第16話「夢に向かって進め(Ⅲ)」
♪♪♪
翌日。昼過ぎになってようやく目を覚ました僕は、二日酔いで重たい体を柔らかいベッドの上に横たえたまま、だらだらと無為に時間を過ごしていた。エアコンのよく利いた室内は、さらっと乾いていて、ひんやりと涼しい。
「……」
ふと枕元に置いていた携帯電話を手に取り、僕はアドレス帳を開いて鮎川の番号を表示した。ひとたび『発信』と書かれたボタンを押せば、あとは数秒で彼女の声が聞けるだろう。だけど僕はたったそれだけのことが出来ずに画面を閉じる。開いては閉じ、開いては閉じ……さっきからそんなことばかりを繰り返していた。実質、僕はただ寝転んでいるだけなので体の方は楽だったけど、心の中は疼くような焦燥の念で一杯に満たされていた。いくら寝返りを繰り返したところで、この息苦しさは消えっこない。
仕方なく体を起こし、閉じ切っていたカーテンを開くと、窓の外には雨が降っていた。分厚く黒ずんだ雲が真夏の空を覆い隠し、時間的には一日のうちでもっとも日差しの強くなる頃合だというのに、外はどんよりと日没直後のように薄暗い。
僕はなんとなく一人で出掛けることにした。ベッドの脇に脱ぎ捨ててあったTシャツとジーンズを適当に身につけ、寝癖を直すことも面倒でキャップを目深に被る。別に誰と会うわけでもないのだから、少々汚くたって構わないだろう。
玄関に下りてサンダルを履いた後、姉ちゃんの赤いビニール傘を借りて外に出た。
そういえば今日は平日なのに、姉ちゃんは昼間っから家に居るみたいだった。玄関には靴があるし、さっき隣の部屋からごそごそと物音が聞こえていたから。仕事は休みなのかな?
――僕は雨の降り頻る中をぶらぶらと散歩に出る。人気のいない公園で草花が艶やかに濡れている様子や、橋の上から濁流となって激しく波打つ川面を見てまわったあと、途中見つけた小さな喫茶店にそのままふらっと立ち寄った。窓際の席を取ってコーヒーを飲みながら、時折煙草を吹かし、ぼんやりと外の雨を眺める。
「よく降りますねぇ」
「……ええ」
若いウエイトレスが胸の前にお盆を抱えたまま、不意に話しかけてきた。平日の中途半端な時間帯ということもあってか、今店内にいる客は僕一人だった。彼女も些か手持ち無沙汰なのだろう。ウエイトレスの視線が、窓の外から僕の前にある空いたコーヒーカップへと移った。
「おかわりは?」
「あぁ、それじゃあ、貰おうかな」
僕が答えると、彼女は笑顔で空いたカップを下げ、カウンターの方に戻って行く。そうして奥の方で豆を挽いている優しそうなマスターと何やら楽しげに話し始めた。親子かな。女の子の方は見た感じ大学生くらいだから、夏休み期間中はお父さんを手伝って店に出ているといったところだろう。
店内には恐らくマスターの趣味であろう、昔のフォークソングが控えめな音量で緩やかに流れていた。知らない曲が多い。それでも、鮎川だったら全部わかったかもしれないな。
――鮎川……。
僕はきゅうっと胸を締め付けられるような思いがした。
目を閉じると、深い闇の中に彼女の顔が浮かんでくる。
もしここに彼女がいたら、きっと僕は雨を見つめていることなんてなかっただろう。
もしここに彼女がいたら、きっと僕はこんな気持ちになることもなかっただろう。
もしこのまま彼女がいなくなったら、僕は――。
「……」
ふと琴線に触れるメロディーがあって耳を傾けると、歌っていたのはあの吉田拓郎だった。
確かこれは大学生の頃、鮎川から借りたアルバムに入っていた一曲だ。
彼女が特に好きな曲だと言っていた記憶がある。
〝これが自由というものかしら? 自由になると淋しいのかい?〟
歌の中に出て来るそんなフレーズが、僕の心に甚く突き刺さった。
♪♪♪
夕食のあと、姉ちゃんが僕の部屋にやって来た。
「ケン、ちょっと来て?」
ドアのところに立って、にこやかに手招きをする姉ちゃん。今日は一日中胸の中がモヤモヤとしっぱなしで、僕は機嫌が悪かった。
「……何?」
ベッドに寝そべったままむすっとして用件を尋ねると、たまには二人でお酒でも飲もうよと誘われた。悪いけど、今日はそんな気分じゃないからまた今度にしてくれと僕は言ったのだけれど、姉ちゃんは構わず僕の部屋へと上がり込み、僕の隣にひっついて寝転んだり、脇をくすぐったり、からかうように頬を突いてきたりと、なんだか今日に限ってやたらと絡んでくる。僕はそれが鬱陶しくて、なんだか無性に苛立った。そんな気分じゃないと言ったのに、どうして僕の気持ちを察してくれないんだ。一人にして欲しかった。
べたべたと触れてくる姉ちゃんの手を乱暴に払い除け、キッと凄味を利かせて睨みつける。
「もう何なんだよッ!?」
もちろん僕の心に余裕がないことは確かだが、姉ちゃんの様子も今日はなんだかおかしい気がする。現に僕がこうして怒鳴っても、姉ちゃんは何故かただ静かに笑っているだけだった。
どうしたんだろう? いつもだったら、もうとっくに逆上して僕を叩いているはずなのに。
「――少し話したいことがあるの。ねぇ、付き合ってよ?」
