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明日に向かって走れ-Singer×Song×Runner-  作者: 早見綾太郎
~第四章「夢に向かって進め」(福岡編)~
15/20

第14話「夢に向かって進め(Ⅰ)」

――……。


第四章「夢に向かって進め」(福岡編)


 広島での泥酔ライブを終えた僕たちは、日本海側からの熱い潮風が吹き付ける中国自動車道を走り、一路、福岡県を目指していた。どうやらそこが、今回の旅の終着点になりそうだ。

 特に目的もないまま勢いだけで始まった旅だったが、僕は当初から、なんとなくだが最後は福岡だろうなと思っていた。どうやら他のメンバーも皆、概ね同じことを考えていたらしい。

 考えてみれば、福岡はなんといったって僕たち四人が生まれ育った故郷である。

『HAPPY★RUNNERS』のルーツを辿るという意味でも、ここは絶対に外せないだろう。

 八月も残すところあと二週間に迫り、夏休みを謳歌していた世間の学生たちがそのツケとしてまわってきた膨大な量の宿題に追われ始める頃。

 僕たちの冒険の旅も、いよいよフィナーレである。――

 

 その前に、せっかくなので広島で出演したライブのことについて少し触れておこう。

 大阪でお世話になった安斎オーナーからの口利きで、僕たちは広島のとあるライブハウスで行われるイベントに、急遽飛び入り参加させて貰えることになった。

 広島といえば、僕の中ではそれこそ大阪に引けを取らないくらい情熱的で、荒っぽくて、男臭いイメージがある。たとえば、広島出身のミュージシャンで真っ先に思い浮かぶのは、前回紹介した吉田拓郎をはじめとして、矢沢永吉、浜田省吾、奥田民生など、サウンド的にも生き方的にもまさに〝男の中の漢〟って感じの人たちばかりだ。語尾に『~じゃ』がつく広島弁の語感や、広島を舞台にした極道映画やなんかの影響もあるのかもしれない。

 つまりは何が言いたいのかといえば、僕たちは広島の人たちの前で演奏するということに相当ビビっていたということだ。大阪で受けたあの手酷い洗礼がトラウマとして刻み込まれているということもあり、下手な演奏をすれば即座に暴動が起こってぶっ飛ばされるんじゃないかと思うくらい切迫した覚悟を持って臨んだわけである。

 生憎と今回も練習する時間はあまりなかった。

 日曜日の夜に大阪を発ってから広島に入り、翌日の昼前には一度ライブハウスに顔を出し挨拶を通したのち、その後一晩かけてみっちり演奏楽曲を仕上げた。

 そうして向かえた本番当日には、午前中からライブハウスに赴き、空いている別室の一つを借り切って練習した。

 しかし昼頃になって、早めにリハーサルを終えた対バンの人たちから「どうじゃ、お前らも一緒に飯行かんか」と誘われ、僕たちは同行を余儀なくされる。正直な話、演奏に不安が残るので本番まで篭もりっきりで練習しておきたかったのだが、せっかくのお誘いを断るわけにもいかなかった。ただでさえ僕たちは今回、安斎さんのコネによって急遽ねじ込まれた余所者であり、本来必要とされるノルマなどの義務も一切免除された立場なのだ。通常の手順を踏んで出演する地元の人たちから、あまり良く思われていないことはわかっている。だからこそここで一緒の舞台に立つ彼らの心象をこれ以上悪くすることは避けたい。本番で演奏に集中するためにも、ここは一先ず昼食を共にして彼らとある程度交流を図っておこう。……そんな打算が大きな間違いであったことを知るのは、後になってからのことである。

 美味い中華料理屋を知っているからと連れて行かれテーブルに着くと、対バンの人たちは平気な顔で料理と一緒に酒を注文し始めたのだ。この時点でなにやら嫌な予感はしていた。

 料理と酒が運ばれてきて、宴会が始まる。

 もうあと数時間後にはステージに立ってお客さんの前で歌うというのに、ビールなんて飲んでいていいのだろうか。もちろん、よかぁないと思うのだけれど、他の人たちはそれが当たり前のことであるかのように遠慮なくやっている。イベント開催前だというのに、もはや打ち上げみたいなノリだった。

 勢いで僕たちにも酒が勧められ、それが断れない雰囲気だったので仕方なく「それじゃあ一杯だけ」と頂いてしまう。まずいなぁと心の中では思いつつ、バンドマンとして、若者として、真面目な奴だと思われるのは癪に障るといった自意識もあったのだ。

 対バンの人たちは皆気さくで、話しているうちにどんどん気分が盛り上がってくる。

 次々に出される料理が本当に美味しかったというのも、そのときに限っては不運と呼べた。

 こうなったとき、既にご承知の通りだとは思うが、僕たちはほとほと理性というものがなくなる奴らだったのだ。

 ワイワイ騒いで、勧められるがままに酒を飲み干して、結局店を出るときにはもうべろべろの状態だった。そろそろ開幕の時間だということでライブハウスに戻ったのだが、はっきり言って演奏どころじゃない。みんな顔は真っ青だし、目の前がぐるぐるとまわって真っ直ぐ歩けないのだ。耳の聞え方もなんだかおかしい。

 そんな僕たちを置き去りにしてイベントは始まる。

 何よりも驚いたのは、僕たちと同じくらい酒を飲んでいたはずの対バン連中がなんなく各々のステージをこなしていくということだった。

「あー、あそこちょっとフレーズ飛んじゃったなー」なんて笑いながら出番を終えて帰って来るのだが、とてもそんなふうには見えなかった。なんというか、堂に入って上手い。

 きっと彼らにとってはこんなこと日常茶飯事なのだと思い知って、僕たちは一気に焦り出した。出番が差し迫り、とにかく酔いを醒まさなければと自販機で買った水を頭から引っかぶる僕たちの姿は、とてもこれからステージで演奏するバンドの姿だとは思えなかっただろう。

