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明日に向かって走れ-Singer×Song×Runner-  作者: 早見綾太郎
~第四章「夢に向かって進め」(福岡編)~
16/20

第15話「夢に向かって進め(Ⅱ)」


                   ♪♪♪


 川原での一件のあと、俺は一度家に帰ってからシャワーを浴び、親父の入院している市立病院へと向かった。四時に兄貴と入り口のロビーで会う約束だ。

 壁にかかった時計を見上げると、まだ待ち合わせの時刻までは十五分ほど猶予があった。空いていた後ろの方の椅子に腰を下ろし、俺は兄貴が来るのを待ちながらぼんやりと考える。

「……」

 健一と鮎川が仲違いをした。正直、驚いた。こんなことは今までに一度だってなかったのだから。突如鮎川に持ち上がったソロデビューの話。鮎川にとってこれが好機であることは間違いない。彼女に才能があることくらい俺にだってわかるんだ。才能のある奴のところにチャンスが巡って来るのは、当然といえば当然の話である。しかし、何故このタイミングなんだというやるせない憤りに胸中が疼く。鮎川はどうするつもりなんだろうか。

 もし仮に、鮎川がこのまま抜けることになれば、『HAPPY★RUNNERS』はもう成り立たなくなるだろう。たとえ残った三人で続けていくことになっても、もうこれまでのような勢いは確実になくなる。いずれぐちゃぐちゃになって、解散という流れになることは目に見えていた。

 そろそろ潮時かもしれないなという寒々しい考えが、心の隙間からどうしようもなく忍び込んでくる。……親父が倒れ、兄貴からは家業を継ぐようにと勧められ、『HAPPY★RUNNERS』は崩壊の危機に直面している。なんだか最終勧告を言い渡された多重債務者の気分だった。しかし俺はまだ、気持ちの整理がつかないでいる。

 ケン、お前はどうするつもりなんだ……。

 俺たちの夢は、もうここで終わってしまうのか……。

「――篤志」

 その声で現実に引き戻され、顔を上げると兄貴が来ていた。

 俺は兄貴の後について、親父の病室へと向かう。

『剛田清司』と書かれたプレートを確認し、兄貴は扉をノックした。

「お父さん、恭介です」

 おう入れ、と扉越しにいがらっぽい親父の声が返ってくる。

 兄貴は扉を開けて、部屋に足を踏み入れた。

「その後、お加減はどうですか?」

「ああ、別に大したこたぁねーよ。ったく大げさなんだよな、医者って奴はよぉ」

 俺は親父にどんな顔をして会えばいいのかわからず、開け放たれた扉の前に立ってしばし二人の会話を聞いていた。

「……ん、誰か来てるのか?」

 扉の前で立ち往生している俺の存在に気づいたのだろう。親父が不意にそう言った。

「ええ、実は。――おい、何やってるんだ? こっちに来て挨拶しろよ」

 兄貴は親父の前だからか、普段よりも半音高い声で、俺を呼びつけた。おずおずと扉の影から顔を出す。親父は白く清潔なベッドの上に、でんと胡坐を掻いて座っていた。病院暮らしのためか、口周りには無精ひげが目立ち、親父は一年前よりも少し痩せていると感じた。

