第007話 真っ黒な楽譜
「先輩、まだ練習されるんですか?」
山口 華名が楽器を片付けながら聞く。
「あー、うん。なんかかなり強引やし、恨まれそうやけど秋吉からソロもろたし……。あさっての合奏でダサいことならへんように、もうちょっと練習していく」
「そうですか……」
華名が少し寂しそうに呟いた。
「まぁ、山口さんも部活復帰してすぐに、島崎先生の登場とかあって気疲れしたやろ?」
「いえ! あたしはそんな!」
華名は首を激しく左右に振った。
実は、華名は昨年11月から今年の2月中旬まで休部していた。どうしても人間関係でいざこざの多いこの部の状態に、繊細で人に気遣いのできる華名は気疲れしてしまい、結果として休部してしまったのだ。
周平はこの時、かなり悔やんだ。どうして毎日同じ空間にいて、同じ曲を練習して、同じ楽器を吹いてきた仲間の苦しさを理解してやれなかったのか。
表面上は気づいていた。「大丈夫か?」と声を掛けることも一度や二度ではなかった。そのたびに華名は「はい。大丈夫です」とやわらかく答えていたので、周平も安心しきっていたのだ。その矢先、突然華名が休部したと前の顧問から告げられたのは、定期演奏会終了翌日のことだった。
その日から、少しでも元気になってもらうために周平は週1回、部活を早退して華名の家を訪ねた。幸い、華名の母も理解ある優しい女性で、娘が部活を休部するほどに追い詰められたにも関わらず、その部活の生徒を家に招きいれてくれたのだ。周平は華名の母にも感謝してもしきれないものがあった。
けれども、その間にいつの間にかソプラノサックスの座が周平から、まだ入部資格すらない和洋に移されていた。これには周平もキツネにつままれたような感覚になった。当時の顧問にはあっさり「先生が決めたことだ」と言われてしまい、周平は抗議するのもアホらしと思い、何も言わず押し付けるように和洋にソプラノサックスも、楽譜も手渡した。
そして、3月初旬から華名はきちんと部活に来るようになった。周平にしてみれば、華名のその元気そうな姿を見るだけで十分だった。
しかし、それから事態は急転直下。ソプラノサックスが大地の指示によりあっという間に周平の手元に帰ってきたのだ。それと同時に、ソロ奏者という立場も一気に周平と同じ3年である大西 優花に舞い戻ってきた。もちろん、2人は最高学年なので、ソロはもちろん、ソプラノサックスなども原則として優先的に吹く立場にある。なのだが、いかんせんこの浜唯高校ではそうした自明のことも流されてしまうような事態になっていたのだ。
「……久しぶりやなぁ、ソロなんて」
早速、『ウィークエンド・イン・ニューヨーク』の序盤部分にあるアルトサックスのソロを吹く。これ以前に、ソプラノサックスのソロがあるが、そちらは優花に任せている。
周平はiPodの電源を入れ、彼が吹くことになったソロ部分から再生する。それに合わせて演奏する周平。気に入らない部分が出てくるとすぐに音源を止め、メモを楽譜に記入する。
ニューヨークというと、周平の中ではかなり大人の世界というイメージがあった。周平が一度行ってみたい都市でもある。まだ見知らぬ街。周平はそんなニューヨークをイメージしなが何度も何度も、冒頭のアルトサックスソロを練習した。
「ん?」
午後7時45分。部員は周平以外帰ったはずなのだが、なぜか音楽室は電気が点いていた。
「誰か消し忘れたんかいや」
周平は電気を消そうと部屋に近づいて、足を止めた。
チューバの音が響いてきたのだ。周平はそっと柱の影から音楽室を覗いてみた。案の定、部屋には後藤 未樹がいた。
「……。」
周平は声を掛けようかどうしようか迷ったが、女子一人をほったらかしにして帰ることには気が引けたので、思い切って声を掛けた。
「後藤さん」
「あ」
周平に呼ばれて未樹が反応する。
「森田くん……」
不自然なよそよそしさの残る二人。
「俺、そろそろ帰るんやけど。自分、どうする?」
「あ……あ、ほな、鍵閉めんとアカンよね」
「いや、別にそんな急がんねんけど……」
「いいよいいよ。あたしもそろそろ帰ろうって思ってたし。急いで片付けるわね」
未樹は慌てて楽譜を畳んで、譜面台を片してすぐに音楽室を飛び出した。
「……。」
周平は電気を消そうとして、部屋の中に楽譜が一枚落ちていることに気づいた。
「落とし物すんなよな」
周平は呆れた様子で楽譜を拾い上げて、衝撃を受けた。
新しく課題曲候補となった、『うちなーのてぃだ』の楽譜であった。しかし、まだ配布されて数日しか経っていないにもかかわらず、既に楽譜は何ヶ月も経過したかのように、たくさんの書き込みで真っ黒になっていた。
「すっげ……」
周平は言葉を失った。まさか、未樹がこれほどにまでこの曲に練習時間を費やしているとは思ってなかったのだ。
ガラ、と音がして音楽室の扉が開いた。
「あ……これ」
周平がぎこちない様子で楽譜を手渡す。
「……ありがとう」
未樹もぎこちない動きで楽譜を受け取った。
「……。」
会話が生まれない。そもそも、この二人はここ1年ほど、まともな会話すら交わしていないのだ。それ以前に起きたあの出来事が、二人の間に重く圧し掛かっていた。
「帰ろっか」
未樹がにこやかに笑う。驚くほどに自然な笑顔だった。
「うん……」
「あ、そうや。あたしが鍵掛けとくわ」
「え?」
「構わんよ。森田くん、先に帰っといて!」
「せやけど……」
「いーから、いーから! はい、お疲れ様!」
「お、おう」
周平は半ば強制的に先に帰らされてしまった。
「……。」
周平はなんとなく落ち着かないので、悪いと思いつつ階段の少し横にあるスペースに隠れて未樹が出てくるのを待った。
「~♪~♪」
しばらくすると聴こえてきたのは、自分たちが少し前まで練習していた課題曲『オーディナリーマーチ』のメロディだった。しかし、未樹の楽器はチューバである。伴奏中心のはずの彼女が、なんとソラでメロディを口ずさんでいるのだ。
「パッパッパッパッパーン♪ タラララッターン♪」
実に楽しそうに歌う未樹。終盤部分だった。そして、鍵の閉まる音と同時に未樹の歌う課題曲が終わりを告げる。そうかと思っていたら、どうやら聴いているiPodの再生がリピートされたようで、今度は裏メロディを歌い始めた。フルートのトリルからユーフォニウムの裏メロディまで。まったくもって、完璧だった。
「……楽しそうやな」
周平は思わず呟いていた。どうしてもこの吹奏楽部にいると、人間関係のいざこざで疲れてしまい、音楽を純粋に楽しむことを忘れそうになってしまう。しかし、未樹のような部員がまだいることに、周平は安堵していた。そして、自分もまた、音楽を心から楽しみたい。そう思っていたのだ。
声を掛けようかどうしようか、周平はかなり迷った挙句、掛けずに彼女の背中を見送ってしまった。
周平と未樹の関係が微妙な理由。それは遡ること2年前。周平と未樹が吹奏楽部に入ったばかりの2008年4月のことであった。