優しく手を引かれ、僕はしぶしぶ姉ちゃんの部屋まで連れて行かれる。ふとそこで、姉ちゃんの部屋が、なんだかひどく殺風景であることに気がついた。
あるものといえば、部屋の角っこにベッドが一つ置かれているだけ。棚の中身は綺麗に空っぽだし、壁に貼り付けられていたポスターや、女の子らしい飾りやなんかも、今ではすっかり取り払われている。恐らくはそれらがみんな収められていると思わしきダンボール箱が、部屋の隅に固めて積んであった。その光景を見た僕は急に心細くなって姉ちゃんの方を振り返る。縋るような心地で、おずおずと尋ねた。
「家を、出るの……?」
「うん」
少しの沈黙のあと、お姉ちゃんは小さく頷いて、どこか遠慮がちに言った。
「ケン、お姉ちゃんね? 結婚することになったから」
「え……」
唐突なその宣言に、僕は驚きを通り越してしばし茫然としてしまう。
そんな僕の反応を見たお姉ちゃんは、少し困ったような顔をして笑いながら説明する。
姉ちゃんが結婚をするということ自体は、実のところもう何ヶ月も前から決まっていたことらしい。相手の男の人も先月ウチに来て、両親に挨拶を済ませたあとだという。僕がその事実を知らなかったのは、単に僕がこの一年間、実家との連絡を一切絶っていたからだ。電話は繋がらないし、向こうの住所も教えていなかったので、報告をする術がなかったのだという。
「お父さんとお母さんには、私からお願いして黙っていて貰ったの。ケンイチには、ちゃんと私の口から伝えたかったから……」
「そんな……。そんなことって……!」
「……ごめん」
正直、ショックだった。生まれてからずっと一緒に暮らしてきたお姉ちゃんが、この家を出て、知らない男の人のところへお嫁に行ってしまうなんて……。そりゃあ、いつかはそんな日が来るだろうと思っていたけど、まだ当分は先の話だろうなと思っていた。それがまさか、こんなに早く……。
僕は戸惑いを隠しきれない。
お姉ちゃんはそんな僕を見て、殊更明るく振舞いだした。僕を傷つけまいとする優しさが分かりすぎて、笑顔が哀しかった。
相手の男の人は、今勤めている会社の同僚らしい。
「すっごく真面目な人でね。雰囲気はちょっとお父さんに似てるかも」
だけど優しくてカッコイイんだよーと、ちょっぴり頬を赤らめながら自慢げに話すお姉ちゃんを見て、あぁ、お姉ちゃんは本当にその人のことが好きなんだなぁと感じた。それから僕は自分自身を改めることにした。暗い顔なんかしてちゃ駄目なんだ。おめでたいことなんだから僕もちゃんと笑顔で祝福してあげたい。
「ケンにも今度、会わせてあげるね? 惚れちゃわないように注意してよ~?」
「そんなに、イイ男なの……?」
「う~ん、そうだねぇ。まぁ、ケンには負けるかな?」
「ふふ、当然だよ」
冗談交じりに軽く笑い合ったあと、会話が途切れて息を継ぐような間が訪れる。
僕はそこで膝を正し、精一杯の微笑みを、これまでの感謝と共にお姉ちゃんへと捧げた。
「――おめでとう、お姉ちゃん。きっと幸せになってくれよ? もし姉ちゃんが泣かされるようなことがあったら、僕がぶっ飛ばしてあげる。約束するよ」
しっかりと腹に力を入れておいたから、震えることなく、ちゃんと言うことが出来た。
「うん……。ありがと……」
一瞬儚げな表情を見せたお姉ちゃんだったが、すぐにまた明るい笑顔を取り戻す。僕の肩に手を伸ばして、そのままぎゅっと抱きついてきた。
「あ、はは……。ちょっと、恥ずかしいな……」
きつく抱擁され、僕はなんとかその場の雰囲気を誤魔化そうと苦笑したが、姉ちゃんの体が小さく震えていることに気づいて、やっぱり少し泣きそうになった。
それから僕たちは、広々とした姉ちゃんの部屋で酒を飲みつつ、姉弟で思い出話に華を咲かせた。押入れの奥から昔のアルバムを引っ張り出して来て床に広げ、二人で眺める。写真の中のお姉ちゃんはまだほんの子供で、四歳年下の僕はもっと幼かった。
たくさんの思い出に囲まれて、それらを眺めていくうちに子供だった僕たちも、今ではすっかり大人になってしまったんだなと深い感慨が胸に去来する。早いようで、長かったな。
たくさん笑って、たくさん話して、夜が更けて行く。
先に酔い潰れてしまったお姉ちゃんをベッドまで運んだあと、床にいくつも転がったビールやチューハイの空き缶を片付け、僕は最後にもう一度だけ、姉ちゃんの寝顔を振り返った。
閉ざされた瞳からこぼれ出た涙が、姉ちゃん頬を伝い、しっとりと枕を濡らしている。
マリッジブルーというやつだろうか。姉ちゃんも本当は寂しかったんだな。
そうとも知らずに、きつくあたってしまったことを僕はひどく後悔した。
「ごめんね……。こんなことなら、もっと優しくしてあげればよかったよ……。ごめん……」
乱れたタオルケットをそっと掛け直し、部屋の明かりを落とす。
深い暗闇と静謐が辺りを呑み込んで、僕は目蓋を下ろした。
「……」
それから自分の部屋へと帰った僕は、窓を開けてベランダに出てみた。
雨はすっかり止んでおり、分厚い雲が風に流されて、空には星が見えている。