「久しぶり……」

 俺はひとまずそう言って、親父の顔色を窺う。

 俺と目が合ったことで、親父の表情はキッと険しくなった。

「てめぇ、なにしに来やがった」

 一年ぶりに再会して、最初に言われた一言がこれだ。

「バンドはどうした? プロの歌手にはなれたのか? ん?」

 ドスの利いた低い声が、突っ立ったままの俺を一方的に責め立てる。

「おい、なんとか言ったらどうなんだ……?」

 それでも俺が何も言えず、ただ拳を握って俯いていると、

「父さん、まぁ落ち着いてください。篤志も心を入れ替えたんですよ」

 見かねた兄貴が柔らかな口調で仲介するようにそう言った。

「これからは今までのようなこととはきっぱり縁を切って、真面目にやると言っています」

「なんだと……。おい、そりゃあ本当なのか?」

 憮然として問い質すような親父の声。

「本当だよな? 篤志?」

 なるべく穏便に済ませようと、答えを促す兄貴の声。

「……」

 俺は何も答えることが出来なかった。瞬間、親父の目つきが殊更激しくなる。

「――失せろこの野郎ッ!! てめぇのツラなんざ見たくもねぇや!!」

 突然そう怒鳴った親父は、手近にあったティッシュの箱を思い切り俺に投げつけて来た。

 ティッシュの箱が俺の胸に当たってぽとりと床に落ちる。全然なんて痛くなかった。だけど狂おしいほどに、胸の内側がずきずきと激しく痛んでいた。


                   ♪♪♪


「俺、このあと用事があるから……」

 剛田がそう言い残して立ち去った後、取り残された僕とまひるもほどなくして河川敷から撤収した。しかし、僕はどうにも頭の中がぐちゃぐちゃで、このまま家に帰っても一人部屋に閉じ篭ってくさくさとしそうな雰囲気だったので、一旦まひるを手伝ってあいつの家までドラムセットを運んだあと、少し二人で散歩でもしないかと誘いをかけた。

 まひるの奴は嫌な顔一つせず、「おう、いいぞ」と二つ返事でOKをくれた。

 二人でぶらぶら、特にあてもなく住宅街の道を彷徨い歩く。じりじりと照りつける日差しで足元には濃い影が出来ていた。滴り落ちる汗が、アスファルトの地面に黒い染を作ってゆく。

「……」

 猛暑に負けて下を向き歩きながら、僕の脳裏には今も、鮎川の見せたあの眼差しが克明に焼きついていた。〝どうして……〟と彼女は僕に言った。そこから続く言葉が何なのか、今の僕にはわからない。だけど鮎川は最後に、ひどくもどかしげで、悲しそうな顔をしていたな。

 鮎川は僕に、本当は何と言って欲しかったんだろう……。

 不意に、僕はさっきからまひると全然会話をしていないことに気づき、頭を振って堂々巡りを続ける思考を打ち切った。これじゃあ何のためにわざわざ付き合って貰ったのか分からないじゃないか。とにかく今は気分転換が必要だ。

 僕はそのための案を一つ思いつき、まひるに持ちかけた。

「なぁ、ちょっと小学校の方に行ってみないか?」

 久々に母校の風景でも見て思い出に浸ろうと。そんなことを考えつく僕は、既にだいぶ感傷的になっていたのだろう。まひるの奴はすぐに食いついてきた。目を真ん丸にして笑い「おぉ、いいねぇ! 行こう行こう!」と、僕の手を引いてぐんぐん先に進み出す。

 当時、二人で通っていた通学路を歩いて、懷かしの学び舎を目指す。そもそもこの道を通ること自体が久々で、ちょっと気分が高揚してくる。小学校に通う目的以外では、ほとんど使うことのない道だったので、卒業してからはすっかり疎遠になっていた風景がそこにはたくさん存在した。忘れていた当時の記憶が色々と蘇って来る。

 考えてみれば、僕とまひるは小学校からの付き合いなので、もう十数年来の仲なんだな。

 まひると仲良くなったキッカケは、正直もう昔のことなのであまりよく覚えていないのだが、確か小学校一年生のとき同じクラスになって、しかも隣の席だったという記憶がある。そこでどんなやりとりがあり意気投合したのかまでは記憶にないが、子供の頃というのはまぁ、誰とだってすぐに仲良くなれてしまうものである。