 剛田はトイレに篭もってゲロゲロ吐くし、鮎川はこっくりこっくり船を漕いでいるし、まひるは鏡に映った自分と物凄く陽気にお喋りしている。

 結局、酔いなんか一つも醒めないまま、僕たちの出番がやって来た。

 メンバー全員が泥酔、ヘロヘロのまま舞台袖に移動する際、僕はある種腹を括った。

 ――もうどうなったって知らねーや。

 そう思った瞬間、最後の糸がぷっつりと音を立てて途切れた。

 僕たちは雰囲気に呑まれるのだ。僕たちは酒にも飲まれるのだ。

 僕は大きく両手を広げてステージに飛び出し「広島のニーチャンネーチャン、元気ですかァー!!」と叫んだところまでは辛うじて覚えているのだが、それ以降は一切記憶がない。

 その日ステージで何を話し、何を演奏したのか僕たちはまったく覚えていないのである。

 次に目を覚ましたときはもう翌朝だった。僕たちは出番を終えた後、楽屋の隅に転がってそのまま寝ていたみたいだ。体に傷がないのでどうやら暴動には至らなかったようだが、とにかく何も覚えていないということが堪らなく怖かった。

 二日酔いで重たい体を起こし通路に出ると、そこのライブハウスのオーナー・加治屋さんと出くわした。やばい……。僕たちは再び四人揃っての土下座も辞さない覚悟を決めていたのだが、予想に反して加治屋さんは僕たちの顔を見るなりいきなり吹き出して笑い始めたのだ。

 事態が飲み込めずにキョトンとする僕たちを見て、加治屋さんは笑いながら問い掛ける。

「今起きたんか?」

 なんだかよくわからないが、とりあえず僕たちはおずおずと頭を下げて謝った。

「昨日はどうも、すみませんでした……」

 それから僕たちは正直に記憶がないことを話し、加治屋さんの口から事の顛末を聞いた。

 まず僕たちの演奏はやはり、相当に酷かったらしい。

 まひるは好き勝手に思うがままのリズムを叩き、剛田のベースは滅茶苦茶、僕のギターはフニャフニャという凄まじい不協和音の中、ボーカルの鮎川はステージの上にちょこんとへたりこんだまま歌い、見事に音程を外しまくっていたという。

 加治屋さん曰く「ここまで酷い演奏は聴いたことがない」と言わしめるほど想像を大きく下回った僕たちの体たらくに、客席はもはや怒りも呆れも通り越して大爆笑だったそうな。

 その後も僕は、剛田・まひるとともになにやらノリノリで醜態を晒していたそうだが、その辺りから怖くなって、詳しく尋ねるのをやめた。

 よくそんな状況で「帰れ」を言われなかったものだ。もしかしたら失態も極めてしまえば怒られないのだろうかと邪な発想が脳裏を過ぎったが、どう考えても今回はただ運が良かっただけである。お客さんもそれなりに楽しんでくれたみたいなので、ひとまずは安心なんだが、僕たちは冷や汗が止まらなかった。

 ――『HAPPY★RUNNERS』の歴史に、またしても黒い一頁が刻まれたのである。

 しかし、そう悪いことばかりでもない。

 加治屋さんはかつて、大阪で出会った安斎さんや、名古屋でお世話になった根中さんと一緒にバンドを組んでいたメンバーの一人らしく、聞くところによると彼らも若い頃、酔っ払ったままステージに出て客と喧嘩になり、いくつかのライブハウスを出入り禁止にされてしまったことがあったらしい。

 安斎さんがボーカルで、根中さんがギター、加治屋さんはドラムス……。

 それからあともう一人、キーボード担当の人がいたそうだが、その人は今どこで何をしているのかと尋ねたところ、非常に面白い話が聞けた。

 その人はバンドを解散した後、東京に出て某有名レコード会社に就職したらしい。

 そして現在ではそこの会社で、音楽プロデューサーをやっているという。

 その人の名前は〝佐山さん〟というそうだ……。


                   ♪♪♪


 話は少し前後することになるが、大阪を発ったその日の晩に、『THE YELLOW SWAN』のボーカリスト・井上さんから、僕たち宛てに一通のメールが届いた。

 内容は、ネット上に彼女たちが設営している『THE YELLOW SWAN』のサイトがあり、今回そこのブログページで、僕たち『HAPPY★RUNNERS』のことを動画付きで紹介したいのだが了承を貰えないだろうか、とのことであった。

 良いも悪いも、断る理由なんかどこにもない。是非お願いしますと返信したところ、早速翌日には該当の記事がアップされていた。

 僕たちのことについては、『THE YELLOW SWAN』の活動記録に加えて少し触れる程度だろうと思っていたのだが、実際は冒頭からほぼ全面にかけて、僕たちのことがかなり詳しく紹介されていたので少し驚いた。記事に添付されていた動画は、大阪・最終日にで演奏した『人生を語らず』と『夢追い人』のライブ映像で、恐らくは井上さんか安斎さん辺りが内緒でこっそりと撮影しておいてくれたものだろう。

 僕たちにしてみても、あの日の様子を客観的に見ることが出来てとても有り難い。

 そしてなによりも、記事の最後に記されていた井上さんのコメントに、僕たちは感激した。

〝最近色々あって音楽を続けていこうか真剣に悩んでいたけど、彼らの素晴らしい音楽を聴いて、もう少し頑張ってみようかなと思いました。――〟 

 それを受けて『THE YELLOW SWAN』のファンの方々も、かなりの関心を寄せてくださったらしく、きっと各々で『HAPPY★RUNNERS』のことを調べてくれたのだろう、僕たちが自ら投稿サイトに上げていた動画の閲覧数が桁違いに伸びていた。コメントもいきなり数百件と書き込まれ、それを目の当たりにした僕たちは、井上さんたち『THE YELLOW SWAN』が、いかに人気と影響力を持ったバンドであるのかということを再認識させられるのだった。

 …………。

 山口県・下関市にある関門峡を抜け、いよいよ我らがふるさと、九州は福岡県内に入る。

 福岡といえば、博多、祇園山笠、天神、中洲、とんこつラーメン、辛子明太子、屋台、にわかせんべい(?)……あとは、何が有名だっけ?

