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明日に向かって走れ-Singer×Song×Runner-  作者: 早見綾太郎
~第三章「逆境の中で叫べ」(大阪編)~
12/20

第11話「逆境の中で叫べ(Ⅲ)」

                   ♪♪♪

 

「おい、ケン。ちょっと起きてみろ」

 剛田に肩を揺す振られ、僕は目を覚ました。

 昨日はあの後、男女交代で車に入り着替えを済ませてから、明け方前には眠りに就いた。だからなんだと言われれば、だから僕はまだ眠たいのだ。

「んー、頼むからもうちょっと寝かしてくれ……」

「ほら、いいから外に出てみろって」

「なんだよー、もぉー……」

 剛田に急かされ、僕は眠たい目を擦りながらしぶしぶと車を降りた。

 台風一過。翌日の朝には、雲の翳一つとどめない夏の青空が広がっていた。

 起き抜けからギンギンにノッているお天道様とご対面するのはかなりきつい。目がちかちかとして、手で庇を作った。そして。

「……え」

 気づいたとき、僕は一面鮮やかな向日葵畑に居た――。

 見渡す限り、鮮やかな黄色が視界のすべてを埋め尽くす。

「――」

 昨日は暗くてよくわからなかったのだが、僕たちが立ち往生していたのは、どう群生したのかもわからないくらい広大な、向日葵畑の中心を通る道だったのだ。

「フフゥン、どうだびっくりしたろう?」

 どこか自慢げな剛田の問いかけを無視して、僕はその光景に見入っていた。

 深い緑の茎や葉に、透明な水の粒を滴らせ、燦々と輝くあの太陽に向かって向日葵たちは一斉に首を伸ばしている。台風の爪痕は随所に見うけられた。激しい雨風に薙ぎ倒されて、花びらが欠けてしまったり、首が折れてしまったものもある。しかし、それでも光を浴びようと懸命に首を伸ばし、曙光を受けるその姿は感動的だった。

 僕は剛田と競合して、鮎川とまひるにもこのことを教えた。

 二人ともその光景を目の当たりにすると、やはり最初はびっくりしていた。

 まひるは「うわーい!」と声を上げて走り出し、すぐさま向日葵たちの中に自分もうずもれている。鮎川は「はぁ」と小さく感嘆の吐息を漏らして、うるうると目を輝かせていた。

 僕は不思議な気持ちになる。

 昨日、僕は一時の気の迷いとはいえ、どうして自分たちばかりがこんなに不幸なのかと嘆いていた。もしかしたら今、自分たちが世界で一番不幸なのかもしれないなんて思っていた。

 ――本当はこんなにも素敵なモノたちの中に囲まれて居たというのに、そのことに気づかず僕はそんなことを思っていたんだ……。

「きっと目に見えない物の方が多いんだろうな」

 剛田が不意にそんなことを言った。

「だから俺たちはいつだって見落としてしまうんだ。人は目に見えるものばかりを欲しがる。いずれ自分は、消えてなくなるというのに……」

 なんだか急に自分が恥ずかしくなった。こいつは偶にだが、すごくカッコイイときがある。

「俺はこれから見落とさねぇようにするぜ? たとえば今ここにある素晴らしき情景を」

 そう言った剛田は手鏡を使い、すっかり向日葵畑に見惚れている鮎川のスカートの中を覗こうとしていた。おい、台無しじゃねーかこの野郎。

 しかしまぁ奴の言うことにも一理あるので、僕も今後は見落とさないようにとその教訓を心に留め、失敬して覗かせていただいた。

 その後、ちょうど近くをトラクターで通りかかった農家のおじさんに事情を話し、タイヤが溝にはまってしまって身動きが取れないのだと伝えたところ、すぐさま近所に住んでいるという恰幅のいい男の人たちを五、六人ほど呼んで来てくれた。

 とりあえずは車に積んであるアンプやドラムセットなど重量のある機材を一旦降ろしてから およそ十人がかりで力を合わせ、なんとかタイヤを側溝から持ち上げることが出来た。親切なおじさんたちに心からの感謝を告げ、僕たちは向日葵畑をあとにする。

 目指すは再び、大阪市内へ。――

 昨日の夜から何も食べていなかったことを尋常ならざる空腹によって思い出した僕たちは、まず手始めに安い立ち食い蕎麦屋で盛大にがっつき、戦の前の腹ごしらえを済ませた。そのあと手近な公衆浴場に入って溜まった汚れを全て洗い落とす。清潔な衣服に着替え、心身ともに万全の体勢を整えたところで、僕たちが向かった先は昨日のライブハウスだった。

