第10話「逆境の中で叫べ(Ⅱ)」
♪♪♪
日曜日。台風の接近に伴い生憎の悪天候となったが、どうやら直撃コースは免れる様子なので、イベントは予てからの予定通り決行されることとなった。
直前リハーサルを終え、僕らが楽屋で天気の心配をしていると、同じくリハーサルを終えてきた井上さんのところのバンドに出くわした。
井上さんと反りの合わないまひると剛田には、そろそろ開場の時間だから表でお客さんの様子でも見て来いよと言って楽屋から退散させる。本番前に問題を起こしたら大変だからな。
まひると剛田は数秒井上さんと睨み合ったのち、「ふんっ!」とお互いに顔を背け合ってから楽屋を出て行った。
僕と鮎川はその場に残って、『THE YELLOW SWAN』の面子に囲まれる。本当は僕たちも逃げ出したかったけど、一応一緒にイベントをやるわけだし、あまり敵対するのもよくないと思ったのだ。まぁ僕と鮎川なら、少々キツイこと言われても上手くかわせる自信がある。
「アンタらの噂は聞いとるで。東京から来たっちゅう、変なバンドやってな?」
たぶん井上さんから聞いたのだろう、ギタリストの人がそんなことを言って来た。
大阪の人は地元愛が強く、とりわけ東京のことをライバルとして目の敵にしているらしい。
「やれ東京のもんは垢抜けとるとかよく言うけど、ただ単に人間が薄っぺらいだけやんな」とトンデモナイ話を永延聞かされた。それ以上は怖すぎて、とてもじゃないけど僕の口から語ることは出来ない内容だ。さすがにヤバイと思ったので、弁解のため出身は福岡で去年上京したばかりなのだと伝えたら、それならそれで「あ~、魂売ったんか」と痛恨の表情をされる。めんどくせぇなぁ、こいつら……。以降も「東京のもんに比べて、ウチら大阪人は情が深い」とか「そろそろ首都が大阪に移ってくるんとちゃうか?」などといったことをたっぷりとご高説されたが、正直言って今のところ僕たちからの印象は最悪だよ。あと、首都は移りません。
開演時間が近づき、『THE YELLOW SWAN』の面々が準備のために離れていくと、頃合を見計らってまひると剛田が帰ってきた。外は雨風ともに激しくなって来ているらしいが、それでもお客さんの入りはかなりのものだと一応報告してくれた。僕もさっき井上さんたちの話していた内容を報告したら、まひると剛田は非常に憤慨し、またもや悪口大会が始まってしまう。井上さんたちをボロクソに言って貶めるのはもちろんのこと、大阪の人たちに向けた宣戦布告ともとられかねない内容なので、こちらも怖すぎて、とてもじゃないけど僕の口からは語れない。
――さて今回、僕らの出番は六番目ということで、奇しくも井上さんがボーカルを努める『THE YELLOW SWAN』のあとだった。
今日はここのライブハウスが創立されてから十周年という節目の記念イベントだそうで、出演するバンドの方々は、皆この辺りでは知名度が高く、人気のある人たちばかりなのだという。まぁ、他所から来た僕たちにしてみれば全然しっくり来ない話だけれど、地元の人たちからすれば、それもう、ずいぶんと豪華な面子であるということだ。時間的にはそろそろ二番手のバンドが演奏を終える頃合だろうか。僕らが出るまでにはまだもう少し猶予があったので、試しにステージと客席の様子を見に行こうと、四人揃って楽屋を出た。
関係者用通路を通って、舞台袖に移動する。
そして、どんなもんかな、などと軽い気持ちでホールを覗いた僕たちは、その凄まじい歓声と熱気によって、瞬く間に打ちのめされることとなった……。
「――」
大阪の人たちは熱くてパワフルだという印象は予てより抱いていた僕たちだったが、目の前に広がるその光景は、生半可な想像を遥かに凌駕していた。
客席とステージが一体となって飛び上がっている。むせ返るような熱気と興奮が渦をまいて犇き、魂がぶつかり合うようなその激しい振動が、腹の奥底にまでずんずん響いてくる。
これまで僕たちもある程度の場数は踏んで来たつもりでいたし、色んな人たちのステージを見てきた。しかしここまで熱く盛り上がったステージが他にあっただろうか。