夜空を彩る無数の輝き。小さく揺れては時折瞬く、今にもこぼれ落ちて来そうな星の海を眺めるうち、いつしか僕の心は穏やかに凪いでいた。
あれほど混乱していた頭の中が、すうっと一気に収束してゆく充実感。
なんだかとてもすっきりとした気分になって、思わず微笑がこぼれた。
〝――明日、鮎川に会いに行こう〟
少し酔っ払ってしまったかな……? 月明かりがふんわりと滲んで見える。最近色々あった所為でなかなか眠れない夜が続いていたけど、どうやら今夜は、ぐっすりと眠れそうだ……。
♪♪♪
水の滴るテラスに椅子を置き、古いギターを抱えた私は、雨上がりの夜空をぼんやりと眺めていた。半日降り続いていた雨音が途絶え、辺りにはひっそりとした夜の静寂が訪れている。
――ケンちゃんと喧嘩をしたあの日から、私はもうずっと彼のことばかり考えていた。
携帯電話を開いて履歴を確認する。何度見ても、やっぱり着信は来ていない。私はいつ彼から連絡が来てもいいようにと、この二日間、常に携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた。しかしあれからもう二日が経つというのに、彼からの着信は今のところ一度もない……。
ソロデビューの話は、少し考えさせてくださいと伝え、今のところ保留にしてある。だけど私は最初から断るつもりでいた。ただその前に、私は彼の口から「行かないで欲しい」と、その言葉が聞きたかったのだ。
私はケンちゃんのことが、もうずっと以前から好きだった。
優しいところが好きだった。中性的で甘いルックスが好きだった。少年みたいにきらきらとした瞳が綺麗だと思っていた。歌うときのぶっきらぼうで尖った声が素敵だと思っていた。普段は柔らかくて丁寧な喋り方なのに、ときどきぽろっと出て来る男っぽい口調にいつもドキドキしていた。
私はケンちゃんのことが好きだった。そして今まで、お互い口には出さなかったけど心は通じているものと思っていた。だけど私にはわからなくなってしまった。どうしてあのとき、私を引きとめようとしてくれなかったのか。彼の気持ちがわからない。
私のことを好きだとか、愛しているとか、そんな贅沢は求めない。ただ、たった一言「行くな」とそう言ってくれればよかったのに……。
空虚な溜息が、心にぽっかりと開いた大穴の底からどうしようもなく込み上げて来る。
そうして溜息を吐く度、私は体の中から生気が抜け落ちていくような感覚に陥っていた。
もういっそのこと、私の方から掛けてみようかと何度も思った。だけど、何を話したらいいのかわからない。伝えたいことがないわけじゃない。むしろ、伝えたいことがありすぎて、何から話していいのかわからないんだ。
私は昔から、自分の気持ちを言葉にして伝えることが苦手だった。その点、剛田くんやまひるちゃんなんかは凄いと思う。自分の思ったことを、あんなふうに何でも堂々と言えるのがとってもかっこよくて、私はずっと羨ましかった。
私の場合、たとえ何か思うところがあったとしても、それを言ったら相手の人を嫌な気持ちにさせてしまうんじゃないか、困らせてしまうんじゃないかと、考えすぎてしまって結局は何も言えない。何も言わないでいるのが一番気楽だと、そんな結論に行き着いてしまう。つまり、どうしようもなく臆病なんだ。私は頼まれると断れない性格だった。そして、そんな自分が私は嫌いだ。
だけど、そんな性格でもよかったかなと思えたことが一度だけある。それは、ケンちゃんや、剛田くんや、まひるちゃんのいる、あの『HAPPY★RUNNERS』に入れたということ……。
――小さい頃から体が弱く、学校を休みがちだった私は上手く友達を作るということが出来なかった。小学校・中学校時代は、実質他の生徒の半分くらいの日数しか出席していなかったと思う。出席は出来ても、すぐに貧血を起こして保健室に運ばれたり、酷い時になるとそのまま早退したり、もちろん運動会や修学旅行などの学校行事にも、ほとんど参加できなかった。
だからその頃の思い出といえば、もっぱら家のベッドで横になったまま一日を過ごし、暇なときは、お父さんから貰ったギターをオモチャ代わりに弾いていたということぐらいしかない。
中学を出る頃には私の虚弱体質も改善されて、高校はほとんど休みなく通うことが出来た。
しかし私は、そこでも上手く友達を作ることが出来なかった……。
別に悪意によって孤立させられていたというわけではない。実際、声をかけてくれる子は結構いたし、向こうから話しかけてくれれば、なんだかんだで結構喋れたものである。
ただ、私は自分から声をかけるということが出来なかったのだ。ある意味それは、幼い頃から同年代の友人と親しく接する機会に恵まれてこなかった私の弱みであるのかもしれない。
相手のテリトリーにどこまで踏み込んでいいのか、その塩梅が経験値のない私にはわからないのだ。今は話かけてもいいタイミングなのだろうか、私が話しかけることで迷惑だとは思われないだろうかと、そんなことばかり気にして尻込みしてしまう。分からないなら分からないなりに、私に勇気があれば実践から学ぶことだって出来たはずだ。だけど私は失敗して嫌われることが怖くて、自分の中で勝手にラインを決めてはいつもすんなり身を引いていた。