 あれだけ派手にやらかしたのだ。謝ったって、そうそう許してもらえるとは思っていない。ましてや、もう一度出演させてくださいなどと言い出せば、神経を疑われるだろう。

 しかし、それでもやるしかない。

 そして僕たちには、ある秘策があった。

 四人で気合を入れてから、毅然とした態度で事に臨む。


                   ♪♪♪


「お前ら何しに来たんや?」

 僕たちと対面したオーナーの安斎さんは、酷く不愉快そうに表情を歪め、凍てついた眼差しを容赦なく突き刺してきた。物凄い威圧感だ。

「……何をしに来たんかと、言うとんねん」

 怖い。そのあまりにも剣呑な雰囲気に、一刻も早く逃げ出したいと叫びかける弱い心を、拳とともにきつく握り締めて、僕は臆せず堂々としたふうを装う。

 安斎さんから見れば、今の僕たちは居直り強盗の如く傲岸不遜な輩に映っていることだろう。

 僕たちの態度が彼の逆鱗に触れるか触れないかというギリギリのタイミングで、剛田の奴が一歩前に出た。

 ――これが合図だ。

 僕たちは一斉に行動を起こす。

 跪いて手をつき、ぎゅっと床に額を押しつける。

 一連の動作を素早く正確にやってのけ、そして大きく声を揃えた。

「「「「すいませんでしたっ!!!!」」」」

 僕たち四人のシンクロ土下座を目の前に、さすがの安斎さんも度肝を抜かれているらしい。

「……えっ、いや、ちょ、――なにしてんねん!?」

 騒ぎを聞きつけて、ここの関係者の方々や他のバンドの人たちが一体何事かと集まって来る。そこであられもなく土下座をする僕らアマチュアバンド、それを見下ろしているオーナーという構図にみんな驚いた様子で一瞬固まり、それからひそひそとやりだした。

 あらぬ誤解を受けていると察した安斎さんは一気に焦り出す。

「いやいや、ちゃうねん! これは、こいつらが勝手になぁ!?」

 誰にともなくそう弁明するも、慌てたように安斎さんから顔を背ける人ばかり。

 いよいよと切羽詰った状況に陥り、安斎さんは僕たちに向かった。

「お、おい、お前らの気持ちはようわかった! せやから頭を上げなさい? なっ?」

 いや、まだだ。

 僕はここぞとばかりに思い切って言った。

「――どうかもう一度、僕たちにチャンスをください!」

「はぁ!?」

「もう一度、ここで演奏させて欲しいんです!!」

 間髪入れず、四人で再び声を揃えた。

「「「「お願いします!!!!」」」」

 野次馬たちのざわめきがどっと大きくなる。

「ええ加減にせえ!! 何を言うとんねん!?」

 思わず声を荒げた安斎さんだったが、すぐさま周囲の状況を省みて頭を抱え出す。

 安斎さんの反応を見てもわかる通り、申し訳ないが、これは謝罪とは名ばかりの恫喝だ。土下座なんてやられる方も堪ったもんじゃない。そうと知りながらやっている僕たちは確信犯である。ただし〝僕たち〟とは言っても、たぶん鮎川とまひるに罪の自覚はない。もともとこの案は僕が剛田にこっそりと持ちかけ、当初は男二人だけで密かに決行する予定だった。しかしひょんなことからうっかりとそれが露見した結果、鮎川が「そんなの駄目。やるんだったら私も一緒にやるからね」と言い出し、女の子に土下座なんかさせるわけにはいかない、こういう汚れ仕事こそ男の役目なんだよと必死の説得を試みたのだが、「こんなときだけカッコつけようだなんて、甘いんだよバカ!」とまひるから怒られ、僕と剛田はすっかり形無しである。

 しかしまぁ、そんな逞しい女性陣のおかげで、結果的にその効果は増大したといえる。

 単純に二人よりも四人で土下座した方が絵的にインパクトあるし、何よりもいたいけな女の子に土下座の格好を取らせ、その現場を第三者からばっちりと目撃されてしまっている安斎さんの心中を思うと罪悪感に駆られる。ホント、すいません……。