ちょっと様子を見たらすぐに帰るつもりでいたのだが、足が根を生やしたかのように、僕らは痺れてその場から動けなくなってしまっていた。
三番目のバンドが約二十分間のステージを終え、盛大に拍手が鳴り響く中を退場してゆく。客席の盛り上がりもそれで一段落するかと思いきや、四番目のバンドが登場するや否や、再び会場のボルテージは沸点にまで達した。その底知れぬパワーにすっかり圧倒され、一瞬たりとも目が離せなくなる。
次はいよいよ、本日の目玉ともいえる『THE YELLOW SWAN』の出番だ。
――井上さん率いる『THE YELLOW SWAN』は間違いなく今日のイベントでも一番人気のバンドであり、彼女らを見るためだけにやって来ているお客さんも多いと聞く。多数のライブハウスやイベント関係者から出演のオファーが殺到しており、インディーズの方で出しているCDの売れ行きも好調。さらには近々メジャデビューの話まで控えているという。
井上さんたちがステージ上に姿を現すと同時に、今まで以上に大きな歓声が会場中を埋め尽くす。客席の熱狂と躍動感が凄まじい。今にもステージまで雪崩れ込んで来そうな勢いだ。
マイク前に立った井上さんは巧みな話術で観客の心を惹きつけ、瞬く間に会場の雰囲気を我が物とする。そして、怒涛の如く演奏が始まった。
――そこで僕たちは、さらなる衝撃を体験することになる。
なんだこれ……。
彼女らの演奏を聴いた僕は、思わず頭の中が真っ白になるほどショックを受けた。
……上手い、上手すぎる。
ギターのかっこよさ、ベースの色っぽさ、ドラムの力強さも然ることながら、特筆すべきはやはりボーカルである井上さんの歌唱力だ。正直ナメてた。これは鮎川と匹敵、いや、テクニックに関しては、完璧にそれを凌いでいる。低音域から高音域まで、幅広い音程をなんなく歌いこなし、曲の雰囲気やフレーズごとに、喜び、悲しみ、怒り、優しさなどの感情を、絶妙のトーンと息遣いで無理なく言葉にして乗せてゆくその卓逸した表現力。そして、それが浮き立つことなくバンドの音として噛み合い、ホール全体にバリバリ響き渡る。
――鳥肌が立った……。
僕と鮎川はもちろんのこと、あれだけ井上さんのことを悪く言っていた剛田とまひるでさえ言葉を失い、ただただ呆然と立ち尽くしている。
それから僕たちは時間が経つことすら忘れて音の奔流に飲み込まれ、いつしか井上さんたちが物凄い拍手喝采と嬌声の中、退場して行くのをぼんやり見つめていた。
「おい、君らこんなとこで何してんのっ!? もう出番やで!!」
息せき切ったマネージャーさんの声で、はたと我に帰る。
そうだ……。僕たちは今から、あそこに立つのだった……。
そう思った瞬間、震えが来た。
――怖い。
そう、僕がそのとき感じていたのは、紛れもない恐怖心だったのだ。
♪♪♪
慌てて楽器を手にした僕たちは、呼吸を整える間もなく舞台袖から飛び出し、ステージのライトに照らしだされる。もうその時点で、心理状態はボロボロだった。
今さらのように事の深刻さを理解する。記念すべき十周年の大イベント、出演者も客層もばっちりお馴染みの面子で固められ、ただでさえ知名度もなく余所者である僕たちにとっては厳しい状況なのに、よりにもよって僕らの出番は、今まさに飛ぶ鳥を落とすような人気ぶりで、脂ののりきった『THE YELLOW SWAN』のあと。井上さんたちの演奏で、観客の興奮は最高潮に達している。その興奮も冷めやらぬ中、こんな状況で一体僕たちにどうしろと言うんだ。これ以上ないほど、きつい状況だった。
演奏もする前から、大粒の汗がダラダラと顔や背筋を伝ってシャツをずぶずぶに濡らしてゆく。体中の筋肉が痙攣したように引き攣っていた。動悸が激しく、息が苦しい。下っ腹のあたりがきゅっと痛くなった。
僕はすがるように他のメンバーを見た。剛田とまひるは一見、いつもとそれほど変わらないように見えるが、やはりいつもとは違う。明らかに余裕がない。そして鮎川の方はもう一目瞭然だった。顔面蒼白で下を向き、ガタガタと細い足を震えさせている。
