第017話 進学校の定め
「え? ホンマに?」
晴菜が驚いた声を上げる。隣にいるのは亜里沙だ。
「ホンマ、ホンマ! いま、職員室修羅場やで!」
「ほな、島崎先生叩かれてるん?」
亜里沙が心配そうに口に手を当てて聞く。
「めっちゃ文句言われてるけど、あの島崎先生が黙ってる思う?」
「何? 何の話?」
周平も気になって話の輪に加わる。
「すんごいんですよ! 先輩。いま、園田先輩と大平先輩、氷室先輩のお母さんが職員室に島崎先生のことで抗議に来てるんです」
「抗議……か」
周平はある程度予想していた。おそらく、どこからか今回の合宿の話を聞いたのだろう。日程がちょうど、補講の日と重なっていることが、周平にとってネックであった。そして、この浜唯高校の特徴を忘れてはいけない。
そう、この浜唯高校は兵庫県内でも五本の指に入る有名進学校なのだ。3年生では東大・京大・神大・阪大などの国立大学の合格者は当然多い。関関同立などは滑り止めという生徒も少なくない。
事実、この吹奏楽部でも国立大学合格率が3月実施の模試でB判定だったのが数名いる。美香子、菜々香、照、そして洋平である。バリバリの進学校なのだ。その進学校に在籍する生徒のほとんどは、5月の補講に抜かりなく出席するのがもはや恒例であった。恒例というよりも、義務であると言ったほうが正解かもしれない。いずれにしても、これに出なければ置いていかれるという妙な焦燥感を感じる子も多いのだ。
「進学校なんはわかるけど、ねぇ~」
「ウチの部に入部した時点で、コンクールがあることはわかってるんやから、そこまでヤイノヤイノ言わんといてほしいよねぇ」
これが本音なのだろう。亜里沙と晴菜が同時にそう言った。
「ほんで? 園田とかは知ってるん? お母さんたちが来てること」
「いやぁ、どうでしょうね? 職員室にはおりませんでしたけど……」
「知らないほうが幸せちゃいますか?」
「まぁ……せやろな」
周平も下手に何かを言うよりも、黙って流しておけばいいと思い、そのまま練習に移ることにした。しかし、既に時遅し。
「あ……しもた。課題提出してへんやん」
実香子が部室へ行こうとしている最中に、英語のノートを提出し忘れていることに気づいたのだ。幸い、実香子の英語担当は大地である。職員室に寄って渡すにも、顧問ということもあり渡しやすい。
実香子はそのまま職員室に向かい、英語のノート片手に戸を開けた。それと同時に、聞き慣れた甲高い声が耳を突き抜けた。
「非常識な先生ですね! ウチの子の将来かかってるのに、何ですの!? 沖縄に旅行って!」
「旅行ではないと先ほどから説明しているでしょう! 合宿です!」
「そんなもん! 旅行と似たようなモンです! 受験を控えている3年生は、今からが正念場なんですよ!?」
「それは百も承知です!」
「ほな、なんでこんな非常識な計画できるんですか!?」
実香子は目を丸くした。そして、その文句を言っている女性が自分の母親だと気づくと、眉をひそめた。
「お母さん! お言葉ですが、今にしかできない貴重な経験っていうのも、あると思います! 僕としては、それを優先したいんです!」
「そんなん、受験に何の役にも立たへんでしょうが! 勉強したほうがずっとマシです!」
大地と実香子の母の言い争いに、周りの教師もタジタジである。実香子はしばらく呆然としたままであった。周囲には菜々香と照の母親もいた。
「強情な先生やね! 何ですのん!?」
「それはこっちのセリフです! そないに受験が大事なら、なんで1年生のときに部活入部させたんですか!?」
「他の部は部活が3年生の7月までなんです! それがどうですか? 吹奏楽部は。11月までとか言うてるやないですか!」
「それは入部の時にお伝えしてあります! ですので、承知の上だと私としては受け止めています!」
「まぁー! なんて言い方! どんな教育してるんでしょうね! 浜唯も落ちましたわねぇ!」
さすがに立場が悪くなるのを警戒した周りの教師が、大地にひとまず謝るように促す。しかし、頑固な性格なのか、大地は折れようとしない。
「とにかく! ウチの部員たちも全員、沖縄合宿には賛同してくれたんで行きます!」
「んまぁ! 親の言うことなんててんで無視ってことですか!?」
さすがに居心地が悪くなってきた実香子は、大声で叫んだ。
「お母さん!」
驚いて振り返る実香子、照、菜々香の母。大地も驚いて目を丸くしていた。
「やめてよ! こんな場所でみっともない!」
「何て言い方すんの!? お母さんは実香子のためを思って……」
「誰も頼んでへんやんか!」
実香子が叫ぶ。
「だいたい、鬱陶しいねんお母さん、ホンマ! あたしのやるコト成すコト全部に横から口挟んできて! もう鬱陶しい! やめて!」
直後、乾いた音が響く。実香子の右手に握られていた英語のノートが手から離れ、バサッと音を立てて落下する。
「まったく……最近、家に帰って来るのも遅いし! 何をやってんのかと思ったら、まだ部活になんか熱を注いで……アホらしい!」
アホらしい、という言葉を聞いた瞬間、実香子の顔があっという間に青ざめるのが大地の距離からでも一目瞭然であった。
「……何よ」
実香子が震える。
「何よ! お母さんなんか……あたしらの演奏、1回も聴きに来たこともないクセに!」
涙がボロボロと溢れ、実香子の大きな目からそれがこぼれ落ちて頬を伝っていく。
「わかりもせぇへんくせに、どうのこうの言われたない!」
実香子は英語のノートを拾い上げるや否や、思い切り母親にそれを投げつけた。悲鳴を上げる実香子たちの母。
「園田!」
大地が職員室を駆けて出た実香子の後を追う。
「おおう! なんや?」
ちょうど職員室に向かっていた洋平と悠馬が、実香子と鉢合わせになる。
「え?」
実香子の真っ赤な顔を見て、二人は目を点にした。実香子はそのまま何も言わず、階段を駆け上がっていく。
「佐藤! 立花!」
大地が遅れて姿を現した。そして、こう叫んだのだ。
「園田を追いかけろ!」