 正直なところ、僕たちは去年までずっと福岡に住んでいたので、他県の人たちにとって何がメジャーで何がマイナーなのかということが、いまいちよくわからない。

 それじゃあ逆に、東京に出てみて感じたギャップという観点で考えてみよう。

 こういうとき、まず真っ先に挙げられそうな方言は意外とそうでもなかったんだよな。まぁ最近はもう地方にも標準語が浸透しているから、言葉の壁は失われつつあるのかもしれない。

 博多弁にしたって「~ばってん」とか「ちかっぱ」とかは僕たちだって使ったことないし。

 東京に出てびっくりしたことといえば、やっぱり人の多さとビルの高さだな。

 東京の人の多さは今さら言及するまでもなかろう。ただ、意外だったのは東京に出てみてはじめて、福岡って高層ビルが全然ないんだなと気づいたこと。

 福岡に高いビルがほとんどないのは、空港が近いからだという説を聞いたことがあるけど、どうなんだろう。

 それからあとギャップを感じたことといえば食文化。これに関しては細かい部分でたくさんある。たとえばラーメンの替え玉や、ごぼう天うどんなんかがマイノリティーだと知ったときは驚いたし、中でも一番大きなギャップを感じたのは焼き鳥である。

 意外と知られていないようだが、焼き鳥は福岡の人たちにとってかなり親しみの深い食べ物だ。僕や他のメンバーも、幼少の折から家族と一緒にしょっちゅう居酒屋さんに通っていた。お誕生日会や部活の打ち上げなんかでも、居酒屋で焼き鳥は定番だ。

 しかし他県の人たちからすると、これがちょっと考えられないことらしい。

 つまり、焼き鳥を出すような居酒屋といえば、酒飲みのおじさんたちが集まるところというイメージしかないというのだ。そりゃあもちろん、お酒を飲みに来るおじさんたちもたくさんいるけど、福岡の居酒屋では家族連れのお客さんなんて別に普通の光景である。

 またメニューに関しても、福岡で人気ナンバーワンの焼き鳥は、豚バラ串だと東京の人に話したところ、えぇ~という顔をされた。彼らの言い分としては、何で焼き鳥なのに鳥じゃないものが一位なのかということだ。まぁ、確かに言われてみればそうだけど、そんなこと疑問に感じたこともなかったな。さらに二位が鳥かわだと言ったところ、これまた、えぇ~という反応である。一般的に鳥かわなんてのはどちらかといえば通好みにメニューだそうで、焼き鳥の代表格といえば、普通はむね肉やもも肉らしいのだが、僕たちからしたらさっぱりピンと来ない話である。というか、そもそも焼き鳥といえば、豚バラと鳥かわを食べるもんだというのが福岡に住む人たちの考え方だ。極端に言えば、豚バラと鳥かわ以外は別に食べなくてもいい。本当の話、僕は焼き鳥でむね肉やもも肉なんてほとんど食べたことがないし、他のメンバーに聞いてもみても、それは同じようだ。……とまぁ、福岡県民あるあるはこのくらいにして。

「ようし! それじゃあ、盛大に凱旋パレードといこうか!」

 料金所を抜け、市街に下りながら剛田がそんなことを言い出した。

 東京を発つ際にもやったあれを、ここに来てもう一度やろうというのだ。

 車を走らせながら窓を開け、剛田は外に向かって大きな声を張り上げる。

「――ご近所の皆さん! 世紀のスーパーバンド『HAPPY★RUNNERS』でございます!  ロックンロールの福岡県代表! 皆様の『HAPPY★RUNNERS』がこのたび心機一転、帰って参りましたっ! 『HAPPY★RUNNERS』、『HAPPY★RUNNERS』を、どうかよろしくお願いいたします! 温かいご声援、ありがとうございます! ありがとうございます!」 

 まひるも窓を全開にして、何故か童謡の『ふるさと』をノリノリで歌っている。鮎川は即興ギターで伴奏を弾いていた。僕もこうしちゃあいられない。助手席の窓から顔を出して、沿道を歩く人々に素敵な笑顔を振り撒いてゆく。

 東京から名古屋、大阪、広島と巡って来たが、やっぱり別格の感慨があるものだな。

 こうして街並みを眺めているだけでも〝あぁ、地元に帰って来たんだなぁ~〟って感じがする。みんな一年ぶりの故郷に感動し、すっかりテンションが上がっていた。


                   ♪♪♪


 それから僕たちが向かった先は地元のライブハウスである。

 そこは大学二年の夏、僕たちが初めて出演を経験したハコであり、それからも去年上京するまでの三年間、度々お世話になったある意味僕たちにとってのホームグラウンドだ。

「おぉ、久しぶりやんなぁお前ら~! 元気しとったや?」

 馴染みのオーナーさんは、人好きのする笑顔で帰省した僕たちを迎えてくれた。

「なんやなんや~? さては東京でやって行くとば諦めて帰って来たんやろ~?」

 早速そんなことを言ってくるオーナーに対し、剛田はつんと澄ました顔で首を横に振る。

「まったく冗談は顔だけにしてくださいよ。俺たちはそろそろプロになる予定ですからね? 雲の上の人になっちまう前に、凡俗どもの世界を見納めに来たんですよ」

「はっはっは! 相変わらずいい根性しとるなぁ~!」

 冗談を交えつつ談笑し、ついでに近々飛び入りで出演できるイベントがないかと尋ねたところ、約二週間後、八月二十五日のイベントに一つ空きがあるという返答を貰った。知り合いの好で早速そこを押さえてもらい、ある程度話し込んだところでライブハウスをあとにする。