 しかしそんな忘れっぽい僕でも、未だに鮮烈な記憶として脳裏に焼きついている事件があった。その名も『ピヨちゃん篭城事件』である。

 あれは確か小学校三、四年生の頃だったと思う。当時、クラスで飼育していた鶏のピヨちゃんを食材として頂くという厳しくも有り難い授業があった。僕たち私たちは生きるため、他の生き物の命を頂いているのだということを自覚し、感謝の心を養うことが目的だったのだと思う。しかしそれに猛然と反旗を翻したのが、我らの珠紀まひるである。それまで飼育当番などほとんどサボっていたにも関わらず、まひるは断固としてピヨちゃんの助命を訴え続けたのだ。そして遂には、まひるがピヨちゃんを抱いて体育館に立て篭もるという一大事件が起こった。僕もなんとなく巻き込まれ、一緒に立て篭もったのだが、駆けつけた教師や両親の説得によって泣く泣く投降した。体育館から出て行くとき、まひるは消えて行く運命にある小さな命を抱き締めたまま声を上げて泣いていた。僕も起こしてしまった事態の大きさと、まひるの優しさに感化されて泣きじゃくり、先生や両親でさえ、目の端にほろりと涙を浮かべていた――とまぁ、ここまでだったらちょっと良い話で終わるのだが、この話には後日談がある。

 事態が感動の結末を経て収束したその翌日、改めてピヨちゃんパーティは催されることとなったのだが、当のまひるは一夜明けてもう何もかも忘れてしまったのか、からあげとなって出て来たピヨちゃんを、「うめぇ! うめぇ!」と連呼しながら、物凄い笑顔で貪り食っていたのである。なんとなく気がひけて食欲の湧かない同級生の分まで、強引に奪い取って口に運ぶまひるの姿は、今尚忘れらないトラウマとなって僕の胸に深く刻み込まれている。

 行く手にいよいよ校門が見えてきた。僕もまひるも自然と歩調が早くなってゆく。約十年ぶりに、なつかしの母校と対面するときが来たのだ。

「――ん?」

 しかし、僕たちはそこでふとある異変に気づく。

 ぱっと外観を見ただけでも、何故か僕たちの記憶にある学び舎とは様相が違うのだ。

 とりあえずは門を潜って職員室を訪ね、僕たちがここの卒業生であることを告げた上、少し中を見学させてもらってもいいかと申し出たところ、思いの他あっさりと承諾が得られた。僕とまひるは来客用のスリッパを履いて、校舎内を見てまわる。……廊下も、教室も、図書室も、体育館も、すべてが真新しく、それらは僕たちの期待していた物とは全然違った。

 さっき職員室で聞いた話だが、この学校は校舎の老朽化のため、数年前に大規模な改装工事を行ったそうだ。つまり、校舎自体がすっかり新しくなってしまい、僕たちの記憶にあるあの学び舎は、もうなくなってしまったということだ……。

 夏休み期間中なので子供達の姿もなく、校舎も校庭も寂しげにがらんとしていた。なんだか肩透かしを食らったような気分になり、それからほどなくして僕とまひるは小学校を後にする。

 ……そうだ。校門を出たところで、一つ良いことを思い出した。

 ここから坂を下った先の角に、駄菓子屋さんがあるはずだ。僕とまひるも含め、学校帰りの小学生がよく買い食いをしていた。店の奥にはおばあさんが一人座っていて、いつも静かに笑いながら、賑やかにお菓子を選ぶ僕たちのことを見守っていたっけ。懐かしいなぁ。ときどきお金を持っていない子がいても、サービスで好きなお菓子を持たせてあげるような優しいおばあさんだった。元気にしているだろうか。

 萎みかけていた期待が、また徐々に膨らんでくる。

 まひるがあの店に置いてある昔ながらのアイスキャンディーを食べたいと言うので、奢ってやることにした。僕たちは一気に坂を駆け下りる。たぶん夏休みのこの時期、この時間帯は、遊びがてらに立ち寄る小学生で店先も随分と賑わっているはずだ。

 角を曲がった先で、僕とまひるはぱったりと足を止めた――。

「「……」」

 二人してしばし茫然と立ち尽くす。

 僕たちがよく通っていたあの駄菓子屋は、影も形もなくなっていた。

 だらしなく雑草の生えた空き地に、『売却済』と書かれた看板だけが立っている。

 近所で道路に水を撒いていたおじさんを捕まえ、話を訊いてみたところ、あの駄菓子屋はもう何年も前からずっとシャッターが下りたままだったという。おばあさんが病気だったそうだ。そして去年の秋におばあさんが亡くなったあと、残された遺族の意向により、建物は取り壊され、土地は売りに出されたらしい……。

