雨の匂い
蒲公英さん主催「かたつむり企画」参加作品です。
――降ってきちゃった。
俊輔の家に着くまで待ってくれなかった空を、朱美は恨めしげに見上げた。家を出るときには青空を残していた白い雲が、今や灰色となって重く厚く天を覆っている。
雨脚が次第に強くなってゆき、彼女は足を速めた。でも急いているのは雨のせいだけではない。恋人との逢瀬を待ち望んでいた心が身体に火をつけて、先へ先へと動かすのだ。
二ヶ月ぶりに会うというのにぐしゃぐしゃの顔なんて見せたくない。朱美は手を額にかざして顔を水滴から守ってみたが、自然の意志の前には申し訳程度の防波堤でしかなかった。俊輔の家に着いたときには頬を雫が伝い、髪も服もかなり雨を吸っていた。
「電話くれたら迎えに行ったのに」
雨が降っていたことを知らなかった俊輔は、朱美の頭にタオルを被せた。雨の匂いが彼女のまとうトワレと絡み合って鼻孔に入り込み、艶かしく男の欲望を誘う。
「すっかり濡れちまったな」
俊輔は何気ないふうを装って朱美の髪をぐしゃぐしゃと拭いた。しかし乱れた髪の間から覗いた双眸が妖しく彼を見上げる。
「とっくに濡れてたわ」
手の動きを止め、魅入られたようにその瞳を見つめる俊輔。朱美もまた彼から目を離さぬまま、肌に張り付くブラウスのボタンを一つずつ外していった。
露わになった白い身体に俊輔は手を伸ばし、鎖骨に指を這わせる。朱美の口から漏れ出る艶色の吐息。指を移動させストラップを肩から落とし、背中のホックを外す。
現れた双丘を俊輔は手の中で――
「それ以上音読すんなっ!」
すでに頭の中でパンパンに膨らんでいたイケナイ想像を、広瀬遼太郎は自ら声を張り上げることで無理矢理消した。十八歳、彼女いない歴イコール年齢の彼には、こんな文章でも簡単に脳下垂体が刺激されてしまうのだ。
「しょうがないだろ、朗読の練習しなきゃいけないんだから」
飄々として答えたのは、遼太郎の父親でこの文章の生みの親でもある広瀬優作である。小説家である彼が朗読する、自身の作品の読書会なるイベントがもうすぐ行われるため、執筆の合間にこうして練習をしているのだった。
「だったら俺の聞こえないところでやれよっ!」
「聞き手がいないと練習にならないよ。上手いのか下手なのか教えてくれないと」
「ならせめて濡れ場は読むな!」
「あれ遼ちゃん、そんなに反応しちゃった? てことは俺の朗読いい線いってるな」
顎に指をかけてドヤ顔をする優作を遼太郎は歯噛みして睨みつけた。
くっそー、こっちが童貞だと思って弄びやがって。
「そんなクソ文章に反応するかよ! 俺はただこの家が下品になるのが嫌なだけだ!」
「あーあ。遼ちゃんは文学におけるエロというものがわかってないんだから」
やれやれといった調子がまた遼太郎の逆鱗に触れた。
「偉そうに文学語るなら何でもいいから賞取ってからにしろ!」
何度か候補には上がりながら未だに文学賞とは無縁の優作は、息子の言葉に顔を引きつらせた。
「お、お前……言ってはならんことを……この恩知らず!」
「『ハタチのときにうっかりできちゃった息子です』って俺を紹介する父親が、恩とか抜かすな!」
「そうだ、俺はお前の歳にはもうとっくに経験済みだったんだ、どうだ羨ましいか!」
「嫁に逃げられるような男なんか羨ましくないわ!」
優作は学生時代に交際相手を妊娠させてしまった過去を持つ。責任をとって結婚したはいいが、小説ばかり書いて家庭を顧みなかったため妻から呆れられて三下り半を突きつけられた。
遼太郎はいったん母親が引き取ったものの、その後できた恋人について外国に行くというので優作のもとに戻された。彼が六歳のときのことで、それ以来母とは会っていない。要するにどっちもどっちの両親だ。