 困り果てた安斎さんは、やがて諦めたように脱力してこんなこと言った。

「お前らなぁ、プライドっちゅうもんはないんか……?」

 違う。そのプライドを貫きたいが為に、僕たちは今こうして頭を下げているのだ。

 音楽が好きだという一本の筋さえ通せるのなら、恥も外聞も捨てられる。

「あーもう、わかったわかった!」

 安斎さんは半ばやけくそに言って、降参というふうに両手を挙げた。

 僕たちは俄かに顔を上げて、伺いを立てる。

「……そ、それじゃあ?」

 安斎さんはしぶしぶといった様子で「ああ」と頷く。

「そこまで言うんやったら、やってもらおうか」

 僕たちは刹那に顔を見合わせて小さく笑うと、もう一度深く頭を下げた。

「「「「ありがとうございます!!!!」」」」

 安斎さんは呆れたように苦笑した。

「もうええっちゅうに」

 それから場を仕切りなおすようにパンパンと手を打った安斎さんは「さっ、もう話は着いたで? みんな早う自分の持ち場に戻れ。ほら、しっし!」と野次馬たちを退散させ、人払いが済むと深い溜息を一つ、再び僕たちの方を振り返った。

「……ったくホンマに、勘弁してや?」

 安斎さんの口元には「こいつめ」というふうに子供の悪戯を許容する大人の笑みが薄っすらと浮かんでいた。

「すいません、どうも」

 僕はちょこっと頭を掻きながら、軽く頭を下げる。

 もちろん、変な誤解を与えてしまった皆さん方には、あとで僕たちの方から挨拶にまわり、きちんとフォローを入れておくつもりだ。

 さて、散々お騒がせもしたことだし、それじゃあ僕たちは一旦おいとまさせて頂こうかと挨拶をして背を向けたところ、安斎さんの方からお声がかかった。

「ああ、ちょい待ち。お前ら、このあと時間あるか?」

 剛田が意外そうな顔をして応対する。

「え、ええ……。特に予定はありませんけど」

「せやったら、夕方からちょっとウチに来い」

「ウチって? 安斎さんの、ご自宅にですか?」

「おう、せや? 少し話したいことがあんねん」

 唐突なお誘いに、僕たちはしげしげと顔を見合わせて、俄かに首を傾げた。


                   ♪♪♪


 車に乗り込み、安斎さんの運転するポルシェの後を追うこと三十分。

 高台にある高級住宅街の一角に、氏の自宅は大きく居を構えていた

「おいおい、すげぇ豪邸だな」

 門を潜りながら剛田がそう感想を漏らす。

 安斎さんの指示に従って車を止め、降車した僕たちは広い敷地内をぐるりと見渡した。

 土地の広さを表現する目安として、よく〝東京ドーム何個分〟などという譬えが用いられるのだが、さすがに東京ドームほどではない。安斎さんの家は中学校の体育館ぐらい広かった。いまいちピンと来ないかもしれないけど、中学校の体育館ぐらいって言ったら結構広いのよ。嘘だと思うなら、今住んでいる自分の家が中学校の体育館ぐらいあるかどうか考えてごらん。日本にある平均的な一軒屋と比較すれば、四・五倍くらいかな。坪で数えられれば一番いいのだろうけど、生憎と僕には坪という単位がよくわからない。

 家は洋館風の三階建て、庭には芝生が敷かれており、サッカーが出来そうだ。

 チョロチョロとどこかから水の流れる音がするなと思ったら、庭のほとりに小さな池があった。赤と白の立派な錦鯉が、木漏れ日の揺れる水の中を涼しげに泳いでいる。

「やっほーう!」

 早速走り出したまひるは、青い芝生の上をごろごろと転がり、池を覗いて鯉を発見するや否や、「ねぇねぇ、これ捕ってもいい?」などと訊いてきた。いいわけねぇだろ。人ンちのペットだぞ。

 ……うーむ、しかし驚いたなぁ。

 ライブハウスのオーナーってこんなに儲かるものなのか。

 僕がそう思ったとき、ちょうど同じことを剛田が安斎さんに直接尋ねていた。

「はは、そんなわけないやろ。ここにあるもんはみんな、親から受け継いだ財産や」

 ニッと笑った安斎さんは、玄関の扉を開け、僕たちを促した。

「まっ、入れや?」

 お邪魔しますとまちまちに言って、皆おそるおそる足を踏み入れる。

 とりあえずはリビングに招かれ、適当に寛いでいてくれと言われたが、そうもいかない。

 部屋が広いことはもはや言うまでもないが、高級感漂う黒革のソファーにガラス製のテーブル、大画面の薄型テレビやステレオスピーカーなど、オーディオ機器も充実しており、小洒落たインテリアや観葉植物が、これまた計算され尽くしたかのように絶妙なバランスで配置されている。壁際には古い洋楽のレコードやアコースティックギターが飾られ、部屋を照らす暖色系のライトが、全体に落ち着いた大人の雰囲気を演出していた。隅々に至るまで掃除が行き届いているせいか、生活臭というものが感じられず、なんだかモデルルームを拝見しているような気分だ。