やばい……。
「――おい、ケン!」
剛田が小声で僕を呼ぶ。しまった、最初の挨拶は僕が担当することになっていたのだ。
「あっ、えっと……」
咄嗟にマイクと向き合い、客席に目が行った瞬間、大勢の冷たい視線が一斉に突き刺さった。
のこのこと出て来ておいて何もしないまま沈黙を続けていた僕たちに対し、〝なんだこいつら?〟というお客さんたち心の声が、金縛りをかける呪文のようにじりじりと伝わってくる。
用意していた挨拶の台詞がすっかり飛んでしまい、即興で何か言おうにも頭が全然まわらなかった。見かねた剛田が僕の代わりに前に出て、言葉を発する。
「どうも、はじめまして。僕たちは『HAPPY★RUNNERS』といいます。今回はオーナーさんのご好意で、不肖ながら飛び入り参加をさせてもらうことになりました。――」
努めて平気なふうを装っているが、やっぱり剛田の奴も相当緊張している。MCでこんなに硬い喋り方をするこいつを見たのは初めてだ。
「創立十周年という記念すべきイベントに、僕たちみたいな者が出てもいいのかと少々不安なところもあったんですが、精一杯やりたいと思いますので、どうかよろしくお願いします」
しんとした嫌な沈黙があったのち、ぱらぱらと気のない拍手が漏れる。さっきまでの反応とは大違いだ。それでも剛田はなんとか印象を持ち上げようと必死になって、「ありがとうございます」と客席に向かってやわらかく言った。
本来であれば、ここでメンバー紹介や僕たちのバンドがどういう経緯でこの場にお邪魔させていただいているのかなどを喋る予定だったのだが、どう考えてもそんな空気じゃない。
マイクから離れた剛田は小さく振り返り、「すぐ曲に行こう」と切羽詰った声で言った。
とりあえず一曲演奏しておけば、それで少しはマシになるかと思ったのだ。
僕とまひるも同意して頷く。
しかし鮎川は何の反応も示さないまま、完全に心ここにあらずといった様子だった。
「……鮎川、大丈夫?」
僕が呼びかけると、彼女はびくりと肩を跳ねさせ、それからがくがくと首を振って「大丈夫」と答えた。どう考えても大丈夫じゃないことだけはわかったけど、今はやるしかないのだ。
あまり間を開けるとまた心象を悪くするので、急いで準備につき、まひるのカウントから一曲目の『明日に向かって走れ』を始める。
駄目だ……。緊張のためか、指が硬くなって思い通りに動かない。焦ってそっちにばかり気を取られていると、今度はコードをど忘れしてしまう。僕のギターは不甲斐ないほどにぐちゃぐちゃだった。剛田とまひるのリズム隊は一刻も早く終わらせたいという気持ちが強すぎて、テンポを急き過ぎているし、鮎川の声はめちゃくちゃに上ずっていた。細かい音程がまったく取れておらず、本来メロディーに乗るはずの言葉がことごとく上滑りしている。
一緒に演奏しているはずなのに、何故だか一人で演奏しているような心地だった。
四人の呼吸がバラバラで、音が噛み合わないのだ。やばいやばいと思って合わせようとしても、余計にズレていく。そしてその焦りが一層お互いの距離感を狂わせ、気持ちはすれ違い続ける。完全に悪循環だった。そして結局、最後までそこから抜け出すことは出来なくて。
――僕たちの演奏は今までにないほど〝最悪〟の出来だった……。
もう目も当てられない状況だ。
会場の空気は、完全に悪化していた。
とてもじゃないけどMCなんて挟める雰囲気じゃない。下手をすれば暴動さえ起こり得るだろう。これでまだ、あと十五分も尺が残っているというのだから地獄だ。
怖くて客席を見ることなんか出来ず、二曲目の『Overflow music』に入る。
悔しくて、情けなくて、涙が出そうになった。酷い演奏だ……。
そして追い討ちをかけるかのように、ぶちっと音を立ててギターの弦が千切れた。僕があまりにも力みすぎていたからだと思う。
剛田がなんとか時間を稼ぐと言ってくれて、僕は半泣きになりながら弦を張り替えた。