 車に戻ったところで、これからどうしようかという話になった。

 ライブはまだ二週間も先ということなので、これまでのように詰め込みで練習する必要はない。だが裏を返せば、二週間後のライブまでは福岡にいなければならないということである。正直な話、今の時点でも残された費用はかなりかつかつの状態だ。帰りの分も考えると、これから二週間というのはちょっと厳しい。その辺りも考慮した結果、やっぱりそれぞれ一度実家に帰ろうかという意見に落ち着いた。食費やガソリン代もそれで節約出来るし、まぁ久々なんだから、家族に元気な顔を見せてやってもいいだろうということだ。

 それぞれの家を近い順にまわり、必要な荷物だけを持って帰る。

 車は全員を送り届けたあと、剛田ンちに置いておくそうだ。

 何かあったら、ケイタイで連絡を取り合おうと告げてから別れる。

 ――とまぁそういうわけで、僕は今一年ぶりに我が家の前に立っているわけなんだが……。

 さて、ここからが問題だ。

 以前にも話したと思うが、僕はミュージシャンを目指して上京すると決めた際、両親とかなり揉めた。すったもんだの末に同じ境遇であった剛田と一蓮托生し、遂には両親の反対を無理やり押し切る形で家を飛び出して来たのだ。しかもそれ以来、実家とは一度も連絡を取っていないという完璧な馬鹿息子である。……はっきり言って、バツが悪い。今さらどんな顔をして会えばいいというのか。

 僕があれやこれやと策を巡らせながら門扉の前で立ち往生していると、玄関の扉がガチャッと開いて中からお姉ちゃんが出てきた。何故か手にはゲバ棒を持っている。おおかた家の前でうろうろしている僕のことを、不審者か何かと勘違いしたのだろう。そこで追い払いに出張ってくるところが、なんとも僕のお姉ちゃんだなぁ~と感じる。僕よりも四つ年上のお姉ちゃんは、もやしっ子の僕とは対照的に幼い頃から非常に活発な女の子だった。小学生のときには空手を習い、中学・高校では剣道部に所属して主将まで努めた武闘派である。僕がいじめられたときには颯爽と助けに来てくれたし、姉弟で喧嘩をしたときにはもちろん一発で泣かされた。ちなみにそのお姉ちゃんは今、近所のケイタイショップで働いている。ついでに紹介しておけば、母さんは噂とワイドショー好きの専業主婦、父さんは役所勤めの生真面目な公務員である。

「――あれ? ケンじゃない」

 不審者の正体が僕であることに気づくと、姉ちゃんはゲバ棒を持った手を緩めて、少し意外そうな顔をした。

「そんなとこで何してたの?」

「い、いや、別に……」

「中入りなよ?」

「う、うん……」

 姉ちゃんは僕を家に入れたあと、リビングの方にいる母さんを呼びに行った。

「ねぇ、お母さーん。ケンが帰って来たんだけど」

「えー?」

 という二人のやり取りが聞えて来た。

 今度こそ来るぞ、と内心覚悟したのだが、母さんは僕を見ると「あ、ホントだ。あんた帰って来るなら予め連絡ぐらいしておきなさいよねー」と言うだけで、それ以上は特に何も追及して来なかった。僕はなんとなくそのままの流れで自室に上がり、クーラーの効いた涼しい部屋でのんびりと昼寝をして過ごす。なんだか少し拍子抜けである。良くも悪くも、お互いもっとヒートアップするかと思っていたからだ。

 夕方になると、父さんが帰って来たが、「元気にしてたか?」「バンドの方はどうなんだ?」と訊かれる程度で、やはり怒鳴られるようなことはなかった。

 僕とお姉ちゃんで母さんを手伝い、約一年ぶりとなる家族四人揃っての夕飯。

 僕はそこで東京での暮らしぶりについてや、この一年間で起こった様々な出来事などを面白おかしくみんなに話した。父さんと姉ちゃんはビールを飲んで機嫌良く酔っ払いながら、お酒が飲めない母さんも終始楽しそうに笑っていた。

 家族団欒の和やかな空気の中、姉ちゃんは僕たち『HAPPY★RUNNERS』のことがちょこっとだけ載った音楽雑誌を持って来て、父さんと母さんに見せはじめる。僕は恥ずかしいからやめてくれと言ったのだが、ほろ酔い加減の姉ちゃんは「いいじゃんかー、ケチケチすんなよー」と笑いながらヘッドロックをかけて来た。まったく困ったやつである。こんなんじゃ、まだ当分お嫁には行けないな。言ったら怒られそうなので言わないけどさ。