 慣れない空間に戸惑い、僕たちがそわそわしていると、人数分のカップとソーサーを乗せたお盆を持って、安斎さんが戻って来た。

「コーヒーでええか?」

「あぁ、すいません。なんか気を遣って頂いて……」

 剛田が畏まって言うと、安斎さんは気さくに笑って首を振った

「かまへんて。お前らこそ、そんな固くならんでもええがな。なにも説教しよう思うて呼んだわけとちゃうんやし」

 あっ、そうか。その可能性もあったんだ。

 他のメンバーたちもいま言われてみて気づいたらしい。暢気だなぁ、僕たちは。

 さっきは人目があったから折れてくれただけで、こうして人目のない場所に僕らを誘き出しじっくりとさっきの仕返しを……って駄目だ。考えたら、急にこの状況が怖くなってきた。

 僕たちの心中を察してか、安斎さんはくすっと鼻を鳴らして意地悪く笑った。

「正直言うとな? 昨日のことかて、俺は別に怒っとったわけでもないんやで?」

「えっ……?」

 ぽかんと拍子抜けする僕たちの顔を面白そうに眺めながら、安斎さんは僕たちの知らなかった事実を明かした。

「お前らが帰った後、思いの他すんなり客も落ち着いてな? イベントも無事再開できたし、タイム的にも実際はそんなに押しとらんかったんや。まぁ、あれはあれで話題になったし、良くも悪くもウチの宣伝になったっちゅうわけや」

 なんだか全身からしゅるしゅると音を立てて力が抜けてゆくようだ。

 剛田が思い出したように言った。

「で、でも、さっき尋ねて行ったとき、最初はすごく怒ってらっしゃったじゃないっすか?」

 安斎さんは「あー、あれなー!」と手を叩いて他人事のように笑う。

「いやぁー、すまんなぁ。ちょっとからかってやろうと思っただけなんや。そしたら、まさか、あんな行動に出るやなんて思ってもみんかったから!」

「勘弁してくださいよ、もう!? 本気で殺されるかと思ったんですからね!?」

 僕が震えた声で抗議すると、安斎さんは「めんごめんご」と言いながら、腹を抱えてゲラゲラ笑っていた。ったく、このおっさんはッ……!

 人の悪い安斎さんにムッとした僕たち四人はその心境を共有するかのように顔を見合わせた。しかし、その不満げな表情はすぐに綻び、ホッと安堵の溜息が一斉に口を突いて出る。緊張感から開放された僕たちは、そこでようやく出されたコーヒーに口を付けることが出来た。

「このストロー、全然吸えないぞ!」

 と、まひるが一生懸命吸っていたのはマドラー(かき混ぜ棒)だった。

 こいつは賢いチンパンジーよりも馬鹿だな。

「――ところでお前ら、ウチでもういっぺん()りたい言うんは本気なんか?」

 そう言った安斎さんの表情は、今までの調子とは少しばかり違っていた。低く抑揚のない声にはどこか真に迫った気配があり、僕たちも膝を正し、表情を引き締めてそれに答える。

「はい」

 ウウムと腕を組み、安斎さんは難しい顔をして首を捻った。

「来週の日曜にイベントがある。なんとかスケジュールを都合すれば出られんこともないやろう。せやけどな、さっきも少し言うたが、お前らのことはかなり噂になっとるで? なんや東京から流れてきた妙なバンドが、ひっどい演奏をした挙句、大柄な態度取って客と大喧嘩した言うてな? まぁそのなんや、噂っちゅうもんには大概、尾びれ背びれが付くもんやから……」

 安斎さんの言おうとしていることは、なんとなくわかった。

 巡り巡って脚色された噂を聞いた人たちは、きっと僕たちに対してよくない先入観を抱くことだろう。そして、そういう人たちで客席が埋まる。中には昨日の客席に居たお客さんだって、また観覧しに来るかもしれない。――つまり僕たちは、昨日よりもさらに厳しい状況の中で演奏しなければならないということだ。

「もし次もトチったら……たぶん昨日ぐらいの騒ぎじゃ済まんぞ? 下手すりゃ警察沙汰になるし、そうならんかったとしても、お前ら自身、耐えられるか? あんなもん、いっぺん遭うただけでもトラウマレベルやろ。きっとバンドを続けて行く自信失くすで?」 

 安斎さんの言葉が、決して脅しなんかじゃないことを僕たちは知っていた。

「それでもまだ、〝やる〟と言うんか?」

 ずっしりと重たい空気が、沈黙の時を支配する。

 僕はゆっくりと瞳をめぐらせて、三人の様子を窺った。

 みんな押し寄せる不安と恐怖に、今か今かと押し潰されそうになりながらも、その双眸はやけにギラギラとした輝きを放っている。きっと僕も今、同じような眼をしているはずだ。