 ――帰り道、僕とまひるは終始無言のまま、民家の塀や街路樹の深い日陰を選んで歩く。

 なんだか、胸にぽっかりと穴が開いたような気分だった。

 思い出に浸ろうと尋ねて歩いたはずなのに、何故か懐かしさよりも、時の流ればかりが目について……。思い出が日向に置いた砂糖菓子みたいに溶けていく。

「寂しいね」

 僕の前を歩きながらまひるが、不意にそんなことを言った。

「きっと、お姫も寂しかったんだよ」

「……え」

 僕は立ち止まる。だけどまひるは立ち止まらなかった。一瞬遅れて後を追う僕の位置から、まひるの表情は窺えない。

「それは……」

 一体どういうことなのかと詳しく尋ねたかったが、まひるはそんな僕を振り切るかのように眩しい日差しの中をいきなり走り出した。

 そうして別れ道となるT字路の前まで行くと足を止め、くるりとスカートの裾を投げながら僕の方を振り返る。亜麻色の細い髪が、日の光を反射しながら、さらさらと風に揺れていた。

「難しく考えることなんてないじゃん。ケンイチの気持ちを、そのまま話せばいいだけなんだからさ? 思った通りやってみればいいんだよ。それでも駄目だったら、そのときはこの珠紀まひるさんが一緒に考えてあげるから! 泥舟に乗ったつもりでいなさい!」

 にっこりと歯を見せて笑うまひるの姿は、あの頃から何一つ変わっていないように見えて、やっぱりあの頃とは違っていた。少し気が楽になって、僅かに口元が綻ぶ。

「……バカだな。泥舟に乗ってどうすんだよ」

「ありゃりゃ。なーんてこったい」

 まひるの能天気さが一服の清涼剤となって、僕は少し救われた。

「ウチ、このあと家族で温泉行く約束なんだ。パパとママが楽しみに待ってるから、もう帰るね! それじゃあ、ばいばいよー!」

 小柄な背中はどんどん遠ざかり、すぐに見えなくなる。

 僕は、まひるにありがとうと言うタイミングをすっかり逃してしまった。


                   ♪♪♪


 翌日は剛田に誘われ、男二人で出掛けることになった。

 昼過ぎに家を出たが、夜になって酒を飲むこと以外は特に予定もない。

 どうすっかなーと地元をぶらつきながら、時折コンビニに立ち寄って適当に話し合う。そこで僕が、昨日まひると二人で小学校に行ったことを話したら、それじゃあ今日は中学と高校に行ってみようぜと剛田が言い出した。

 今日は僕もとことん剛田に付き合う気で来たのだ。異存はない。

 二人であんなことがあった、こんなことがあったと、中学・高校時代の思い出話に花を咲かせつつ、母校を巡礼する。懐かしくて恥ずかしくて、ちょっぴり切なくなるような出来事の数々が、そこにはたくさん眠っていた。ふと同級生たちの顔が頭を過ぎり、そういえばあいつらは今どうしているのだろうかと思い立った僕たちは、ケイタイのアドレス帳を開き、長らく置き去りにされていた当時の番号へと片っ端から電話をかけてみた。しかし、そのほとんどは既に番号が変わっていたり、留守番サービスに接続されるのみで、彼ら彼女らの現在を知ることは叶わなかった。

 日が暮れるまでには、まだもう少し時間があった。とりあえず向こうに行ってから時間を潰そうと、僕たちは博多駅で電車を降り、そこから歩いて天神の繁華街に出る。

 せっかくの機会だから、男同士でしか出来ないことを存分にやってやろうと意気込み、普段であれば口に出すことすら憚られるような下ネタトークに華を咲かせ、パチンコ屋に寄って小金を摩って、道行く女の子に次々と声をかけては物の見事に総スカンを食らった。