「剛田くんやまひるちゃんも元気にしてるの?」

 母さんから訊かれたので、僕は首もとに絡みつく姉ちゃんの腕をタップしながら、もちろんピンピンしてるよと答えた。

 すると母さんは何か重大なことを思い出したような顔つきになって、

「あっ、そうそう。ねぇ健一、知ってる?」

 そして僕は、そこで少し気になることを聞いた……。

「剛田くんのお父さんがお仕事中に倒れて、今入院してるんだって」


                   ♪♪♪


 ――親父が倒れた。

 一年ぶりに顔を合わせたおふくろから、挨拶もそこそこにそんなことを告げられた俺は、一瞬で頭の中が真っ白になるほどの衝撃を受けた。

 それは四日前の月曜日。昼過ぎにお得意先である近所の定食屋に米を配達して帰って来た親父は、それから車を降りたところで眩暈を起こし、そのままぱったりと倒れてしまったそうだ。幸いにも、そのときちょうど目の前におふくろがいたため、すぐに救急車を呼ぶことが出来た。医者からの診断結果は過労による貧血と軽い熱中症。処置が早かったため大事に至ることはなかったが、今は検査のために一時入院しているらしい。

 来週には退院できるから別に心配はいらないとおふくろは笑って言ったが、俺は自分でもびっくりするくらい、何故かショックを受けていた。

 あの親父が倒れたということが、俄かには信じられない……。

 親父の人物像を語る上で、俺が覚えている最も古い記憶は幼稚園の頃。俺が誕生日に買って貰った仮面ライダーの人形を同級生のガキ大将から奪い取られたときのことだ。

 その頃の俺はまだ他のやつらよりも体が小さかったし、心も弱かった。ガキ大将から一方的に小突かれて、なす術もなく泣き帰った不甲斐ない俺をおふくろは優しくなだめてくれた。「一緒にその子のお家へ行って、返してもらえるように頼んであげるから」と。……だが、親父はその話を聞くや否や、制止を促すおふくろを押し退け、まだ四つか五つの俺を思い切り張り飛ばしたのだ。その力は、ガキ大将のげんこつなんかとは訳が違った。漫画みたいに吹っ飛ばされて、鼻血を垂らしながら泣き喚く俺に、親父はこう怒鳴ったのだ。

「篤志ッ、てめぇそれでも男か! 男だったら欲しいもんは何が何でも奪い取って来い! 奪われたもんは、奪ったやつを八つ裂きにしてでも取り返して来い! それが出来るまでは、絶対に帰って来るんじゃねえぞ!!」

 とてもじゃないが、まともな親が年端もいかない子供に言うセリフとは思えない。しかもこれが冗談などではなく、実際に俺はそのあと無理やり家から放り出され、いくら泣いて頼んでもガキ大将からオモチャを取り返して来るまでは決して家に入れてもらえなかった。

 思い返せば、幼き日の俺はいつも親父から殴られていた。

 殴られる度に俺は親父を畏怖し、親父を嫌い、親父を憎み、そして強くなりたい、大きくなりたいと願いながら育ってきたんだ。

 俺の親父は時代遅れの亭主関白で、嘘や曲がったことが大嫌いな男だった。だけど太く真っ直ぐな反面、酒に酔って荒れることも多かったし、かんしゃく持ちで、暴力的で、とてもいい父親だったとは言えないだろう。けれど俺にとってはとてつもなく大きな存在だったのだ。強くて、逞しくて、このクソジジイ、ぶっ殺したって死なねぇんじゃないかと思えるくらい。俺は親父のことを、決して越えられない壁のように思っていた。

 そんな親父もやっぱり人間で、歳を取るにつれて弱くなって行ったんだと思うと、やるせない気持ちで胸がいっぱいになる。本当は俺だって、とっくに気づいていたはずなんだ。俺が大きくなるにつれて親父は歳を取って行った。子供の頃、あんなに大きく見えていた親父の背中がいつの間にか見下げるほどに小さくなって。高校へ上がる頃になると、親父はもう俺を殴らなくなっていた。そして俺も中学の頃みたく、体当たりで親父に反抗しようとはしなくなった。俺は怖かったんだ、親父に勝ってしまうことが……。俺はきっといつまでも、親父に越えられない壁であり続けて欲しかったんだ。――

 おふくろと二人きりの食卓。なんだか酷く物静かで、部屋の中はがらんとしていた。

 おふくろは親父がいない間、こんなにも寂しいところで、一人暮らしていたのだろうか。

 ふと、いつも親父が座っていた場所を見れば、色あせた座布団がぽつんと置かれていた。

 晩飯時にはいつも酔っ払い、真っ赤な顔をして野球を見ながら、テレビに向かって口汚い野次を飛ばしていた親父の姿はそこにない。

「……」

 夕食を済ませた俺は、それから一人自室のベッドに転がって、何をする気にもなれずぼんやりとシミの多い天井を眺め続けていた。不意に軋んだ音を立てて、誰かが古い木造の階段を上ってくる。こんこんと控えめに部屋の扉が叩かれた。

「篤志、入るぞ?」

 そう言って姿を現したのは、細身で皺一つないスーツをぱりっと着こなした、エリートビジネスマン風の若い男。整えられた黒い髪とフレームの薄い眼鏡が、大人の聡明で落ち着いた雰囲気を感じさせる。

 俺は突然の来訪者に気分を害しつつ、ベッドから重たい体を起こした。

「兄貴……」

 ――俺よりも二つ年上の兄貴は昔から優秀な奴だった。頭が良くて、スポーツが出来て、その上スタイルが良く顔立ちも整っているから、女にもモテていた。絵や作文を書けば必ずコンクールで賞を取ったし、中学・高校では生徒会長まで努めるほどの秀才だった。俺から見た兄貴は、いつだって人気者でみんなから頼られ、キラキラとした羨望の眼差しを一手に受けながらも平然と立っているような印象だった。俺はそんな兄貴と常に比べられて来たんだ。「恭介に比べて篤志は……」そんな陰口を、耳にタコが出来るくらい何度も聞いた。実際、俺が兄貴よりも勝っていることなんて、せいぜいタッパと腕力ぐらいだ。俺はいつだって兄貴の陰に隠れながら生きてきた。親父も俺のことは問答無用で殴るくせに、兄貴に手を上げたことはなかった。俺が体力派なら、兄貴は理論派。俺が負け組なら、兄貴は勝ち組。俺たち兄弟はそれくらい何もかもが対照的だった。だから出来の悪い俺は、昔から出来のいい兄貴のことが大嫌いだった。そしていつだって俺は、そんな兄貴に死ぬほど憧れていたんだ……。