 ――だから、僕は、じっと試すに見据えて来る安斎さんの鋭い眼光を、正面から真っ直ぐに受け止め、負けじと見つめ返しつつ、はっきりとした口調で言った。

「やります。やらせてください」

「……そうか」

 小さく呟いた安斎さんは、僅かな逡巡ののち「よしっ!」とどこか気を取り直すように、パンと膝を叩いて威勢良く立ち上がった。

「お前ら、ちょっとついて来い」

 

                   ♪♪♪

 

 案内されたのは、敷地内の裏手にある倉庫だった。

 埃を被ったダンボールや場所を取るガラクタなんかが所狭しと並んでいそうな雰囲気がある。

 しかし、がらっと音を立てて引き戸が開かれると、そこには予想に反して幾分広々とした空間が広がっていた。そして目に飛び込んで来るものは、アンプやドラムセット、マイクスタンドといった音楽機材の数々である。

 内部に足を踏み入れ、置いてある備品を手に取りながら、安斎さんは説明した。

「もともとは外観通りの物置やったんやけどな、高校に入ってバンドを始めた頃、みんなで集まって好き勝手使える練習場所が欲しいなぁー思うたんよ。昔は今みたいにレンタルスタジオなんかそうそう無かったし、学校の音楽室は専ら吹奏楽部のもんやろ? そもそも素行の悪い俺ら軽音楽部になんか、まともに部室もくれんかった。そこで親から許可を貰うて、メンバー皆でここを掃除してな? プライベート用のスタジオとして使うてたわけや」

「へぇ、そうだったんですか」

 自然と唇の端が甘くなる。なんかいいなぁ、そういうのって。

 僕たちも中に入って、室内を見てまわった。

 ふと壁際にかけられた一枚の写真に目が留まる。

 黒い革ジャンと破れたジーンズを身につけた目つきの悪い若者四人組がそこには映っている。写真の退色具合から、当時のものだと察しがついた。

「これ、もしかして安斎さんですか?」

 真ん中でヤンキー座りをして、威嚇するようにこちらを睨みつけている金髪坊主頭の青年を指差して尋ねると、安斎さんは少し照れながら「そや」と教えてくれた。

 そして、その横でギターを抱えて立っている長髪の青年はもしかして……。

「ああ、それは根中や。お前らも名古屋で会うたやろ?」

 やっぱりそうか。しかし、若い頃の根中さん、ハンサムだなぁ。これはさぞかし女の子にモテたんじゃないだろうか。

「いやぁ~、あいつはモテたでぇ~? 毎回のように違う女の子を『彼女や』言うて、モテへん俺らのところにわざわざ見せびらかしに来おってな? 格好つけてギターを聞かせたり、そりゃあもう、クラスでも有名な女ったらしやったわ」

 うわ、それは意外だなぁ。僕たちの会った根中さんのイメージからは想像もつかない。

「まぁ、みんな若い頃は嫌な奴やったんや。何かあるたんびに喧嘩したし、数え切れんくらいしょうもない悪さもしとった」

 安斎さんは言いながら、遠い昔を懐かしむように穏やかな顔つきになった。

 当時の安斎さんたちがどういう若者だったのか、それを想像するのことは難くない。なんといたって、僕たちも同じ穴のムジナだからね。

「……」

 ふと振り返り、漫然と物置の中を見渡す。

 彼らがここで青春を過ごしたのは、もう二十年以上も前のこと。もちろんその頃、まだ生まれてもいなかっただろう僕に、当時の様子を知る由はない。

 けれども、写真に写った若き日の安斎さんたちがここでギターを片手に笑い合い、時に夢を語り合った光景が、何故か目に浮かんでくるようで、その喧騒、その輝きが、この空間には確かに息づいているんだと感じた。

 ふと壁際に視線を戻すと、安斎さんたちの写真の他にも、見知らぬアマチュアバンドの写真がたくさん飾られていた。中には井上さんたち『THE YELLOW SWAN』の写真もある。

 安斎さんはあのライブハウスを創業して以来、気に入ったバンドを自宅に招待して交流を図るのが楽しみなのだという。

 氏はそう打ち明けてくれたあと、僕たちの方を向き直ってぱちくりと片方の瞳を瞬かせた。

「ここ、好きに使うてええで?」

〝え……?〟

 驚いた顔をする僕たちに、安斎さんは言った。

「どうせお前ら、金も無ければ泊まるあてもないんやろ? せやったらここに泊り込んで、来週の日曜までみっちり練習すればええ。壁は防音仕様やからな、夜遅うまでやっとっても、文句言われる心配はない」

