第038話 真摯な瞳
合宿初日の夜も無事に終わり、各々のコテージで部員たちは眠りについていた。
「う……ん……」
少し寝苦しかったのか、光晃が目を覚ました。彼は家の都合で夜から沖縄合宿に参加している。
周りを見ると猛、悠馬がスゥスゥと寝息を立てている。ふたりは環境が変わっても適応するのはどうやらかなり早いらしい。
しかし、周平の布団は空になっていた。
「……。」
光晃は心配になって、そっとコテージを出た。いくら沖縄が5月で随分暑く感じるとはいえ、やはり夜の風は心地よい。
とても静かなので、波の音も聞こえる。光晃は眠い目を擦りながら、コテージの周りを確認した。すると、少し離れた小高い丘に、誰かが座っている。その誰かとは結局、周平になるのだろう。何しろ、腕時計で確認したら、もう午前1時半なのだから。
サワサワ……と歩くと草が触れる音がした。周平がそっと振り返る。
「どないしたん?」
「いえ……っていうか、それはこっちのセリフです。何してんですか、こんな時間に」
「曲の研究」
光晃は驚いてポカンと口を開いた。周平はそのまま、再び楽譜に目を向ける。光晃は「隣、いいですか?」と聞いた。
「えぇよ」
「失礼します」
座って、周平の表情を覗き込む。その眼差しはとても真摯なものだった。周平がその視線に気づき、顔を上げる。
「どないしたん?」
今度は笑顔を向けながらそう言った。
「いえ……。あの、そういうのんて、別に今やなくてもできるんちゃうんですか?」
「あー……うん。ま、せやけど。ちょっと今日、なかなか寝付けんかったし」
「へぇ~……。猛と立花先輩、めちゃスゥスゥ言うてましたけど」
「アイツらはのん気やからな」
周平はクスッと笑って、すぐにまた楽譜に目を戻す。
「自由曲ですか?」
「いや、課題曲や」
「そっすか……」
沈黙が始まる。波の音と、風の吹く音が聞こえた。光晃が不意に聞く。
「先輩」
「んー?」
「今年はどうやと思います? コンクール……」
「せやなぁ……。ほいでも、課題曲は例年と違うから、ちょっとは変わるかもな」
周平の言う、課題曲の例年の意味。
浜唯高校では毎年、課題曲はマーチを選択するのが恒例になっている。それはどうやら課題曲とそうでない曲が混在するようになった2008年から、その1年前の2007年はマーチのみの課題曲だったので、今年もマーチであれば4年連続でマーチを選択するところであった。
けれども、大地はするはずだった『オーディナリー・マーチ』をやめると言ってガラリと課題曲の方向性を変えた。『うちなーのてぃだ』になったのだから。
「確かに、島崎先生の見解は正しいかもな」
「なんでですか?」
「俺たち、基礎がビックリするくらいできてへん。これ、マジでやで。音程は安定せぇへんし、タンギングの仕方やタイミングもバラバラ。マーチっていうのは、基本ができてへんかったら難しいからな。
そういう意味で考えたら、やっぱり去年、一昨年が県大会ダメ金止まりやったんも、うなずけるやろ? 何せ、基本がメチャクチャでマーチなんかやったら、心に響いてくるはずがない」
光晃は的確な周平の発言にうなずき続ける。
「で、マーチが明るく、時に勇ましいから自由曲は今度、しっとりとしたり、力強い部分があったりっていう具合に、要はストーリー性のある曲を持ってくるわけよ。去年は白鳥の湖、その前は仮面舞踏会。
自分で言うのも何やけど、下手ではなかった。それは自信持って言えるわ。あの演奏聴いてたらな」
そこで光晃は思い出した。周平は今年が浜唯高校で初めての、そして最後のコンクールでもあるのだ。
「今年は、マーチをやめた。何せ島崎先生があっという間にそれを決めてんから。でも、俺は正直それでいいと思う」
「なんでですか?」