「女を知らねえヤツが知ったふうな口を利くな!」
「無理に知って妊娠させて結婚して離婚するよりずっとマシだよ!」
「俺の青春時代の情熱的な数年間を簡単に言い表すな、ボケ!」
「情熱的と性欲過多の意味を取り違えるな、このヘボ小説家!」
不毛な罵り合いが続く父子喧嘩を止めたのは呼び鈴の音だった。たとえ誰であろうが互いの顔を見ているよりマシと、二人は先を争って玄関へと向かう。
「俺が出る! ジジイは奥で待ってろ!」
「この家の主人は俺だ! ガキはすっこんでろ!」
ノブを取り合いするようにドアを開けると、優作を担当する未来堂出版の女性編集者、三島彩香がびっくり顔で立っていた。閉じた傘からは水滴が滴り、ところどころ服や鞄が濡れている。
彼女は玄関に上がると厳しい目を優作に向けた。
「また喧嘩ですか、二人とも。雨だったけど来てよかったわ。先生、そんな暇があるなら早く原稿上げてください!」
「す、すいません……」
彩香が担当になってまだ一年ほどだが、優作は十一歳年下のこの編集者に頭が上がらない。アイデアの宝庫で、資料収集も文句のつけようがなく、ダメ出しは的確だ。「一緒に賞取りしましょう」と美しい顔に悪魔の微笑みを浮かべて優作を原稿に向かわせる。
実際、他の出版社の編集者にはこんな態度を取らないので、どれだけ彩香が優作の手綱を握っているかわかろうというものである。
「今から食事の支度しますから、先生は部屋に戻ってください。今日は第二章読ませてもらうまで帰りませんからね」
「はい、わかりました……」
すごすごと仕事部屋に向かう優作を、遼太郎はざまあみろと舌を出して見送った。一方、彩香には笑顔を向けてタオルを差し出す。
「彩香さん、俺ご飯の支度手伝う」
「ありがとう。今日は大学は? いつもより早いんじゃない?」
濡れた身体や持ち物を拭きながら彼女は訊いた。
「最後のコマ、休講になったんだ」
「私は休講なんてことになったらすぐに飲みに行ってたけど」
「俺一応未成年なんだけど」
「ああっ、そうだった! 今のナシね」
優作に対するときとはまるで違う柔らかな笑顔に、遼太郎は胸をドキドキさせる。
大人の女性ならではのしっとりした落ち着きは、大学にいる同世代の女の子たちからは感じることのできないものだ。でもキッチンで一緒に作業していると、彩香はときどき失敗して「おおっとお」と変な声を上げたりする。そのギャップが可愛い。
この気持ちはたぶん、恋なんだと思う。九歳も年下の自分が言っても相手にされないだろうけど。
夕飯の支度がほぼ終わり、テーブルセッティングのため食器棚を開けた彩香が「あれ」と声を上げた。
「こんな鉢あったっけ」
「ああそれ、サークルで俺が作ったんだ」
「大学の陶芸サークル? ええー、こんな上手に作れちゃうものなの?」
「上手じゃないよ、全然。でも色がすごく気に入ってるんだ」
いわゆる青磁だが、ライトブルーに近い色に焼きあがった。初心者なりに初めて満足のいく出来栄えとなった作品だ。
「うん、すごく綺麗。ねえ、今度私にも作って」
「えっ……いいの、俺なんかの作るので」
「遼太郎くんが作るからいいんじゃない。そうだなあ……湯呑みがいいな」
無邪気に笑う彩香が眩しくて、遼太郎は「わかった」と視線を手元に戻した。
このひと、絶対にわかってない。自分の言葉が俺をどんなに舞い上がらせるのか。
*
陶芸サークル窯友会――別名カマトモの会――には活動日がない。好きなときに来て好きなときに帰る。自由が売りのサークルだ。部員はノーマル男子学生や女子学生はもちろんのこと、留学生や他大学の学生もいる。窯の設備がある大学はそう多くないことが理由だ。