そうして一歩が踏み込めない私は、具体的に言えば学校で喋ることはあっても、放課後や休日に約束を取り付けてまで一緒に遊ぶことのない関係……。いつだって顔見知りか知り合い止まりで、真に友達と呼べる間柄には至れなかったのだ。
私は両親以外との交流がひどく希薄だった。
そして一番の問題点は、そんな私自身、特にそのことを寂しいとは思わなかったことだろう。幼い頃から体が弱く、家に一人でいることがほとんどだった私は、誰とも会わず、誰とも話さず、一人の時間を過ごすということにもう慣れっこだったのだ。私は結局、放課後も休日も一人、家に篭もってずっとギターを弾いていた。
高校を卒業して大学に入っても、それは変わらなかった。むしろ高校生のときのように、たまに顔を会わせて声をかけてもらうことすらほとんどなくなった。
これは以前ケンちゃんが言っていたことだけど、人間同士が交流を図るためには精神的・状況的拘束の下、ある程度の共通認識が必要らしい。
実際、高校生の頃は同じクラスのよしみ、同じ班のよしみで少なからず声をかけてもらっていたように思う。高校生の頃は一日をほとんど同じ教室の中で同じメンバーと過ごし、一年ごとにクラス替えがあったりしても、大体同じ学年に在籍する生徒のことは名前も顔もほとんど把握できていた。しかし、それが大学生にもなると、教室も一緒に授業を受ける面子も毎時異なり、自分のクラスといった概念もほとんどなくなって、同じ学年に在籍する生徒の顔なんてとてもじゃないけど把握しきれない。周りは知らない人ばかり。ただでさえ人見知りの私に友達なんて出来るはずもなく、やっぱり私は、ここでも一人でギターを弾いていた。
このギターと歌だけが、唯一、私に許された自己表現の手段だったのだ。
ときどき、私の演奏と歌を聴いて、「君には才能がある」と言ってくれる人がいる。だけど私はそうは思わない。だって私は他の人たちが色んなことを経験し、人生において大切なことを学んでいる間、これ一つしかやってこなかったのだから。私が他の人たちよりも上手く出来るのは当然のことなんだ。その代償として、私には他の人たちが当然のように持っているモノがたくさん欠けている。社交性も主体性も行動力も、みんな欠けている。それを補ってくれたのがケンちゃんであり、まひるちゃんであり、剛田くんだったんだ……。
彼らとの出会いは、入学式からちょうど一ヶ月ほどが経った春先のこと。
その頃の私は、毎日講義が終わると大学近くの河川敷まで足を運び、そこで日暮れまで一人ギターを弾いて時間を潰していた。あまり早く家に帰ると、両親に友達がいないことがばれてしまう。高校生の頃も、放課後や休日に私がどこにも遊びに行かないことを度々心配されていた。それ以前に、幼い頃から体のことで散々心配をかけていた両親には、これ以上余計な負担をかけたくなかったのだ。
ある日の夕方、いつものように河川敷のほとりに腰を下ろし、なんとなくギターを弾いていた私のところに、一人の青年が近づいてきて、不意に声をかけた。
「ギター、上手ですね」
――それが、ケンちゃんだった。
声は低く少しハスキーで、背はそこそこ高かったけど、前下がりボブのお洒落な髪型と華奢な体つきからして、なんだか女の子みたいだなというのが、彼の第一印象だった。
知らない男の人からいきなり話しかけられた私は戸惑ってしまい、まともな受け答えなんて出来なかった。あのとき彼の目に映った私の姿は、完全に挙動不審だったと思う。酷くおどおどして、最後は逃げるようにその場から立ち去ったことを今でもよく覚えている。
しかし次の日も彼は私のところにやって来た。今度はギターを抱えていた。
そこで私は彼から、今友人二人とバンドを組もうかという話になっていて早速楽器を買ったのだけれど、全員全くの初心者だから埒が明かないといった旨の話を聞いた。そして彼は私によかったらギターを教えてくれませんかとそう言ったのだ。正直な話、私はまだ良く知らない彼のことが怖かったし、私にギターの講師が務まるとも思えなかった。だけど、すごく丁寧な口調で熱心に頼み込まれて、私はなんとなく断りきれなかったのだ。
そうして私は毎日の放課後、彼にギターを教えることになった。彼のことは最初に会ったときの印象からして、悪い人ではなさそうだなと思っていたのだけれど、それでもやっぱり最初の頃は相当緊張した。同い年の男の子と二人っきりになる機会なんてこれまでになかったものだから、何を話したらいいのかもわからないし、とにかく適当なところまでギターを教えて早く帰りたいとそんなことばかり思っていた。
しかし、彼が私の話を聞きながらコードを押さえるときのその真剣な横顔を見て、私は不意にドキッとさせられた。私がお手本としてちょっとしたメロディーを弾いてみせるときだって彼はじっと私の手元だけを見つめていて、その視線からは私の持つ技術を自分に吸収しようという意欲がありありと窺えた。見た目が少し軽薄そうだった分だけ、そういった彼の真面目な姿にはすごく好感が持てた。