 そうして夜の帳が落ちる頃、暖色系の裸電球と赤提灯を燈した博多名物の屋台が、歩道沿いにずらりと立ち並び始める。僕と剛田はその中から適当に見繕ったやきとり屋台の暖簾を潜り、薄汚れた木の長椅子にどかっと腰を落ち着けた。

 もうもうと立ち込める炭火と煙草の煙、ノイズ混じりうるさいラジオ、酔っ払いの戯言。

 そんなほろ苦くも暖かい下町の人情味溢れる光景の中に、僕たちもいつしか浸りきっていた。

 ビールで乾杯し、最初のうちは昼間のテンションのまま大いに騒ぐ。しかしアルコールがまわり始めるにつれ、白々しいほどの陽気さは次第になりを潜め、語らう内容は徐々にその深度を増してゆく。しんみりと焼酎を酌み交わしつつ、僕は剛田の話を聞いた。

 親父さんが倒れたこと、その親父さんのいない家で一人寂しく暮らしていたおふくろさんのこと、お兄さんから実家の米屋を継ぐようにと諭されたこと……。

 沈んだ声で淡々と自らの胸のうちを吐露する剛田の姿を見て、あぁ、やっぱりこいつも相当滅入っているんだなと感じた。

「……俺、バンドをやめるかもしれねぇ」

 剛田の口からそんな言葉を聞く日が来るなんて、僕は思ってもみなかった。

 やるせなくて、悔しくて、僕はコップの底に残っていた水割りを、がりがりと氷ごと噛み砕いて一息に飲み干す。微熱を帯びたように頭の中がぼんやりとして来た。ふと視界が霞む。

 降り注ぐ蝉しぐれ、透き通るような夏の日差し、青々と生い茂った草木の香り。

 あの日の光景が、つい昨日のことのように蘇る……。

 大学生最後の夏休み、周りの同級生たちが次々と就職先の内定を獲得していく中、僕たちはまだ進路を決めかねていた。真っ当に就職活動をするか、それとも四人でプロのミュージシャンを目指して上京するか。そんな僕たちを口説き落としたのは、剛田だった。

『――夢なんか誰だって持ってる。ただ、どいつもこいつもそれを順番付けてやがるだけのことなんだ。第一志望は自分の身の丈に合わないからって、みんな第二志望や第三志望に落ち着いていく。このくらいが俺には相応しいかなんて……勝手に決め付けて、やってもみないうちから勝手に諦めて……。俺にはそういう奴等の気持ちなんかちっともわからねぇよ。何で一番欲しいものを取りにいかねぇんだ。そりゃあ、一番を得るのは難しいかもしれない。だけど、だからと言って二番や三番を得たところで一番が欲しいって気持ちはずっと残り続けるんだぜ? 一番が欲しいって気持ちは、他のもので埋め合わせなんか出来やしねぇんだ。二番や三番に落ち着いていながら、やっぱりあっちが良かったなぁなんて、そんなの悔しいだろ。どうせだったら、一番取りにいこうぜ? たとえ負けちまったとしてもさ、自分に正直だったって誇りがあるから、また勝負出来る。世界の中心は誰なのか、世界は誰を中心にまわっているのか、そんなでけぇこと馬鹿な俺にはわかりっこねぇ。だけどたった一つだけ、てめぇのことだけはよく知ってる。自分にとっての世界の中心は、いつだって自分自身なんだ。だったら一番を欲しがって、何が悪いんだよ?』

 そう言ったときの剛田の目はどこまでも力強く、真っ直ぐな輝きを放っていて、僕は感動した。今でも思い出すたび、胸がじーんと熱くなってしまうくらい。

 僕は、僕たちは、そんな剛田の言葉に共感し、心の底から惚れこんでこの道を選んだのだ。

 剛田にそれを話したら、奴は苦しそうに自嘲の笑みを浮かべて言った。

「あれだけデカイ口叩いておきながら、いざテメェにその順番がまわってきたら、途端にこのザマだ……。情けねぇよな……。最低だ俺は……」

 確かに、平生奴が言っていた主義主張と、今の剛田は完全に矛盾している。

 だけど、そのことを一体誰が責められる?