入部する新入生のほとんどは初心者だが、先輩が指導してくれるので、数週間もすれば一応形になるものは作れるようになる。遼太郎は自分が成形して色を付けた器が焼きあがったのを初めて見たとき、感動して「なんも言えねえ……」と言ってしまい、「言ってるじゃん」とか「パクリ」とかからかわれた。
この日、部室であるアトリエには遼太郎と同じ学科の紺野真希がいた。英語と第二外国語の講義が一緒なので同じクラスと言っていいだろう。顔は可愛いし服もオシャレで結構目立つ彼女は、男子の間でも人気がある。
そんな真希がなぜ地味な陶芸サークルを選んだのか、初めてアトリエで顔を合わせたときは心底驚いた。同じ部のよしみなのか、教室でも気軽に話しかけてくるので、中高時代からずっと地味で目立たない遼太郎はどうも戸惑ってしまう。
今日もまた、作業場の一角で遼太郎が土をこね始めると、早速真希がやってきて興味深げに尋ねた。
「広瀬くん、今度何作るの?」
「湯呑み」
「どんなの? ごっついの、繊細なの」
遼太郎は彩香の姿を思い浮かべ、頬を緩ませて答える。
「繊細なの、……かなあ」
真希は一拍遅れて「……ふうん」と相槌を打ち、ややあっていきなり脈絡のない話を始めた。
「菜々ちゃん、石田さんと付き合ってるの知ってた?」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
菜々というのは遼太郎たちと同じ新入生で、石田は他大学の二年生、二人とも窯友会の部員である。
「他の大学の人に取られたって、先輩たち残念がってた」
「俺はよかったと思うけど。石田さんいい人だし」
「森本くんと田中さんも付き合い始めたんだよね」
今度は同じクラスのカップルの話だ。
「ああ、そうなの? よく知ってるね」
「……広瀬くんが知らなすぎるだけだと思う。興味ないの? そういうこと」
「誰と誰がくっついたとか? いや別に」
「そうじゃなくて……」
遼太郎は土をこねる手を止めて真希に視線を移した。何か言いたそうな瞳がゆらゆらとこちらを見上げていたが、ぷいと彼女は顔を背けた。
「あたしも続きやろうっと」
……何だあれ。
離れていく背中を見て遼太郎は首を傾げ、再び土練りに取り掛かる。彩香のために作る湯呑みのイメージはもう頭の中にできていた。
高い湿度と作業のせいで肌に汗が浮かぶ。それを袖で拭って窓の外を見遣れば、いつ止むともしれない雨。
鬱陶しいのは嫌いだけど、彩香が身にまとって連れてくる雨の匂いは好きだ。柔らかいタオルを「はい」と差し出すのも。彼女がそれを「ありがとう」と受け取るのも。
*
何度か失敗を重ねたあと、湯呑みは思うような形に仕上がった。それを乾燥させ、削りを行い、素焼きする。焼いた後は急激な温度変化によるひび割れを防ぐため、窯の中で自然冷却するのを待つ。
釉薬で色付けする前のこの時間を、遼太郎は先送りにしていたレポート作成に当てることにした。ずっと湯呑みにかかりきりだったがもはや提出は明日だ。一刻の猶予もない。
この日、夕飯は彩香が作りに来てくれることになっていた。こんな日ぐらい優作がやるべきだと思うのだが、少しでも原稿を書かせたいからと、雨にもかかわらず来ると言う。
遼太郎が飲み物を取りに行ったときちょうど呼び鈴が鳴った。仕事部屋から顔を出した優作を「俺が出る」と制して玄関に向かい、ドアを開ける。
「彩香さん」
「こんにちは」
いつもよりぼうっとした顔で彩香は中に入ってきた。髪も服もかなり濡れている。傘はちゃんと持っているのに。
「どうしたの、こんなに濡れて」
「うん、あれね、傘持ってても角度が悪いと濡れちゃうのね」