そして練習の合間、ちょっとした休憩がてらには彼が面白い話をたくさん聞かせてくれた。ケンちゃんはその頃から、とにかくお喋りが上手だったのだ。後に彼の書いた詞をたくさん見せてもらうことになってわかったのだけれど、彼には言葉を操る才能があるように思う。彼の話は可笑しくて、いつも私を笑わせてくれた。
いくつかのそういった経緯があり、私が彼と打ち解けてしまうのにそれほど時間はかからなかった。一週間も経つ頃には、ほとんど緊張もなくなって、私は彼と自然に会話ができるようになっていた。それから、ある程度心が落ち着いたことによって、彼がいかに優しく、真摯な姿勢で私と向き合ってくれていたのかが、次第に解るようになってきた。
男の人と接することに慣れていない私を怖がらせないようにと、彼は終始穏やかな声音に丁寧な口調で喋ってくれるし、口下手な私が度々言葉に詰まることがあっても、彼はにこやかな表情のまま根気強く私が話し出せるのを待っていてくれた。大学でも私を見かけるたび、積極的に声をかけてくれたし、昼休みになるといつも偶然を装って私の前に現れ、せっかくだから一緒にご飯でも食べようよと誘ってくれた。本当は広いキャンパスの中を必死に歩き回って、毎回私を探し出してくれていたんだと知ったその日から、私も密かに彼の目にとまりやすいよう、なるべく同じ場所を選んで彼が声をかけてくれるのを待つようになっていた……。
彼と出会い、一緒の時間を過ごすようになってから一ヶ月、私は彼に心を惹かれていく自分の存在を今やはっきりと認識しつつあった。しかし、それとはまるで反比例するかのように、彼のギターの腕はみるみるうちに上達し、私に教えられることがだんだんと少なくなって来る。これまで私と彼との間にあった、教える側と教えられる側という構図が意味を成さなくなったとき、この関係も終わってしまうんじゃないかと当時の私は不安だった。
もっと彼と一緒にいたい。もっとお話しがしたい。もっとずっと、笑いあっていたい。
こんなにも激しく私の心を揺り動かしてくれたのは、ケンちゃんだけだった。
だから私はこの気持ちを彼に打ち明けようと決心した。ひどく人見知りで、社交性も、主体性も、行動力もないこんな私が、人生初の告白を心に決めたのだ。怖くて胸がバラバラになりそうだった。だけど、どうしても手放したくないと思えた。そのくらい私にとって、彼のことが掛け替えのない大切な存在になっていたんだ。
そして、ちょうどそんなときだった。
――彼が、まひるちゃんと剛田くんを連れて来た……。
二人のことは、彼の話の中ではよく聞いて知っていたけど、実際に会ったのはそのときが初めてだった。そして私を二人に引き合わせたあと、彼はこう言った。
「よかったら、一緒にバンドやらない? きっと楽しいよ?」
すっと私の前に差し伸べられた彼の手のひら。
途端に、目の前がぱあっとと開けて、眩しく光が差すような光景を見た。
私は誘われるように彼の手を取り、その瞬間から『HAPPY★RUNNERS』の一員となった。
私が心に決めていた一世一代の告白は、事実上の無期限延期になってしまったけれど、それでも私は幸せだった。恋じゃなくても、愛じゃなくても、彼のそばにいられればそれだけでよかったんだ。ある意味、恋人になるよりもずっと多くの時間を彼と一緒に過ごすことが出来たし、それから色んな人たちと知り合って、私は本当に楽しい経験をたくさんさせてもらった。毎日が面白おかしく、年中お祭り騒ぎで。彼らと過ごした時間、私はいつだってたくさんの人とたくさんの音に囲まれ、世界は色彩豊かな光で満ち溢れていた。
ケンちゃん、まひるちゃん、剛田くん。
人生を共に歩める仲間たちとめぐり合えたことを、心から感謝している。
みんなのいる『HAPPY★RUNNERS』こそが、私の居場所なんだ。――
星空の下、心の赴くままにギターを鳴らせば、一繋ぎのメロディーと歌詞が宝石のような輝きを放って、自然にぽろぽろと溢れ出してくる。それは長い年月をかけて私の中に降り積もっていた想いの塊。やっているうちにどんどん胸が熱くなって、少し泣いてしまった。またそれをどこか俯瞰して見ている自分というのがいて、なにやってるんだろ私と軽く苦笑する。
そうして新曲が半分ほど出来上がったとき、私は嬉しくなって、すっかり浮かれていた。
これはもう間違いなく、今までで一番の曲になるだろうと既に確信があったのだ。
そのことを早く誰かに伝えたくて、そうだ、ケンちゃんにメールしようと思い立つ。
唇に浮かんだ笑みを噛み締めたまま携帯電話を取り出すと、ケンちゃんのアドレスを呼び出して、本文に書きかかる。
「――……」
私はそこで、はたと我に帰った。
ふわふわと夢見心地だった気分は一転、深い暗闇の中に一人、置き去りにされた現実の自分をはっきりと自覚する。