その間、剛田はどうにかして客席を盛り上げようと盛大に空回り。氷河期のような空気の中下手なギャグを飛ばしまくって結局状況を悪化させた。
辟易した溜息すら聞えてきそうな会場の中で、最後の曲となる『夏時間』を演奏する。
もうなんとなく嫌な予感がして仕方がなかった……。
そしてそれは、容赦なく現実のものとなる。
鮎川が歌い出しのタイミングをミスして、演奏が中断されたのだ。
可哀想にキョドリまくった鮎川は死にそうな顔をして「すみません! すみません!」と客席に謝った。その姿はあまりにも痛々しく、目を覆いたくなる。
そして僕らが気を取り直し、もう一度乗っけからといったところで、とうとう恐れていた事態は起こったのだ。――
「はぁ……。もうええわ」
はじめの一人がそう口に出した途端、それをきっかけとしてまた一人、また一人と、鼠算式に波紋は広がっていく。
「ええ加減にせぇよ、コラ!! ガキの遊びとちゃうんやぞ!?」「こっちは金払うて観に来とんねん! まともにやれへんのやったら帰れ!」「そうだ!」「帰れ帰れー!!」
観客の不満が一斉に吐き出され、会場は瞬く間に騒然とした空気に変わる。
「――」
耳を覆いたくなるような激しい野次を次々と浴びせかけられながら、僕は半ば放心状態でステージの上に立ち竦んでいた。
なんだこれは……。どうして、こんなことに……。
戸惑っているのは僕だけじゃない。まひると剛田もびっくりした顔で固まっていた。
「――ごめんなさい。もう一度やらせてください。お願いします。お願いします……」
鮎川はぽろぽろと涙を流しながら、荒れ狂った客席に向かって懇々と訴えかけていた。
「やかましい! 引っ込め言うとんのがわからんのかァ!」「誰もお前らの歌なんざ聴きとうないねん!!」「帰れ!」「帰れっ!!」「帰れぇえーッ!!!」
どこからか始まった悪意の手拍子とともに、盛大な〝帰れコール〟が会場中を埋め尽くす。
鮎川は泣き崩れ、僕は目の前で繰り広げられる出来事がにわかには信じられなくて、ひたすら途方に暮れていた。こんなの、どうやって収拾つければいいんだよ……。
そんなとき、ダーンと不意に鼓膜を突き破るかのような打撃音がホール内に響き渡った。ドラムを思い切り打ん殴って立ち上がったまひるは、そのままスティックをかなぐり捨て、若干の怯みを見せた客席に向かって物凄い勢いで怒鳴りつける。
「うるせーコノヤロォーッ!! うるせぇええええーっ!!」
瞬間的に静まり返った客席だったが、すぐにまた息を吹き返す。まひるの逆上によって観客の怒りは一層激しさを増したようだった。「殺すぞ」といった恐ろしい言葉が、わりとマジのトーンでばんばん飛んでくる。そしてとうとう、剛田の奴もブチキレた。
「とにかく俺たちは今日時間もらったんだ!! それでも帰れって言うならお前らが帰れ!! 俺は今日は帰らん!! 絶対に帰らんからなァ!!」
お前は長渕剛か。などと暢気につっこんでる場合じゃない。
「客に向かってなんやその態度はッ!?」「ナメてんのか!!」「ふざけんなよ!!」
井上さんたちのときとはまた違った意味で客席は最高潮にヒートアップしている。これは本当にヤバイ。その時点で危険を感じた僕は、咄嗟に叫んだ。
「逃げろ鮎川ッ!」
泣くのを中断した鮎川が困惑した表情で「えっ?」と顔を上げて僕を見る。
次の瞬間。――
「文句があるならかかって来い!!」
剛田の放ったその一言が引き金となって、ついには暴徒化した観客が〝ワァアア〟とステージの上に雪崩れ込んで来た。
「――ッ!!」
僕が鮎川の手を引いて舞台袖に駆け込むのと、剛田とまひるの姿が観客の奔流に呑み込まれるのはほぼ同時。地鳴りが物凄い。建物が壊れるんじゃないかと思うくらいだ。
僕はすぐさまステージの方を振り返った。
既に舞台の上は大勢の人々が芋洗い状態で犇めき合っており、大変な騒ぎになっていた。まひると剛田の姿は見えない。しかし飛び交う罵詈雑言の中、微かに二人の声が聞こえる。
ちくせう。ここまで来たらもう、ある意味吹っ切れた。
「まひる! 剛田! 今行くぞーっ!! 待ってろ!!」