「待ってて、すぐタオル持ってくる」
遼太郎は踵を返し数歩奥へと進んだが、すぐに背後でガタッと音がした。振り返ると彩香がドアにもたれかかるようにして崩れており、その脇には傘立てが倒れていた。
「彩香さん!」
急ぎ彼女のもとに取って返すとぐったりして意識がなく、額も吐く息もひどく熱い。身体から立ち込めるむっとするほどの雨の匂いが遼太郎の鼻腔をついた。
「お父さん、早く来て! 彩香さんが!」
声を聞いて駆けつけた優作は一目で何があったか理解したのだろう、息子に短く指示を飛ばした。
「お前、タオルと体温計持って来い。俺の部屋に運ぶ」
「わかった!」
遼太郎は洗面室にすっ飛んでいき、タオルを数枚と体温計をつかんで父親の部屋に行った。びしょ濡れの彩香を大事そうに横抱きにして、優作も後からやってくる。
バスタオルを敷いたベッドに彩香を下ろすと、優作は服を脱がしにかかった。
「ちょっ、何やってんだよ!」
「濡れた服のままにさせておけるか。いいからお前は部屋から出てろ」
「なっ……だったら俺がやる! エロオヤジは触るな!」
「緊急事態にゴチャゴチャ言ってんじゃねえ! ちゃんと目ぇつぶるから安心しろ!」
優作はそれ以上有無を言わせず遼太郎を部屋から追い出した。憧れの女性の身体を父親が見ることに理不尽さを感じずにはいられなかったが、さりとて二人の男が見て良いわけもなかった。遼太郎はドアの前で悶々として着替えが終わるのを待った。
「入っていいぞ」の声が聞こえて扉を開けると、彩香は優作のパジャマを着てベッドの中にいた。体温を測ると三十八度四分。
「風邪かな」
「たぶんな。熱があるくせに無理して来たんだろう。まったく無茶するんだから……」
優作は呆れて言ったのだろうが、声には愛しさが滲み出ているように聞こえて遼太郎をどきりとさせる。
「お前、レポートがあるんだろう。後は俺がやるから部屋に戻れ」
「え、でも……」
「病人の世話は慣れてる。俺のほうが適任だ」
子供の頃の遼太郎は身体が弱く、しょっちゅう熱を出しては寝込んでいた。母親が自分を連れて行ってくれなかったのはそのせいだ。それが悲しくて情けなくて、父親に引き取られてからは熱を出すたびに泣いていた。
優作はそれを宥めるでも慰めるでもなく、ただ傍らで児童向けの本を読んで聴かせた。その声と物語にいつしか惹き込まれて涙は乾いていき、母親を恋しがって泣くこともだんだん少なくなっていった。
それが父親との一番古い記憶だ。優作が朗読の練習をしていたときも懐かしさでつい耳を傾けていたら、濡れ場が出てきて慌てて遮ったのだった。
遼太郎は部屋に戻ってレポートの続きに取りかかった。できれば自分が彩香を看病したかったが、状況を考えれば仕方がない。なるべく早く終わらせて父と交代しよう。
モニターとにらめっこし、キーボードの上に指を走らせる。レポート提出はメール添付と決められているので、初めからパソコンへの直接入力だ。
でも文章に詰まったので紙に書いて考えをまとめようと、遼太郎はシャーペンに手を伸ばした。その傍らに転がっていた千切れた消しゴムを見て、そういえばあの時の女の子も風邪を引いていたなと思い出す。
いま通っている大学の受験日だった。試験会場で、隣の席の女の子が鞄の中身を空けてあたふたとしていた。
『どうかしたの?』
『あ、あの、あたし、筆記用具忘れてきたみたいで、ど、どうしよう』
涙目で窮状を訴えた彼女。明らかに風邪を引いているガラガラ声、しかもマスクをしているせいで余計に聞き取りづらかった。これで同情しないほうがおかしいだろう。
遼太郎は予備のシャーペンと、半分に折った消しゴムを女の子に渡した。