そうか……。私はまた、一人に戻ったんだ……。
涼しく乾いた風が、細く頼りない私の体を容赦なく掠め通る。
カーソルの点滅する真っさらなページを閉じ、私は携帯電話の電源を落とした。
♪♪♪
一夜が明けて、翌日は雲ひとつない快晴の空模様となった。昨日一日降り続けた雨の痕跡など露も残さず、外は朝から熱く、力強い陽光が一杯に差している。
午前中、額に汗して姉ちゃんの引越し作業を手伝った僕は、これから一旦新居の方に向かうと言う姉ちゃんを清々しい気分で送り出したあと、鮎川に電話をかけた。
僕は鮎川に会って伝えたいことがあったのだ。
しかし、彼女はどうやら携帯電話の電源を切っているか、現在、電波の届かないところにいるらしい。時間を置いて何度かコールしてみたのだが、やっぱり繋がらなかった。
待っていても仕方がない。僕は思い切って直接、彼女の自宅を訪ねることにした。
鮎川の実家は最寄りの駅から電車で三駅ほど行ったところにある。
昼下がりの鈍行はがらがらに空いていた。クーラーの効いた涼しい車内。僕はなんとなく座席へは着かず、扉の側にもたれかかって窓の外の景色を眺めていた。
「……」
ふと、鮎川と初めて会ったときのことを思い出す。
僕は大学に入学した当初から、彼女のことを知っていた。というのも、僕は入学早々、よく講義をサボって近くにある河川敷で昼寝をしていたのだ。
その頃の鮎川はいつも一人、川の畔のベンチでギターを弾いていて、僕は彼女のことが密かに気になっていた。
最初は単純にその容姿だけを見て、綺麗な子だなと思っていた。しかし何度か遭遇しているうちに、繊細で、儚げで、どことなく浮世離れした高潔な雰囲気を感じるようになっていた。
なまじ声をかけることが出来なかったものだから、僕の中で彼女に対する勝手なイメージだけがどんどん膨らんでいった。
それから程なくして、剛田の発案により思いがけずギターという共通項を手に入れた僕は、これも何かの縁だと思い、勇気を出して彼女に近づいた。半ば冒険心で、ドキドキしながら声をかけたことを今でもはっきりと覚えている。
鮎川にギターを教えて貰えることになってからは、彼女に褒めてもらいたくて毎日夜遅くまで黙々と練習をしていた。母ちゃんや姉ちゃんから、何度やかましいと苦情を貰ったことかしれない。そういえば、最初の頃はFのコードがなかなか押さえられなくて、随分と苦労していたっけ……。懐かしいなぁ。部屋の明かりを消してベッドに寝転んでからは、暗い天井を見つめながら、明日は鮎川とどんなことを話そうかといつもワクワクしていた。彼女の笑顔が見たくて、一生懸命に面白い話題を考え、ときにはそのまま朝陽を拝むはめにもなったりと、まぁそんなこんなで、実際に彼女と話すとき、僕は平気な顔を装いながらも心の中では相当緊張していた。彼女が僕に対して警戒心を抱いてるってことは分っていたから、なんとかその壁を取り払いたくて、彼女と親しくなりたい、喜んでもらいたいと思いながら必死に喋っていた。その中で、こういうのはいまいち受けが悪い、こういうのは良いんだなというのがだんだんとわかってきて、今にして思えば、あそこでMCのスキルが鍛えられた部分もかなりあると思う。
そして僕がまひると剛田を連れ、彼女に会いに行ったあの日から、すべてが始まったんだ。
僕にあらゆる意味で音楽というものを教えてくれたのは鮎川だった。あのとき彼女に声をかけていなかったら、もしも彼女と知り合うことがなかったら、僕の人生は確実に違うものとなっていたはずだ。楽器を演奏すること、バンドを組むこと、自分達だけの曲を作ること、人前で演奏を披露すること……こんなに好きで、夢中になれることはそれまでなかったから。
実際、僕とまひると剛田だけだったら、バンドを組んでも早い段階で挫折していたと思うし、ましてや将来プロのミュージシャンになろうだなんて、きっと思いもしなかっただろう。
何がしたいのかなんて分からないけど、とにかく何かやってみたい。何かやらなきゃ、あっという間に大人になって年老いてしまう。そんな衝動と焦燥に駆られていたあの頃。面白いことがしたい。楽しいことがしたい。やりきれない現実も、将来への不安も、何もかも忘れてしまえるくらい、パーッと心を熱く燃やせることがしたい。そんな思いから、なんとなくバンドという一つの形を選んだ僕たち。
その思いを叶えてくれたのは鮎川だった。そして、そこから生まれた夢に可能性を持たせてくれたのも鮎川だった。……適当に日々を過ごし、とりたてて将来の目標も無く、ただなんとなく生きていただけの僕に、鮎川が明日を、その先にある未来を待ち遠しく思うこの強い気持ちをくれたんだ。鮎川が僕に、瞬きも出来ないくらい眩しい光を見せてくれたから。――
僕は彼女と会ったら、このぐちゃぐちゃでみっともない気持ちを全部伝えようと思う。
電車はいま二つ目の駅を過ぎたところ。
もうすぐ僕は、彼女のいる町に辿り着く。――
♪♪♪
長く白い病院の廊下を、俺は歩いていた。