鮎川には「ここで大人しく隠れていろ」と言いつけ、僕は二人に加勢するため蠢く人の波に颯爽と飛び込んだ。
「待って、ケンちゃん!」
そのとき鮎川の声が後ろから追って来たが、それに答える余裕などなかった。
体当たりで無理やり人垣に体を捻じ込み、滅茶苦茶に身を捩りながら暴動の渦中を突き進む。
「あいてててッ、なにすんねんこのチビっ!!」
「フグゥウウ、ガウガウ!」
まひるは文字通り、寄って来るお客さんの手や足にガブガブと咬みついていた。
「みんな死ねぇえー!」
剛田は四方を囲まれながらも両脇に一人ずつヘッドロックをかまし、強烈な頭突きと蹴りで順調に屍の山を築き上げている。二人とも勇ましい限りだ。僕もこうしちゃあいられない。
「二人とも、雑魚は任せろ!!」
僕もすぐそばに居た野郎の一人を捕まえて、ぶん殴ってやろうと思ったのだが。
「ええい、邪魔だぁ!」
「うわっ――」
逆にあっさりと突き倒されて、そのまま揉みくちゃにされた。
「「雑魚はお前だろぉおおお――ッ!!」」
興奮してすっかり忘れていた。僕は喧嘩が弱かったのだ……。
「ケンちゃんっ!」
隠れていろと言ったはずなのに、鮎川が隙を見てダウンした僕のところに駆け寄ってきた。
「ふぇえ~、鮎川ぁ~あ、殴られたよぉ~」
「おーよしよし、可愛そうに……」
不甲斐ない僕はそのまま鮎川に支えられ、乱闘騒ぎに沸いたステージをあとにする。
まひると剛田は今だ盛んに戦っていた。暴徒化した観客たちに混じって、イベントスタッフや対バンの連中までいる。たぶん彼らは止めに入ってくれているのだとは思うけれど、もうここまで滅茶苦茶になってしまった以上は、加担しているのとそう変わらない。
舞台袖から通用口に下りるところで、腕組みをして立っていた井上さんと出くわした。
「自分ら、とんでもないことしでかしてくれたなぁ?」
「……」
本当に取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はもちろんあった。僕たちはここの十周年記念イベントを台無しにしてしまったのだ。たとえどんな叱責を受けようとも返す言葉など無い。だから僕は鮎川の肩をそっと抱いて、「行こう……」と小さな声で言った。
二人で顔を背けたまま、井上さんの前を静かに通り過ぎる。
「逃げるんか?」
井上さんのその言葉に、僕はふと足を止めていた。
「――違う」
何故か、そんな言葉が咄嗟に口を突いて出る。
「勝負を預けておくだけだ」
♪♪♪
楽屋に戻った僕と鮎川はすぐに荷物をまとめて、関係者用出入り口から建物を出た。
みんなホールの騒ぎに駆り出されているためか、その際誰とも出くわすことがなくて少しホッとする。特にあのオーナーには、見つかったら殺されそうだからな。
ザ――――――ッ、――……!!!!
外は土砂降りだった。
ごうごうと吹き荒ぶ風。真っ暗な空。
禍々しく渦を巻いた分厚い雲の中、時折雷が閃光とともにゴロゴロと燻った音を立てている。
台風がこの辺りを通過するのは、今日の深夜から明け方にかけてということだ。
「……」
僕と鮎川はお互い無言のまま、庇の中に佇んで剛田とまひるが出て来るのを待った。
激しく降りつける大粒の雨がアスファルトの地面に当たってぼつぼつと跳ね返り、靴とズボンの裾を霧吹き状に濡らしていく。
十分程して、背後にある扉の内側から、激しく言い争うような声と、乱暴に踵を打ちつけて歩いて来る足音が聞え始めた。
声の主はまひると剛田、それに井上さんか。
雨音が強く、扉越しでは何を言っているのかまでは聞き取れなかったが、大体その内容は想像がつく。
――ばぁんと、勢い良く扉が放たれて、剛田とまひるが出てきた。
二人ともボロボロの格好だった。髪の毛はぐしゃぐしゃで、顔にはたくさんの生傷があり、激しく掴み合ったせいだろう、服は襟元や袖のところがすっかり伸びてしまっていた。
剛田は僕と鮎川の姿を見ると、一瞬なにか言いたげな顔をしたが、すぐに言葉を飲み込んでたった一言、「……行くぞ」と低く押し殺した声でそれだけ告げた。
四人で押し黙ったまま雨の中を歩き、車に戻る。