 久しぶりに兄貴と再会した俺は、途端に居心地が悪くなってシーツの端を握りながら顔を背けていた。いつだってそうだ。俺は兄貴を前にすると、自分がひどくちっぽけで、惨めに思えて仕方がなかった。気まずさを紛らわせるため、どうでもいいことを舌先で転がし出す。

「仕事はいいのかよ。毎日夜遅くまで大変らしいって、おふくろから聞いたけど……」

 実家を出た兄貴は、難関エリート大学を首席で卒業したのち、超一流外資系企業に難なく就職し、そして一昨年の春には結婚。今はモデルみたいに綺麗な嫁さんと、高級住宅街で暮らしている。もうすぐ子供も生まれると聞いた。……ホント、堂々たる勝ち組人生だな。

「今日は早めに切り上げて来たんだ。昼頃に母さんから、電話でお前が帰って来たと聞いたんでな、少し話をしようと思って」

 部屋に入って来た兄貴は机の前の椅子を引き、俺と向かい合うようにして静かに腰を下ろす。すっと長い脚を組む仕草が、なんだかすごく板について見えた。

「……」

 あてつけに煙草を取り出し、火をつける。エリートの兄貴は、エリートらしく煙草が嫌いだった。仕立てのいいスーツに臭いが付くのはさぞかし嫌な気分だろうな。けど、ここは俺の部屋なんだ。嫌なら出て行けばいい。もし火を消せと言われたら、そう返してやるつもりだった。しかし兄貴は一瞬目を眇める程度で、そのことに関しては特に何も言わなかった。その理性的な姿勢が一層俺を苛つかせる。兄貴に言わせれば、俺の卑しい魂胆なんてすべてお見通しなのかもしれない。

「……それで、話って何だよ」

 仕方なく促すと、兄貴は落ち着き払った低い声で淡々と話し出した。

「父さんが倒れたことは、母さんから聞いてるな?」

 俺はそっぽを向いたまま答えない。それでも兄貴は構わず話を続けた。

「父さんと母さんも、もう歳なんだ。そろそろ楽をさせてやりたいと思わないか?」

 兄貴の言いたいことはわかってる。まどろっこしいのは嫌いだった。

「どうせ俺に家を継げって言いたいんだろ……」

 兄貴は怯むことなく「ああ、そうだ」とはっきり頷いた。「お前もそろそろ落ち着いた方がいい頃合だろう」と。だが俺は、そんな兄貴の言い分が気に入らなかった。

「兄貴にそんなこと言われたくねぇな……」

 兄貴の顔を直視することが出来ないまま、俺は吐き捨てるように言った。既にその時点で俺は負けていたのだろう。

「何故だ?」

「だって家を継ぐのは本来、長男である兄貴の役目だろ……」

「俺にはきちんとした職がある。それに家庭もな? お前とは違うんだよ」

 無駄な抵抗だとわかっていた。兄貴と言い争ったって勝てるはずがない。そもそも、頭の出来が全然違うんだ。馬鹿な俺が何か言ったところで、兄貴の心には響かない。言い負かされるに決まっている。それでも俺は、自分の中で高ぶる感情をどうしても抑えられなかった。

「そんなの、結局テメェの勝手じゃねーかよ」

「何が勝手なんだ?」

 兄貴は腕を組み、不意に深く溜息を吐いた。呆れ果てているといわんばかりに。

「ハタチを過ぎて、大学まで出させて貰って、お前一体ナニやってるんだ……? 就職もせず、家業の手伝いもやろうとしない。おまけに頭の悪そうな連中とつるんで、バンド活動だと?」

 眉間に皺を寄せた険しい表情のまま、兄貴は唇の端を皮肉に歪めて小さく哂った。

「いつまで子供みたいなことを言ってるつもりだ……? お前のやってることなんて、世間の目から見れば単なる現実逃避だぞ? みっともないとは思わないのか? 恥ずかしいとは感じないのか?」

 ――うっせぇよ……。

「そんなつまらない幻想は捨てて、もっと真っ当に生きろ。お前がここを継いでくれれば、父さんや母さんだって安心するだろう。もちろん俺だってそうだ。本当は、お前だってわかってるんじゃないのか? 今のお前は、実質ニートやひきこもりと変わらない、社会のクズだ。お前はそれでも構わないかもしれないが、父さんや母さんの気持ちになって考えてみろ。親を惨めな気持ちにさせて、お前はそれでも平気なのか? どうなんだ篤志?」

 ――黙れ。

「自分の思った通りにやってみたいって、お前の気持ちも解らんではない。だがな、現にこれまでお前のやろうとしたことで、何か一つだって上手くいったためしがあるのか? ないだろう? それが現実だ。悪いことは言わない。ここは大人しく俺の言うとおりにしておけ。そうすれば全て上手くいく。結局はお前にとっても、それが一番……」

「――うるせえッてんだ、このクソ野郎ッ!!」

 堪えきれず怒鳴った俺は勢いで灰皿を壁に投げつけた。乱暴な音を立てて、煙草の灰と吸殻が床に散乱する。それでも、兄貴は顔色一つ変えなかった。じっと俺の目を見据え、ひいては心の中の震え上がるような思いを簡単に見透かしてくる。