 確かに演奏をするための設備は整っている上、奥の方には簡易ベッドやハンモックなどの休憩スペース、小さな冷蔵庫まで置いてある。そりゃあ狭い車の中で寝泊りして、川原や公園など迷惑にならない場所を探して練習するよりはよっぽどいい。しかし。

「でも、いいんですか……?」

 僕が尋ねると、安斎さんはあっけらかんとした笑顔を見せた。

「とうに引退したオッサンが思い出に浸るだけの場所になるくらいやったら、やっぱし元気のええ若手に使うて貰うた方がここも喜ぶと思うし、それになぁ? 次こそは成功させて貰わんと俺が困るんや。そう何度もイベントで騒動起こされたんじゃ、ハコの評判が落ちるんでな?」

 嫌味なことを言う安斎さんだったが、僕たちは彼のことが少しずつわかりはじめていた。

 この人は所謂ツンデレだ。厳つい見た目とは裏腹に、お茶目なおっさんである。

 僕たちは有り難く使わせてもらうことにした。

「まぁ、なんか困ったことあったら遠慮なく呼びに来てくれや。ああ、それと飯は一緒に食おうな? 準備が出来たら声かけるさかい」

 さすがに厄介になるばかりでは申し訳ないので、僕たちも何か手伝いますと言ったのだが、安斎さんからはざっくりと断られた。

「あほぅ。ひよッ子が一丁前に気ぃなんか遣うんやない。お前らは音楽のことだけ考えとけばええねん。ほな、またあとでな?」

 安斎さんが去ったあと、まひるは予てより目をつけていたのであろう、休憩スペースに置いてあるハンモック目掛けて一目散に飛び乗った。

「ウチ今日ここで寝るっ!」

 バカヤロー、お前は寝相が悪いんだから鮎川と一緒に大人しくベッドで寝ていろ。

 スマートで寝相の良い僕がハンモック、図体がでかい上に寝相も悪い剛田は地べただ。

 ……えっへっへ、僕も一度はこれで寝てみたかったんだよなぁ。

 しかしあれだな、シンセサイザーやウッドベースなんていうちょっと珍しい楽器がここにはいっぱい置いてあるというのに、真っ先に興味を示した先がハンモックって、音楽をやる人間としてどうなんだろうか。

「――おい、ちょっとこれ見てくれ」

 しばらく室内の物色を続けていた剛田が、不意に何かを見つけた様子で僕たちを呼んだ。

 なんだなんだと寄って行ったところ、奴が手にしていたのは一枚の古いCDだった。

 今ではあまり見かけることのない紙ジャケ仕様のシングル盤で、レーベル名にもとんと覚えがない。たぶんインディーズだろう。表紙は真っ黒な背景にタイトルとバンド名が書いてあるだけの素っ気ないつくりで、その時点では特に気に留めるようなこともなかったのだが、裏面を向けるとそこには演奏しているバンドメンバーの姿が白黒写真で載っていた。

「えっ、これって……」

 僕たちはふと、示し合わせたように後ろを振り返る。

 その先には壁際にかけられた沢山の写真があり、僕らが揃って見つめたその一枚には、若き日の安斎さんたちが写っていた。


                   ♪♪♪


 それから一時間ほどしてすっかり日も落ちた頃、夕食の用意が出来たからと安斎さんが僕たちを呼びにやって来た。

 リビングにお邪魔すると、テーブルの上には刺身にハンバーグ、唐揚げ、焼き鳥、天ぷらにサラダといったどちらかといえば居酒屋系の料理がたくさん並んでいた。ビールに焼酎にワイン、チューハイと、アルコールの類も一通り揃っている。

「なんだか宴会みたいですね」と僕が言ったら、「みたいやない、宴会や」と安斎さんは快活に笑った。五人でテーブルに着き、ひとまずは乾杯。飲んで食って、アルコールがまわりはじめると宴もたけなわ、みんなで顔を真っ赤にしながら大声で談笑した。

 話題に上るのはもっぱら僕たちの思い出話である。バンド結成当初から現在に至るまでのエピソード。名古屋のときもそうだったが、これは大ウケ間違いなしの鉄板ネタでありながら、しかも尽きることがないという、もう歌やパフォーマンスを差し置いて、僕たち『HAPPY★RUNNERS』最大の武器といえるだろう。ただ、僕たちが喋って安斎さんが笑うばかりではちょっと不公平なので、お返しに安斎さんのことも色々と訊いてみた。