そのまま僕たちは嵐の中を、あてのないドライブに出た……。
♪♪♪
後悔と気だるさが傷ついた心を白く染め、ぼんやりとした沈黙が僕らを包んでいた。
あれからどれくらい時間が流れたことだろう。何時間も車に揺られ続けていた気もすれば、まだほんの数十分しか経っていないような気さえする。
大げさな言い方かもしれないが、今の僕にはそれくらい現実感がなかったのだ。
運転席に座った剛田はずっと前だけを向いて車を走らせている。シートの上で丸くなったまひるは、クッションに顔を埋めてただじっとしていた。
鮎川は暗い表情をしてとりとめもなく足元を見つめ続け、僕はパラパラと窓の表面で踊り、やがて一筋の川となって流れゆく無数の水玉を何の気なしに観察していた。頭の中では今も、あのライブハウスでの出来事が、忌まわしき灰色の映像となってぐるぐると回り続けている。
僕たちは何もわかっちゃいなかった。僕たちは、甘かったんだ……。
車内の空気は、クーラーが利きすぎていて少し肌寒い。
規則的に雨露を払い除けるワイパーの作動音だけが、やけに印象的で耳に張りついた。
……。
不意にガタンと、大きな衝撃が僕らを揺らして、益体のない思考が一時的に中断される。
我に帰ってふと顔を上げる僕たち。
剛田が苛立たしげに繰り返しキーを捻ってアクセルを踏み込むが、車は何かに進行を阻まれていた。ガリガリと車体の底を削る、嫌な音が足元から振動と共に伝わって耳まで届く。
「どうしたんだ?」
僕が尋ねると、
「わからん」
剛田はそう言って一度車を降りた。僕も奴のあとに続いて外に出てみる。
途端、横殴りの激しい雨が一瞬にして降りかかり、全身をびしょびしょに濡らした。突風によってシャツの内側は気球の如く膨らみ、裾が鬱陶しいほどにばたばたと波を打ってはためく。
縦横無尽に荒れ狂う暴風雨の中、僕は目を眇めながら剛田の後を追う。
「……チッ」
見れば車のタイヤが、枯れ葉や折れた木の枝が詰まって氾濫した側溝に陥没していた。
もう、最悪だ。
「おいケン、そっち持ってくれ」
「おう、行くぞ」
「「せーのっ!!」」
二人でなんとか持ち上げようとやってみたが、数千キロもある鉄の塊はビクともしない。
「大丈夫?」
鮎川とまひるも降りて来て一緒に手伝ってくれたが、やはり無駄だった。
周囲をぐるりと見渡してみる。
細い道沿いに外灯がちらほらと見えるだけで、近くに助けを求められそうな民家らしきものもない。そもそも時間帯がこの深夜だ。
「おい、どうすんだよ……。っていうかここ、どこだ?」
暗くてはっきりとは判らないけど、どうやら僕たちは今、だだっ広い田園か何かの真っ只中にいるらしい。いつの間にこんな田舎に来たんだ。ここはまだ大阪なのか。
「んなこと知るわけねぇだろ。適当に走って来たんだから」
剛田のとてつもなく無責任な発言に僕は頭を抱えた。まぁ、大方予想はしていたけどさ。
「ちくしょう! 何でこんなにツイてねぇんだ!」
そう言って思い切りタイヤを蹴飛ばした剛田はつま先を痛め、「いってぇえ~!!」と蹲る。
「あー、もぉー!!」
やけを起こしたまひるは、両方の拳を小さな胸の前で握ってジャンプジャンプ。足元の水溜りを思う存分蹂躙して、豪快に水飛沫を引っ被っている。まぁどのみちこれだけ濡れていたら大差ないだろう。
二人に感化されたのか、僕もなんだか無性に腹が立ってきた。あんなことがあった後だというのに、こんな辺鄙な場所で立ち往生するはめになって、おまけにこの超悪天候、服は完全に濡れ損だ。くそったれめ。どうして、僕たちばっかりがこんな目に遭う。もしかしたら僕たちは今、世界で一番不幸なんじゃないかとさえ思えてくる。
「……」
鮎川は一人、僕たち三人からは少し離れた位置に立って静かに雨に打たれていた。
スカートの裾をきゅうっと握り締め、縮こまったその肩は小さく震えている。
また泣いているのだろうか。
その背中は酷く切なげで、今にも消えてしまいそうなほどに頼りなく儚い。
僕が近寄り、声をかけようとしたそのとき。
「――っ」
