ本当の気持ちを彼に伝えようと思う。それまではもう迷わないと、私は心に決めた。
ただ、それでも今だけ。
もうしばらくは、このままで居させて欲しいと密かに願う。
一生懸命頑張るから、それくらいはいいでしょう? ね、ケンちゃん?
♪♪♪
「……」
僕は鮎川から抱きつかれたまま、しばし時間を持て余していた。
それにしても今の僕は相当汗臭いだろうな。こんなにぴったりと身を寄せいるんだ、気持ち悪いと思われないだろうか。そんなことばかり気になってしまい、余計体が熱くなる。変な汗が出て来そうだ。あのぅ、言いにくいんですけど鮎川さん。そろそろ離していただけないでしょうか? 僕が密かにそんなこと思っていたとき。
「こらぁあー!!」
突然、背後から怒鳴りつけられ、僕と鮎川は振り返った。
乾いた砂を思いっきり蹴り上げて、まひると剛田が子供みたいな笑顔でこっちに駆けてくる。
「いつまでやってんだお前らぁあーっ!!」
「え……なっ!?」
剛田は物凄い力で僕を頭の上まで担ぎ上げ、ざぶざぶと足首が浸かるまで海に入って行く。
「やれやれぇーい!」と小躍りしながら囃し立てるまひる。――って、お前まさか!
「いや、ちょ、待っ……!」
「母なる海へ帰れ、このバカヤローッ!!」
剛田から投げ飛ばされ、勢い良く風を切りながら僕は空中で一回転した。
「――うおおおおおっ!?」
天と地がひっくり返り、視界のすべてに輝かしい青空が広がったかと思った瞬間、どばぁーっと飛沫を上げて僕は背中から海に突っ込んだ。
「げほっ、がはっ、おえぇえっ!」
慌てて起き上がり、激しく咳き込む。鼻から口から、思い切り海水を飲んでしまった。
この野郎、なにしやがる、そう言おうと思ったのだが。
「お前らもじゃあー!!」
と、剛田は鮎川とまひるを捕まえて両脇に抱え上げ、僕と同様に海へとぶん投げた。
「きゃっ!」「ひゃっほーい」
小ぶりな水飛沫を上げて、鮎川とまひるが僕の上に落ちてくる。
「うわっ、うわっ、ぐえっ!」
ずぶ濡れになった僕たちは海の中に座り込んだまま、目の前に立った剛田を見上げた。
「ガッハッハッハッ!!」
突き抜ける眩しい夏空の下、逆光で大きな影となった剛田の哄笑が、高らかに響き渡る。
「『HAPPY★RUNNERS』は不滅だッ!!」
――この野郎……。そんなこと言われちまったんじゃあ、もうこれ以上、何も言うことなんかなくなっちまうじゃねーかよ……。
なんとなく癪に障った僕は、鮎川とまひるに横目で視線を送った。二人は即座に僕の考えを読み取ったらしく、にやりと笑みを見せる。僕らはせーので息を合わせ、
「「「うりゃあああー!!!」」」
「ぐおおぉーっ!?」
三人で一斉に飛び掛り、剛田を海の中に引きずり込む。
「うっひょーっ! やりやがったなお前らぁー!」
「最初にやったのはオメーだろ!」
「喧嘩だ喧嘩だぁー!」
「フフ、それじゃあ水泳で決着つけよっか?」
「鮎川さん、そりゃあ殺生ですわー」
光を透かして宙を舞い踊る飛沫とともに、弾ける笑い声。
四人で服を着たままジャバジャバと水を掛け合い、頭の先から足の先まで、全身びしょ濡れになって戯れたあと、僕らは浜辺に上がって服を乾かした。
あぁ、夏の匂いがする。何度も何度も繰り返し嗅いだ、懐かしいあの匂いだ。
ゆるやかな潮風に吹かれながら、水平線に浮かぶ船と沈み行く夕陽を、僕らは遠く見送った。
…………。
♪♪♪
それから僕たちが車に乗って向かった先は、母校の大学だった。
辺りにはすっかり夜の帳が落ちていて、煌々とした外灯の光が、暗闇のあちらこちらをスポットライトみたく点々と照らしている。
「勝手に入って怒られないかな」
「見つかったらな?」
そんな言葉を交わしつつ、僕らは柵を乗り越え、広いキャンパスに忍び込む。
四人で芝生の上に寝転び、夜空を見上げた。涼やかな虫の声がどこからともなく耳に届き、夏の夜の生暖かい風が、悪戯をする手つきで鼻っ面を撫でて行く。
「はぁー……。こうしてるとなんだか、東京を発ったのが随分と昔のことのように思えるなぁ」
頭の後ろで手を組んで、剛田が気だるげにそんなことを言った。
「まぁ、あれから色々あったしな」
僕もこれまでのことを順繰りに思い返し、少し感慨に浸ってみる。
「本当にね」
と、鮎川が囁くように相槌を打った。
それから再び、剛田が口を開いて、
「でも、そろそろ旅も終わりか……。そう考えると、やっぱり短かったかな」
「フフ、そうだな……」
「ええ……」
視界には真っ暗な夜空と、ちかちか瞬く星屑だけが一面に広がっていて、それらをぼんやり眺めているうち、なんだか果ての無い宇宙をぷかぷか漂っているような心地になった。
「ウチら、プロになれるかなぁ」
深い静けさの中、まひるが一言、闇に浮かべた。
「……なれるさ」
溜息まじりの掠れた声で、噛みしめるように剛田は答えた。
「だって俺たちは……自分たちの力でここまでやって来れたじゃねーか」
「――あぁ……」
四人並んで芝生の上に寝そべったまま、僕たちは手と手を握りあった。
お互いの心と温もりを密かに確かめ合い、それぞれに足りない物を、それぞれが少しずつ分け与えて補い合うかのように。