「俺も含めてやけど。この高校の吹奏楽部のみんなは、何かどこかで真面目一辺倒やねん。もちろん、それが悪いわけではない。せやけど、マーチを真面目一辺倒でやっててどうやろか? そしたら、何の表情もない曲になるわな」
「……。」
周平の的確な内容に、光晃は感心するばかりだ。
「表情ないクセして基礎下手くそが、マーチなんかやった日にゃもうグチャグチャやろ。それが去年と一昨年の状態やったと思う。客席で楽器経験はある俺がそう思うんやから、慣れてはる審査員の方は、もっとズバズバ行ったやろうな」
去年、1年生にしてコンクールの舞台に立った光晃。なんだかそんな演奏をしていたのかと思うと、恥ずかしくなってきていた。
「今年はそうい風にならんために、努力しようって思ってる。せやから、まぁこうして寝られへん時間あったら、曲のイメージ作りとかしようと思ってさ」
そう言いながら周平は再び曲に集中する。
「風邪」
「ん?」
「風邪、引かんようにしてくださいよ? ほいで、寝不足ならんように、なるべく早く戻ってきてくださいね」
「オッケ。みっちゃんもな」
「はい。おやすみなさい」
光晃は挨拶をして、そのままコテージへと戻った。扉を開けると、出る頃よりもひどくなった寝相のふたりが、やはりスゥスゥと寝息を立てている。
光晃はiPodを取り出し、音量を小さくしてイヤホンを耳にはめた。寝ている間に曲を聴くだけでも、少しは違うかもしれない。そんな期待を抱きながら、光晃は布団に入った。
「ハックシュ!」
さすがに冷えてきたのか、周平はクシャミをしてしまった。
「そろそろ戻ろうかな……」
夜空を見上げる。すると。
「あっ!」
流れ星が一筋、夜空を横切っていった。
「コンクール全国行けますように! 全国、全国!」
「おーおー、本音丸出しやなぁ」
振り返ると、大地が立っていた。
「先生! どないしたんですか?」
「先生も寝られまへーん。というわけで、夜中ひとりで寂しく勉強してる森田くんの様子をうかがいに来ました」
そう言って大地は缶コーヒーを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「しもた……コーヒーなんか飲んだら、余計寝られへんか」
周平は真剣にマズそうな顔をする大地を見て、思わず笑ってしまった。
サワサワとやわらかい風がふたりの頬を撫でる。
「先生」
「んー?」
「先生は、普門館行ったこと、ありますか?」
「あるでー。1回だけな」
「1回……ですか」
周平は寂しそうな表情を浮かべる。
「なんで森田がそんな顔すんねん」
大地はおかしそうに笑った。
「あんな、森田」
「はい?」
「しょうがないと思ってくれ」
「え?」
「今年のコンクール……やっぱ、全員は出されへんわ」
周平は真剣な大地の声を聞いて、これは本気だと感じていた。しかし、あえて彼は大地に聞いた。
「オーディション……するんですか?」
「そうや」
即答だった。周平は間髪いれず聞く。
「3年もですか?」
「そうや」
周平はバシバシと答えていく大地に、少しの絶望とたくさんの期待を抱いていた。
「ほな、俺もコンクールメンバー、なれますか?」
「せやな」
それも即答だった。
「お前、去年と一昨年はメンバー違うかったんか?」
周平は小さくうなずく。すると、大地が周平の頭をクシャクシャと撫でた。
「ほな、今年は頑張らんとアカンな」
周平の目に、幼い頃見た父の顔がダブッた。
「頑張れよ。絶対、負けんな」
それは大地が周平の置かれている状況を知ってのことだったのか。周平は大地がどこまで知っているのかはわからなかったが、その言葉は素直に嬉しかった。
ただ。
「はい……」
少しだけ俯いて、周平は照れながらそう答えた。