「部屋もすごく綺麗だし、こういうふうに料理も作れて、やっぱり男の人で何でも自分で出来るっていいですね」

 僕がそう口に出すと、安斎さんは皮肉めかして笑った。

「こんなん別にすごいことでもなんでもないで? 俺も若い頃は無茶苦茶やったし。まぁ、独身生活が長く続いとったら、男も自然とこうなるっちゅうことや」

「ご結婚はされないんですか?」

 鮎川の問いに、安斎さんは少し困った様子で鼻の頭を掻いた。

「……あぁ、実を言うとバツイチなんや。三十の頃に、そろそろ俺も落ちつかなあかんやろなぁ思うていっぺん結婚したんやけど、やっぱし性根がロクデナシやさかい、女房はすぐに愛想尽かして出て行ってもうたわ」

「それは寂しいですねぇ」

「せやからお前らみたく賑やかな奴らに来て貰うたんやないか」

「でも安斎さん男前だからモテるでしょ? もう一度結婚したらいいじゃないっすか」

 剛田がからかうように言うと、安斎さんはキーッと威嚇するように歯を見せて笑った。

「他人事やと思ってアホ抜かしおってからに。俺ももう来年、五十やで? 今さらどうせえっちゅーねん」

「あー、でも最近は歳の差婚なんていうのも流行ってるみたいだし」

 僕の言葉を、安斎さんは「無理無理」と大きく手を振って完全に否定した。

「大体なぁ、いい歳扱いてバンドだのライブだのに現を抜かしとる奴のとこになんか、女は寄り付かんへんねん。これはお前らも他人事やないで? バンドマンは人気者でモテるなんてイメージがあるし、確かに羨望や好奇心から人は寄って来る。ただ、所詮はみんなお遊びなんや。誰も本気で俺らと人生を共にする気ぃなんかない。恋愛と結婚の条件が、ちょうど別もんであるのと同じようにな?」

 なるほど、確かにそうかもしれないな。

 まぁ、そういう人たちもきっと憧れる気持ち自体に嘘はないのだと思う。

 ただ、自分がそこに足を踏み入れるとなると急に現実というモノがありありと見えてくるんだ。そして、リスクとリターンの足し算引き算がはじまり、ほとんどの人間がそこでぱたりと足を止め、冷たくそっぽを向く。

「やっぱしな、どう足掻いたって俺ら堅気の人間とは言えんやろ? 世間の人たちから見りゃあ、ミュージシャンなんか遊んでばかりいて社会性のないチンドン屋や。誰も理解なんかしてくれへんし、見た目の華やかさとは裏腹に、実情は寂しいもんよ。結局のところ、夢を追うもんの安寧は、自分の胸の内側にしかないねんな……」

 そこから話の内容は、次第に深淵を覗くが如く、重みと苦みを増してゆくこととなった。

「――うちの親父は医者でな、一人息子やった俺も、将来は立派な医者になって後を継げとガキの時分から散々言われて育った。これでも、中学までは真面目な優等生やったんやで? 期待されることは素直に嬉しかったから、必死で勉強して、ここらじゃ偏差値トップクラスのエリート校に入ろう思うとった。……けど受験に失敗してな、それから俺はすっかりグレてしもうたんや。自棄になって無茶苦茶やって、学校や警察から呼び出されることもしょっちゅうやった。おふくろはいつも泣いとったよ。そしてそれが祟ったのかもしれん、病気になって、あっという間に死んでもうたわ……。それでも俺は更生するどころか、一層深みにはまって行った。落ちるとこまで落ちてもうたんやろな。真っ暗で何にも見えへんドン底の中、俺はバンドっちゅう夢を見つけたんや……。まぁ、今にして思えば、それで多少は救われた部分もあったのかもしれん。それすらも無かったら、俺は今頃生きてへんかったとすら思う。……けどな、それは俺が小さい頃から期待されとった立派な生き方とは、ひどくかけ離れた道やったんや。親父はもう、すっかり諦めきった表情をするばかりで、そんな俺になんも言って来んかった。随分と長い間黙り通して、結局最後までなんにも言わんと、親父は誰にも見られずに死んで行った……。俺はホンマに救いようのない親不孝もんや」

 安斎さんは溜飲を下げるように、目の前のビールをぐっと呷ってから続けた。

「確かに仲間と思い切り打ち込んだバンド活動は最高に楽しかったし、そこから生まれた夢はホンマもんやったと思う。せやけどな、その眩しいほどの輝きの陰では、それと同じくらい大切なもんが、いっぱい、ぼろぼろと音を立てて手のひらからこぼれ落ちて行きよったんやな」