「……都合が悪くなるとすぐこれだ。カッとなって大声を出し、暴力を振るう。だからお前は何をやったって駄目なんだ。昔から何一つ成長していない。馬鹿のままだ」

「ずりぃよ兄貴は! 昔から俺の話なんか聞こうともしねぇで! 自分は正しい、お前は間違ってるって! そういうふうに、とどのつまり俺のことを見下してやがるんだ!」

「そんなことはない。そう思うのは、お前の中に自分が劣っているという自覚があるからだ」

 悔しかった。兄貴の言っていることが正しかったから。俺は死ぬほど悔しかったんだ。

 だからつい言ってしまった。――これだけは言わないつもりでいたのに。言ってはならないと思っていたのに。何よりも俺自身、こんなこと口に出したくなかったはずなのに。

「なんだかんだと言いながら、結局のところテメェはただ嫌なだけなんだろ!」

「何だと……」

 その瞬間、鉄仮面みたいだった兄貴の表情が僅かに揺らいだ。

 なぁ兄貴、仮にも俺たちは兄弟なんだよ。二十年近く一つ屋根の下で暮らしてきたんだ。兄貴に俺のことがわかるのと同じように、俺にだって少なからず兄貴のことがわかる。

「この家を継ぐことが嫌で、親父のことが怖くて、テメェは必死で逃げ回ってたんだ。勉強したのも、いい会社に入ったのも、さっさと結婚したのだって、何かと理由をつけてこの家から逃げ出したかったからだろ!?」

「……ッ!」

 いくら兄貴だって完璧じゃない。当たり前だよな、人間なんだから。

 俺は俺の知っている兄貴の人間らしい部分、つまりは弱さってやつを容赦なく責め立てた。

「汚ぇよ、テメェは……。自分が嫌だからって、それを俺に押し付けようとしやがって……。親父の為だと? おふくろの為だと? ましてや俺の為? 笑わせんな。テメェみてぇな奴のことを、世間じゃなんて言うか知ってるか? ――偽善者っていうんだよ、この卑怯モンが!」

「篤志ッ!!」

 兄貴の平手が、俺の左頬をぴしゃりと打ち据えた。一瞬何が起こったのかわからず、頭の中が真っ赤に染まる。そして気づいたとき、俺は半ば反射的に叩かれた反動を使って振り被り、兄貴の顔面を思いきり拳で殴り返していた。

 まともに喧嘩なんてしたこともないのだろう。兄貴の細い体は、いとも容易く吹き飛んだ。

 思わず胸が張り裂けそうになる。俺は即座に激しく後悔した。

 俺は、なんてことを……。

 慣れない暴力を受け、倒れ込んだ兄貴は蹲ったまま動けないでいた。

「兄貴っ!」

 俺は慌てて駆け寄り、兄貴の体を抱き起こす。兄貴は今も昔も、何も間違っちゃいない。悪いのは全部俺なんだ。間違っているのは俺の方なんだ。

「悪ぃ……。俺、こんなつもりじゃ……」

 兄貴はいいんだというように俺の支えを断って立ちながら、こちらを振り返った。

「……篤志」

 あれだけ激しく言葉を交わしていたのに、そのときになって初めて、俺は兄貴と目が合ったような気がした。

「明日、父さんの見舞いに行こう」

 そう告げた兄貴の唇からは薄っすらと血が滲んでいた。俺は堪らず顔を伏せる。

「あぁ、わかったよ……」


                   ♪♪♪


 翌日の正午過ぎ、楽器を持った僕たちは近所の河川敷に集まっていた。

 朝から特にやることもなく、だからといってじっと家に閉じ篭もっているのもつまらないので、遊びがてらにセッションでもやらないかと、僕からみんなに連絡をまわしたのだ。

 炎天下の中、ガード下の日陰に陣取って、適当にコピーやオリジナルを流してゆく。

 しかしなんだか今日は身が入らなかった。どうにもサウンドが空虚で、音のノリが悪い。

 そうを感じているのが僕だけじゃないことは、みんなの表情を見れば一発でわかる。

 惰性で続けるようなことじゃないと思った僕は、ぱっと演奏を止め、「少し休憩しようか」と提案した。それぞれ一度楽器を置いて、ハンドタオルで汗を拭きつつ、水分を取る。

「……」

 僕はふと気になって、剛田の方を振り返った。

 今日のあいつは全然喋らない。ここに来たときからそうだった。なんだかずっと難しい表情をしていて、心此処に在らずといった印象を受ける。

「剛田くん、元気ないね。どうしたんだろう」

 鮎川もいつもとは明らかに様子の違う剛田を見て、少し心配しているようだ。

 剛田はコンクリートの段差に浅く腰をかけ、顔を隠すようにタオルを頭から被ったまま、ひどくぼんやりとしている。

 僕は鮎川に、昨日の夕食の折、母さんから聞いた話を伝えようかと迷ったが、少し考え、やっぱりやめておいた。勝手な憶測だけで、鮎川に負担をかけたくない。それにこういうことは本人の口から言うべきことだ。あいつが黙っているのなら、そっとしておくのが一番だろう。

 僕は努めて明るい表情と声音を選び、「まぁ、こういう日もあるさ」とだけ言っておいた。

「今日も暑いね……」

 鮎川の気だるげな一言に促され、ふと日向に目を向ける。真夏の太陽の下、景色はその圧倒的な光量によって白くぼやけ、辺り一帯からは燃え盛るように陽炎が立ちのぼっていた。