大きく空気を吸い込んだ彼女は不意に空を見上げ、力の限り咆哮した。
「なぁああーんってこったぁああーいい!!」
心の中に滞る、名状しがたき不の感情すべてを内包したその叫びは、雨を弾き、風を払い、分厚い雲さえ貫いて、辺り一帯に轟々と響き渡る。
僕はびっくりして固まってしまった。
まひると剛田もあんぐりに口を開け、鮎川を見ている。
それは本家・剛田をも凌ぐ、史上最も魂の篭もった『なんてこったい』だった。
「……」
刹那に脱力したあと、鮎川は僕らの方を振り返ってにっこりと微笑んだ。
フフフと、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべ、〝どう?〟と尋ねるかのように。
痺れが解けるとともに、腹の底から無性に込み上げてくるものがあった。
「ぷっ」
構わず吹き出し、僕は笑った。
「――あはははははっ!!」
まひると剛田も、次の瞬間には腹を抱えて笑い出していた。
「ワッハッハッハッハ!!」
「うっひゃっひゃっひゃ!!」
鮎川は今さらのように恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にしてはにかんでいる。
「え、へへ……」
すごく開放的な気分になった僕たちは、そのままの勢いで薄い川のようになった地面へと体を投げ出し、べしゃっと派手に飛沫を立たせてへたり込んだ。
『あめあめ、ふれふれ、かあさんがー、じゃのめーでおむかーえ、うれしいーなぁー♪』
まひるが歌い始めて剛田が加わり、そのノリで僕と鮎川も一緒になって歌った。
ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん、と手足をばたつかせて弾ける水と戯れる。
そういえば小学生の頃、こういう台風の中をおもいっきり走り回って遊んでみたいっていうのが一つの夢だったなぁと思い出し、それを話すと「だったら今やろうぜ」と剛田が言い出した。こうなったとき、僕たちはほとほと理性というものを保てなくなる若者だった。
みんなで大粒の雨に打たれながら走りまわり、そこら中を蹴り上げて水を浴びせあう。
服や髪の毛が汚れるのも構わず、僕たちは全身がドロドロになるまで遊び惚けた。
悪ノリついでに、僕と剛田で突風にシャツの裾をはためかせながら、『YAH YAH YAH』(CHAGE & ASKA)のPVを再現したところ、まひると鮎川は爆笑していた。
こんな台風の中でさえ楽しんでいる自分達の馬鹿さ加減が、今は誇らしくすらある。
四人でひとしきり笑いあったあと、気づけば重たい気持ちは嘘みたいに霧散していた。心の中は憑き物が落ちたかのように晴れ渡り、何をそんなに思い悩んでいたのかさえ、もう思い出せない。たぶんそれほど大事なことじゃなかったのだろう。つまらないことはもう考えない。
重たくなった靴と靴下を脱ぎ捨てて、そのまま横になる。
目を閉じて水に浸かりながら、剛田が言った。
「リベンジしよう」
いささか唐突な申し出だったが、何故か驚きの感情はなく、むしろ自然に唇の端が釣り上がってゆくのを僕は感じていた。
「やっぱりこのままじゃ終われねぇや。もう一度、あのライブハウスで演奏するんだ。今度こそ、俺たちの本当の力をあいつらに見せつけてやろうぜ?」
そして剛田はいきなり立ち上がると、天に向かって雄々しく拳を突き上げた。
「今この逆境こそ、俺たちが求めていたものだ!!」
確かに、僕たちがこの旅を始めた目的は、行く先々の土地柄、人々、出来事を通じて、新たな境地を開拓することだった。ならばこれは、千載一遇のチャンスかもしれない。
「みんなで力あわせてやろうぜ……?」
剛田の誘いに、僕たち三人は穏やかに笑いながら、こっくりと頷く。
四人で手のひらを重ねあわせ、誓いを立てた。
――『HAPPY★RUNNERS』の存亡に懸けて、必ずや成功させてみせると。
こうなったら、もう恐れるものなど何もない。
僕たちは早速、具体的な事を話し合った。
リベンジのための計画を立てながら、嵐の夜を明かす。