『これあげるよ。芯いっぱい入ってるから。風邪、辛いだろうけどなんとか頑張ってね』
『あ……ありがとうございます……』
多少無理してでも受験に臨みたかったあの子の気持ちは理解できるが、優作に執筆させるため雨の中わざわざやってくる彩香は本当に無茶だ。ていうか、担当の編集者にそこまでさせる小説家も小説家だ。
これ書き終わったら親父に文句言ってやろう。
その後遼太郎は集中してレポート作成に取り組み、二時間後には担当教授のアドレス宛にメールで送った。腕と背中を伸ばして関節をポキポキと鳴らし、よし、と立ち上がる。
キッチンに行くと親子丼の具が作ってあった。看病の合間に料理までしたのか。やればできるじゃないか。
先に食べようかどうしようかと迷ったが、彩香の様子が気になるので見に行くことにした。もし眠っていたら起こしてはいけないと足音を忍ばせて優作の部屋に近づく。するとわずかに開いたドアの隙間から声が聞こえてきた。
「水もっと飲む?」
「はい……すみません、ご迷惑おかけして」
「いつも迷惑かけてるのこっちだから」
彩香が水を飲んでいるらしく、少し会話が途切れる。
「三島さんは頑張り過ぎだよね。もうちょっと肩の力抜かないとね」
「はい……先生、ごめんなさい。いつもピシピシきつく言ってばかりいて」
「どうしたの。三島さんらしくない」
「こんなこと、酔ってるときか熱があるときくらいしか言えません」
二人がふふっとかすかに笑う声。
「先生……熱があるついでに、もう一つだけ言ってもいいですか。聞き終わったらうわ言だったと思ってくれていいですから」
「なに?」
「先生が好きです」
弱々しく、しかし熱っぽいその言葉を聞くや、遼太郎はその場に固まった。
……嘘だ。彩香さんが。お父さんのことを好きだなんて。
「私ずっと先生の力になりたくて……それだけで満足できればよかったんですけど……」
「……俺十一歳も年上だよ。バツイチだし、でっかい息子もいる」
「私、遼太郎くんのことも大好きです。でも年齢はどうにもならないな……私がもっと早く生まれてくればよかったですね……すみませんでした、うわ言だと思っ、」
彩香の言葉が途中で途切れた。しばしの空白を置いてから伝わってくる優作の声。
「これでもう、うわ言じゃなくなった」
それは、遼太郎が今まで聞いたことのないほど甘くて優しい声だった。そして小さな嗚咽の後、彩香の甘えるような声音が遼太郎の耳に届いた。
「先生……先生の本、読んでもらってもいいですか? すみません、わがままで……」
「いいよ。君に甘えられると嬉しい。それに俺、病人に本を読むのは得意なんだ」
優作の朗読が聞こえてくると、遼太郎は足をそっと動かしその場を離れた。キッチンへ行って親子丼の具を温め直し、ご飯に載せて貪るように食べる。
こんなときでも食欲があるのが不思議だったが、美味いのか不味いのか、泣きながら食べるのではよくわからなかった。
*
翌朝は早起きして彩香のためにおかゆを作った。優作の部屋の前を通ったらドアはぴったり閉じられていて、二人とも眠っているのか物音一つ聞こえてこない。
遼太郎は音を立てないようにそっと家を出た。夜半まで降り続いた雨はもう上がっていたが、湿った空気と匂いが身体にまとわりつく。
一限は英語だったが出席する気にならず、アトリエへと向かった。窯はもうすっかり冷えており、いくつもの作品の中に遼太郎の湯呑みもあった。それを取り出し作業机に置いてじっと見つめる。
頭の中でイメージしていた形と色がぼやけてきて、自分の作りたかった湯呑みはどんなだったかわからなくなった。優作と彩香が想いを通わせ、もう自分の好きな彼女はいなくなってしまったと思ったら、心に描いていた湯呑みも消えていくみたいだった。