 しばし気の抜けたビールみたいに、生ぬるい空気が僕たちの間をゆっくりと流れて行く。

 ――ふとそこへ、場違いみたいに明るく携帯電話の着信音が鳴り響き、「ほいほーい」と軽薄に応答したのは、いつも通りマイペースのまひるだ。

「……うん、うん。みんないるよ? うん、わかった。じゃあゴリラに代わるね」

 何やら親しげに言葉を交わしたあと、まひるは剛田の側に寄って電話を取らせた。

 手の空いたまひるに誰からだと訊いてみたところ、相手は大阪でお世話になった『THE YELLOW SWAN』のボーカリスト・井上さんだという。ついでに知ったのだが、まひるはあれ以来、井上さんと頻繁にメールや電話でやりとりをしているらしい。最初は犬猿の仲だったのに、まったくこいつには妙な人徳があるから不思議だ。まぁ、そんなことはさておき。

 僕たちは井上さんとの通話を終えた剛田の口から、驚くべき事実を聞いた。――

 まず事の発端は昨日の夕方頃、井上さんのところに一本の電話がかかってきたところから始まる。相手はとあるインディーズレーベルのプロデューサー。そしてその用件というのが、『THE YELLOW SWAN』のサイト上にアップされている動画を見て少し気になったので、僕たちの連絡先を教えて欲しいということらしいのだ……。

 つまりこれって、所謂スカウトというやつじゃないのか。

 いやいや、待て待て。突然降って湧いたような上手い話に、僕は一瞬、詐欺や悪徳商法の類じゃないのかと疑念を抱いたが、どうやらその人のことは井上さんも知っているらしいので、その点に関しては心配いらないという。

 俄かには信じられない話だが、とにかくまずは事実かどうかを確認することが先決だ。

 すぐさま井上さんから教わった番号に、こっちから問い合わせてみる。

 メンバーを代表して、剛田が向こうの人と話をすることになった。

「――あ、どうもはじめまして。わたくし『HAPPY★RUNNERS』の剛田と申します。『THE YELLOW SWAN』の井上さんからお話を伺いまして……はい、ありがとうございます」

 さっきまで沈みきっていた剛田の声が明るくなるのを聞いて、僕たちの期待は一気に高まった。途端にプロデビューという輝かしい単語が頭の中を埋め尽くして、僕たちは声を漏らさぬようにと気をつけながら、爛々と目を輝かせ笑みを交し合う。

 が、しかし……。

 しばらくすると何故か剛田の表情にふと翳りが見え始めた。傍から聞いている僕たちには会話の内容も何もわからない。しかし、剛田の表情がどんどん複雑なものになっていく様子を見て、それぞれの顔からも自然と喜びの色が立ち消えてゆく。

「――そうですか……。わかりました……」

 不意に電話越しでのやりとりを打ち切って、剛田は「姫」と力ない声で鮎川を呼んだ。

 呼ばれた鮎川は「えっ、私?」と驚いて自分を指差す。剛田は暗い面持ちのまま頷き、「話があるそうだ」と繋がったままの携帯電話を手渡すのだった。

 鮎川は俄かに首を傾げながら、おずおずと応対する。

「お電話代わりました、鮎川です。……はい。はい、そうです。――……えっ、それは……。はい。はい。そうですか……でも……」

 向こうの人と話す鮎川は終始浮かない顔をして、返事を濁している。

「どうしたんだ?」

 気になった僕は剛田に尋ねてみたが、奴は何故かだんまりを決め込んでいた。

 一体、何が起こっているのだろう……。

 数分間に渡る通話を終えて深い溜息を漏らす鮎川に、僕は直接聞くことにした。

 すると彼女は困ったように笑いながら、ううんと首を振り、

「何でもないの」

〝この話はもう終わりにしよう?〟と、そんなふうに言われた気分だった。

 そのとき。

「――プロにスカウトされたのは、俺たちじゃなくて、鮎川一人だったんだ」

 そう口に出したのは、剛田だった。

 鮎川はバツが悪そうに顔を伏せ、小さく身じろぎをした。

 僕は驚きを隠せない。だが、理解はすぐに追いついてきた。

 なんだ……。そういうことか……。

 全身から力が抜けてゆく。一瞬でも期待してしまった自分が馬鹿みたいだ。

 わななく唇が次第に吊り上る。

「……はは。どうせ、そんなことだろうとは思ってたんだ……」

 もっと気丈に言ってやるつもりだったけど、出てきた声は情けないほどに細く震えていた。

「ケンちゃん……」

 鮎川は窺いを立てるような目をして僕のことを真っ直ぐに見つめてくる。だけどその純粋で不安げな眼差しが、今の僕には堪らなく辛かった。僕は今の自分を見られたくなくて、ぐっと顔を下げ、足元の地面を睨みつける。髪を伸ばしていてよかったと思った。こうすれば長い前髪に隠れて、鮎川の位置から僕の表情は窺えないはずだ。

 羞恥心と嫉妬と、やり場のない怒りで今にも砕け散りそうになる自分自身を押し留める。

 そうして僕は言った。

「おめでとう、鮎川。よかったね……」

 心の中はひどく空っぽだった。

 乾いた夏の風が、草花のざわめきとともに僕らの間を通り抜ける。

 ふと顔を上げてみれば、鮎川の瞳が涙で揺れていた。

「――」

 自分の卑屈さに嫌気が差して、僕は僕を、殺したくなった。

「……どうして」

 苦しそうに胸元を押さえた鮎川は、心の底から訴えかけるようにそう言った。

「どうして……!」

 それから続きを発しようと口を開きかけるが、言葉は出てこない。ぽろぽろと、行き場のない感情が瞳から、大粒の涙となって零れ落ちていた。

「……――っ」

 唇を噛み締めるように引き結んだ鮎川は踵を返し、その場から駆け去った。

 彼女の背中を追いかけることすら出来ずに、僕は立ち尽くす。

 焼けつくような夏の暑さと後悔だけが後に残り、長く重たい沈黙の代償として、蝉の声がじわじわと鬱陶しいほど耳元にまとわりついた――……。



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