 今の僕たちにはあまり実感の持てない話だった。それは僕たちがまだ、その眩しいほどの輝きの中に居るということの証なのかもしれない。

「――でも……」

 けれども、いつかは失ったものの大きさに気づくときが来て、取り返しのつかなくなった罪を悔やむのだと思うと、それは震えるほどに怖い。だから救いを求める。嘘でもいいから、言って欲しかったんだ。

「それでも、夢は叶えられたんですよね……?」

 僕は物置から持ってきていた古いCDを安斎さんの前にそっと差し出した。

「……」

 それを手に取った安斎さんは、ジャケット裏に写った若き日の自分達を眺めながら、ふと口角を歪めて微笑んだ。しかしそれは、僕たちが求めていた反応とはやはり違っていた。どこか哀しげで、やるせなさの滲んだ鈍色の瞳。安斎さんは静かに首を振った。

「色んなもんを失いながら追いかけた夢やったけど、結局俺はそれすらも掴めんかった……。一度はこうしてデビューまで漕ぎつけたんやけどな、それまで胸に思い描いとったプロのミュージシャンっちゅう理想の形と、現実とのギャップに苦しんだ挙句、俺らはアマチュアに逆戻りしたんや。それならそれで、アマチュアとして精一杯楽しめるように割り切れればまだ良かった。せやけどな、そうもいかんかったんや。なんとなくみんなの中にしこりが残って、アマチュアに戻ってももう前みたく心が熱くならんかった……。そしてそのまんま、グダグダのうちに自然と解散になって、メンバーはみんな、バラバラになってしもうてん……」

 そこまで話すと、安斎さんの表情はふと何故か柔らかくなった。

「俺はそのあと、ちっちゃな会社に就職してそこで十年近く勤めたんやけどな、音楽から離れた生活をして行くうちに、ふと失ったはずの情熱がまたぽつりぽつりと湧いてきおってな? それがある程度抑えきれんようになってからようやく、ああ、やっぱり俺の生きる道はこれしかないんやなと腹を括ったんや……。フフ、まぁ方々に散った当時のメンバーも、結局のところ皆おんなじような生き方を選んだことを思えば、やっぱし、心のどっかで音楽に対する愛情は捨てきれんかったんやな。もう自分達の歳じゃどうにもならんと知りつつ、どうしても諦めきれん想いっちゅうもんがあってな、どっかで折り合いをつけなあかんと思うた。せやから俺は三十後半で脱サラして、ライブハウスのオーナーをはじめたんよ。気障な考え方かもしれんけど、俺らが出来んかった分まで、若い奴らに頑張って欲しいと思うてな? それを側から応援出来る仕事に就いたんや」

 安斎さんが想いを託して応援して来たバンドの一つとして、井上さんたち『THE YELLOW SWAN』の話が出た。

「――井上たちと最初に出会うたんは、あいつらがまだ高校生の時分でな? 今でこそ、あいつらもこの辺りじゃあ並ぶもんのおらんバンドになって威張り散らしとるけど、最初の頃はそりゃあもう酷いもんやったでぇ~? 毎回のようにステージでトチりおってな、終わったあとはいつもめそめそ泣いとったわ」

 それはちょっと意外だな。あの人たちにも、そんな頃があったなんて。

 失礼ながら、僕たちもそこでくすりと頬が弛んでしまう。

「しかしまぁ、あいつらはそれでも諦めんかったからなぁ。その点はホンマに大した根性やと思うで? なんべんも泣きながら必死に練習して、段々と力をつけて行ってな? 次第にあいつらを観に来るお客さんも増えていった。インディーズからデビューして注目されて、とうとう今度はメジャーデビューや。俺ももうお爺ちゃんになっていきよるんやろか。あいつらの活躍がまるで自分のことのように嬉しいねん。……ただ、あいつらも今はけっこう大変らしいわ。メジャーデビューの話で、なんや色々と揉めとるらしくってな? こんなことならもうやめてしまいたいなんて、井上の奴は相変わらずめそめそと弱音を吐いとったわ」

 …………。

 夜もだいぶ深い時間帯となり、しんみりとした空気のまま宴会はお開きとなった。

 なんだかすっかり飲みすぎてしまった僕たちは、物置に帰ると今日はそのまま眠りに就く。

 室内の明かりは消え、他の三人が穏やかに寝息を立てる中、僕は一人、ノートとペンを持って物置を抜け出した。そうして庭の隅にある小さな池の縁に腰をかけ、木々の葉を揺らす夜風に身を任せながら、薄ぼんやりとした月明かりだけを頼りにペンを走らせる。

「……」

 今の僕には書きたいことがあった。書かなければいけないことがあるような気がしていた――。




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