そうだ、もういないんだ。あの人はお父さんの恋人になったんだ。そんな人にへっぽこな湯呑みなんかやってどうする。
遼太郎は放心したまま作業机の前に座り続けた。
「広瀬くん」
そっとかけられた声に顔を上げれば、アトリエの入り口から真希が心配そうにこちらを見ていた。
「どうしたの? 一限来なくて休みかと思ったけど……もしかしてサボリ?」
「……いま何限目?」
「三限始まるところ。あたし講義ないから素焼きがどうなったか見にきたの」
真希は遼太郎のもとへとやってきて机の上の湯呑みに目を留めた。
「あ、焼けてるね。これから色付けか。どんな色にするの?」
「……完成させるのやめようと思う」
「えっ、なんで? あんなに一生懸命作ってたのに!」
なんと答えたらよいかわからず、遼太郎は黙り込んだ。真希もまたそれ以上は訊かずに傍らで突っ立っていた。
影が落ちてきたのはいきなりだった。唇に柔らかい感触がしたと思ったら、それはあっという間に離れていった。
「え? え? えええっ?」
我ながら男としてどうかと思う叫び声を上げ、遼太郎はのけぞった。
「ちょっ、え、なに今のっ!」
「……キスしたんだけど」
「それはわかってるけど、だって、え、なんで?」
「忘れちゃえばいいと思って」
切ないような、じれったいような、そんな眼差しで見つめる真希。彼女が誰をあるいは何を指して言っているのか、彼女自身には知る由もないはずなのに、確かにそのキスはある種の効果を遼太郎にもたらした。
想像の中でしかしたことのなかったキス。しかも女の子から奪われるなんて。
彼女はいったい何を考えているんだろう。
「今度二人で出かけない?」
「お、俺と? なんで?」
「……それがわかんないとなると、もう一回キスしなきゃいけないけど」
「いや、いいです! あ、別に嫌とかじゃなくて!」
慌てて自分の失言をフォローしたが、真希はすでにむくれていた。
「広瀬くんにとってあたしは女じゃないのかな。……ねえ、あたしのことどういうふうに思ってる?」
「え、いや、可愛いと思ってるよ」
「他には?」
「なんでこんな地味なサークルに入ったのかな、とか」
軽くため息をついて真希は答えた。
「……広瀬くんがいたから入ったんだけど」
「え? え? な、なんでっ!?」
もはやパニックだ。優作と彩香のことは遼太郎の頭から完全に吹き飛んだ。ふくれっ面をした――そんな表情までが可愛い――目の前の女の子に彼は翻弄されていた。
「会ったときに教えてあげる。ね?」
小首を傾げて促され、遼太郎はコクコクと頷くことしかできなかった。
二人でアトリエを出ると外はもう夏の日差しがさんさんと降り注ぎ、雨の匂いはどこか遠くに行ってしまっていた。
数カ月後、遼太郎はペアの湯呑みを作って優作と彩香にプレゼントした。それぞれ薄い青とピンクで色付けし、大きなハートマークが刻まれた、使うのが滅茶苦茶恥ずかしいシロモノだ。
渡すときに遼太郎はふとあることを思い出して優作に訊いた。
「そういえばさあ、彩香さんが熱出したとき、本当に目ぇつぶって着替えさせたの?」
父親はチラと彼女を見てからふてぶてしく答えた。
「そんなん――バッチリ見たに決まってんじゃねえか」
途端に彩香の顔が赤く染まる。
「やっぱりねー。彩香さん、考え直したほうがいいよー。こいつ、有言不実行だから」
「お前っ、父親に向かってこいつとは何だ、こいつとは! この恩知らず!」
「有言不実行の上に恩着せがましいよー、それって男としてどうなの?」
「お前が男を語るな! 女を知らないヤツが何を偉そうに!」
遼太郎は不敵な笑みを父親に向けた。
「もう知ってまーす」