第001話 惰性走行
「ふあーあ……」
新学期早々というにも関わらず、校庭の片隅でやる気のないアクビをしている男子生徒がいた。
ここは兵庫県芦尾市の北部に位置する私立 浜唯高等学校。芦尾市は兵庫県内でも特にお金持ちの住む高級住宅街として知られ、芦尾市に住んでいる=お金持ちというようなイメージが完全に定着している。
しかし、ここでアクビをしている少年は芦尾市在住ではない。彼はどちらかといえば大阪寄りと言った方が正しい、兵庫県神崎市在住だ。
少年の名前は森田 周平。この春、浜唯高校の3年生にめでたく進級した。それにもかかわらず、周平からは既に気だるそうなオーラが出ている。
「なんや、なんや~? やる気のないオッサンが一人座っとんな!」
周平が振り返ると、小学校からの親友である佐藤 洋平が立っていた。
「オーッス。おはようさん」
「おはようさん。何で朝からそんなダルそうやねん?」
「いやさぁ。ほら、1年入ってくるやろ? 午後から入学式や」
「そうやなぁ」
洋平と周平は並んで座った。洋平がペットボトルを取り出し、お茶をグイッと飲む。
「どうや? 今年こそは雰囲気変えてくれそうな1年、入ってくると思わへんか!?」
洋平が鼻息荒く語る。しかし、周平は首を横に振る。
「ムーリやって、絶対ムリ!」
「またお前はそうやってすぐにムリって何でも決め付けてさぁ。なんでやねん?」
洋平は不服そうに頬を膨らませた。
「だって考えてもみぃや。こんだけ金持ちのお坊ちゃんお嬢様が揃うような学校やぞ? どれ! 一丁吹奏楽部変えたろかぁ!みたいな気合い入ってるようなヤツ、おると思うか?」
「……。」
洋平が黙り込んでしまった。
「ほらな。黙ってまうってことは、お前もあんまり期待してへんっちゅうこっちゃ」
周平は制服が汚れるのも気にせず、地面に寝転がった。
「なーんも期待せんとこうや。無難に1年過ごして行こう」
寝転がった視線の先に、白と黒の何かが見えた。
「ん?」
「ん?」
周平はようやくそれが何なのか気づいた。
周平の視線の先にいるのは、周平が在籍する吹奏楽部でチューバを吹いている同学年の後藤 未樹だった。
「……。」
「……。」
つまり、周平が見ていたのは未樹のスカートの中ということになる。普通ならお互い大声で叫びそうなものだが、周平はスッと起き上がるだけ。未樹もすぐにその場から離れただけで、特に何も言わなかった。
洋平が心配そうにその場を離れた周平の後を追う。
「しゅうへい~。まぁだ後藤のあの時のこと、根に持っとん?」
周平がすごい形相で洋平を睨みつけた。
「当たり前や」
「そ、そうか……」
洋平はそれ以上何も言えず、苛立った様子で歩いていく周平の背中を見送ることしかできなかった。
同じ頃、昇降口では未樹の幼なじみで吹奏楽部ではエス・クラリネットを吹いている松本 弓華が洋平と同じように心配そうな様子で未樹の後を追っていた。
「未樹ぃ~」
「あ……弓華」
未樹は恥ずかしそうに笑う。
「アンタら、まだマトモに口も利けへんの?」
「うん……」
未樹は寂しそうに笑った。
「しゃあないとは思ってるんよ。だって、あれは全部あたしが中途半端なことしたんやし」
「そう思ってるだけちゃうの? 森田くん、あんまり根に持つタイプには見えへんけど……」
「それは弓華に対して何もないからやん。あたし、森田に同調するだけ同調して、ちょっと先輩風吹かされたら怯んでしもて……。中途半端で挙句に先輩側に加担したから……嫌われてても恨まれてても、しゃあないと思うんよ」
未樹は半ば諦めたように言った。
「まぁ、あと1年もないしね。ウチらが一緒に部活すんの」
「でも……そんなん、寂しいわぁ」
「しゃあないやん! そんな全員が仲良しこよしの部活なんてありえへんって」
未樹は諦めた様子で靴を履き替え、音楽室に向かった。
未樹、弓華、洋平、そして周平が在籍している浜唯高校吹奏楽部は、昭和59年の設立以来、全日本吹奏楽コンクールの全国大会に15回出場している強豪校であった。「であった」の言葉どおり、2001年以来、浜唯高校は全国大会に出場していない。いつも関西大会まで出場するのだが、金賞受賞はできるものの、全国大会への代表には選出されずにいた。いわゆる「ダメ金」と呼ばれる状態に留まっていた。
周平は中学時代、神崎市内ではトップをいつも保守していた吹奏楽部の出身である。もちろん、洋平もこの吹奏楽部の出身で、和気あいあいと部活動を行い、先輩後輩問わず率直に意見を言える雰囲気がこの吹奏楽部にはあった。
高校進学時、周平は吹奏楽部のレベルの高さに惚れこみ、この浜唯高校に進学した。しかし、実際に待っていたのはあまりにも先輩の権力が強すぎて後輩は先輩の指示に絶対服従、意見などとてもできるような空気ではなかった。
雑用は当たり前。コンクールメンバーは選抜という名の年功序列だった。周平はかつて、こうした異様な歴史と習慣に激しく違和感を覚え、直接当時の部長に訴えた。そして、部長は笑顔でこう返したのだ。
「お前、入部したばっかの1年のクセに生意気な口利くやんけ」
それからの周平は散々だった。雑用はすべて周平に割り当てられ、楽器も一番粗末なものに替えられた。それでも周平はこの部の雰囲気を絶対に変えてやると心に決めていた。味方を作るため、自分が中学時代に経験したことを、気心が知れてきた仲間に伝えた。そして、同調してくれたのが現在の同級生数名だった。その中に、未樹も入っていた。
しかし、そうした行動が目をつけられないはずがなく、すぐに先輩はもちろん、同級生からもひどい仕打ちが始まった。それでも負けないと誓っていた周平だったが、後に衝撃的な事実が判明する。
その事実が判明して以来、周平はいわゆる燃えつき症候群のようなものにかかっていた。それまでコンクールや本番には一人だけでも燃える姿勢を取っていたが、今となってはなんとなく出ているだけという感じであった。それと同時に、ほとんどの同級生や先輩、後輩に対して心を堅く閉じてしまった。未樹とは口を利かなくなり、はじめは仲の良かった弓華をはじめとする部員たちとも次第に口を利かなくなり、今となっては同級生では洋平のみ。後輩も数名しか話し相手がいない。
それでも周平が吹奏楽部を辞めない理由。それは単純明快だった。
楽器が好きだから。
彼が吹くのはアルトサキソフォン。サックスが吹けるならそれだけでいい。
周平は今となっては、サックスを吹くためだけに吹奏楽部に在籍しているようなものだった。
そして、そんな惰性走行の周平の部活動もいよいよ、最後の年を迎えようとしていた。