柔らかいリノリウム製の床が、まるで俺を引き止めんとする微弱な力のように、足を前へと進めるたび靴の底にべたべたと張り付く。親父の病室が近づくにつれ、知らず知らず握った拳に力が篭もってゆくのを感じていた。その力の所以を俺は知っていたが、もう考えまいと、低く深く、自分自身に言い聞かせる。
病室の前に立ち、一度深呼吸をしてから扉を開く。親父は見慣れない老眼鏡をかけ、おととい来たときと同じような格好でベッドの上に上体を起こしていた。
「……っ!」
俺の来訪に気づいた親父は、急いで何かをベッドの下に隠したあと、「バカヤロウ、ノックぐらいしろ!」と少し慌てた様子で怒鳴った。俺は無言のまま、ベッドの横にある丸椅子を取って腰を下ろす。
「おぅ、てめぇ一体何しに来やがったんだ? 俺はもうツラも見たくねぇと言ったはずだぞ? んん? おい、なんとか言ったらどうなんだ?」
親父は前に来た時と何も変わらず、顔を合わせた途端からつっけんどんな物言いで俺を責めはじめる。
「……」
俺はこの数日間、ずっと一人で悩み、一人で考えていた。
親父のこと、おふくろのこと、兄貴のこと。これまでのことと、これからのこと。何が一番なのか。どうするのが一番いいのか。俺は俺なりに、足りない頭を必死に振り絞って一生懸命考えた。そうして昨日は一晩中、朝まで悩んで、ようやく決心がついた。
「親父。俺、家を継ぐよ……」
それが、俺の出した答えだった。――
親父は俺の宣言を無言で聞き届けたあと、低い声で静かに言った。
「……お前、本気で言ってるのか?」
「ああ……」
「バンドはどうするんだ? やめるのか?」
「あぁ……」
親父は真剣な眼差しで俺の顔をじっと見つめてくる。俺の真意を推し量るように。だから俺は、そんな親父にも良く見えるように、清々しい笑みを精一杯浮かべて膝小僧をぽんと叩いた。
「よくよく考えてみればよぉ、俺にはあんまり素質がねぇんだよなー。歌は音痴だし、ベースだってもう五年もやってるっていうのに、ケンの奴からは未だに全く上達してないなんて言われちまうしさ? 俺が居なくたって、あいつらはきっとプロになれるよ。鮎川だけじゃない、ケンにも、まひるにも、十分その才能がある。……だから、俺は俺の道を行くことにしたんだ」
背中を反って、大きく天井を仰ぐ。
「兄貴の言葉じゃねーがよ、ホントのこと言えば俺自身、いつまでこうやっていられるんだろうって、ずっと思ってたんだ……。ハタチを過ぎて、大学まで出ちまった身でさ、本来だったら、きちんと社会に出て働かなきゃならない年頃なのに、その義務を放ったらかしにしたままガキみたく馬鹿やって、仲間と一緒に夢を追いかけて……。そりゃあ楽しかったさ、最高だった……。だけど、いつまでも好きなことだけやっていられるほど現実は甘いもんじゃないってことも、きっと、どっかでわかってたんだな……。俺に与えられてるこの自由な時間は、決して永遠じゃない、限られた猶予期間なんだって。だから俺は、誰よりも今を大切にしようと思った。いつタイムリミットになって、終わりが来るかもしれないひとときだから。今のうちに何でもやってみよう。今のうちに何かを見つけよう。出来ればこの時間を、永遠のモノに出来るような場所まで辿り着こうと、必死にやってみた。……だけど、駄目だった。俺のロスタイムはもう終わっちまったんだ。これからは腹を据えて、現実と向き合って行かなきゃならない」
「けどさ、それでも俺は、そこまで悲観はしてねぇよ? 店を継いだら、朝は早くから目を覚まして、仕入れをしたり、配達をしたり、ときどきお得意さんとお愛想笑いの世間話なんかもしたりしてさ? 昼間は汗だくになりながらへとへとになるまで働くんだ。そんで、日が暮れる頃には店を閉めて、風呂に入って一日の疲れをすっかり洗い流す。それから食卓に着いて、親父やおふくろと家族三人で飯を食ってさ? あーだこーだ言いながらぐだぐだ酔っ払って、夜の十時過ぎにはさっさと布団に入っちまう。毎日が規則正しく、その繰り返しなんだ。そんでも、ときどきはあいつらと会って、昔のこととか色々思い出しながら酒を酌み交わす。そんな、平凡でどこにでも転がっているような暮らしだけど……でも、それもいいんじゃないかって、今はそう思えるんだ……。俺が目指してたものとは全然違う生き方だけど、でも、これはこれで立派な人生だよなって、そう思えるようになったんだ……。だから、俺は――」
胸の奥がきゅうっと狭くなって苦しい。半開きの口から肺一杯に空気を吸い込もうとしたら喉が情けないほどわなわなと震えて、息が細切れになった。
「俺は……」
強く握り締めすぎた拳の中、爪が手のひらにズキズキと刺さる。しかし今はこの痛みが必要だった。こうでもしていないと俺は俺自身を保てそうに無かったから。
「なぁ篤志、お前ちょっとこっちに寄れや?」
黙って俺の話を聞いていた親父が、不意にそう言って手を拱いた。
「……?」
俺は椅子をずらして、半歩親父の方に近づく。
「おいおい、遠慮してんのか? いいからもっと近くに来い」
言われたとおり、俺はまた半歩椅子をずらす。
「もっとだ」
さらに近寄る。