 それこそ、剛田が名古屋ライブのときに言っていた。人の気持ちは常に動いているのだと。

 誰だって変わりたくないとは思っている。出来ることなら自分の主義主張を貫きたい。当たり前だ。だけど僕たちは、いつだって選択を迫られる。理想と現実の狭間で迷い、何度も立ち止まり、頭の中がぐちゃぐちゃになるほど考えて、苦しんで、苦しみぬいて、それでも答えを出さなければならない。

 結果として変わってしまうことがある。変わらざるを得ないことがある。

 たぶん剛田は本当の意味で、今その境地に立たされているのだろう。

 ――――。

 虚しさと疲れを乗せた終電に揺られて地元に帰る。すっかり飲みすぎてしまい、二人とも最後は酷い千鳥足だった。肩を組み、お互い支えあうようにして明かりの消えた夜道を歩く。

「ケン、お前はこれからどうするんだ?」

 剛田に訊かれて僕は考える。もしもこのまま鮎川と剛田がバンドを抜けることになれば、事実上『HAPPY★RUNNERS』は解散ということになる。まひるはどうするのだろうかと一瞬思ったが、あいつはある意味、僕なんかよりもずっと強い。きっと一人でも好きにやっていくだろう。それじゃあ僕は、どうするんだろう……。たとえ一人になっても、プロのミュージシャンを目指す覚悟があるのか? たとえ皆が離れ離れになったとしても、僕は音楽を続けて行こうと思えるのか? 僕たちは今までずっと一緒にやって来た。だから一人になるという感覚が、今の僕にはまだ掴めない。

 ふとそこで、剛田は少し質問の内容を変えてきた。

「鮎川のことは、どう思ってる?」

「どうって……?」

「ソロデビューの話だ。ホントのところ、どうなんだ? 賛成なのか?」

 僕は少し考えてから言った。

「やめろ、とは言えねぇだろ。鮎川のためを思うとさ」

 自分でもびっくりするぐらいキツイ口調になってしまった。

「そうか」と囁くように言ったあと、剛田はこれが最後の質問だと断ってから、僕の心の湖に小さな石を一つ投げ入れた。――

「お前は、本当にそれでいいのか?」

「……」

 僕は鮎川の才能を誰よりも理解しているつもりだ。だからそれが認められたことに関しては素直に嬉しいし、彼女だったら、もっとずっと高いところまで上りつめられると信じている。願わくば僕も同じステージの上に立って、彼女が華々しく脚光を浴びる姿をすぐ隣から見守っていたかったが、それは僕の思い上がりだったのかもしれない。僕と鮎川の持つ物に差があったことなんて最初からわかりきっていたじゃないか。本来住む世界が違ったのだと思えば、諦めもつく……はずなのに。どうしてだろう。

 ――僕は何故か、そのたった一言が言えなかった。どうしても言えなかったんだ。

「まぁ、何にしたって、最後に決めるのは鮎川自身だから……」

 僕がそう言って誤魔化すと、剛田はすべてを見抜いたようにぽんと僕の肩を叩き、「鮎川のことはお前に任せるぞ」と、有無を言わさぬ口調で言い渡して来た。

 普段は鈍感で無神経なくせして、こんなときばかり、こいつは……。

 やがて小さな橋の上に差し掛かり、僕たちは軽く手を上げて背中合わせに別れを告げた。

 明かりの消えた住宅街を抜け、僕は一人、ひっそりと寝静まった我が家へと帰る。

 ――鮎川は、どうしたいのだろうか。

 それさえ分かれば僕はもう迷わなくたって済む。鮎川だって悲しまずに済むはずだ。これならいっそのこと、僕の気持ちが鮎川に、鮎川の気持ちが僕に、全部伝わってくれたらいいのになって思う。そんなの、お互いに本音で語り合えばいいだけの話じゃないかとわかってはいるさ。わかってはいるけど、それがなかなか出来ないから、もどかしくって堪らないんだ。

 人気のない夜道、風が吹いて、枯葉がカサカサと足音を立てながら僕を追い抜いて行った。



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