「――ッ!!」
瞬間、勢い良く風を切った親父の拳が、俺の頬に鋭く突き刺さった。
目の前で激しく火花が散って、ぐるりと視界が思い切り反転する。
平衡感覚を失った体が宙に投げ出されるその刹那、遠い日の記憶が、俺の脳裏を走馬灯の如く駆け巡った。幼き日の俺は、その細く小さな体を地面へと投げ出し、尻餅をついたまま鼻血を垂らして泣きじゃくっていた。
目の前には、降り注ぐような逆光の中に立った、見上げるほどの大きな黒い影。
太く逞しい腕、精悍な顔立ち、どこまでも真っ直ぐで、揺るぎない眼差し。
〝篤志、強くなれ――〟
がしゃんと吹き飛んだ丸椅子が一際大きな物音を立てて部屋の隅に転がった。
「が、はっ……ぐッ!」
リノリウム製のあの柔らかい床が、背中と後頭部に走る衝撃を受け止めるのと同時に、俺の意識は現在へと帰る。
頬を焦がすような激痛に歯軋りをして耐えながら、茫然として見上げた先。
そこには、あの頃から少し歳を取った親父が、あの頃と少しも変わらぬ熱い双眸で俺のことを見つめ続けていた。
ツー……と、鼻の奥から一筋垂れてきた真っ赤な汗を指先で拭い去る。
親父からこんなふうに殴られたのは、一体いつ以来だろうか。
俺は驚いていた。なによりも、今の俺を吹き飛ばすほど力強い親父の拳に。
白髪が増えて、しわが濃くなり、背中が曲がっても、拳に篭もった思いの強さだけは今も衰えていなかった。
ナメるんじゃねぇぞと、そう言われた気がした。
まだまだやれるんだと、そう教えられた気がした。
「バカヤロウ!」
親父は放心する俺に向かって、そう怒鳴った。
「テメェいつからそんな腰抜けになりやがった!? 歌手になるって勝手に飛び出して行ったのはてめぇだろ! だったらそれが叶うまでは、のこのこツラなんか見せに帰って来るんじゃねえ! 男だったら、テメェで決めたことぐらい何が何でもやり遂げて見せろ!! その根性もないテメェみてぇな半端野郎が、俺の後を継ごうだなんて迷惑千万だ!!」
そこまで言われて、ようやく俺にも怒りが湧いてきた。
歯を食い縛って、悔し涙を堪えながら、親父に向かって吼える。
「何もそんな言い方するこたァねえだろ……! 俺だって、親父やおふくろのことを、真剣に色々考えてんだ!」
「ふんっ、ガキが一丁前に気取るんじゃねぇや。図体ばっかりデカくなりやがってよ……」
呆れたようにそう言って、親父はやれやれと嘆息した。
「どうせ恭介の奴から余計なこと吹き込まれたんだろうが、生憎と俺はまだまだ隠居なんかする気はねえぞ。それにもともとあの店は、俺の代限りで綺麗サッパリ畳んじまうつもりだったんだ。お前や恭介のお荷物になるのは御免だからな。たとえ母ちゃんが何と言おうと、俺はお前らの世話にだけはならねぇ。へへっ、残念だったな?」
まるで人の心配を嘲笑うかのように、親父の奴は意地悪くにかっと白い歯を見せて鼻を鳴らした。それからすっと目を細め、いつになく落ち着いた低い声で俺に語りかけてくる。
「篤志、かっこよく立派になんか生きる必要なんかねぇぞ。無様でいい、正直に生きろ」
俺は床に尻餅を着いた体勢のまま、ベッドの上の親父を見上げ、その瞳に宿った輝きを一心に見つめていた。ふと視線を下ろした先、今の俺の位置からはベッドの下が窺える。
「――」
思わず涙が出た。
溢れ出す想いを堪えることが出来なくて。
俺は親父に泣き顔を見られまいと立ち上がり、壁の方を向いて必死に目のまわりを拭った。
しかし拭っても拭っても、あとからあとから湧いて来る。
親父はやっぱりデカかった。
この人にはどうしたって勝てっこない。いくつになっても、絶対に越えられない壁なんだ。
そのとき、後ろから思い切り尻を蹴り飛ばされて、すっかり油断しきっていた俺はそのまま前方の壁にごつんと額をぶつけた。
じんじん熱くなるおでこを押さえて振り返ると、ベッドから足を伸ばした親父がいつものように不甲斐ない俺のことを睨みつけていた。いつもの怒鳴り声が力いっぱい響く。
「ナニぼさっと突っ立ってやがるんだ、このタコ坊主!! 若さはいつまでもあるわけじゃねえぞ! どだいテメェらに立ち止まってる暇なんかねぇんだ! とっとと行きやがれってんだぃ、この馬鹿息子ッ!!」
尻や背中を次々と蹴飛ばされ、俺はドアの方へと追いやられた。
そうしてノブに手をかけたとき、一瞬、親父の方を振り返って礼を言おうかとも思ったが、やっぱりやめた。そんなことされたって、きっとあの捻くれ者の親父は喜ばないだろう。
だとすれば、俺がやるべきことは一つしかない。
「――くッ!」
扉を開け放ち、一気に走り出す。
今はただ、ここからの道を急ぐのだ。――……
勢い良く部屋を飛び出して行った息子の足音が、次第に遠ざかってゆくのを聞きながら、父はただ静かに目蓋を下ろした。
ベッドの下に手を伸ばし、そこに隠しておいた一冊の音楽雑誌を取り出してみる。
折り目がつくほどもう何度も見たその一頁。隅の方に小さく載っている息子たちの写真を、父はいとおしむようにそっと指でなぞり、ふと穏やかに微笑んだ。
「頑張れよ、若造……」